2005年聖誕特集第2講(聖餐式)

私たちのすべての咎を負わせられたイエス様

御言葉:イザヤ53章
要 節;イザヤ53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

メリークリスマス!今日、神様が洗礼式と聖餐式を行なうようにしてくださり感謝します。先週、韓国から来ていた朴マリヤ牧者は「日本はクリスマスが早いね。」と言いました。クリスチャン人口の多い韓国よりも早くクリスマス雰囲気になっている東京を見てびっくりしているようでした。本当に、町中、早くからツリーやイルミネーションが美しく光り輝いています。それを包みこむかのようにクリスマスソングが降り注いでいます。「クリスチャンでもないくせに、商売のためなら何でするね」と思っている方がいるかも知れませんが、それでも、「メリークリスマス!」とイエス様の誕生日を祝っていることは感謝ですね。実は日本だけではなく、世界中の人々がクリスマスを祝い、喜んでいます。特に、キリストの十字架の血潮によって救われた人々はイエス様のご誕生を心からお祝いし、礼拝します。イエス様のご誕生の知らせは、人類にとっては素晴らしい喜びの知らせであるからです。なぜ、イエス様のご誕生は全人類にとって素晴らしい知らせなのでしょうか。それはイエス様のご生涯がイザヤ53章に記されているとおりになったからです。イエス様はイザヤの預言とおりに十字架の苦しみによって私たちのすべての咎と罪を負い、救いの御業を成し遂げられたのです。
この時間、羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私たちのために、十字架を背負われたイエス様を黙想しましょう。それによって私たちのうちに、イエス・キリストによる赦しと癒し、平和が満ち溢れるように祈ります。

1-3節を読んでみましょう。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
 ここに、イエス様の生涯が生々しく記されています。イザヤはイエス様と共に生活していたかのように記しています。イエス様は主なる神様の御前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育ちました。若枝は弱くてちょっと触っただけでも折れてしまいます。砂漠の地から出る根はどんなに弱いでしょうか。まさに、幼子の姿でこの地に来られたイエス様は芽生えたばかりの若枝のようでした。生まれたばかりなのに、ヘロデ王は二歳以下の子どもを殺しなさいという命令をくださいました。イエス様は芽生えたばかりの若枝のように折れてしまいそうになったのです。そういう危険の中で、イエス様は育ちました。また、イエス様はガリラヤの町ナザレの人で無力な植民地の民、田舎者としての生活をしました。貧しくて食べることさえまともにできませんでした。砂漠の地から出る根のように弱々し御体であったでしょう。イエス様に私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでした。人々はかっこいい男、美しい女性に関心を示し、そういう人を愛しようとします。かっこいいヨンさまは国境を越えて数多い女性たちから愛されています。お金や権力を持っている人も多くの人から慕われるでしょう。パーマをしている小泉総理は国民的な人気があると言われていますが、権力あるところに人も集まるでしょう。この間の選挙では「小泉チルドレン/小泉シスターズ」と言われる83人の国会議員が当選されました。お金があるところ、権力のあるところには人々が集まるからでしょう。しかし、イエス様には人々が集まって来れそうなことが何もなかったのです。イエス様には私たちが慕えるようなものが何もありませんでした。お金もなく、権力もなく、社会的な地位もありませんでした。良い身分も、良い学歴もなく、安定的な職場もありませんでした。人々はこのような人を無視します。学歴や出身地、どんな仕事をするかによって差別します。イエス様も無視され、馬鹿にされました。差別を受け、蔑まれました。先週、学んだようにナタナエルのような人からは「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と言われました。また、「この人は、ヨセフの子ではないか。」「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。」という人々から蔑まれました。特に、十字架を背負って行かれるとき、イエス様に対して唾をかけ、鞭を打ち、頭にいばらの冠を被らせた人々から嘲られました。イエス様は全身全霊で神様を愛し、人々を愛しておられたのに、人々は人間的に判断してイエス様を無視し、蔑んでいたのです。そのとき、イエス様の御心はどんなに傷められていたでしょうか。聖書はこのように記しました。「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。(詩篇22:6,7)」イエス様はこれほどに蔑まれ、嘲られたのです。本当にイエス様は私たちの想像を超えた悲しい、辛いところを通られたのです。
 では、イエス様がこんなに蔑まれ、痛めつけられ、苦しめられた理由は何でしょうか。それは私たちの病、咎と罪のためです。まさに私の罪のためにイエス様は、あんなにも苦しみを受けられたのです。
4?6節をご覧ください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。
この短い御言葉の中には「私たち」という言葉が9回も記されてあります。なぜ、こんなにも「私たち」という言葉が強調されたでしょうか。それはイエス様の苦難と十字架の死が他人ではなく、まさに私たち自身とかかわっているからです。イエス様の苦難は、まさに私自身とかかわっているのです。
もう一度4節をご覧ください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」とあります。若枝のように弱い姿でこの地に来られたイエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。ここで、「病」とは肉体的な病気を意味し、「痛み」とは精神的な病気を意味していて心の傷、痛みのことです。ところが、何の罪もないイエス様が罪の結果であり、罪の代価である病を負い、心の痛みまでも担ってくださいました。それで私たちがこの事実を信じると、私たちの病は癒され、心の傷も癒されます。
よく夫に殴られているひとりの女性がいました。彼女は夫の愛を信じて結婚し、夫に愛されていましたが、歳月が流れると、夫の心は彼女から離れて生きました。夫は彼女に怒るばかりで暴力を振るいました。毎日のように起こられ、殴られることは耐え難いことでした。それで、彼女は牧師先生に相談しましたが、先生は心を痛めながら彼女に「別居した方が良い。」とアドバイスしてくださいました。結局、彼女は夫と離れて生活することになりました。息子がふたりいましたが、二人とも彼女が養育することにしました。ところが、夫にとっては一人暮らしがとても嫌なことでした。彼は何度も妻に手紙を送り、電話をしました。しかし、彼女は相手にしませんでした。過去の傷が思い出されて夫を赦すことができなかったからです。彼女は夫から「自分が自殺するだろう」と言われても受け入れることができませんでした。むしろ、彼女はそんな言い方を防ぐために「自殺したければ、自殺しなさいよ。すると、私があなたの遺産を受けるでしょう。」と言いました。ところが、夫は自殺してしまいました。夫は傷つけられたばかりでその傷が癒されず死んでしまったのです。彼女がこの事実を知るようになった時は、言い表せない罪責感のために苦しめられるようになりました。彼女はその苦しみと孤独感が耐えられなくなりました。結局、彼女は快楽に身を投げ、新しい男たちと乱れた生活を始めました。そのために子どもたちは大きな傷を受けてしまいました。
ところが、彼女に完全な変化が起こりました。新しい人生を生きるようになりました。彼女はイエス・キリストの十字架によって癒されたのです。単純に癒されただけではありません。彼女は自分のように傷つけられている人々の癒しのために働く人になりました。人の病を癒し、心の痛みを担うキリストの器として美しい人生を生きるようになったのです。彼女の名前が「ケイ・アーサー」です。彼女は「Lord, Heal My Hurts(主よ、心の傷を癒してください)?いのちのことば社―」という本を書きました。何が、彼女を傷だらけの人生から癒したでしょうか。何によって彼女は自分が癒されるだけではなく、人を癒す御業に用いられる人に変わったでしょうか。それはイエス様の十字架です。彼女は私たちの病を負い、私たちの痛みを担われたイエス・キリストに出会ったのです。このキリストの出会いによって新しい人生の出発ができました。彼女はイエス様の十字架によって癒された新しい人生を生きるようになりました。 
私たちも、イエス様が私の病を負い、私の心の傷を癒すために十字架につけられ、死んでくださったことを信じれば、癒しと新しい人生を経験することができます。
もう一度5節をご覧ください。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。この御言葉は二千年前、人となってこの地に来られたイエス様が十字架につけられ、死なれた理由を明らかにしてくれます。なぜ、イエス様は十字架を背負ってゴルゴタの丘を上らなければならなかったでしょうか。なぜ、イエス様は茨の冠をかぶられて剣に刺し通される苦しみ、骨が粉々に砕かれる苦しみを経験せざるを得なかったでしょうか。なぜ、イエス様は、あのひどい十字架につけられて大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」と叫ばざるを得なかったでしょうか。それは私たちのそむきの罪のためです。知らず知らずに神様に背いていた罪のためです。また、イエス様は私たちの咎のために砕かれました。イエス様は私たちが手で犯した罪のために両手に釘つけられ、足で犯した罪のために足に釘をつけられました。私たちが心の中で犯していた罪のためにイエス様のわき腹は剣で突き刺され、私が頭と考えによって犯した罪のために茨の冠をかぶられたのです。罪には必ず罪の代価が伴われます。罪には羞恥と刑罰、死という罪の代価があるのです。アダムとエバが罪を犯した時、恥ずかしく思うようになりました。また、マタイ13:42節を見ると罪による刑罰がどんなに恐ろしいかが分かります。「火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」そして、罪の代価は死です。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です。」とあります。それで、イエス様は私たちの身代わりに十字架上で霊的な死、肉体的な死を経験なさいました。その結果、私たちは平安を得、癒されるようになりました。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエス様の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。「癒された」というのは文法的に完了形です。状況が終わったのです。イエス様がすでに十字架の死によって私たちの弱さ、病、罪と咎を背負い、担ってくださったのです。問題は私たちの信仰です。私たちが聖書に記されている御言葉のとおりになると信じるなら、そのとおりになります。詩篇107:20節に「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」とあります。「主はみことばを送って彼らを癒し」とあります。御言葉はイエス様です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネ1:14)」。とあります。ですから、イエス様には癒しがあります。イエス様は私たちを癒してくださるのです。イエス様はその滅びの穴から私たちを助け出されました。
そして、神様は今も御言葉を送ってくださり御言葉を信じる者たちを癒し、その滅びの穴から助け出してくださいます。ですから、今も御言葉を信じる者たちは癒されます。もし、自分の病は治らないと思っている方がいらっしゃるでしょうか。不信仰を悔い改めてください。そして、信じない者にならないで信じる者になってください。イエス様が私の病を負ってくださった、私の痛みを担ってくださったから私は癒される、癒されたと信じてください。イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われます(マタイ9:29)。私たちの信仰のとおりに癒されるのです。なぜなら、人間世界に入ってきた病は人間の罪と咎のためですが、主は私たちのすべての咎をイエス様に負わせてくださったからです。
6節をご一緒に読んでみましょう。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。私たちは自分勝手な道に行ってしまったアダムの子孫として自分勝手な道に歩んでいました。私たちはみな、羊のようにさまよっていました。ですから、イエス様が受けられた、あの苦しみは、本当は私が受けるべきでした。唾をかけられ、鞭打ちにされ、頭にいばらの冠を被らせられるべき張本人は私だったのです。私たちはみな罪のために辱められ、刑罰を受けて死ななければならなかったし、燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれなければならなかったのです。しかし、主は、私たちのすべての咎をイエス様に負わせました。それゆえ、イエス様は痛めつけられ、苦しんだのですが、口を開かれませんでした。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かれませんでした。イエス様が口を開かず黙々と十字架の道を歩んでいかれる時、人々はしいたげと、さばきによって、彼は取り去られたと思ったのですが、実はそうではなかったのです。イエス様はご自分に力がなくて虐げられ、ご自分の罪のためにさばかれて取り去られたのではありません。私たちのそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたのです。イエス様は何の罪もないのに私たちの罪のために十字架の死を担い、葬られました。私たちが負うべき全ての咎を神様はイエス様に負わせられたのです。だから、あのむごたらい刑罰があったのです。
イエス様は何の責任もないのにいばらの冠、鞭打ち、脇腹の槍、釘打ちを受けて下さいました。それは本当にどうしようもない私たちのためにです。私たちの深い心の傷、さまざまな病を癒すためにイエス様は来て下さいました。そして、私の病、罪と咎のためにイエス様は死んで下さったのです。私たちがこのことを知り、信じる時に私たちに変化が起きます。自分のために死んで下さったという真理をもう1度心に受け止めましょう。今日の洗礼式、聖餐式を通してもう一度イエス・キリストの十字架の意味を心に刻み、新しい旅立ち、十字架による新しい命に与っていくことができるように祈ります。

結論的に、神様は私たちのすべての罪と咎、病をイエス様に負わせられました。すでに、イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださったのです。私たちがやることは信じることだけです。御言葉のとおりにイエス様がキリストとして私たちを贖ってくださったと信じるのです。「私の罪を負ってくださった。」「イエス様は私の病を負ってくださった」と信じて告白するのです。すると、私たちの罪が赦され、病が癒されます。罪が赦された平安と、病が癒された健康、霊的にも、肉的にも健やかに生きる力が与えられます。ただ信じることによって、私たちは赦され、癒されてこの世で最高に幸せな者となります。ほんとうの意味で成功者、圧倒的な勝利者となります。どうか、今日幼児洗礼を受けるトシヤ君も、サラちゃんもイエス・キリストの十字架のゆえに、最高に幸せな人生、祝福の源、国々の母として用いられる人生を生きることができるように祈ります。