弟子修養会第2講メッセージ
2005年弟子修養会第2講                                  金ヨハネ

信仰による義の福音

御言葉:ガラテヤ人への手紙3:1?29
要 節:ガラテヤ人への手紙3:11
「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。」

 私たちは昨日のメッセージを通して私たちは信仰によって義と認められることについて学びました。また、私たちはキリストとともに十字架につけられたこと、キリストが私たちのうちに生きておられることを学びました。今日の御言葉でパウロは、律法による生活と信仰による生活を比較して説明しています。そして、律法によって神様の前に義と認められる者は、だれもいないことを明らかにし、信仰によってのみ義と認められることを説明しています。本文の御言葉を通して律法の役割と限界に対して正しく知り、信仰による義の福音を受け入れることが出来るように祈ります。

?。義人は信仰によって生きる(1-14)
 1節をご覧ください。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」パウロはガラテヤの聖徒達に彼らの罪のために十字架につけられたイエス・キリストのことを、絵に描くようにしてはっきり教えてあげました。すると彼らはイエス様が自分達の罪のために十字架につけられたことを悟り、悔い改めました。そして彼らは聖霊を受けました。ところが彼らは律法主義者達によって十字架の福音から離れてしまいました。それでパウロは「ああ愚かなガラテヤ人。」と彼らを厳しくとがめました。
 そして彼らに聞きました。「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰を持って聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(3,4)。人がいくら努力しても律法の行ないによっては聖霊を受けることはできません。イエス様に対する信仰を持っていなければ聖霊を受けることはできません。
 6節をご覧ください。アブラハムが義と認められたのは律法の行ないによったのではなく信仰によったのです。そういうわけでパウロは7節で「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」と言いました。聖書は、神様が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです(8,9)。使徒パウロは割礼派のユダヤ人達が彼らの先祖であり、信仰の基準にしているアブラハムをたとえにして信仰の道理を説明しました。
 それではなぜ律法の行ないによる人々すべて、のろいのもとにありますか。10節をご覧ください。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、呪われる。』」律法を守ることによって義と認められようとする人々は律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、呪われます。ところが、律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行できる人がいるでしょうか。パウロはローマ人への手紙7章で一つのたとえを言いました。ある男女が結婚しました。女性のほうは人のいい、やさしい人でしたが、ちょっとおおざっぱな性格でした。反対に、彼女の夫は完全主義者で、とてもまじめな人でした。そんな夫が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルをちゃんと拭いたのか。ここにほこりがついているぞ。」と言います。次に部屋を見渡して、「あっ、あそこにゴミが落ちてる。ちゃんと掃除したのか。」と言います。食事を出すと、「おい、このみそ汁、塩を入れたのか。」といちいちチェックします。このように彼女がすることなすことすべてにおいて、細かく欠点を指摘されるので彼女はだんだん神経質になりました。夫が求めることを完全にやり遂げようと思うのですが、夫はよくも彼女の過ちや欠点を見つけ出しました。それで彼女はいつも不安でした。結婚する前はそんなに立派に見えた夫がだんだん恐ろしい存在になっていきました。このたとえに出る夫は律法を指しています。律法さんは人間にすべてのことを堅く守って実行することを要求しています。ところが、律法を守りきることができる人は一人もいません。11節をご一緒に読んでみましょう。「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。」律法によって神様の前に義と認められる人は、だれもいません。ですから義人は何によって生きるべきですか。義人は信仰によって生きるべきです。私は今年教会で300日以上夜明けの祈りをささげることを祈りの課題にしています。私は自分がいくら頑張っても一日も休まず365日夜明けの祈りを捧げることができないことを知っています。それなのに、神様から「あなたは夜明けの祈りを一日でも休んだら義と認められないよ。」と言われたらどうでしょうか。もし、朝寝坊して夜明けの祈りを捧げることが出来なかった日には「ああ私は呪われた者だ。」と絶望するでしょう。そして、夜明けの祈りを捧げることで段々神経質になり、不眠症にかかるでしょう。いつも私が幸せに暮らすことを願っておられる神様がこのような呪われた生活を送ることを望んでおられるでしょうか。いいえ。絶対にそんなことはありません。それでは私たちはどうやって律法さんと別れて自由になることができるでしょうか。
 13節をご一緒に読んでみましょう。「キリストは、私達のためにのろわれたものとなって、私達を律法ののろいから贖い出して下さいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」キリストは私達の代わりに、十字架上でその呪いを受けて死なれ、私たちをその呪いから救い出してくださいました。このキリストの十字架は人間に対するすべての律法の要求を全うされました。キリストの十字架がすべての律法の要求を全うされたので私達は律法さんから解放され自由になりました。私たちはキリストとともに十字架につけられ、死にました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(2:20)。私達はあの恐ろしい律法さんと別れて恵さんと結ばれるようになったのです。この新しい夫は私達のために自分のいのちを捨てるほど私達を愛してくださいます。私達の弱さも知っていて助けてくれます。また私達の心の悩み、苦しみも知っていて慰め、励ましてくれます。イエス様はマタイの福音書11:28で言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」何と心優しいお方でしょうか。以前の律法さんとは違ってみそ汁に塩を少なく入れても「あ、うまい。塩は少なく入れたほうが体にいいらしいよ。」と言ってくれます。掃除する時も律法さんみないにどこにゴミが落ちているか調べるのではなく、一緒に手伝ってくれます。私が朝寝坊して夜明けの祈りを家で短く捧げても理解してくださいます。この新しい夫は復活された主イエス・キリストです。私達はこのイエス・キリストと結婚し十字架の恵みによって心の平安と自由が与えられました。十字架の恵みのゆえに心から感謝と喜びが溢れるようになりました。律法さんとの結婚生活の時にはいつも不安で疲れていましたが、キリストと結婚してからはいつも喜び、賛美するようになります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者。古きは過ぎ去り、すべてが新しい。主のうちにあるならすべてが新しい。」皆さんは律法さんと恵みさん、だれと一緒に生活していますか。すでに恵みさんと結婚したのに、再び律法さんと生活しようとする人がいるならパウロは「ああ愚かな者。」ととがめるでしょう。私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって生きることができるように祈ります。

?。律法の役割と限界(15-29)
 今まで律法による生活と信仰による生活を比較したパウロは今度は約束と律法を比較しています。15節をご覧ください。「兄弟達。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それに付け加えたりはしません。」人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを勝手に変更することはできません。神様は信仰の先祖アブラハムに多くの約束を与えてくださいました。その中で一番大切な約束は創世記22:18です。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」。ここで神様は、「子孫達に」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストを指しています。ですから神様は律法が与えられる430年前にアブラハムにキリストの福音を約束されたのです。ですから先に神様によって結ばれた契約は、その後430年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがありません。
 また神様の約束はアブラハムの信仰の行為の結果与えられたものでした。神様とアブラハムの間で立てられた契約は、信仰によるものでした。アブラハムが神様から義とされたのは、信仰のゆえでした。すなわち、人が神様から正しいとされるただ一つの道は、今も信仰だけです。神様と和解し、神様と正しい関係にいたる道は、アブラハムがとった信仰の道であり、神様の約束が与えられる道です。私達が律法の行ないによって神様との正しい関係にはいろうとすることはその頂上を目のあたりにすることのできない丘を永久に登り続けることと同じです。しかし、もし私達がこの絶望的な闘争を放棄し、神様のもとに自分自身と自分の罪とを持ち出すならば、神様の恵みは両手を広げて私達を歓迎してくださり、私達は、もはや審判主ではない父なる神と和解することができます。ですから律法がこの約束を取り消したり、無効にしたりすることができません。
 このように考えると一つの疑問が生じます。「律法がそんなに要らないものなら、律法は何のために与えられたのか。」それに対してパウロは言います。19節をご覧ください。「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、違反を示すために付加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。」律法がなければ罪も存在しない、というのがパウロの思想でした。律法の役割は「罪を定めること」です。しかし、律法は罪を定めることができ、定める一方で、罪人を癒すことはできません。律法はモーセを仲介者として与えられましたが、約束は神様から直接的に与えられました。恵みの道は完全に神様によっています。それは神様の約束であり、神様の恵みであり、神様の愛です。人はそれを変更するようなことは何一つできません。人は罪を犯すかもしれないし、裏切るかもしれませんが、神の愛と恵みは変わることがありません。恵みはまったく神様のものであり、人の行ないが恵みを破棄することはありません。
 22節をご覧ください。「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」すべての人が罪人であることを分からせるために律法が与えられました。律法はまるで鏡のようです。先日、私は出勤するために家から出てエレベータに乗りました。そして、エレベータの中にある鏡を見ました。鏡に映された私の顔はひげが伸びたままで、顔がいつものようにきれいではありませんでした。私はやっと自分が顔を洗わず、出勤していることに気づきました。私たちに鏡が必要であるように律法も必要です。律法がなければ自分がどれほど汚れた罪人であるかがわかりません。ところが、いくら鏡を見ていても自分の顔はきれいになりません。パウロはローマ人への手紙7:9,10で次のように言いました。「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生じ、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」
 それでは律法は私たちの罪を分からせ、苦しめるものなので捨てたほうがいいでしょうか。聖書を学ぶとだんだん自分の罪がわかって苦しくなるので聖書勉強をやめてしまったほうがいいでしょうか。それは自分の汚れを映すからと言って鏡を割ってしまうことと同じです。24節をご覧ください。「こうして、律法は私達をキリストへ導くための私達の養育係となりました。私達が信仰によって義と認められるためなのです。」養育係は大抵の場合、家族の中で長いこと生活を共にし、その人格が高く、年老いて、信頼のできる奴隷でした。彼は子供の道徳的福祉に従事していました。子供が誘惑や危険に落ち込まないように、真の人間として本質的に必要な資質を学べるようにするのが彼の務めでした。彼には、子供を毎日学校へ送り迎えするという一つの特別な務めがありました。彼は子供の実際上の教育にはまったく関与しませんでしたが、子供を無事に学校へ送り届けて、教師に子供を託す、という責任がありました。それは律法の役目と似ていました。律法の役目は、人に自分自身で律法を守るのはまったく不可能であると示して、人をキリストに導くことでした。そしていったんキリストに導かれた人はそれ以上律法の下にはいません。その時からは養育係であった律法から解放されるのです。25、26節をご覧ください。「しかし、信仰が現われた以上、私達はもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子供です。」
 ここに律法の役割と限界があります。すなわち、律法は私達が罪人であることを悟りキリストを信じる時まで必要なものです。キリストを信じ神様の子供になった人は自分の力や努力によって律法を守ろうとする必要がありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)。私たちはキリスト・イエスによって律法から解放され、神様の子供となりました。27節をご覧ください。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」キリストの十字架の死と復活に結び付けられてバプテスマを受けた人はもう律法に縛られている者ではありません。また内面はめちゃくちゃですが律法によって外側だけを装う者でもありません。その人はキリストと結ばれ、キリストの中に入れられたものです。キリスト者はキリストをその身に着、その人はキリストによって装われたのです。当時服は身分を象徴しました。奴隷は奴隷の服を着ました。貴族は貴族の服を着ました。罪人は罪人の服を着ました。それで服だけ見てもその人の身分がわかりました。イエス様を信じる者はみな、キリストをその身に着たのです。キリストはどんな方ですか。神様の子供です。私たちがその方を着たというのは身分が神様の子供となったことを意味します。天皇の子供である皇太子は特別な待遇を受けます。私は時々皇居の周りを走りますが、皇居はその周りが何と5キロもある広い所です。そのような広い皇居の周りには多くの警察官たちが24時間警備をしています。神様の子供となった私たちはどうでしょうか。神様は天使を遣わして私達を守ってくださいます。ダビデは次のように告白しました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇23:1,2)。それだけではありません。29節をご覧ください。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」キリスト・イエスを信じる人はアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。父なる神様は子供である私たちのために天の御国を相続させてくださいます。皇居とも比べられないすばらしいマンションが私たちのために用意されてあります。
 以上から私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを学びました。そして神様に義と認められた人が受ける祝福と恵みについて学びました。「義人は信仰によって生きる。」と聖書は言っています。私たちが律法さんとの生活をするのではなく、日々信仰によって恵さんと生活することができるように祈ります。