2006年新年メッセージ

目標を目指して一心に走りましょう

御言葉:ピリピ3:10-16
要 節:ピリピ3:14「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

 新年、おめでとうございます。主の2006年を迎えました。日本で始めての教会で迎えるお正月です。「初詣礼拝」となりました。皆さんの上に大いなる神様の祝福があり、安全に守られるように祈ります。
 今日の御言葉はパウロが第一回の獄中生活を送っていた時に書かれたとされています。パウロは同じ獄中でエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙も書かれたと考えられます。その中でもピリピ人への手紙は最後に記され、AD61年頃に執筆されたと言われています。そしてパウロはAD1年か、2年に生まれたと言われます。つまり、パウロはこの手紙を60歳前後に書いたと言うことです。最近は人生70歳からとも言われますが、昔は寿命が短かったので60歳でもかなり老人になっていたと思います。しかもパウロは獄中で手紙を書いています。
 それにもかかわらず、この手紙は喜びの手紙です。手紙を読んでみるとパウロの心の中には喜びとビジョンが満ち溢れています。まだ目標を目指して走り続けている情熱が伝わってきます。ここで、私たちはキリストに対するパウロの熱望、はっきりした目標を学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して世界宣教の創始者パウロの情熱と目標を学ぶことができるように祈ります。

?。キリストを知ること(10,11)
 10、11節をご覧ください。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
 ここに、キリストを知ろうとするパウロの熱望がよく現われています。それはキリストについて知っている以上のことです。パウロは救われる前に、すでにキリストについて知っていました。「キリストを知る」とは、信仰によってキリストと個人的な関係を持つことです。イエス様はヨハネの福音書17章3節でそのことを述べておられます。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあります。私たちは何百年も前に生きていた人々について知っています。しかし、それは個人的に知っているのではありません。救いとは、キリストを個人的に知ることです。そして、私たちは個人的な経験によってさらに深くキリストを知ることができます。
私たちがイエス様に出会って個人的にキリストを知り、救われることは大切なことです。パウロにとっても復活のキリストとの出会いは忘れられない出来事であったに違いないと思います。しかし、パウロにとってキリストに出会って救われたことは終わりではありませんでした。それは始まりに過ぎませんでした。「私は、キリストを知り・・・」とあるように、彼はさらにキリストを知ろうとしました。パウロはキリストとともに歩み、キリストに祈り、キリストに従うことによってさらに深くキリストを知るために励んだのです。「またキリストの苦しみにあずかることも知って・・・」とあるように、体験的に知ろうとしました。それは痛みのある体験です。キリストの苦しみを経験することだからです。実際にパウロはクリスチャンライフの最初から苦しみを経験しました(使徒9:16)。彼が牧者として宣教師として生活をする時は、さらに多くの苦しみを経験しました。平信徒宣教師として自分の仕事をしながら宣教活動をすることだけでも大変なことだったでしょう。それなのに、彼は数多くの迫害も受けていました。パウロは?コリント11:23-29節で自分の苦しみを告白しています。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」彼は宣教活動をしながら肉体的にも精神的にも数多く苦しみを経験していたのです。
それでも彼はさらに深くキリストを知ろうとしました。「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」と言っています。キリストを知るためにキリストの死と同じ状態になりたい、つまり死をも経験したいと願っています。そういう状態になることによって死者の中からの復活に達したいと切実に願っているのです。
私たちはどれほどキリストを知っているでしょうか。もちろん、イエス・キリストについてはよく知っていると思います。キリストについての説明もよくできると思います。しかし、どれほど個人的に、体験的にキリストを知っているでしょうか。私たちはクリスチャン、牧者、宣教師、聖書先生として呼ばれています。日本の知識人たちに聖書を教え、キリストを伝えています。どころが、どれほど切実にキリストを知ろうとしているでしょうか。
私はこの御言葉を準備しながら、頭の中でキリストについて知ることのためには励んでいたものの、キリストを知ろうという霊的な望みが弱くなっていることを悟りました。職場の仕事、毎週メッセージ準備、基礎勉強と所感の集まり、行事準備などのみわざに追われて行くような生活をしていました。メッセージ準備があるのでキリストについて知ることのために励みましたが、キリストを個人的に体験することのためには怠けていたのです。夜明けの祈りも5時30分にすると決断したものの、やっと6:30になってセンターに着くときがもっと多くありました。キリストの苦しみにあずかることを願うより、仕方なく流されているような生活が続いていたのです。それでも御言葉には力があって恵みを受けていましたが、キリストを知ろうとする熱望がなかったのです。すると、信仰によって新しいことに挑戦することも、先頭に立って行くこともできず、信仰成長が止まっていたような気がします。私の心にキリストを知ろうとする霊的な望みが燃えていないと、体は疲れてしまいました。仕事で疲れた時も、仕事が苦しく辛くなった時にもそれを通してイエス様の十字架の苦しみを知ろうとするならいろんなことを悟り、キリストを知ることができます。その時の恵みは大きいものです。キリストの十字架の恵みのゆえに心も、体も癒されます。ところが、私はキリストを知ろうとする熱望が弱かったために仕事だけを考えて苦しみ、疲れてしまう時が多かったのです。私がキリストを知ろうとする霊的な望みを失っていたことを悔い改めます。そして今年は何をしても生活の中で体験的にキリストを知るために励むことを決断します。パウロはキリストを知るためにキリストの苦しみにあずかることを望みました。彼は積極的に十字架を負う生活を望み、実際に毎日死ぬほどの十字架を担う生活をしました。それによって彼はすべての人々から非難されても十字架を背負って行かれたキリストの謙遜、キリストの柔和を知ることができました。お体の全体が汗と血だらけになり、もう疲れて歩けない状態であっても私たちの罪を贖うために十字架の苦しみを避けられなかったキリストの愛と牧者の心、キリストの犠牲と神様への従順を知ることができました。このようにして体験的にキリストを知っていくとき、彼は偉大な神様の人として成長しました。積極的に十字架を負う生活を通して十字架の後に来る復活の栄光を体験し、死の暗闇から救ってくださる復活の力も知ることができて彼はますます強いクリスチャンになりました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(4:13)」と告白できる人になったのです。どうか、私たちもパウロのようにキリストの苦しみにあずかる経験を通してますますキリストを知ることができるように祈ります。私たち皆がパウロのようにキリストを知る熱望に満たされるように祈ります。私たちはキリストの死と復活の交わりにあずかることでき、キリストを人格的に、深く知ることができます。私たちがキリストを個人的に体験的に知ろうとするなら、そこに苦しみもありますが、必ず復活の力も体験できて力ある人生を生きることができるのです。

?.目標を目指して(12-16)
12節をごらんください「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」とあります。これは、自分の霊的達成に決して満足することのなかった偉大なキリスト者の言葉です。パウロはイエス・キリストに満足していました(3:10)。しかし、自分のクリスチャンとしての生活には満足していませんでした。これを聖別された不満といいます。創造的な不満と言う方もいます。私たちに何でもかんでもつぶやく不満があってはいけません。しかし、今のクリスチャンライフに自己満足しないでもっと素晴らしいクリスチャンになるために聖別された不満を持つことは重要なことなのです。私たちは聖別された不満を持っている時に成長するからです。
多くのクリスチャンは自分の「走る具合」を他のクリスチャンと比べて自己満足に陥っています。少し年取ると、過去にやったことで誇ります。UBFでは自分は大学一年の時から牧者になっていたと自分を誇る人もいます。
この間クリスマス礼拝準備の時、私は働き手が足りないからある宣教師に「あなたもダンスをやって・・・」と言ってみました。すると「私も二十代の時にはダンスも、演劇もよくやったよ。」という方がいました。そして、「三十代の人もいるでしょう。」と言われました。もし、パウロが自分を他のキリスト者と比べたら、彼は自分を誇れることが数多くあったでしょう。また、当時の彼の年を考えると、元老宣教師として休むこともできたでしょう。そうだったら、彼の霊的な成長が止まってしまったはずです。しかし、パウロは自分を人と比べたりはしませんでした。自分を自分自身と、またイエス・キリストと比べたのです。彼がキリストと比べると、すでに完全にされているのではないということがよく分かりました。そこで、聖別された不満を生じました。彼はその聖別された不満を持ってキリストをあくまでも追いかけました。彼は走り続けていたのです。チャンスが来たら絶対に逃さないぞ、という意気込みであります。すると、彼は年取っても力強く生きることができました。いつまでも彼の心は燃えていました。その心はピリピ教会にも伝わって行ったでしょう。
今年ヨーロッパ修養会の時、Mother Barry宣教師は演劇でサラ役を果たされました。この間ドイツから一時帰国した上倉姉妹はMother Barry宣教師の演技を見てほんとうに感動したと涙ながら証しました。彼女はまだドイツ語が十分でありませんが修養会の間ずっと涙を流したほどに恵みを受けたと言いました。おばあさんになって体験的にキリストを知ろうとするMother Barry宣教師をはじめ、多くの主のしもべたちの熱情が彼女の心に伝わって行ったでしょう。
サタンは私たちに自己満足を与え、安逸と高慢に陥れようとします。箴言24:33、34節を見ると「しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。」とあります。そのようにさせるのがサタンの働きなのです。しかし、神様が私たちに望んでおられることはますますキリストを知ることです。使徒パウロのように聖別された不満を持ってキリストを知るために霊的に闘争し続けることです。信仰生活とは私たちのうちにある罪の欲、人間的な要素、世俗的な要素、奴隷根性などを捨てて自分の救いを達成するために絶えず霊的な闘争をすることなのです。
13、14節を御一緒に読んでみましょう。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
私たちは人生の目標をどのように立てたらよいのでしょうか。バプテスマを受けてクリスチャンになりました。では、次に何をすればよいのでしょうか。答えはここに書いてあります。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」です。つまり、イエス・キリストご自身を知ること、これが私たちの人生の目標なのです。
パウロが目標にしたのはイエスキリストであります。イエス・キリストを模範、すなわち目標とした生きかたをすることです。またイエス様の教えを世界中に宣べ伝える宣教師となることです。そして彼はギリシャの諸都市、ローマ、さらにスペインまで広めていく計画、目標をもっていました。当時の世界といえば地中海を中心とした沿岸都市でした。実際には、スペインまではいけなくて、パウロはローマで亡くなりました。目標を果たせないで未完成で亡くなりました。でも、彼が目標を目指して一心に走ったからこそ、初代教会の驚くべき宣教のみわざがありました。故サムエル李宣教師もイエス・キリストの教えを世界中に伝える世界宣教の目標を持って使徒パウロのように働かれました。まだ、未完成で天に召されましたが、もう80カ国を超える国々に宣教師が遣わされるようになりました。
私たちは日本宣教を始める時、日本だけではなく、経済大国日本の品物が輸出されているすべての国に宣教師を派遣する目標を持っていました。日本が福音大国になることが私たちのビジョンでした。その時、日本語は下手で滞在のビザも不安定であったにもかかわらず弟子養成のみわざが活発に起こりました。アメリカとPNGに宣教師を派遣することもできました。
ところが、いつからか、無理な目標を立てないで自分の力で達成できる目標を立てましょう意見が浮かび上がりました。それは間違っていないと思います。しかし、パウロを通して考えてみると、本当の目標は大きく、未完成に終わるほどの目標を持つことだということを学びます。今、私たちには北朝鮮、イスラム教の国々にも宣教師を派遣し、2041年まで10万人の宣教師を遣わす目標を持っています。私たち日本もこの目標のために祈り、世界の国々に宣教師を派遣することができるように祈ります。
私たち一人ひとりも目標を持ちましょう。あるお母さんに「あなたの目標は何ですか。」と聞きますと「はい、この子がいい大学に合格することで・・・・・・」と答えられました。しかし、それは息子か娘さんの目標でしょう。息子さんの目標は息子さんのものです。私たちは自分の目標を持ちましょう。特に一年をはじめるこの時期に、今年の目標をはっきりしましょう。「私の目標はこれこれです」とはっきり言える人は輝いています。子どもも目標を持っている人は意欲的です。魅力的です。前を見ています。胸を張って歩いています。
 目標のない人はどうしても周囲が気になって仕方がありません。人の話に流されてしまいます。人をさばいてしまいます。小さなことにいつまでもはこだわり、思い煩いをしやすいのです。でも目標をもっている人はよそ見をしている暇がありません。忙しいのです。どうしたら目標を達成することができるか、そればかり考えているのです。こんな姿こそ新しく生まれたクリスチャンにふさわしい生活態度です。
 私たちにはまず、キリストを知るための目標が必要があります。真の礼拝をささげるために、聖書勉強のために、お祈りをするために、Fishingのために目標を持つことができるように祈ります。そして、自分の生活においても目標を持ちましょう。私たちが目標を求めると、神様は私たちにちょうど良い目標を与えてくださいます。その目標を目指して一心に走りましょう。それに夢中になってください。それを愛してください。それを見つめてください。そして、はじめは小さな一歩から進みましょう。もし、大きな目標が与えられるかも知れませんが、自分が今立っているところから、つまり自分の能力やレベルから出発するのです。使徒の働き9章を見ると、パウロは強い光に当てられ、立ち上がることができませんでした。神様はアナニヤを遣わして、まず見えるようにしてくださいました。そのときパウロには神様からビジョンが与えられていました。全世界に向かって福音を伝える使徒という使命です。パウロに対するビジョンは大きく、パウロの器は大きく考えられていたことが分かります。でもはじめの一歩はただひとりの人アナニヤに会うことでした。彼との1:1から始まったのです。実に小さい一歩でした。でも、「全世界が私の畑だ。どうやってこの広い畑を耕そうか」。彼はその思いに集中します。アナニヤに会い、目が見えるようにされ、少し学び、その後第一次伝道旅行に行きました。自分の生まれ故郷であるタルソの周辺を訪問しました。伝道者としてのインターン巡回訓練と言って良いでしょう。第2次伝道旅行はだいたい2倍の地域・距離を行き、各地に教会を設立して行きました。第3次伝道旅行はさらにヨーロッパに深く入り込んで行きました。そしてついに当時世界の中心と言われたローマに到達しました。「異邦人への使徒とする」との神様の目標も実現されました。
 一歩ずつ、少しずつ、そして大きな目標を達成する。これこそ聖書が教えてくださるコツです。小さいことでも目標を掲げて達成していくと、信仰が強くなります。そして、その信仰のとおりにますます大きなことができるようになります。私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるようになります。では目標を目指していつから、どこから始めるでしょうか。
15、16節をごらんください。「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」
 ここでパウロは、それぞれの人に走るべき行程があり、その人が走ってきたところから、出発しましょうと言っています。 他のクリスチャンを見て、「私は、そのようなところにまで達していない。」とか、他のクリスチャンと同じところにまでジャンプしようとか、いろいろ努力しようとしてしまいます。けれども、パウロがここで言っているように、今自分が立っているところから一歩を踏み出すことによって、初めて前に進むことができるのです。分からないところは分からないとしてよいのです。そして、分かっている部分、示されている部分に責任をもって、一歩ずつ前に進むことが大切です。

 結論的に私たちがもっともっとイエス・キリストを知ることができるように祈ります。また、大きな目標、小さな目標が与えられ、2006年は目標を目指して一心に走り続けることができるように祈ります。イエス様を知ろうとする熱望を持って目標を目指して走ると、必ず神様が助けてくださることを信じます。イエス様は言われました。「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです」私たちが信仰によって目標を目指して走ると、神様は私たちの目標を達成させてくださいます。