2005年マルコの福音書第19講                

エルサレムへ勝利の入城

御言葉:マルコの福音書11:1-19
要 節:マルコの福音書11:9,10「そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

 先週、私たちはご自分のいのちをお与えになったイエス様について学びました。イエス様は多くの人々に仕えるために、どんなに苦労なさったでしょうか。イザヤ預言者はこう言いました。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ53:2)」本当にイエス様は数多い人々に仕えるためにしもべとしての生涯を過ごされました。しかし、イエス様はなんの力もなく、権威もない方ではありません。イエス様は創造主であり、主の主、王の王です。全能の神様です。
 今日の御言葉は、イエス様が約束されたメシヤとして、主の主、王の王であられることを明らかにしてくれます。また、イエス様が実のなかったイチジクの木を呪い、商売している宮をきよめ、宮は祈りの家であると教えてくださいます。この時間、心から、イエス様を真の王、勝利の王、平和の王として迎え入れることができるように祈ります。また、今の私たちにイエス様が願っておられることは何かを深く悟って実を結び、主の宮で祈る者へと変えられるみわざが起こるように祈ります。

?.主の御名によって来られる方(1?11)
1節をご覧ください。「さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、」とあります。ベテパゲとベタニヤはエルサレムの近くにある村です。特に、ベタニヤはイエス様が愛しておられるラザロ、マルタ、マリヤが住んでいるところです。イエス様は彼らを愛して彼らに仕えておられました。彼らのために死んで墓の中に入れられたラザロを生き返らせることもなさいました。彼らもイエス様を愛し、イエス様に仕えていました。彼らが住んでいるベタニヤに近づいた時、イエス様はふたりの弟子を使いに出しました。
2,3節をご覧ください。「言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
イエス様は、ふたりの弟子たちにろばの子を連れてくる使命を与えられました。なぜ、ロバの子を連れて来るように言われたでしょうか。それはゼカリヤ預言者によって預言されていたからです。ゼカリヤ書9章の9節を見てください。「シオンの娘よ。大いに喜べ、エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗ってこられる。それも雌ろばの子のろばに。」とあります。ゼカリヤはやがてキリストがエルサレムに入場されますが、その方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ロバに乗って来られると預言しました。イエス様はその預言の御言葉に従ってロバの子に乗ってエルサレムに入場しようとされました。そこで、イエス様はふたりの弟子を行かせてロバの子を連れて来るように命じられました。そして、イエス様は「もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」と言われました。この言葉にはイエス様がお入用なものなら、だれのものでも使うことができることを示唆しています。イエス様が王として人も、ロバも支配されておられるのです。そこで、弟子たちが出かけてみました。すると、どんなことが起こりましたか。
4?6節をご覧ください。表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどきました。すると、そこに立っていた何人かが言いました。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、なんと、彼らは許してくれました。弟子たちが主の御言葉に従ってみると、すべてが備えられていました。ロバも、人の心も備えられていたのです。ここで、私たちは「神様は備えてくださるお方である」ということが分かります。イエス様はすでにこの真理を確信しておられました。
アブラハムも「神様は備えてくださるお方である」と信じていました。創世記22章を見ると、神様はアブラハムに仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」百歳になってやっと得られたひとり子、愛する息子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたのです。その時、アブラハムの心はどうだったでしょうか。イサクの代わりに自分をいけにえとして受け取ってくださいと言いたくなったのではないでしょうか。でも、彼は神様の御言葉に従いました。翌朝早く息子イサクを連れて、モリヤの地に行きました。息子を全焼のいけにえとしてささげるために出かけて行ったのです。ところが、何も知らないイサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか。」これは純真な子どもの質問です。でもそれはアブラハムの心をどんな痛めたでしょうか。胸が裂ける痛みがあったでしょう。しかし、アブラハムは答えて「イサク。神ご自身が全焼のいけにえのための羊を備えてくださるのだ」と言いました。神様が羊を備えてくださると信じたのです。そのとおり、アブラハムは祭壇を築いて、自分の子をほふろうとしましたが、神様は主の使いを遣わして雄羊を備えられたことを知らせてくださいました。そこで、彼は雄羊を取り、自分の子の代わりに全焼のいけにえをささげました。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけました。それは「主の山には備えがある。」という意味です。本当に主はアドナイ・イルエ、すべてを備えてくださるお方です。私たちが行く所々に主の備えがあります。
私たちは今週木曜日から始まる夏修養会のためにいろいろ準備しています。御言葉のしもべたちはGraceful、Powerfulなメッセージ、感動的なメッセージを準備しています。音楽を担当している方たちは恵みと喜びに満ちた賛美とSing-aloneを準備しています。ダンシングチームは今まで見たことがなく、おそらく、これからも見ることが出来ない幻のダンシングを準備しています。その他にも多くの主のしもべたちが天国の宴会のためにいろいろ準備しています。神様は今までなかった幻の修養会のために主のしもべたちを用いて備えておられるのです。何よりも神様ご自身が聖霊の働きを備えておられます。始めて修養会に参加する方にも、二度、三度だけではなく、二十度も参加する方たちも感動する聖霊の働きを備えてくださるのです。修養会だけではありません。神様は私たちの人生に必要なものも備えておられます。ものだけではありません。生涯の伴侶者も、職場も、子どもも備えておられます。主を信じる者には主の備えがあるのです。私たちがアブラハムのように、イエス様のようにアドナイ・イルエの神様、私たちに必要なすべてを備えてくださる神様を信じましょう。イエス様がエルサレムに入場される時、神様はロバを備えておられました。ロバの主人の心も備えておられました。神様は備えてくださる方であると確信して生きるように祈ります。そして、私たちも主がお入用の時に用いられるように祈ります。弟子たちとロバの主人、ロバはイエス様がエルサレムへの勝利の入場ができるように備えられる神様のみわざに尊く用いられました。あの小さいロバはイエス様に用いられることによって人類の歴史に残るロバになりました。
主はご自分の栄光と聖なるみわざのために私たちを用いることを願っておられます。時々、神様が私たちに与えてくださる使命の御言葉は実現可能性がなく、全く合理的ではないと思われます。もし、主がここにいる誰かに「早稲田キャンパスへ行きなさい。キャンパスにはろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」と言われたら、どうしますか。「はい。行ってまいります。」と言えるでしょうか。なかなか納得できないときがあるのです。しかし、私たちが主の主権を信じ、主の御言葉の権威を信じて従う時、主は驚くばかりの恵みのわざを始めさせてくださいます。神様は今日も心の中でいろいろ計算することなく、疑わずに信仰によって従う人々を用いて救いのみわざを成し遂げておられます。自分も乗ったことがないロバであっても主がお入用なときにはそれをささげる献身的な人々を用いて日本宣教と世界宣教のみわざを成し遂げておられます。そして、疑うことなく、信仰によって主の御言葉に従い、主のみわざに奉仕する人たちは主の主権と不思議なみわざを体験し、信仰が日々新たにされて成長します。若い時から聖なる主のみわざ、救いのみわざに用いられることは大きな恵みであり、特権です。本当に光栄なことです。
7、8節をご覧ください。ろばの子をイエス様のところへ引いて行った弟子たちの心はどうだったでしょうか。彼らは不思議な出来事を通して主は備えられる方であることが分かりました。イエス様が言われたことには間違いがなく、すべてがそのとおりになることを経験しました。どんな感激したでしょうか。彼らは自分たちの上着をその上に掛けました。イエス様はそれに乗られました。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷きました。これは、王が立てられる時に行なわれていたことです(?列王記9:13)。人々は全く初対面のイエス様をこうまで熱狂的に、まるで王を迎えるかのように出迎えたのです。
9、10節をご一緒に読んでみましょう。「そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
この人々の歓迎ぶりは本当にすさまじいです。ここで、民衆が歓迎して叫んだことば「ホサナ」は「ああ、主よ、私たちをお救いください」という意味です。このイエス様への歓迎は詩編118篇25節と26節にあります。前を行く人々が、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と歌うと、あとに従う人々は、「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。」と歌います。(男女分けて叫んで見ましょう。)そして、前を行く人々が、「ホサナ。いと高き所に。」と歌い、順番に合唱したのです。このようにして、イエス様は王として迎え入れられ、エルサレムへの勝利の入場をなさったのです。
イエス様は真に王です。イエス様はこの地に来られて33年間、私たちの重荷を負い、すべての人々に仕える生涯を過ごされました。しかし、最後に十字架につけられて死なれる日が近づいた時、イエス様はロバの子に乗って勝利の王として、平和の王としてエルサレムに入場されました。私たちがやることはイエス・キリストを王として迎え入れることです。主は王です。全人類、全宇宙の王です。ロバの子に乗られたイエス様は謙遜の王、平和の王です。ユダヤ人はユダヤの王として迎えましたが、私たちは私の王として迎えなければなりません。私たちがイエス様を王として迎え入れと、王なるイエス様が私たちを支配し、柔和と謙遜によって治めてくださいます。
イエス様は私たちの生活の中に来てくださり、サタンのしわざを打ち砕きます。私たちを救って自由と平和をくださいます。主は今週、行なわれる夏修養会を通して私たちに心に勝利の王、救いの王として入場されることを願っておられます。私たちが心からイエス様を熱狂的に歓迎して受け入れましょう。そうして、私たちが救いの恵み、勝利の王、平和の王であられるイエス様の恵みを豊かにいただけるように祈ります。

?.宮をきよめられたイエス様(11-19)
11節をご覧ください。イエス様はエルサレムに着き、宮にはいられました。宮は神様の都、エルサレムの中でも、さらに中心部分です。なぜなら、そこに神様ご自身が住まわれている神殿があるからです。イエス様はエルサレムに着かれると、エルサレム観光より神の家、宮に入られたのです。そして、すべてを見て回りましたが、宮らしくありませんでした。神様が住まわれるところとは、ほど遠いところでした。でも、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれました。
12、13節をご覧ください。翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエス様は空腹を覚えられました。ベタニヤではあまり食べられなかったようです。ベタニヤではマルタ、マリヤたちに仕えながら朝食を食べる暇もなかったかも知れません。ところが、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれました。いちじくのなる季節ではないのに、イエス様が何かありはしないかと見に行かれたのは、不思議です。それに、イエス様は、その木に向かって「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われました。実のないイチジクの木を呪われたのです。なんか矛盾するような気がします。イエス様は言葉にならないことをなさったのかと思われます。しかし、私たちはイチジクの木について理解する必要があります。イスラエルに行って来た人の証言によると、イスラエルではイチジクの収穫の時期が6月か7月頃だそうです。その時になると、イチジクは本格的に実を結ぶそうです。しかし、このイチジクの木は、もっと早い3月か4月にも実を結ぶそうです。ある牧師先生は3月にイスラエルに行ってイチジクの実を取って食べたそうです。また、遅いものは9月か10月にもイチジクの実を取って食べることができるそうです。ところが、このイチジクの木は実を結ぶ前に葉っぱが茂るようになります。そして、葉の茂ったイチジクの木には実があります。他の木とは違ってイチジクの木の場合は、葉っぱがあれば実もあるのです。それがイチジクの独特の性質でありながら一般的なことであるのです。私が子どもの時、家の庭にはイチジクの木があり、裏庭には柿の木、アンズの木、ナシとぶどうの木などがありました。その中でイチジクの木は葉が茂ると、実を期待することが出来ました。イエス様がエルサレムに上られた時、過越しの祭りが近くなっていたから4月頃です。ですから、イエス様が葉の茂ったイチジクの木に実を期待したことは常識的な期待だったと言えるのです。ところが、行って見ると、実がなかったのです。それは正常ではありません。イチジクの木は葉っぱがあれば実もあるのですが、実がなかったのです。非正常的な木、創造主の期待を裏切っている木になっていました。そこで、イエス様はこのイチジクの木を呪われたのです。そして、この木は枯れてしまいます。
しかし、ここで、もっと重要なことはこの奇跡の意味を理解することです。なぜ、イエス様がこのイチジクの木を呪われたのか、どんな意図を持ってこの木を呪われたのか、それが大事なことなのです。イエス様はお腹が空いていたから、のろわれたのではありません。象徴的な意味があったからです。聖書では、イスラエルがいちじくの木にたとえられています。エレミヤ書8章には、「わたしは彼らを、刈り入れたい。・・・しかし・・・いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。(13)」とあります。また、ホセア書9章には、「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの初なりの実のように見ていた。(10)」とあります。したがって、イスラエルは、実が結ばれるために、神様に選ばれました。神様が彼らを祝福し、救い出した目的は実を結ばせるためだったのです。ところが、イエスがご覧になった時、イスラエルは実を結んでいませんでした。葉は生い茂っているけれども、実を結ばせない木だったのです。口や頭では神様を信じているかもしれないけど、実質をともなっていないイスラエルの姿を表していました。それを見て呪われたのです。
では、当時、実を結んでないイスラエルの都にある宮の状況はどうでしたか。
15、16節をご覧ください。「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」とあります。イエス様が宮に入られた時、宮の中では賛美の歌声、祈りの声、1:1聖書勉強のためににぎやかになっていたでしょうか。もしそうだったら言うまでもなくイエス様は喜んだでしょう。私は教会にはいって来た時、賛美の声が聞こえ、祈ったり、聖書勉強をしたりしている姿を見えると恵みを受けます。しかし、イエス様が宮に入られると、祈りの声も、賛美の歌声も聞こえませんでした。商売する人たちの声が聞こえるだけでした。「いらっしゃい。いらっしゃい。今日は特売です。今だけは激安です。」という声が聞こえました。また、「モー、モー・・・」と鳴いている牛、羊や鳩なの鳴き声でうるさくなっていました。このような宮の内部をご覧になったイエス様憤りはどうだったのですか。イエス様は宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩の売る者たちの腰掛けを倒しました。また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しになりませんでした。
 そして、宮のあり方について教えてくださいました。17節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
イエス様は、神の宮が、祈りの家であることを、聖書を用いて教えられました。イザヤ56:7節によると「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とあります。エルサレムの中心に、神の宮がなければなりません。そして、宮は人と神様が交わる祈りの家です。宮は神への祈りがなされる所なのです。イスラエルの中心に、神への祈りがなければなりません。なぜなら、人は、祈りによって神様との交わりをすることができるからです。祈りによって人間は神様との霊的な関係を回復し、罪が赦される恵みと救いを得ることができます。祈りによって霊的な価値観を回復し、実を結ぶ人生、勝利の人生を生きることができます。祈りによって王であらる神様の支配を受け、全能の神様に守られる人生を生きることができます。ですから、宮はいのちの御言葉と祈りが満ち溢れているところにならなければなりません。ところが、当時の宗教指導者たちは商売のために熱心になっていました。聖なる宮を強盗の巣にしてしまいました。
 イエス様は、そのような宮をきよめることを願われました。イエス様はエルサレムの宮がすべての民の祈りの家として呼ばれることを願われました。そうして、人々が宮に出入りしながら御言葉を聞いて悔い改め、新しい人に変えられて行くことを望まれました。主の宮で祈る人々によっていのちの実が結ばれることを願われたのです。神様は日本の都、東京の中心にあるこの教会も祈りの家と呼ばれることを望んでおられるでしょう。たとえ、私たちの教会が小さく、半地下にあっても祈りの家としての役割を果たすなら、神様に喜ばれる教会です。
では、私たちは、どうでしょうか。今、私たちは教会を祈りの家として認識しているでしょうか。私たちが教会に来て交わることは素晴らしいことです。グローバル化された今の時代にUBF教会を通して世界中の人々と交わりが出来ることも大きなメリットです。教会に来てインターネットを使ったり、教会にある楽器を使ったりすることもいいでしょう。でも、もっと神様が喜ばれることは、祈りによって神様と交わることではないでしょうか。神様は目に見える教会だけでは私たちの生活が、祈りにささえられていることを望んでおられます。日々、祈りによって生きて働いておられる神様を意識して、神様の導きに敏感になり、神様の御声を聞くことです。祈りによって自分の願いや心配を、神様に打ち明けている生活を望んでおられるのです。私たちは、祈りによって、神様との交わりをすることができます。イスラエルの民は、エルサレムにある神の宮で祈りました。そして、宮に行って祈ることができなければエルサレムに向かって祈りました。しかし、今は、どこでも、いつでも祈ることができます。キリストを信じる者は、神様の御霊が住まわれる神様の宮となるからです。パウロは言いました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント3:16)」聖霊が私たちののうちに宿っておられます。でも私たちがそれを信じなければ聖霊の働きを体験することができません。私たちのからだを、祈りの家にするか、それとも強盗の巣にするかは、私たち次第です。どうか、私たちの心が不敬虔、この世の欲などに満たされる強盗の巣ではなく、心をきよめて、いつも、敬虔に生きる者の祈りの家でありますように祈ります。私たちの教会が祈りの家として、特に東京にいる若者たち、大学生たちが出入りしながら祈りに励む祈りの家として呼ばれるように祈ります。

結論的にイエス様は万民の王としてエルサレムに入場されました。イエス様を王として迎え入れると、イエス様は私たちのために備えられたベストの道に導き入れてくださいます。ところが、ユダヤの宗教指導者たちはイエス様を王として受け入れませんでした。神様に祝福され、選ばれた者としての実を結んでいませんでした。そこで、イエス様はエルサレムに入られると、葉の茂ったイチジクの木であっても実がないその木を呪われ、実を結んでない人々を警告しました。そして宮に入られた時は、商売している人たちを追い出し、主の宮はすべての民の祈りの家と呼ばれなければならないことを教えてくださいました。
イエス・キリストを信じて神様の神殿となった私たちはイエス様を王として迎え入れ、イエス様に支配され、イエス様に治められる生活をしなければなりません。イエス様は葉の茂った木のように外見上の姿が立派な人でも実を結ばない生活が続くなら、選ばれた民であってもさばかれます。私たちは自分の生活が楽しいかどうか、恵みを受けているかどうかということより、実を結んでいるかどうかを真剣に考えて行動しなければなりません。実を結ぶためには、まず祈りに励むことです。できれば、祈りの家と呼ばれる教会で祈ることです。でも、場所よりも、イエス様と交わることが大切です。どうか。私たちがイエス様を私たちの心の真中に真の王として迎え入れて罪とサタンの支配から解放されて祈りながら勝利の生活をし、聖なる実を結ぶ人生を生きることが出来るように祈ります。