2005年マルコの福音書第21講

ひとり息子を遣わされた神様の愛

御言葉:マルコの福音書12:1?17
要 節:マルコの福音書12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。

 先週、私たちは「神を信じなさい」と言われるイエス様の御言葉を学びました。イエス様の当時、ユダヤ教は儀式と形式を重要視していました。先週、私は学校の研修が終わってから金ヨハネ宣教師と一緒に伊勢神宮に行って来ましたが、日本の神道も儀式と形式、慣例としきたりを重んじる宗教だなあと思いました。実際に、神官に聞いてみると、伊勢神宮の祭主が天皇のお姉さんになっていることも慣例によるものだと言いました。神道だけではなく、さまざまな宗教が戒律や儀式、慣例などを重要視しています。しかし、イエス様は「神を信じなさい」と言われます。私たちは神様を信じる信仰によって救われるし、信仰によって山をも動かす神様の力を体験することができます。この信仰を守り続けるためには祈り続けることです。絶えず祈ることによってますます神様の愛と力を体験し、信仰も強くなります。では神様を信じることは具体的に何を信じることでしょうか。その一つは神様の愛を信じることです。
今日は、ひとり子をお与えになったほどに私たちを愛してくださる神様の愛を学びたいと思います。また、神様に愛されているクリスチャンとしてこの世の国家に対して神様に対してどのように生きるべきかを学びたいと思います。どうか、聖霊が私たちのうちに働き、神様の愛を悟らせてくださるように祈ります。

?.ひとり子を遣わされた神様の愛(1?12)
 1節をご一緒に読んでみましょう。「それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」」イエス様はたとえを用いて彼らに話し始められました。「彼ら」とはイエス様に敵対している祭司や律法学者たち、長老たちを指しています。彼らは聖なる神殿を強盗の巣にしてしまった張本人たちです。イエス様はそんな彼らに神様の愛を悟らせようとされました。そこで、イエス様は彼らに一つのたとえを話されました。では、たとえの内容は何でしょうか。
 ある人がいました。彼は広い土地にぶどう園を造りました。雑草や小石などを取り除いて、土を掘り、その中に肥料を蒔きました。水路も作ってガリラヤ湖から水が流れるようにしました。そこに、ぶどうの木を植えると、水路のそばに植わった木のように時が来ると実がなるでしょう。それほどに肥沃なぶどう園を作ったのです。それだけではありません。垣を巡らして動物たちが入れないようにしました。泥棒が入れないようにするためにやぐらも建てました。ぶどう酒を造れるように酒ぶねも掘りました。彼は甘いぶどうの実の収穫ができるように必要なすべての環境を備えてくださいました。そして、彼はこんなにすばらしいぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出かけました。
農夫たちは一億円の宝くじが当たったような恵みを受けました。もともと、彼らは良い職場に通っている人たちではありませんでした。当時、ほとんどの人は日雇い人としてでも雇ってくれる人がいない状況の中で生きていました。ところが、農夫たちすばらしいぶどう園を貸していただいたのです。しかも、主人は隣で干渉することもなく、自由にぶどう園を経営できるようにしてくださいました。長い間、仕事がなければ、仕事が与えられることだけでも感謝です。朝から晩まで繰り返される単純な仕事でも、仕事さえあれば良いと思うのです。ところが、主人は農夫たちに仕事だけではなく、経営権も与えてくださいました。農夫たちは、収穫の季節になると、収穫の10%を主人にささげれば、それによって主人との関係が保たれてぶどう園から収入を得ることが出来ました。当時、地主たちは小作人たちに収穫の分け前として50%、60%を要求していましたが、本文の主人は10%だけをささげることになっていたのです。これは何もなかった農夫たちにとって本当に大きな特権であり、祝福と恵みでした。ですから、農夫たちはすべてが備えられているぶどう園で甘いぶどうを収穫する喜びと満足を味わう生活ができました。
神様は私たちにもこういう恵みを施しておられます。神様は私たちにキャンパスというぶどう園を与えてくださいました。私たちに能力があって与えられたのではありません。もちろん、自分にキャンパスミッションにふさわしい能力を持っていると思っている方がいるかも知れません。しかし、大多数の人は資格のない者を神様が一方的に選んでくださったと告白しています。ほんとうに、私たちは荒野のような険しい世の中で仕事もなく、仕事があっても実らしい実を結ぶことができない生活をしていたでしょう。はかない罪を楽しんで罪の実、快楽の実を結んでいました。甘いぶどうではなく、酸いぶどうの実を結んでいたのです。神様はそんな私たちを一方的に選んで救ってくださいました。そして、すばらしいキャンパスぶどう園で働ける恵みを与えてくださいました。では、なぜ、キャンパスぶどう園で働くことは恵みでしょうか。いろいろ取り上げられると思いますが、私は三つのことを一緒に考えてみたいと思います。
第一に、可能性の多い若者たちを福音のよって助けることができるということです。もちろん、福音によって年寄りも変わります。なぜなら、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。でも、若者に可能性がもっと高く、若者の変化による影響力がもっと大きいのではないでしょうか。旧約聖書を見ると、ヨセフも、モーセも、ダビデも、ダニエルも、まだ若い時神様に召されました。新約聖書を見るとイエス様も若者の伝道に力を入れていました。12弟子が若者でした。パウロも若者の伝道に励み、若いテモテを教会の指導者として育てました。聖書に「大学生」という言葉はありませんが、神様が選ばれた人は若い時に召されています。つまり、神様は若者たちを召され、訓練して歴史の主役として用いられたのです。キャンパスぶどう園では、このように可能性のある若者たちを助けることができるのです。故洪ヨセフ宣教師は日本宣教師として来て若い時に天に召されましたが、彼が福音によって若者xxアブラハム兄弟を助けた時、彼は大阪UBFの支部長となり、影響力のある神様のしもべとして働いています。まだ若いからこれからも大活躍が期待されています。このようにひとりでも可能性の高い若者の伝道に用いられることは大きな恵みなのです。
第二に、常に、生命力のある生活ができるということです。どうやって私たちは若さを維持することができるでしょうか。健康食品を食べれば若くなるでしょうか。白い髪の毛を黒く染めれば若くなるでしょうか。それも一つの方法です。でも、心まで若くなるためには、やはり常に若者たちと交わることではないかと思います。50代になっても20代の若者と1:1ができれば心の若さも維持することができるのです。私はMother Barry宣教師のメッセージを聞いても、読んでも感じることの一つは迫力があるということです。本当に力があります。70代のおばあさんのイメージを想像することができません。本当にキャンパスぶどう園で働く人は、常に生命力のある生活ができるのです。
第三に、常に新しくされるということです。キャンパスはいつも最新の情報、最新の学問が生まれるところです。ですから、キャンパスの若者たちと交わることによって新しいものに接することができます。UBFの牧者や宣教師たちを見ると、結婚しても大学生として見られる場合が多くあります。東京センターの奥さんたちも二十代の学生のように見える方がほとんどですね。
そういうわけで、私たちがキャンパスというぶどう園で働けることは大きな恵みであり、特権です。神様は私たちがキャンパスに甘い御言葉の種を蒔き、甘いぶどうとして弟子養成の実を結ぶことを期待しておられます。そのために、私たちに必要なすべてを備えてくださいました。イエス・キリストの十字架によって私たちのすべての罪を赦し、神様の子どもとして生きるようにしてくださいました。豊かな御言葉を与えてくださいました。山をも動かす信仰の力、祈りの力を教えてくださいました。同じ志を持って働く信仰の協力者たちを許してくださいました。何よりも聖霊が真理の御霊としてキャンパスのぶどう園で働く私たちとともにいてくださいます。私たちを励まし、助けてくださいます。私たちがキャンパスぶどう園で甘いぶどうの実を味わうことができるように助けてくださる神様の恵みを感謝します。私たちが、ただ、キャンパスぶどう園を貸してくださった神様に感謝しながら、熱心に働いて甘いぶどうを収穫することができるように祈ります。特に、この収穫の季節、秋に、甘いぶどうを収穫することができるように祈ります。
2節をご覧ください。季節になると、主人はぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わしました。主人は農夫たちが美しく甘いぶどうを送ってくれると期待しました。主人は農夫たちが収穫の分け前をささげることによって良い関係性を維持し、彼らがもっと豊かな人生を生きるように助けようとしました。ですから、農夫たちは主人のしもべたちを歓迎するべきでした。「Welcome!ようこそ!」と快く迎えて焼肉かお寿司などでもてなすべきでしょう。ところが、彼らはどうしましたか。
3節をご覧ください。彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰しました。主人のしもべたちは歓迎されるどころか、たたかれて体は傷だらけになりました。主人は帰ってきたしもべたちの怪我を見て強盗に襲われたのかと思いました。ところが、話を聞いてみると、ぶどう園の農夫たちがやったことでした。哀れみ深い主人はそんなはずがない、私のしもべたちが横柄な行動をしたかも知れないと思いました。それで、今度は柔和で謙遜なしもべたち、やさしい人ばかり送りました。ところが、しもべたちがさらにひどい目にあってきました。ようやく、主人はしもべたちが強盗に襲われたのではなく、農夫たちによって殴られ、辱められたことが分かりました。それでも、主人はあきらめることなく、また別のしもべを遣わしました。ところが、今度はしもべたちを殺してしまいました。彼らは袋だたきにしたり、殺したりしました。主人は絶えず彼らとの関係性を回復するためにしもべたちを遣わしましたが、彼らは主人の愛を無視したのです。主人は限りのない愛を施しましたが、そうすればするほど彼らは主人を軽く見て悪を行いました。では、なぜ、農夫たちは主に対してこんなに悪を行なったのでしょうか。
それは感謝する心を失ったからでしょう。彼らの高慢とか貪欲なども考えられますが、それらは感謝しないことから始まるものだと思います。おそらく、彼らがぶどう園を貸していただいときはとても喜んだでしょう。仕事ができたことだけでも心から感謝したはずです。パートタイムの仕事でもあればと思っている時に、ぶどう園の経営権までも与えられると、どんなに感激したでしょうか。彼らは心から感謝してこういう決心をしたでしょう。「これから一生懸命にやろう。1:1もぶどう園の仕事も熱心にやろう。そして、収穫の時になると、収穫の分け前も必ず送ろう。十分の一だけではなく、感謝献金もささげよう」と決心したことでしょう。ところが、年月が流れると感謝の心が無くなりました。感謝しないと、就職できた時の喜びも恵みも忘れるようになりました。私だけではなく、みんな就職しているのではないかと思うようになりました。隣の人と比較してみると、自分の収穫は少なく見えました。さらに、奥さんから「金太郎さんは車もあるし、家も広いよ」と言われると、自分だけが狭い部屋で苦労しているのではないかと思われました。
私たちも感謝する心が消えていくと、神様から受けた恵みを思い出すことが出来なくなります。結局、心が小さくなり自己中心的になってしまいます。自分が苦労したことだけが記憶に残るでしょう。自分の収穫や収入は自分が苦労して手に入れたと思うから、高ぶるようになります。すると、自分も知らずに自慢話とか人を無視する言葉が出て来ます。人に傷つけるような言葉が出て来るのです。人々はそのような人を遠ざけます。すると、感謝しない人は寂しくなり、さらに感謝ができなくなります。悪循環が繰り返されるようになるのです。それで、心が治らなければ、ますます険しくなり、農夫たちのような悪を行なうようになってしまいます。なぜなら、感謝しないと、心が暗くなってしまうからです。ローマ1:21節を見ると「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」とあります。
ですから、すべてのことについて感謝する生活は非常に大切なことです。皆さん!「猫の恩返し」というアニメーション映画を知っているでしょう。先週の金曜日、うちの家族はテレビでそれを見ていました。私もちょっと見ましたが主人公のハルが、車に轢かれそうになった猫を助けます。すると猫は彼女にお礼の挨拶し、彼女を猫の国に招待します。「恩知らず」で有名な猫たちですが、恩返しとして猫の国に招待するのです。人間にとって猫の国に招待されることが恩返しになるかどうかは別ですが、猫がちゃんと挨拶して恩返しすることは素晴らしいことですね。世の中で恩知らずの人ほどにいやな人間もいないでしょう。恵みに感謝するどころか、裏切ってしまうことほど汚いこともないと思います。ですから、だれも恩知らずの人間になろうと思っていません。ところが、私たちは神様から受けた恵みを覚えて感謝しようと心がけて努力しなければ、いつの間にか感謝しなくなります。そして、感謝しないと、心がどんどん荒れてしまい、自分も知らずに恩知らず人間になって行きます。感謝しない心にサタンが働きます。結局、その人はつぶやく人となり、人殺しになった農夫たちのようにサタンの奴隷になってしまいます。ですから、私たちはいつも神様の恵みを覚えて感謝する生活に励まなければなりません。私たちがすべてのことについて感謝しようと思えば、本当に感謝することも多くあります。?テサロニケ5:18は言います。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
では、しもべたちを捕まえて殴り、殺してしまった農夫たちに対する主人の処分はどうなりましたか。素晴らしいぶどう園をつくってあげても収穫の分け前をささげるどころか、送られたしもべたちを殺してしまった農夫たちです。ほんとうに恩知らずの人間です。彼らも殴られ、殺されるべきではないでしょうか。しかし、主人はどうしましたか。
 6節をご一緒に読んでみましょう。「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。」主人は最後に愛する息子農夫たちにたちに遣わしました。主人の方から見ると、これほど危険なこともないでしょう。人殺しの所に愛する息子を遣わすことは本当に理解しがたいことです。それにも関わらず、主人が農夫たちに息子を遣わす理由は何でしょうか。6bをご覧ください。「彼は『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。」とあります。主人はまだ農夫たちに対する信頼を捨てませんでした。農夫たちに対する望みを捨てませんでした。それほど、主人は農夫たちを愛し、農夫たちを信頼していました。『私の息子なら、敬ってくれるだろう』という言葉の中に主人の農夫たちに対する愛と希望、信頼が込められています。
 主人がこれほどに愛を施されるなら、農夫たちは今までの罪を悔い改めて神様の愛を受け入れるべきでした。ところが、彼らはどうしましたか。
 7,8節をご覧ください。「すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。」とあります。結局、彼らは息子をつかまえて殺してしまいました。そしてぶどう園の外に投げ捨てました。彼らは息子を殺してしまえば、ぶどう園が永遠に自分たちのものになると錯覚しました。しかし、主人は哀れみ深い、愛の主ですが、同時に正義の主です。
9節をご覧ください。「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」主人は息子を受け入れなかった農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。最後に遣わした主人の息子を受け入れなければさばかれることがわかります。実際に、イスラエルは神のひとり子イエス様を受け入れるどころか、無視しました。ついに十字架につけて殺し、エルサレムの外に捨てました。その結果、彼らは恐ろしい神様のさばきを受けました。紀元70年にローマ軍隊によって陥落され、神殿は崩壊されました。2000年近く国がなくてさまよう民になりました。第二次世界大戦の時は600万人のユダヤ人が殺される恥を受けました。
私たち人間も神様が最後に遣わされた神のひとり子イエス・キリストを受け入れなければさばかれます。必ずその時が来ます。しかし、ひとり息子イエス様を受け入れる人々は救われ、神様の子どもになります。ヨハネ1:12節は言います。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」どうやって、私たちはイエス様を受け入れるなら、神様の子どもとされる特権が与えられるでしょうか。
 10、11節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
ユダヤ人はイエス様を捨ててしまいました。しかし、神様はそのイエス様を選んで万民を救うみわざにおいて礎の石にしてくださいました。家を建てる時、礎の石はとても大事な石です。つまり、神様は人々が十字架につけて殺し、捨ててしまったイエス様をよみがえらせて万民の主、キリストにならせたのです。ですから、だれでもイエス様を受け入れて信じる者は神様の子どもとされる特権が与えられます。そして、礎の石となってイエス・キリストの上に人生の家を建てる人は、地震の中でも、台風の中でも倒れない人生を生きることができます。この地上ではキリストに支えられて圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。さらに、イエス様の教えを受け入れ、信じるなら、神の国を相続される神の子どもとして生きるようになるのです。イスラエルの宗教指導者たちはイエス様のたとえ話に対してどんな反応を示されましたか。
12節をご覧ください。「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。」とあります。イエス様はパリサイ人、宗教指導者たちまでも愛してくださいます。それで、彼らも悔い改めて戻ってくることを待ち望んでおられます。ところが、彼らはイエス様のたとえ話を聞いても悔い改めませんでした。

?.カイザルのもの、神のもの(13-17)
13-14節をご覧ください。ここに、ヘロデ党とパリサイ人のことが記されていますが彼らは正反対の教えを持っていました。パリサイは、もともと、「分離」を意味していました。それで、彼らは世の汚れから離れて、主の聖さにあずかるわけです。彼らにとって異邦人であるローマに協力することは考えられないことでした。このパリサイ人と逆の立場の宗派が、ヘロデ党でした。彼らは、この世に順応することを大切にしました。また、国家に服従することを大事にしました。彼らは異邦人であってもローマ帝国に協力的になっていました。ですから、彼らは互いに敵対していたのです。それなのに、ここでは、祭司長の促しで、いっしょにイエス様のところに来ています。なぜなら、彼らは、イエス様を憎むことにおいて一致することができたのです。
14節をご覧ください。「彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」
彼らはこの質問を通してイエス様をわなに陥れようとしました。イエス様は彼らの擬装を見抜いて言われました。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らは持って来ました。そこでイエスは彼らに言われました。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言いました。すると、イエス様は何と答えられましたか。
17節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。」ここに、人々が驚嘆するイエス様の知恵が現われています。イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました。そして、「神のものは神に返しなさい。」と言われました。カイザルのものとは国家に対する義務です。日本国憲法には「教育の義務、勤労の義務、納税の義務」が記されてあります。私たちはそれらの義務を果たさなければなりません。けれども、私たち自身は神様のものです。ローマの貨幣にはカイザルの肖像が刻まれていましたが、私たちの体には神様の形が刻まれています。ですから、私たちは自分の身を、神様に受け入れられる、聖い、生きた供え物として神様にささげるのです。クリスチャンは世にいる人々と同じ義務を果たしながら、なおかつ、自分自身を生きたそなえものとして、義の器として神様にささげる者なのです。これが神様に愛されている者が歩むべき道です。神様はひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。たとえ話の中で主人は神様のことです。ヨハネの福音書3:16節は言います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
この間、私の学校の同僚はこういう話をしてくれました。夏休みの間、実家に帰り、年寄りのお母さんに小遣いをあげたそうです。ところが、帰りにはお母さんからその十倍ももらって来たそうです。それが親心でしょう。この世の親でも息子のためなら、小遣いの十倍、百倍もあげたいと思うでしょう。それほど親にとって息子は大切な存在なのです。しかもひとり子に対する神様の御心はどうだったでしょうか。神様はその大切なひとり子をお与えになったほどに私たち人間を愛しておられるのです。しかも、神様はご自分の愛する息子が殺されることを知っていながらも私たちのためにひとり子を遣わしてくださいました。そして、神のひとり子イエス様は私たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられるのです(ローマ5:8)。私たちはこれほどに神様に愛されています。

私たちがこの神様の愛を確信していつも感謝しながら、この世で国家に対する義務を果たし、自分自身を義の器としてささげて神様を愛する生活ができるように祈ります。