2005年ガラテヤ人への手紙第6講  

御霊の実

御言葉:ガラテヤ人への手紙5:16-26
要 節:ガラテヤ人への手紙5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

私たちはイエス・キリストによって罪から解放され、自由を得ました。先週、私たちは、その自由を愛によって働くために使うべきことを学びました。私たちに与えられて自由はわがままで行動する放縦ではなく、愛によって働くためのものなのです。では愛とはどうやって得られるものでしょうか。すべての律法の要求を全うする愛はどこから生まれるでしょうか。私たちが「愛しているよ。愛するわ。」ということは難しくありません。しかし、本当に、真実に愛することはなかなか難しいと思います。時々、私はどんな人でも愛すること、愛し続けることができない自分のために悲しみます。では、すべての律法の要求を全うする愛、本当の愛を所有することはどうやってできるでしょうか。パウロは、愛は御霊の実として結ばれることを教えてくださいます。御霊の実は、「御霊によって歩む者」に結ばれるのです。御霊の実は愛だけではありません。聖霊は私たちに愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ばせてくださいます。どうか、この時間、御言葉を通して御霊によって歩むことを学び、豊かな御霊の実を結ぶ人生を生きることができるように祈ります。

?.御霊によって歩みなさい(16?21)
16節をご一緒に読んでみましょう。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」パウロは、先週の御言葉で「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのだ」ということを語ってきました。事実、愛の働き、互いに仕え合う愛こそ、キリストが私たちに望んでおられることです。ですから、使徒ヨハネもこう言っています。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」 (?ヨハネ3:8?11)。神様が私たちを愛してくださったので私たちも神様を愛し、神様が愛しておられる人々と仲良く愛し合うべきなのです。では、どうすれば、神様の愛、キリストの愛で愛することができるでしょうか。
強い心で、決断すれば愛することができるでしょうか。一度、イエス・キリストに出会って救われた人は、自然に人を愛することができるでしょうか。確かに、イエス・キリストの十字架の贖いを信じている人は救われています。聖なる神様の子どもです。でも、救われて身分が変わったからといって肉の欲望や誘惑を全く感じなくなるという意味ではありません。イエス様を救い主として信じてバプテスマを受け、クリスチャンになり、牧者や宣教師になって十年、二十年も信仰生活をしても、罪の誘惑を感じつけるのではないでしょうか。
私たちは毎日、日ごとの糧の御言葉を食べながらも肉の欲望を感じ、誘惑され続けていると思います。私たちの内面には過去の罪のパン種が残っています。それで、クリスチャンの中には、教会では丁寧に、敬虔な話をしても、家に帰ると、急に言葉が汚れたり、険しくなったりする人がいます。主日には聖書を読み、敬虔に振る舞っていても平日になると、変な雑誌を読んだり、つまらないインターネットサイトをサーフィンしたりする人もいます。ところが、私たちが悪いことを、ついつい、してしまううちに、私たちはどうなりますか。それをやめられなくなります。私たちは肉の欲望を満足させるようなものに引っ張られていくからです。特に、私たちをつまらないこと、悪事へと誘惑するものは、甘くて美味しい味がします。また、聖書を開いて読むことや読書をすることより、テレビを見たり、インターネットサイトをサーフィンしたりすることが簡単です。だから、本当に強い決心がなければ、日々の生活が肉の欲望のとおりに流されていきます。私たちはそのような生活の中で霊性、霊的な力、霊的な望みを失って行きます。その先はどうなるでしょうか。言うまでもなく地獄です。今はそれほど目立たないかも知れませんが、肉の欲望に身を任せていると、地獄に向かっていってしまうのです。
パウロは、ガラテヤ教会の聖徒たちがいつの間にか、そのような方向に向かっていることを知っていたようです。今のうちに向きを変えなければならない状態でありました。もともと、ガラテヤ教会の聖徒たちはよく走っていました。彼らには良いことをしたいという願いがありました。愛によって働きたいという願いもありました。それを実行したいという意思も強いものでした。実際にパウロはガラテヤ教会を開拓してから彼らの愛の行いに感動していました。それなのに、彼らは律法主義者たちの影響を受けていたのです。「割礼を受ける、受けない」ということで論じ合っていました。愛によって働くのではなく、「愛」とは何か、「律法」とは何か、「割礼」とは何かと議論するばかりでした。なんだか教会の方向が愛よりも律法、実践よりも理論的になっていたのです。そのうち、彼らは何となく、愛によって働く信仰を失い、肉の欲望に従っていました。甚だしくは教会に「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが入ってきていました。」そこで、パウロは彼らのことを憂い、強く命じています。
もう一度16節をご一緒に読んでみましょう。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」 
パウロはガラテヤの聖徒たちに「御霊によって歩みなさい」と勧めています。ここで「歩む」ということは隊列を組んで行進する用語です。司令官によって兵士たちが集まり、隊列を組んで一緒に行進することです。つまり、パウロはガラテヤの聖徒たちに「イエス・キリストの兵士として、戦士として隊列を組んで行進しなさい、司令官なる聖霊に導きに従って一緒に行進しなさい」と厳かに命じているのです。「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と断言しています。
肉の欲望を満足させるようなことは、隊列を組んでいる時よりもバラバラになっている所にあります。軍隊で見ると、事故を起こす人は、大体みんなと一緒に歩んでいる人ではありません。人にはそれぞれの事情があるでしょうが、一人だけの時間が長くなると、肉の欲望を満足させるようなことを考えます。大体恥ずかしいことはひとりだけいる時にするでしょう。人が見られないところ、ひとりだけいる所で変な雑誌を見るでしょう。淫乱なサイトをサーフィンすることもひとりだけのときでしょう。学校で見ると、生徒たちがみんな一緒にいる時には変なサイトを見ませんが、放課後に一人か、二人が残っている教室では変なサイトや漫画を見ている場合がよくあります。子どもたちも日曜日に教会に来ないでひとりでいると、肉の欲望を満たすようなことを考えます。今日、青少年犯罪の原因の一つは一人だけいる時間が多くなっていることです。
教会もみんなが隊列を組んで行進するような勢いで主のみわざに励んでいる時にはもっぱら霊的なことを求めます。そこには不品行も、汚れも、分裂、分派、ねたみなど、そういった類のものが入ってくる隙間がありません。ところが、個人のプライバシーだけが強調されてバラバラになると、霊的な力を失います。「人格的に、民主的に、自立的に」と言う言葉は良いことばですが、教会全体が一緒になって御霊によって歩むことより個人の立場やプライバシーなどが強調されると、そこに肉の欲望を満足させるようなことが起こります。心の焦点が教会に、神様のみわざにあるのではなく、自分のことにあるようになると、不品行、汚れ、好色、党派心、分裂のようなものが起こるのです。しかし、使徒の働きに出てくる初代教会は隊列を組んで行進する軍隊のようでした。彼が心を一つにし、御霊によって歩む時、肉の欲望を満足させるようなことはありませんでした。今日の教会も、彼らのようによく集まって、隊列を組んで祈り、聖霊に従って歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはありません。どうか、東京UBF教会が初代教会のようによく集まり、隊列を組んで祈り、聖霊によって歩むことができるように祈ります。私たちみんなが協力して御霊によって歩むと、肉の願い、肉の欲望に打ち勝ち、聖なる国民として御霊に導かれるようになります。
 17、18節をご覧ください。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」ここで、パウロは私たちクリスチャンが御霊によって歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはない理由を教えています。確かに、人が自ら進んですべてのことを聖霊に委ね、聖霊によって歩むなら、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ところが、疑い深い人間は、なかなか聖霊が自分の指導者、自分の司令官になれるように委ね切ることができません。聖霊は私たちのうちに住まわれ、私たちを導こうとしておられるのに、私たちは聖霊の導きに従っていないのです。そこで、クリスチャンたちの心の中から葛藤が起こります。もちろん、自由に、思いのままに生きようとするなら激しい葛藤もありません。それは自分の自然的な本性に従うからです。しかし、敬虔に生きようとする信仰の人には、葛藤があるのです。自分のしたいと思うことを行なわず、望まない悪を行なってしまうからです。ですから、クリスチャンはこの世に生きている限り、心の中で激動する葛藤を経験します。パウロもそのような経験をしていました。肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。しかし、イエス・キリストを信じる者は、心配しなくても良いです。クリスチャンは原則的にすでに肉の欲望に打ち勝っているからです。私たちはすでに勝利しました。肉の欲望を満足させようとする私はキリストとともに十字架につけられました。過去の私はキリストともに死んだのです。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自分をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです(2:20)。神様が、キリストにあって、私たちが肉の弱さのためにできなくなっていることを行なってくださいました。キリストが、その肉の姿において罪の処罰を受けてくださったのです。そして、私たちは、神様が行なってくださったこと、キリストが私のうちに生きておられることを、信仰を持って受けとめます。そのときに、私たちは聖霊に導かれます。私たちがキリストとともに十字架につけられたこと、罪に対して死んでいることを心から信じ、口で告白するなら、私たちは救われます。そして、私たちのうちにおられる御霊が私たちを導いてくださいます。私たちが信じるその信仰によって自分のうちにキリストが生きておられることを知ることができます。主がともにおられて、この私を導いておられることを意識することができるようになるのです。これが「御霊によって導かれる」ということです。すると、もはや私たちは律法の下にはいません。まだ、律法の下にいる人は、まだイエス・キリストを信じていない人です。
では、律法の下にいる人の生活はどうでしょうか。彼らは行ないの結果によって裁かれるからイライラしています。すぐ怒ります。頻繁に腹が立ち、破壊衝動が起こります。攻撃的になります。何でもかんでも律法によって裁かれるから、心の余裕を失います。あまりにも律法に干渉されるので生きていくのが嫌になります。この間、修養会の時、金ヨハネ宣教師のメッセージを通して律法さんと結婚した人の例えを聞いたのでしょう。律法さんの奥さんは本当につらい生活ですね。つらくて嫌なことが続くと、私たちの内側から罪の本性から自然に出てきます。実として結ばれるのではありません。もともとあるものが出てくるのです。そこで、パウロは「そういう肉の行いは明白です。」と言っています。具体的には「次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」なのです。
これらを五つのグループに分けることができます。第一のグループは性欲にかかわる罪です。不品行、汚れ、好色がこのグループに属しています。これらは人間を汚くする、醜くするものです。第二のグループは宗教的な罪にかかわっています。偶像崇拝、魔術です。これらは人間が神様から離れるようにし、神様に対して罪を犯せます。第三のグループは個人的な憎しみです。敵意、争い、そねみ、憤りです。これらは隣人に対して罪を犯せます。自分自身も心の中で苦しむようになります。第四グループは社会的・集団的罪です。党派心、分裂、分派がこのグループです。これらは人々が互いに競い争うようにして教会、コイノニア会の霊的な交わりを破壊します。社会も滅ぼします。第五のグループは自制を失った罪です。このグループにはねたみ、酩酊、遊興が属しています。ここで、「酩酊」とは酒に酔うことであり、「遊興」とは宴楽、歓楽を意味します。これらはアルコール中毒とエイズなどを通して人の心も、体も病ませて滅ぼします。ですから、パウロはガラテヤの聖徒たちに繰り返して厳しく警告しています。
21節をご覧ください。「前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。パウロがガラテヤ教会を強く戒めていることは、ただ倫理的なことだけに留まっていません。「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と断言しています。つまり、パウロはガラテヤ教会がかき乱され、惑わされ、ゆがめられた状態、憎しみと分裂・分派などの今のままの状態で、律法主義の下を進むならば、滅びるしかないと警告しているのです。肉の行ないは人間を醜くし、苦しめるだけではなく神の国を相続することもできなくなるようにするのです。肉の行jないから離れない限り、その人は心の中に、神の国の愛と平安、喜びがなくて苦しむだけではなく、やがて恐ろしいさばきを受けるようになります。それは明白なことです。パウロが「肉の行いは明白であって」、と言っているように、肉の行ないをしている者はこの世で地獄の苦しみを味わうだけではなく、新しい天、新しい地に入ることもできないのです。それは明白なことです。しかし、御霊によって歩む者はどうなりますか。

?.御霊の実(22?26)
22?23節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれています。新共同訳によると、「御霊の実」とは「霊の結ぶ実」と訳されてあります。ここでの「実」とは御霊が結ばせてくださるものなのです。私たちの行ないは結ばれるものではなく、肉に属しているものです。別に種を蒔かなくても、努力しなくても、私たちは性欲にかかわる罪、偶像崇拝の罪、憎しみと、分裂・分派などの肉の働きをするのです。しかし、御霊の実とは結ばれるものです。もちろん、種を蒔かないところに実が結ばれることはありません。そして、蒔かれた種を育ってくださる方は聖霊なる神様です。?コリント3:6節を見ると「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」とあります。つまり、私たちが実を結ぶように成長させ、実らせてくださるお方は神様なのです。
私たち人間の心は畑のようなものです。良い種が蒔かれると、良い実を結びます。同じ畑でも林檎の種を蒔くと、林檎という実を結び、蜜柑の種を蒔くと蜜柑の実が結ばれます。私たちの心に神様の御言葉が蒔かれると、聖霊の実を結ぶようになります。私たちが「御霊によって歩む」ということは、私たちの心の中に、私たちの生活の中に御言葉の種を蒔き、植えることです。コロサイ3:16、17節を開いてみてください。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ることが勧められています。肉の欲望、罪への誘惑、世の快楽への絶えざる関心と興味が心の中を満たしてしまわないように、キリストのことばをたくさん、大量に入れていく必要があります。罪を犯して人生の苦さ、辛さを味わう前に、キリストの御言葉の甘さ、御言葉の面白さを知る必要があるのです。実は、御言葉は蜜よりも甘く、面白いものです。賛美歌も面白いです。感謝にあふれて心から神様に向かって歌ってみてください。どんなことでも神様に向かって祈ってみてください。本当に賛美も、祈りも面白いものです。御言葉を学び、賛美歌を歌い、祈りをささげる、この三つのことは、私たちが教会や家庭で、いつも、いつもしていることです。今日もしています。今もしています。明日もするでしょう。これからもずっとずっとするでしょう。毎日、楽しく面白くやって行きましょう。毎日、日ごとの糧を通してキリストの御言葉を、私たちのうちに住まわせ、賛美歌を歌い、祈りをささげましょう。そうすると、私たちは聖霊に導かれるようになります。御霊によって歩む人生となります。すると、おのずから御霊の実が結ばれます。この実は聖霊ご自身が結んでくださる果実、フルーツです。
もう一度22、23節をご覧ください。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」これらの実は三つのグループに分けることができます。第一に一般的な実として愛、喜びと平安です。私たちが御霊によって歩むと、神様と人に対する愛の実が結ばれ、神様が与えてくださる喜びと平安を所有するようになります。過去、不平不満に満ちていた人が神様を愛し、喜びながら人々に仕えるPeace Makerになります。第二に、社会に対する実として寛容、親切、善意の実が結ばれます。自分自身のことさえ、赦すことができなかった者が聖霊に働きによってどんな人にも寛容であり、親切に仕えることができるようになります。第三に、自分に対する実として誠実、柔和、自制の実を結びます。誠実さというのは何をしても忠実に取り組むことです。柔和とは短気な人でも抱いて仕えることができる内面性です。自制とは神様の栄光のために罪の自分の治めることができる力です。私たちが楽しく御言葉を学び、賛美し、祈っていくうちに、こんなにすばらしい実が結ばれてくるのです。日々肉の行ないのために滅びるしかない私たちがこんなにすばらしい実を結ぶことができるようになったのは、本当に驚くべき恵みです。私たちがこんなにすばらしい恵みを受けているのは、ただ、キリストのイエスについているからです。何か業績があるからでもなく、資格や実力があって与えられたものでもありません。すべては、ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によってキリスト・イエスについているからです。
24?26節をご覧ください。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」とあります。パウロは私たちに、「自分はキリストとともに十字架につけられ、死んでしまった者だと思いなさい。」と言っています。だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。このことに立ち戻ってください。御霊によって生まれ変わったのですから、さまざまの情欲や欲望に縛られないで御霊によって歩みましょう、と言っています。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。と言っています。「割礼を受けたか、受けなかった」「宣教師の資格があるのか、ないのか」「教会の決まりを守っているのか、守っていないのか」ということで高ぶったり、見下げたりすることは虚栄です。人に栄光が与えられるために、そのようなことを行なうのです。私たちはそういう律法的な価値観の奴隷になってはなりません。律法を守ることによって肉の行ないを取り除くことはできません。御霊によって歩む時、私たちは御霊の実を結び、その実によって律法を全うすることもできます。

結論的に、豊かな神様の恵みによって、律法の下にあった過去の私たちはキリストの十字架の死とともに死んでしまいました。肉の欲望、さまざまの情欲の奴隷になっていた私はイエス・キリストの十字架の死とともに死んでしまったのです。今はよみがえられたキリスト、聖霊が私のうちに住んでおられます。そして、聖霊を豊かに住まわせることは私自身です。悔い改めて、きよい心を持つとき、聖い御霊が私たちのうちに力強く働いていくださいます。そのために、私にできることは、私のうちにキリストの御言葉を植えることです。自分の中にキリストの言葉を、たくさん詰め込むのです。喜んで楽しんで、御言葉を読み、讃美歌を歌い、祈る、それが御霊によって歩むことです。すると、私たちの人生は豊かな御霊の実を結ぶようになります。実りの季節、この秋に、私たちのうちにも豊かな御霊の実が結ばれるように祈ります。