2005年聖誕特集 第3講

中風の人とマタイが出会ったイエス様

御言葉:マタイの福音書9:1?17
要 節:マタイの福音書9:13
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 聖書を読んでみると、神様に出会った人々、イエス様に出会った人々のことが数多く記されています。彼らの記事が創世記からヨハネの黙示録までに満ちているといえるでしょう。彼らが神様、イエス様に出会った時、彼らの人生は変わりました。罪人は罪が赦され、病人は病が癒されました。目の見えない人が見えるようになり、足なえの人が歩くようになりました。弱い者が強くなり、敗北者が勝利者に変わりました。イエス様との出会いによって彼らの人生はマイナスからプラスに変わりました。イエス・キリストとの出会いによって暗闇の中から驚くべき光の世界に移されて行きました。
今日はイエス様との出会いによって罪が赦され、病が癒された人、新しい人生を出発するようになった人のことを学びたいと思います。何よりも私たち自身もイエス様に出会って罪が赦され、病が癒されるように祈ります。また、キリストにあって新しい出発ができるように祈ります。

?.イエス様に出会った中風の人(1?8)
1,2節をご覧ください。イエス様は舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られました。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来ました。中風は、体の付け根の部分に激しい痛みが走り、人を麻痺させる病です。体の一部分でも麻痺されると、とても不便です。皆さん、歯の治療のために歯の周りを麻痺させられたことはないでしょうか。私は歯がよくなくてたまに治療を受けています。歯医者が麻痺させると、痛みを感じずに治療を受けることができていいですね。でも治療の後、麻痺されている部分が元通りになるまではとても不便です。もし、口の一部分であってもずっと麻痺されているなら、どんなに苦しいことでしょうか。ところが、この中風の人は床に寝かせられたままで運ばれています。一人で立つことも、歩くこともできなかったでしょう。彼は床にふせっているしかできなかったのです。ほんとうに哀れな人になっていました。会いたいという人がいても自分では会いに行くことができませんでした。隣の村にりっぱな医者がいると聞いても自分では会いに行くことができませんでした。ただ、自分のところに来てくれる人しか会えませんでした。もちろん、見舞いに来てくれる人はいたでしょう。中風の人は訪ねてくる人々に出会っていたはずです。家族はもちろん、医者たちに会いました。友達や学校の先生たちにも会いました。素敵な恋人が毎日のように来てくれたかも知れません。中風の人が出会った人々は、ほんとうに優しい人々だったでしょう。権力もなく、お金もない人やアイドルのような人ではない所に来ている人々は心の優しい人たちです。彼らの慰め、彼らの励ましは中風の人にとって生き続ける力になりました。でも、彼の人生を変えることはできませんでした。数多くの人々に出会っても床に寝かせられたままの人生でした。
しかし、中風の人が信仰の人々に出会ったときは違いました。信仰の人々は中風の人を床に寝かせたままで、イエス様のみもとに運んでくれました。彼らは口先や言葉だけではなく、行ないによって中風の人を愛してくれました。信仰の人々の愛には行いが伴っていたのです。何よりも信仰の人々は中風の人をイエス様のみもとに運んでくれました。人生の中でこういう信仰の人に出会うことは大きな恵みです。イエス様に出会うことができるからです。○○さんに変化と癒しが起こっていることも信仰の人、エステル、エズラ宣教師に出会ったからでしょう。
私は今まで多くの素晴らしい人々に出会いました。ほんとうに良い家族、良い友達、良い先生たちに恵まれました。彼らに感謝しています。しかし、罪深い私が救われて神様の子どもとなったのは信仰の人々に出会ったからです。信仰の人々が私のために祈り、イエス様に導いてくれたからこそ、私はイエス様に出会うことができました。そして、イエス様によって罪が赦され、病が癒される体験をしてきました。ほんとうに信仰のある人々に出会うことは恵みです。信仰の人に出会って結婚できたことも恵みです。不信仰の人は否定的なことば、行ないが伴わない言葉によって疑いを植えつけます。また、心を不安にさせ、傷つけます。信仰の人は信仰の言葉、肯定的な言葉によって人を生かしてくれます。何よりも信仰の人は私たちがイエス様に出会い、イエス様によって癒され、ビジョンを持って生きるようにしてくれます。私は職場では疲れるし、不信仰の人々の言葉によって辛くなるときもあります。しかし、水曜日に信仰ある宣教師たちと交わると笑いが絶えません。不思議な力が与えられます。一週間の職場生活は体も、心も疲れさせますが、日曜日に教会に来て信仰のある人々と交わると癒しがあります。それで、礼拝の後にある食事会の時は「ハハハーー」と笑い声が耐えません。信仰の人々は、私を励まし、心をイエス様に向けさせてくれるからです。ですから、私たちは信仰の人々を通してイエス様に出会うことができます。そして、信仰によって人を助けることこそ一番素晴らしい助け方です。信仰によって人をイエス様に導くことです。お見舞いに行くことも素晴らしいことですが、信仰によって病気の人をイエス様に導くことこそ、一番素晴らしい助け方です。では、人々が信仰によって中風の人をイエス様の所に運んで来ると、イエス様はどうなさいましたか。もう一度、1b、2節をご覧ください。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。」とあります。「イエスは、「彼らの信仰を見て」とあります。どのようにしてイエス様は信仰を見ることができたでしょうか。信仰は肉眼で見えるものではありません。しかし、イエス様は中風の人を運んで来た彼らの行ないに表われた信仰をご覧になりました。もちろん、イエス様は私たちの心を見ることができる方です。4節を見ると、イエス様が、「律法学者たちの心の思いを知っておられた、」とあります。イエス様は人の心を知っておられるのです。イエス様は皆さんがどんな信仰で教会に来ているのか、どんな信仰で礼拝をささげているのかを知っておられます。でも、イエス様は言葉によって告白され、行ないによって表わされる信仰を祝福してくださいます。心の中で信じることも大切ですが、その信仰が行ないによって表われると、いのちを生かす力になるのです。ヤコブ先生は、私たちの行いに信仰が示されることを教えています。ヤコブ2:26を見ると「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とあります。イエス様は行ないのある信仰を祝福してくださいます。
第一に罪が赦される祝福をくださいました。イエス様は中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われました。イエス様は罪の赦しを宣言されたのです。ここで、イエス様がご覧になると、この中風の人にとっては病気の癒しより罪の赦しが急ぐべきことであったと思われます。もちろん、すべての病はその人が犯した罪の結果であるとは言えません。ヨハネ9:3節を見るとイエス様は生まれつきの盲人について、「この人が、罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と言われました。私たちの病、私にあるハンディが神様の栄光が現すものになる場合もあるのです。しかし、私たちは神様が私たちの行ないを正確に見ておられること、神様は侮られるような方ではないことを覚えなければなりません。パウロは、「自分の肉のために巻くものは、肉から滅びを刈り取り」といっています(ガラテヤ6:8)。自分の蒔いたものを自分が刈り取らなければいけないのです。ですから、この中風の人は自分の犯してしまった罪のために、こんなひどい目にあっていたかもしれません。もし、そうだったら、イエス様のみもとに運ばれた時はとても恐れていたのでしょう。人々は罪のために恐れています。アダムの原罪によってすべての人々の心には恐れがあります。特に、自分の犯した罪のために苦しんでいます。罪は私たちの心を地獄にしてしまいます。罪を犯した人の心には平安がありません。それで、人々は罪意識、罪責感をなくすためにさまざまな努力をします。罪を償うためにお寺や神社に行って厄払いをします。ボランティア活動を通して自分の犯した罪を償おうとしている人もいます。しかし、人間がいくら努力しても罪の問題は解決されません。罪の問題は神様との関係から始まっているから、神様の御前で罪を告白し、悔い改めるまでは解決できないのです。そして、罪の問題が解決されない限り、人間の財産も、実力も、業績も意味がありません。しかし、罪が赦されると、私たちのうちにある罪意識による不安と恐れは消え去り、真の自由と平安を持つようになります。
教会に来てよく居眠りすることも心に平安があるからです。心に平安があるから眠れるのです。教会にはじめて来られた方はなかなか眠れないでしょう。しかし、毎週来ている方は居眠りしやすいのです。罪が赦された人の心に平安があるからです。罪が赦された人には平安だけではなく、新しい命も与えられます。イエス様を信じて罪が赦されると、永遠のいのちが与えられていのちに溢れた人生、Powerfulな人生を生きるようになります。ダビデは、「さいわいなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。(詩篇32:1)」と歌いました。罪を赦された者は、真の平安、真のいのち、真の幸せを得ることができるのです。そういうわけでイエス様は中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました。」と罪の赦しを宣言されたのです。
 第二に、イエス様は中風の人が起きて歩ける祝福をくださいました。3,4節をご覧ください。「すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」とあります。律法学者たちが心の中で言ったことは、「この人は神をけがしている。」というものでした。これは、イエス様がもし神様でなければ、全く正しい意見です。まさに、神様しか罪を赦す権威はありません。神様のみにしか、人の罪を赦す権威はありません。しかし、律法学者たちは、イエス様が神様ではないという前提に立っていたところで間違っていました。ほんとうはイエス様ご自身が、まさに神様ご自身なのです。したがって、「あなたの罪は赦されました。」と言う権威を持っておられたのです。では、イエス様はご自分に罪を赦す権威を持っておられることをどのように見せてくださいましたか。
5、6節をご覧ください。「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。」とあります。 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいでしょうか。「あなたの罪が赦された。」と言う方がやさしいと思います。なぜなら、罪が赦されること自体は、目に見ることができないからです。けれども、「起きて歩け」というのは、実際にその人が歩かなければ、そのことばに権威がないことがすぐにばれてしまいます。そこで、イエス様はご自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを、彼らに知らせるために中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。すると、彼は起きて家に帰りました。イエス様の御言葉によって彼には御言葉の権威が働いて彼を抑えていた罪意識は消え去りました。彼を麻痺させた病も癒されました。彼は信仰の人々によってイエス様に出会い、イエス様に出会って罪が赦されました。イエス様に出会って不治の病も癒されました。イエス様との出会いに赦しも癒しもあったのです。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神様をあがめました。
 私たちもイエス様との出会いによって罪が赦される祝福を受けることができます。イエス・キリストによって病も癒されます。
クリスマスが近づいてきても心に何の感動もなく、何もやりたくないと思っている方はいないでしょうか。イエス様に出会って罪の赦しを受けましょう。イエス様に出会って心の病も癒していただきましょう。どんなガンでも初期に発見して治療すれば治せるそうです。しかし、痛みが感じるほどになったときは、末期のガンであって治療がもう遅いそうです。私たちが末期がんの状態になる前に教会に来られたことは恵みです。どうか、イエス・キリストに出会って悔い改め、罪の赦しを受けましょう。イエス・キリストに深く出会ってさまざまな病も癒されるように祈ります。さらに、信仰によって中風の人たちをイエス様に導くことができるように祈ります。この世には手足は健康であっても心は麻痺されている、霊的な中風の人たちが多くいます。特に通信技術の発達によって誘惑の多い時代に生きている人々はさまざまな罪を犯して無気力になってしまいがちです。また、何もやりたくないと言っているニートたちが急速に増えていると言われています。どうか、私たちが彼らをイエス様のみもとに運んで来るみわざに用いられるように祈ります。神様が私たちに中風の人をイエス様のみもとに運んで来た人々の信仰を与えてくださるように祈ります。

?.マタイが出会ったイエス様(9?13)
 9節をご覧ください。イエス様は、中風の人を赦し、癒された所を去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になりました。マタイはが収税所にすわっているのを見ると、彼は悪名高い収税人だったことが分かります。当時、ユダヤ人にとっては収税所にすわっている人を見ることだけでも吐き気がするほどでした。なぜなら、ユダヤ人はローマに支配されていること自体がいやなのに、ローマに加担して、税金を徴収する人が収税人であったからです。収税人はひどく嫌われていたのです。嫌われている人によくしてあげることはなかなか難しいことです。私は未熟な信仰であっても嫌われている人に近づき、助けようとしますが、そうすると、人々からあなたが味方するからあの人は反省しないんだといわれる場合があります。ちょっとした話しかけ、手伝いでもそんなに言われるものですから、嫌われている人を自分の弟子にすることはほんとうに難しいことでしょう。ところが、イエス様は皆に嫌われている収税人のマタイをご自分の弟子として召しだされました。イエス様はマタイに「わたしについて来なさい。」と言われたのです。彼はイエス様に会いに行くことができませんでした。また彼をイエス様の所に運んでくれる人もいませんでした。ところが、そんな彼にイエス様ご自身が来てくださったのです。ほんとうにあわれみ深いイエス様は彼に哀れみを施してくださいました。自分のところに来てくださる主の哀れみによってマタイはイエス様に出会ったのです。
今日もイエス様は私たちのところに来てくださいます。黙示録3:20「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。私たちがイエス様の声を聞いて心の門を開けるなら、いつでも、どこでもイエス様に出会うことができます。マタイはイエス様の御声を聞いたとき、立ち上がって、イエス様に従いました。この出会い、この決断によって、彼は皆に嫌われる人生から、二千年の歴史を超えて尊敬されているセイントマタイになりました。彼はイエス様との出会いを大切にしてイエス様の一行を自分の家にお招きしました。イエス様も彼の招きに答えて彼の家で食事の席についておられました。イエス様の弟子たちも一緒に食事をしていました。弟子たちはイエス様のような心ではなかったかも知れませんが、彼らも食卓に着いていました。イエス様の一行は食事をしながら収税人や罪人の友となって彼らと交わっていたのです。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエス様の弟子たちに言いました。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」 パリサイ人たちはイエス様が罪人たちと食事をしながら、彼らの生活を認めることは許せないと思ったでしょう。
当時、ユダヤ人、特にパリサイ人にとっては罪人や収税人と一緒に食事することは絶対にしてはいけないことになっていました。それで、ユダヤ社会の犯罪率はますます増えました。罪人たちを隔離するから彼らが癒されるところなく、もっとひどい罪人として成長して行ったのです。大体、犯罪者を捕まえて刑務所に入れるとき、刑務所で反省し、新しい人に変わることを期待するでしょう。しかし、刑務所に一回だけ入った人より、二回も、三回も入った人が刑務所から出ると、もっとひどい犯罪人になっていく場合が多いものです。罪人だからといって差別し続けると、さらにひどい罪人を養成してしまう結果になるのです。子どもに対してもそうです。子どもが悪いことをしたからといって、「あの子は問題児です。」とレッテルをつけてしまうと、さらにひどい問題児になって行きます。医者が患者さんを診ているような心、哀れむ心を持って愛し続けることが大切です。同労者に対しても、兄弟姉妹たちに対してもそうです。「あの人は罪深いですよ。あのマタイとは付き合いができない。」というふうにレッテルをつけてしまってはいけません。世の人々は、そのような価値観で生きていても私たちクリスチャンさえそういう目で見てはいけないのです。では、罪人に対するイエス様のお考えはどうですか。
12,13節を読んで見ましょう。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
 イエス様は、ご自分を医者にして、罪人達を病人にたとえています。もし、医者が病人と一緒になる事がなければ、診療と治療をする事はできません。もし、私たちが病気のために医者のところに行ったのに、医者から「あなたと一緒にすることはできない」と言われたら、どうなりますか。それほどショッキングなこともないでしょう。もし、イエス様が丈夫な者、正しい人を招くために来られたら、私のような人間は居場所がなくなってしまいます。弱くて罪深い者がどうやってイエス様に近づくことができるでしょうか。
私は先週、サラちゃんにバプテスマを授けながら「あなたは毎日聖書を読み、罪から離れてきよく正しく生きるために励みますか。」と質問しました。サラは「アーメン。」と答えました。夏修養会の時、私は自分の子どもたちにも同じ質問をしました。また、同じ言葉を聞きました。しかし、私は子どもたちが毎日聖書を読むことを助けていませんでした。私は聖餐式の中で祈るとき、そのことが思い出されて悔い改めるざるを得ませんでした。それで、先週は再び朝7時に家族が日ごとの糧を読むことを始めました。
 私はこんなに弱いものです。これだけではありません。年末を迎えて一年を顧みて見ると、神様の前に何度も決断して、また、守らなかった、惨めな者です。こんな自分のことを考えると、本当に絶望的です。宣教師として、教師として、父親として、夫して恥ずかしい者です。ところが、イエス様はこんなに惨めな人間でも哀れんでくださいます。罪深い者を哀れみによって悔い改めに導き、赦してくださいます。なぜなら、イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたからです。

結論的に、正しい人を招くためではなく、私のような罪人を招くために来られたイエス様のあわれみと愛を心から賛美します。どうか、私たち一人ひとりがあわれみ深いイエス様に出会って、罪が赦され、病が癒されるように祈ります。また、イエス様の弟子の人生を生きることができるように祈ります。私たちはイエス様と出会いによって罪が赦され、病が癒されます。イエス様の弟子として生きることができます。イエス様は私たちをあわれみによって助け、愛してくださるからです。