2005年秋の特別講義

この戦いは主の戦いだ

御言葉:Ⅰサムエル17:1?50
要 節:Ⅰサムエル17:47「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

今日の御言葉は、よく知られている少年ダビデと巨人ゴリヤテに関することです。ダビデは石投げと一つの石で巨人ゴリヤテを倒しました。プロ野球の巨人ファンにとっては「巨人を倒す」んだってあまりに聞きたくない言葉であるかも知れませんが、ダビデの巨人倒しは事実です。ちなみに来年の巨人監督は原監督です。私は、巨人ファンではありませんが、原監督の「愛情と情熱」という言葉が私にリーダーとして自分の顧みるようにしてくれました。私も原監督に負けない愛情と情熱を持って日本宣教のために戦おうと決心するようにしてくれたのです。私が自分の意志だけではなく、「この戦いは主の戦いだ」という信仰による愛情と情熱を持って主のみわざに励みたいと思います。私たちみんなが信仰による愛情と情熱を持って日本宣教に励むことができるように祈ります。来週、行なわれる弟子修養会が私たちの信仰を堅くし、心を愛情と情熱へと燃やす修養会となりますように祈ります。
本文の御言葉を見ると、少年ダビデには神様に対する信仰とイスラエルに対する愛情と情熱がありました。イスラエルはこのダビデ一人の活躍によってペリシテ人に勝利しました。少年ダビデの信仰、その愛情と情熱を学ぶことができるように祈ります。そうして、私たちの前に立ちはだかっている巨人ゴリヤテを恐れることなく、戦い、勝利する生活へ変えられて行きますように祈ります。

?.巨人ゴリヤテに挑戦する少年ダビデ(1?40)
1?3節をご覧ください。ペリシテ人が戦うためにユダのソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷きました。サウルとイスラエルもペリシテ人を迎え撃つためにエラの谷に陣を敷きました。ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対したのです。
4?7節をご覧ください。ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出てきました。その名はゴリヤテです。彼の背の高さは六キュビトで約3メートル近いです。こういう人を指して巨人と言うでしょう。彼のよろいの重さは、五千キュビトで約57キロです。彼の槍の矢は、約7キロです。つまり、体についているものだけで64キロです。簡単に言えば巨人ゴリヤテは怪力を持つ怪物だったのです。
また、彼は、自信に満ちていました。8?10節をご覧ください。ゴリヤテはこんなことを言いました。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。・・・ひとりを選んで、おれのところによこせ。・・・もし、おれが勝ってそいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」とゴリヤテはイスラエルを馬鹿にしていました。彼は、それだけの自信に満ちていたのです。
では、この自信に満ちた、巨人ゴリヤテに対し、イスラエルは、どうだったのでしょうか。
11節をご覧ください。「意気消沈し、非情に恐れた」とあります。また、24節を見てください。イスラエル人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れました。誰一人、この巨人に立ち向かう人はいなかったのです。そこにだれが現われてきましたか。いよいよここで、少年ダビデの登場です。
12-19節をご覧ください。ダビデはベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子でした。エッサイには八人の息子がいましたが、上の3人は徴兵されて戦場に行っていました。ダビデは末っ子でしたが、徴兵されるような年ではありませんでした。彼は、そもそもお父さんの命令で、お兄さんたちの安否を調べるために戦場に遣わされただけでした。
20-27節をご覧ください。そこで、ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じられたとおりに、野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところでした。ダビデは兄たちに「元気ですか。お父さんが心配しているよ。」と話していると、ちょうどその時、ゴリヤテの声が聞こえました。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれ様が来たぞ。ひとりを選んでおれのところによこせ。ハハハー」と。彼はイスラエルを馬鹿にする言葉を繰り返していました。すると、イスラエルの人たちはみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れていました。だれも自分が立ち向かって戦おうとしませんでした。ただ、「ゴリヤテを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」というばかりでした。それに対して、ダビデは何と言いましたか。
26節をご一緒に読んでみましょう。「ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」」ダビデは憤っています。この憤りは反射的なものでも、感情的なものでもありません。生ける神様に対する愛情と情熱から出てくる憤りでした。ダビデは巨人ゴリヤテの前で恐れることなく、むしろ霊的な憤りを持って立ち向かおうとしました。しかし、ダビデは。このゴリヤテは、何の権威もない者であり、必ず打ち負かされると、肯定的に考えました。自分が考えるだけではなく、「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」と言っています。イスラエルの人々も生ける神様を見上げるように話しているのです。でも、ダビデの兄たちの反応はどうでしたか。
28節をご覧ください。兄のエリアブはダビデに怒りを燃やして、言いました。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」ダビデは厳しい現実をよく把握していなかったかも知れません。ただ、戦いを見にやって来たのかも知れません。でも、ダビデには神の民としてのアイデンティティがありました。生ける神様に対する信仰がありました。ところが、兄のエリアブは、ダビデを馬鹿にしました。彼は荒野にいるあのわずかな羊を心配したからです。ほんとうに現実的な男です。彼は生ける神の陣がなぶられていること、神の御名が侮辱されていることには関心がありませんでした。神様に対する愛情も、情熱もなく、神様の名誉のために立ち上がる勇気も、信仰もありませんでした。エリアブは自分のために戦場までやって来てくれた弟、神様のために戦おうとする弟に感謝するどころか、「いったいおまえはなぜやって来たのか。」と言っています。ダビデが気を落としてしまいそうなことばです。しかし、ダビデは否定的な言葉を聞いても否定的になりませんでした。人間的な非難と反対があるにもかかわらず、神様のために戦うことをあきらめませんでした。彼は「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」と言っています。また、ダビデの意志をほかの人にも伝えました。人々はエリアブと同じ返事をしてダビデの意志を理解してくれませんでした。ダビデに期待することは無理だと思ったしょう。でも、人々はダビデが言ったことをサウルに知らせたので、サウル王はダビデを呼び寄せました。サウルは人々のうわさを聞いてダビデに期待したようです。ところが、いざとダビデを見ると、どうなったでしょうか。彼は落胆してしまったようです。ダビデが紅顔の少年に過ぎなかったからです。でもダビデはサウルになんと言っていますか。
32節をご覧ください。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」ダビデは王様を励まし、自分が戦うと言っています。ほんとうにすごい事を言っていますね。励ましの言葉だけではなく、「僕がやります」と言っているのです。でも、サウルはダビデに言いました。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」サウルの言葉は否定的です。「あれと戦うことはできない。」と言っています。ダビデは否定的な言葉を続けて聞いています。しかし、彼はサウル王の否定的な言葉に負けず、自分の証をしました。牧者生活を通して体験した自分のLife Testimonyを発表しました。ダビデが羊飼いをしているとき、ライオンや熊が群れの羊を取って行きました。ライオンも熊も、とても強い動物です。この間、ニュースによると、日本の女性がアフリカ観光中にライオンに襲われて死にましたが、日本では年に20名ほどが熊に襲われて死んでいるそうです。人の力でもライオンにも、熊にも勝てないのです。ところが、ダビデはライオンや熊が来て、群れの羊を取って行くと、どうしましたか。35節をご覧ください。ダビデはライオンも、熊も怖い動物だからといってあきらめるようなことはしませんでした。彼は動物のあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出しました。それが彼に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺していました。こういう経験を通して彼はどんな信仰を持つようになりましたか。
36、37a節をご一緒に読んでみましょう。「このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」」とあります。ダビデは獅子でも、熊でも打ち殺すことができた自分彼の力を誇りませんでした。「おれは横綱朝青龍に負けない、K1のチャンピオンにも負けない力があるのだ。」と言いませんでした。「自分が羊を愛する心から命がけで戦ったからだ」とも言いませんでした。ただ、獅子や、熊の爪から彼を救い出してくださった主を証しています。自分が獅子でも、熊でも打ち殺すことができたのは、自分の力ではなく、神様が助けてくださったからだ、神様が自分を救い出してくださったからだと言っているのです。そして、「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」と告白しています。彼は過去の経験から救い主であられる神様を信じ、これからも必ず神様が自分を救い出し、勝利を与えてくださると確信していました。サウルは、ダビデの確信に満ちた所感を聞いて感動しました。彼はダビデに言いました。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」サウルはダビデがゴリヤテに向かって戦うことを許したのです。そして、サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させました。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいをつけさせました。王様のものだから黄金のものだったでしょう。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみました。ところが、まだ、少年に過ぎないダビデには大きすぎました。そこで、ダビデはサウルに「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」言ってそれを脱ぎました。その代わりにダビデは慣れている自分の杖を手に取りました。また、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れました。そして、石投げを手にして、ゴリヤテに向かって行きました。ダビデが持っていったものは武器ではなく、おもちゃみたいです。でもそれはダビデにとってはとても慣れている武器でした。
結局、ダビデは自分の慣れている武器を持って戦いに出て行きました。その結果はどうなりましたか。

?.ダビデの信仰の勝利(41?50)
41?44節をご覧ください。巨人ゴリヤテも盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来ました。彼はあたりを見おろしました。ところが、戦いに出て来ているような人は見えませんでした。少年ダビデが見えましたが、彼が自分と戦う人だとは思えませんでした。ただ山登りに来た子どもかなあと思いました。彼が自分と戦いに出てきたことが分かったとき、ダビデを蔑みました。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからです。特に、ダビデが剣や槍を持っているのではなく、杖を持っているのを見ると、腹が立ちました。そこで彼は「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」といって自分の神々によってダビデを呪いました。また「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」と脅かしました。実際に、一般的に考えてみるとダビデはゴリヤテに殺されて鳥や野の獣の餌になるしかありません。ダビデは、全く巨人ゴリヤテの相手になれません。それにもかかわらず、ダビデはどうやってゴリヤテに立ち向かうことができたでしょうか。
45節をご覧ください。「ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」」とあります。ダビデは自分にゴリヤテに勝てるような力も武器もないことが分かっていました。自分の杖でゴリヤテを打ってもゴリヤテを倒せないと思っていたでしょう。しかし、彼は万軍の主の御名によって巨人ゴリヤテに立ち向かいました。過去自分を獅子や熊の爪から救い出してくださった主を覚え、ただ主を信じました。万軍の主が助けによってなめらかな石ひとつでもゴリヤテを倒すことができると信じました。この戦いは主の戦いであると信じました。ですから、彼はただ自分に慣れている杖、石投げと五つの石だけ持っていても勝利することを信じました。この戦いは主の戦いだからです。主の戦いに敗戦はありません。主の戦いには勝利だけがあります。万軍の主が戦ってくださるからです。ダビデはこの主の栄光を現そうとする意志と熱望に満ちていました。
46、47節をご一緒に読んでみましょう。「きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」
この戦いの結果がどうなりましたか。48?58節をご覧ください。
ゴリヤテが立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいてきたとき、ダビデもすばやく戦場を走って行き、ゴリヤテに立ち向かいました。そして、ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ちました。すると、石がシュー・・・と飛んで行ってゴリヤテの額を打ちました。石はゴリヤテの額に食い込みました。その瞬間、ゴリヤテはうつぶせに倒れました。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このゴリヤテに勝ちました。歴史的なこの戦いはダビデの「KO勝」で終わったのです。ダビデの手には、一振りの剣もありませんでしたが、このゴリヤテを打ち殺してしまいました。やはり、この戦いは主の戦いでありました。主がダビデに勝利を与えてくださったのです。

以上で、私たちはダビデから多くのことを学ぶことができると思います。その中で三つのことを考えて見ましょう。
第一に、ダビデのアイデンティティによる愛情と情熱です。彼は割礼を受けた神の民としてのアイデンティティを持っていました。彼は「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」と言っています。この言葉からダビデの神様に対する愛情と情熱を感じます。彼はまだ、少年でしたが割礼を受けている者としてのプライドとアイデンティティによって心は愛情と情熱に燃えていました。人は自分をどんな人として認識するかによってその心も、行動も変わってくると思います。自分が乞食の子どもであり、自分も乞食だと思っている人は人に物乞いをしても恥かしく思いません。たとえ、自分の身分が皇太子であっても皇太子としてのアイデンティティがなく、乞食と同じだと思っているなら乞食のような行動をするでしょう。しかし、皇太子としてのアイデンティティを持っている人は常にそれにふさわしい行動をしようと努力します。来月15日は、紀宮さまの結婚式がありますが、彼女は自分を皇族としてアイデンティティを持っているから婚前同居とか、出来ちゃった結婚をしないで皇族のしきたりに従っているでしょう。私たちも神様の子どもとしての自分の身分を認識する必要があります。もはや私たちは罪の奴隷ではなく神様の子ども、神様の大切な皇太子です。イエス・キリストの十字架の血潮によってすべての罪が赦され、贖われているからです。さらに、私たちの中には神様の特別な恵みによって牧者や宣教師として召されています。どうか、私たちがダビデのように神の民として、洗礼を受けた者としてアイデンティティを持って生きるように祈ります。私たちは罪の奴隷として生きていいような者ではなく、祭司の王国、聖なる国民として選ばれているのです。
第二に、ダビデが慣れているものを持って戦ったことです。彼は無理やりにサウル王のよろいかぶとを着せられましたが、それを脱ぎました。ただ、自分の慣れている杖、石投げと石を持って戦いました。見た目では王様のよろいかぶとこそりっぱなものですが、慣れてない人にとっては意味がなかったのです。今も私たちが霊的な戦いをする時、りっぱな方法が多くあると思います。いろいろな宣教方法があります。でも、私たちにとって慣れている伝道方法は1:1伝道、1:1聖書勉強ですし、信仰の成長のために日ごとの糧と所感です。私たちもダビデのようにこれらをよく用いて日々霊的な戦いに勝利する生活ができるように祈ります。
第三に、「この戦いは主の戦いだ」と信じるダビデの信仰です。ダビデは羊飼いをしているときも神様が戦ってくださることを信じていました。獅子や熊から救い出されたのは主であると告白しています。もちろん、ゴリヤテに立ち向かう時も「この戦いは主の戦いだ」という確信を持っていました。彼はこの信仰によっていつもポジティブな考え方(プラス思考)で生きることができました。人は自己中心に考えるから、よく出来ると高慢になり、出来なければ自虐したりします。それで、何事もうまくできると人を無視することで言葉遣いが否定的になり、うまく出来ない時は自虐によって否定的になります。しかし、今日の本文の御言葉を読んでみると、ダビデは一度も否定的な言葉を言いませんでした。それはすべてのことにおいて神様を見上げ、主の戦いを信じていたからでしょう。ペリシテ人が戦いのためにユダのソコに集まると、イスラエルのすべては巨人ゴリヤテの言葉を聞いて意気消沈し、非常に恐れていました。ダビデの兄もサウル王もダビデに否定的な言葉を言いました。こんなに人から言われると気を落としてしまいがちです。しかし、ダビデは彼らの否定的な言葉に負けませんでした。むしろ、プラス思考で彼らを説得しました。それができたのは、ダビデが楽観的な人間だったからではありません。ポジティブ的に考えるタイプの人だったかでもありません。彼のプラス思考には根拠がありました。彼は牧者生活を通して全能なる神様を体験しました。ライオンや熊から救ってくださる神様を体験したのです。そして、救いの経験、生きておられる神様を体験したことをいつも覚え、今度も神様が助けてくださる、神様が救ってくださると信じ続けたのです。そこからダビデのポジティブ的な考え方が形成されたし、そのポジティブ的な考えのとおりにすべてが良くなり、勝利する生活ができたのです。
私たちにもダビデのようにポジティブ的な考え方で生きる聖書的な根拠があります。ローマ8:31を、ご一緒にお読みしましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」ダビデに勝利を与えた主が、私たちの味方なのです。また、続いて37節も読んでみましょう。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」私たちの味方である神様が私たちを愛し、私たちの人生が圧倒的な勝利者となるようにしてくださるのです。イエス様はご自分の十字架の死によって私たちを罪の奴隷から救い出してくださいました。十字架はプラスです。イエス様は私たちのマイナスの人生をプラスの人生にするために十字架にかかったのではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちがプラスの人生を歩むことができるように十字架にかかって死んでくださったのです。私たちの人生をマイナスにする罪の束縛から私たちを解放するために、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。ですから、神様のひとり子イエス・キリストを信じる者は、一人として滅びることなく永遠のいのちをもちます(ヨハネ3:16)。聖書の言う永遠のいのちとは、ただ、長生きすることではありません。天国の喜びと平安、幸せが伴ういのちなのです。ですから、今の生活がどんなにマイナスに見えても、プラスになる人生です。聖書がそう教えているのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
ですから、私たちは日々神様を見上げ、肯定的に考えて生きるべきです。必ずプラスになるということを信じて生きるべきです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、何でもできるからです。人にはできないことも、神にはできるのです。神様のみわざにおいてもそうです。私たちは自分が救われていることに満足せず、この国の救いのために戦わなければなりません。ところが、日本宣教はゴリヤテのように大きく見えてなかなか挑戦しにくいかもしれません。今年50チームの1:1、50名の礼拝参加のために祈っていますが、どうやってそれができるでしょうか。私たちの力や知恵によっては出来ないでしょうか。しかし、私たちの戦いはすでに勝利した戦いです。この戦いは主の戦いだからです。どうか、キリストにあって、ダビデのように勝利を宣言しましょう。「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちを我々の手に渡される。」と。信仰がなくては、神様に喜ばれることはできません。神様に近づく者は、神様がおられることと、神様を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

どうか、この秋に、私たちひとりひとりが神様の御前で神の民としてのアイデンティティを確立し、聖なる神の民らしく生きることが出来るように祈ります。万軍の主を信じる信仰によるポジティブな考え方、慣れている武器によって日々個人生活と霊的な戦いに勝利する生活ができるように祈ります。