2006年マタイの福音書第3講

あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。

御言葉:マタイ4:1?11
要 節:マタイ4:10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

 先週、私たちは「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする」使命を果たしたバプテスマのヨハネのメッセージを学びました。そこで、私たち自身がキリストを迎え入れる準備について学ぶことができました。それは悔い改めであり、悔い改めにふさわしい生活です。そしてイエス様は全く悔い改める必要ないお方ですが悔い改めにふさわしい生活の模範を示してくださいました。それは「正しいことを実行する」ためにヨハネからバプテスマをお受けになられたことです。悔い改めにふさわしい生活とは「正しいことを実行する」ことなのです。神様は正しいことを実行する者を喜ばれます。イエス様が正しいことを実行するためにバプテスマを受けて、すぐに水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って来られました。また、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われる神様の御声のです。ここに、イエス様が真に、神の御子であることが明らかにされました。
 ところが、それを受けて悪魔は「あなたが神の子なら」と言ってイエス様を誘惑します。この悪魔は人類の先祖アダムとエバとを誘惑して神様に反逆させ、神様に対して大いなる罪を犯させて張本人です。この悪魔は、再びイエス様を誘惑して神の御子としての使命を実行されることを防ごうとします。神の子、メシアとしての失格を狙ったのです。しかし、イエス様はこの世を支配しているこの悪魔、悪の張本人なるサタンの誘惑に打ち勝ちました。そしてすべての被造物は私たちの神である主を拝み、主にだけ仕えなければならないことを教えてくださいました。ここで、私たちはサタンの誘惑に打ち勝つ秘訣、勝利の秘訣、私たちが拝み、仕えるべき神である主を学ぶことができます。どうか、私たちもイエス様に見習ってサタンの誘惑に打ち勝って勝利の生活、神である主を拝み、主にだけ仕える生活ができるように祈ります。

1節を読んでみましょう。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」イエス様は悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれました。ここで、「試み」と約されているπειρασμος(ペイラスモス)」は、誘惑と訳される場合もあります。二通りあるのです。まず、「試み」とは人間が真に信仰を持って神様に従うかどうかを神様が試みることです。人間にとっては「試練」です。たとえば、私たちが試験に落ちたり会社からリストラされたりすることによって私たちの信仰が本物であるかどうかが試されます。時には、会社生活そのものを通して私たちの信仰は試されます。それが試練です。誘惑と訳される場合は、悪魔が罪に誘うことです。アダムとエバが蛇の姿に現われたサタンに誘惑されたことが典型的な例です。本文では「悪魔の試み」とありますから、誘惑であることが分かります。そこで、新共同訳聖書では「悪魔から誘惑」と訳しています。しかし、視点を変えてみると、「御霊に導かれて」と書いてありますから、これは「試練」としての性格も持っていました。それで、私たちが使っている新改訳聖書では試練と誘惑を合わせて「試み」と訳したかもしれません。いずれにしても、イエス様はこの悪魔の試みを受け入れるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれました。イエス様は、そこで悪魔から三つのことを試みられます。そして、これら三つの試みは古今東西の別なく、人類が絶えず直面している最大の問題です。では、イエス様はどうやってこれらの試みに打ち勝たれたでしょうか。

?.パンの問題(経済問題)(2?4)
2?3節を読んでみましょう。「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」」イエス様は荒野で「四十日四十夜断食」されました。三日と一週間くらいの断食をした人の話を聞きます。三日くらいは私のような者でもたまにして来ましたが、二日目になると、何でも食べ物のように見える時もありました。私が軍人であった時は、戦争が起こって食料が運送できない状況を想定しての訓練も受けましたが、ある時は、大雪のために道が閉じられてしまいました。一日中食べることができませんでした。すると、兵士たちは山にあるものの中で食べられるものは何でも食べました。もはや、知性も、教養も、軍人の階級も問題ではありませんでした。ところが、イエス様は四十日間の断食であったのです。聖書に「空腹を覚えられた」とあります。イエス様も私たちと同じく断食を続けられると、空腹を覚えられたのです。荒野にある石がパンのように見えたかも知れません。ちょうど、そのような時、悪魔は空腹なイエス様をパンの問題で誘惑しました。イエス様の弱みに付け込んでいることが分かります。ここで、私たちは本人にとって、最も弱い部分が試みられることが分かります。イエス様にとっては、四十日の断食の後は食べるものの誘惑こそ、もっとも弱い部分でした。情欲に弱い人には情欲を持って、金銭に弱い人には金銭の問題、インターネットや競馬、パチンコなどに弱い人にはそのような娯楽の問題に付け込んで誘惑するのです。私たちはそれを見分けなければなりません。また、サタンは「あなたが神の子なら」と言いました。これは6節でも繰り返されています。「神の子」とはメシアを指す称号です。イエス様がバプテスマを受けられると、父なる神様は「あなたは、わたしの愛する子」と言われました。それを受けてサタンは「神の子なら」と言ったのです。そして、その誘惑はまさに「神の子」でなければできないこと、石をパンに変えることです。これはイエス様が神の子だから誘惑になります。私には誘惑になりません。私がいくら空腹を覚えていても「ダニエル宣教師!この石をパンになるように、命じなさい。」と言われることは誘惑になりません。そういわれると私は「馬鹿なことを言わないでください。」と答えるでしょう。しかし、イエス様には誘惑になるのです。なぜなら、イエス様は、ほんとうに神の御子であられるからです。イエス様はすべてのことをお出来になります。全知全能の方です。石をパンにすることくらいではなく、岩をパンにすることもおできになります。奇跡でも何でもできます。 また、まず空腹のお腹を満たしてから使命を果たすこともできたはずです。多くの人はまずパンの問題を解決してから使命を果たそうとします。私は90年代の初めにしばらく神学校に通いながら勉強したことがありますが、定年後のために神学を学んでいると言う方が何人もいました。私自身も経済的に余裕があればパンの問題を心配することなく、主のみわざに献身することができるのにと思う時があります。しかし、イエス様がまず石をパンになるようにする仕事から始められたら、メシアの使命はどうなったでしょうか。その瞬間からmission spiritを失い始めたでしょう。結局、使命は第二次的なものになり、肉の欲を満たすことが優先的になったはずです。ついに、使命を捨てて現実の必要と欲望のために生きる者に転落してしまうでしょう。それこそ、サタンの狙いでした。しかし、イエス様はご自分の力を、空腹を満たすために使われませんでした。メシアの力を自分の肉の欲のために用いるようなことをなさいませんでした。では、イエス様は悪魔に何と答えられましたか。
  4節を読んでみましょう。「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
」イエス様はサタンの会話を続けませんでした。サタンを納得させよとしませんでした。ただ、御言葉によってサタンの誘惑を退けられました。イエス様は自分の考えを言うのではなく書いてある申命記の御言葉を引用しました。申命記8章を開いてみましょう。この申命記8章は誘惑に打ち勝つ章として知られています。家に帰られた全部を読んでみてください。ここでは1?4節を読んで見ます。「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」ここで、私たちは荒野で生活しているような時でも神様の御言葉に従って生きるなら、私たちに必要なすべてものが与えられることを学ぶことができます。イスラエル民が神様の御言葉に従って出エジプトした時、彼らは何もなさそうな荒野で40年間生活しても、その間、彼らの着物はすり切れず、彼らの足は、はれませんでした。もちろん、私たちが生きるためにはパンが必要です。ですから、神様はイスラエルの人々にマナを食べさせられました。しかし、パンだけで生きるのではありません。神様の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのです。今日、世界中には食べ過ぎて肥満のために苦しんでいる人々が数多くいます。特にこの日本は戦後パンの問題を解決するために一生懸命働いてきました。ついに経済大国と呼ばれるようになりました。ところが、豊かになったパンのために幸せになったでしょうか。むしろ、人生を楽しみ、快楽を楽しみながら精神も霊魂も破壊され続けてきました。偽証、詐欺の犯罪、無差別テロ、十代の犯罪が増え続けています。先週、うちの学校に新聞記者から韓国の道徳教科書を見せてもらいたいと言う電話がありました。多くの人々が日本の道徳教育に問題意識を持ち始めているようです。しかし、人間は道徳教育のやり方によって変わるものではないでしょう。人は神様の御言葉で生きる存在だからです。私たちはパンの問題、経済問題のためにエネルギーを注ぐより神様の御言葉に従うために励まなければなりません。御言葉に従って生きようとすると一時的には物質的に貧しくなる時もあると思います。しかし、神様の御言葉に従って生きることを最優先にして生きなければなりません。私たちが御言葉に従って生きるなら、私たちに必要なものは、神様が満たしてくださいます。イスラエルの歴史を通して、清教徒たちによって開拓されたアメリカの歴史を通してもそれを知ることができます。私たちがパンだけで生きようとするなら、霊魂だけではなく、精神も廃れてしまいます。今日の日本にさまざまな問題があると言われますが、一番大きな問題は心の問題、精神問題であると思います。それは聖書の御言葉に従おうとする国民の1%にもならないからです。大阪のxx牧者が言っているように国民の3%でも御言葉に従うなら日本は元気になります。精神も霊魂も健やかになるはずです。パンが要らないのではなく、私たち人間は本質的に神様の御言葉によって生きる存在だからです。ですから、イエス様は石をパンにするように誘惑するサタンを退けて言われました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 ?.名誉問題(5?7)
5、6節をご覧ください。「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」とあります。
今度はイエス様を聖なる都エルサレムに連れて行き、名誉問題でイエス様を誘惑しました。これもまた、イエス様にとって激しい試みでした。イエス様が神殿の頂から下に身を投げる奇跡を行なうなら、イエス様の人気はエルサレムを始め、全イスラエルに広がることでしょう。イエス様は名誉と人気を手に入れることができるのです。イエス様の支持率は全国的に100%になるでしょう。イスラエル全国からイエス様こそメシヤだ、イエス様を信じようと集まって来たかも知れません。そして、イエス様にはそのようなことができます。そういう能力を持っておられるのです。だから、イエス様にとっては大きな誘惑になります。しかし、今度も書いてある神様の御言葉によって誘惑を退かれました。
7節をご覧ください。「イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」とあります。イエス様は奇跡を見せることができましたが、神様を試みるために使うことはなさいませんでした。神様は私たちが試みる対象ではなく、崇拝するべきお方です。聖書は、王であるメシヤがエルサレムに来られて、その神殿からイスラエルと世界を支配されることを、一貫して語っています。イエス様が、まさにそのメシヤなのです。ですから、神殿の頂から、身を投ずる事によって、イエスはご自分の威光を人々に見せびらかすことも出来ました。イエス様は神の御子ですから、天使が味方について、イエス様を落ちて死なないようにすることは当然出来ます。ですから、この種の誘惑は、プライドあるいは自慢に訴えかけているものです。自分の立場、権利、能力など、自分の生活について自慢する事は、神の律法に反する事です。
 また、悪魔が神のみことばを用いてイエス様を試しています。イエス様が神のみことばを盾にされたので、今度は神の御言葉を矛にしてイエス様に攻撃しました。そこで、イエス様は言われました。『あなたの神である種を試みてはならない。』 とも書いてある。」
 イエス様は、「とも書いてある。」と言われて、再びみことばをもって抵抗されました。わたしたちが聖書を読むときに、ただ一つのことばに基づいて教理や教義を作り出す傾向があります。けれども、聖書はつねに全体として見ていかなければなりません。バランスが必要です。

?.宗教問題(8?11)
 8、9節をご覧ください。「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」」とあります。悪魔はイエス様にこの世の権力と栄華を見せました。その栄華の輝きは主が歩まなければならないメシアの道とは対照的です。この世の国々を支配する権力と栄華は素晴らしいものでしょう。どんなに多くの人々が権力と栄華を求めているでしょうか。この間、毎日新聞を見ると、今年9月に退任する小泉総理の所には人々が来なくなっていますが、ポスト小泉と言われている安部官房長官の所に訪ねて来る人々が毎日増えているという記事がありました。権力の移動に伴って人々の心も動いているのです。ところが、悪魔は一国の権力だけではなく、全世界を支配する権力と栄華を差し上げると誘惑しました。しかも、それは何の苦難もなく、ただひれ伏してサタンを拝むことだけです。簡単に手に入れることだから誘惑になります。サタンに支配されているこの世の宗教は、この悪魔と同じやり方で人々を誘惑します。ヨガや瞑想、お経を唱えることだけで幸せになると教えているのです。そして、そのような誘惑によって人が集まると、政治集団をつくって権力を握ろうとします。無差別テロを起こし、数多い犠牲者を出したオーム真理教がそんなものでした。現在ある宗教は一定の国会議員を確保しています。しかし、私たち人間は、「私たちの神である主を拝み、主にだけ仕え」なければなりません。主だけが唯一の神様です。イエス様は主の御心に従い、十字架の血によって私たち人類を救うメシアの使命を果たされました。ペテロの手紙第一1章18節には、こう書かれています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです。」イエス様は十字架の苦しみ、十字架上で流される血潮を通して、全世界の人々を救う神様に御心に従われました。悪魔は、そんな苦しみを通らなくても、すぐにあなたのものになるよ、といったのですが、イエス様は十字架を通してメシアの使命を果たされる道を歩んでいかれました。そして、イエス様は十字架を通して復活の栄光に至られ、復活によって真にキリストであることを明らかにしてくださいました。私たちが栄光に至る道も十字架を通らなければなりません。イエス様を信じるからと言って、何もせずに栄光を受けるのではありません。サタンはつねに私たちが十字架を負わなくても栄光に輝く人生を生きることができると誘うのです。怠け者にならせることはサタンの働きです。主に仕えることより、簡単な方法でこの世の権力も栄華も手に入れることができると教えるのはサタンの働きです。そういう点で賭博とか、偽証、詐欺、簡単儲かると宣伝していることなどはサタンの働きです。キリスト教は十字架を通して復活の栄光に至る道を教えています。ですから、イエス様は言われました。 

結論的に10節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」多神教の国に住んでいる私たちにとって主を拝み、主にだけ仕えることは愚かに見えるかも知れません。多くの神々に仕えて多くの祝福を受けることが賢く見えるかも知れません。しかし、それこそ愚かな考えです。それはサタンに支配されて生きる人生だからです。私たちが御言葉に従って真の神である主を拝み、主にだけ仕えるなら、悪魔は私たちから離れて生きます。
11節をご覧ください。「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」とあります。御言葉によって悪魔に立ち向かった時、悪魔は離れて行き、御御使いたちが近づいて来て仕えてくださることが分かります。御言葉によって生きる人に御使いたちが近づいて来て仕えてくださいます。
 以上で、私たちはイエス様がいかに御言葉によって武装されておられたかを学ぶことが分かります。「書いてある」と何度も記されています。つまり繰り返される悪魔に打ち勝たれた武器は御言葉でした。イエス様はサタンの誘惑に対して、ことごとく聖書の御言葉をもって答えられています。ここで、私たちは御言葉を心に刻むこと、暗唱すること。それこそ信仰のいのちとなり、勝利の力となることが分かります。私たちはサタンも聖書の御言葉をもって誘惑していることに注意しましょう。聖書の御言葉は、聖書全体を理解しなければなりません。そのために、毎週の主日礼拝の御言葉だけではなく、毎日与えられる日ごとの糧の御言葉もよく食べなければなりません。さらに聖書を通読することです。去年、ぶどうの木のフェローシップでは聖書通読の優勝者であるプリスカ牧者に大きな賞が与えましたが、聖書通読することはサタンの誘惑に打ち勝つ勝利の力となるのです。
 どうか、私たち一人ひとりが聖書の御言葉によってサタンの誘惑に打ち勝ち、神である主を拝み、主にだけ仕える生活ができるように祈ります。