2005年マルコの福音書14講

あなたは、キリストです

御言葉:マルコ8:27-38
要 節:マルコ8:29「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたはキリストです』」

 先週、私たちはイエス様が人々の霊的、肉的な必要を満たしてくださることを学びました。また、イエス様が弟子たちにパリサイ人のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけるように言われたことも学びました。特にイエス様が盲人の目が見えるようにしてくださったことを学びました。これらの出来事はイエス様がどんな方であるかをよく教えてくれます。特に盲人の癒しはイエス様が約束されたキリストであることを明らかにしてくれます。イザヤ29:18を見ると「その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。」と預言されているからです。弟子たちはようやくイエス様の教えのことを悟りました。マタイ16:12節を見ると、「弟子たちはようやく、・・・悟った。」とあります。
今日はそのような弟子たちがイエス様に「あなたはキリストです。」と信仰告白した出来事を学びます。イエス様はご自分のことをキリストとして信じて告白した弟子たちにご自分が多くの苦しみを受け、殺されることを教えてくださいました。そして、イエス様の弟子も、イエス様が行かれる十字架の道を歩まなければならないこと教えてくださいました。ここで、私たちは「弟子の道」、つまり、イエス様をキリストとして告白した者たちの生き方を学ぶことができます。どうか、この時間、私たちもペテロのようにイエス様に「あなたはキリストです」と告白し、弟子の道に歩む人生を生きることができるように祈ります。

?。あなたはキリストです(27?33)
 27節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」先週、私たちが学んだようにイエス様はベツサイダで盲人を癒されました。そこは、ガリラヤ湖の北東岸にある町です。イエス様の一行は、そこからさらに北上してピリポ・カイザリヤに向かわれました。そこで、ピリポ・カイザリヤ修養会が行なわれるようになります。その修養会のタイトルは今日のメッセージのタイトルと同じです。「あなたは、キリストです」です。サーブタイトルは「弟子の道」です。イエス様は緑に囲まれて美しくすずしい東山荘のようなカイザリヤの村々に行かれる途中で修養会を開かれました。人々が込み合っている村々にはいる前に静かな所で修養会を行なうことにしたようです。そこで、イエス様は村々に行かれる途中、弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っていますか」と尋ねられました。人々のことだから、人々に直接に尋ねてもいいと思いますが、イエス様は弟子たちに尋ねられました。どうして、イエス様は弟子たちに人々のイエス様に対する見解を尋ねられたでしょうか。その理由は書いてありません。しかし、ここで、イエス様は弟子たちに対するイエス様の御心を学ぶことができると思います。つまり、イエス様の弟子として生きる者は、自分が生きている時代の人々がイエス様対してどんな見解を持っているか、知っていなければならないということです。福音を伝えようとしている人々は、人々がイエス様をどんな方として考えているかを正確に知る必要があります。人々の見解を知るとき、彼らの信仰の状態を正しく把握し、正しく助けることができるからです。特に十二弟子のように霊的な指導者として、牧者や宣教師として召された人々は常に人々の関心、イエス様に対する見解を知らなければならないのです。では、イエス様の質問に対する弟子たちの答えは何ですか。
28節をご覧ください。「彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」とあります。弟子たちは「知りません。」と答えませんでした。「イエス様!人の心が分かりません。最近の若者は何を考えているのか全く分からないよ。」というような答えではしなかったのです。彼らは自分たちが仕えている兄弟姉妹たちが心の中でイエス様をどんな方として知っているのかをよく知っていました。ある弟子は「イエス様!人々はバプテスマのヨハネだと言っています。」と答えました。これは当時の王様、ヘロデの見解でもあります。6章16節を見ると、ヘロデはイエス様のうわさを聞いて「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていました。当時の人々の間では一番知られている考え方であったと思われます。ある弟子は「エリヤだと言う人もいます。」と答えました。また、「預言者のひとりだという人もいます。」と答える弟子もいました。結局、人々は自分たちが見たこと、悟ったこと、経験したことによってそれぞれイエス様に対する考え方も違っていました。でも、彼らが一致していることは、イエス様をりっぱな神様のしもべとして認めていることです。彼らの考え方は間違っていませんでした。しかし、イエス様の本当の姿については目が閉じられていました。彼らは、まだイエス様に対して正しく悟っていませんでした。そこで、イエス様は弟子たちにご自分に対する主観的な見解を尋ねられました。
29節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」」イエス様は弟子たちの見解、彼らの考え方について尋ねられました。そこで、ペテロは「あなたはキリストです。」と答えました。つまり、「あなたはメシヤです」と告白したのです。「キリスト」、「メシヤ」というのは救い主という意味です。神様は人間が始めて罪を犯した時から「救い主」を遣わされると約束されました。この神様の約束は預言者たちを通して繰り返されてきました。そこで、イスラエルの民は試練や苦しみの時ごとに、神様が約束されたキリストが来られることを望みました。自分たちを苦しみと悲しみ、不幸と苦痛の中から救ってくださるキリストを慕い求めました。まことの王であるキリストが愛と平和によって自分たちを治めてくださるキリストを慕い求めていたのです。そんな彼らにイエス様は神様が約束し、神様が遣わされたキリストとして来られました。しかし、人々はイエス様をキリストとして信じようとせず、受け入れようともしませんでした。彼らはイエス様が立派な神様のしもべ、本当にすばらしい方であることは認めていました。けれども、自分たちをすべての罪と悪から救ってくださる救い主として信じることはできませんでした。しかし、ペテロはイエス様がまさに神様が遣わされると約束された「キリストです」と告白したのです。この告白はとても重要なことです。ローマ10:9,10を見ると、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。
ある人は、ここでペテロは、イスラエル民族を体表してイエス様がメシヤであることを告白したと言います。そして15章39節でローマの百人隊長が異邦人を体表して「この方はまことに神の子であった。」と告白したのだと見ています。この二人の告白は、やがて「すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白(ピリピ2:11)する告白になるでしょう。実に、イエス様は天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白すべき方です。しかし、この段階では、イエス様は「ご自分のこと」をだれにも言わないようにと、彼らを戒められました(30)。それは知らせないように警戒されました。それから、イエス様はご自分がキリストとして受ける苦しみについて予告されました。つまり、キリストの受難の予告です。
31-32節を読んでみましょう。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」
 イエス様は弟子たちにキリストが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえられなければならないことを教え始められました。イエス様のこの教えは弟子たちにどんなに大きなショックを与えたでしょうか。弟子たちはイエス様こそキリストであると信じていただけにイエス様に対する期待も大きいものでした。彼らはイエス様がさまざまな病気による苦しみ、ローマの圧制による苦しみから救ってくださると期待していました。現実的に悩んでいるパンの問題、職場問題、人間関係の問題、結婚の問題、子どもの問題などから救ってくださると期待していました。そして、弟子たちはイエス様が病気と悪霊のために苦しんでいる人々を救ってくださることを目撃しながら、すぐにでもイエス様がイスラエルを回復することだけではなく、世界の王様になることを夢見ていました。それなのに、イエス様はご自分が多くの苦難を受け、捨てられ、殺されなければならないと言われたのです。しかも、はっきりとこの事がらを話されました。すると、ペテロは、イエス様をわきにお連れしていさめ始めました。自分の先生をいさめるというのは何でしょう。いったいペテロは何者でしょうか。でもよく考えてみると、愛弟子と言われるペテロの立場を考えると、当然とも言える善意から出たことばだったと思います。人間的に考えると、自分の先生が多くの苦しみを受け、殺されるとおっしゃっているのに、黙っている方が悪いでしょう。もし、自分の親が多くの苦しみを受け、殺されなければならないと言っているのに、子どもがなんとも言わないでいるなら、それも不自然なものです。しかし、イエス様はペテロに何と言われましたか。
33節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」イエス様はペテロを叱って「下がれ。サタン。」と言われました。これは、ペテロだけに対するものではありません。聖書に「イエス様は振り向いて、弟子たちを見ながら」とあるように、弟子たち全体に対するものでした。それにしても「サタン」とはひどい言葉のように思われます。弟子たちは何もかも捨ててイエス様について来た人たちです。一般の人々とは違ってイエス様に対して「あなたはキリストです。」とすばらしい信仰告白もしました。それでも、イエス様は彼らが人のことを思っている時は厳しく叱られました。ここで、私たちはイエス様の御心を学ぶことができます。イエス様は「神のことを思わないで人のことを思っている」人を叱られます。たとえ、愛弟子ペテロであっても、すばらしい信仰告白をした人であっても、神様のことを思わないで人のことを思っている人を叱られるのです。もし私が神のことを思わないで自分のこと、人のことを思っているなら、主は私に言われるはずです。「下がれ。サタン。」と言われるのです。皆さんにも同じです。人から言われたこと、傷つけられたこと、人の陰口、悪口などを思っているのなら、イエス様は「下がれ。サタン。」と叱られるのです。もちろん、人のことを思って助けることはすばらしいことです。また、伝道者は人々がイエス様に対してどう思っているかを知るべきです。先週学んだようにイエス様は人のことをよく知っておられました。人々が三日間も食べていないことをかわいそうに思って助けてくださいました。イエス様人のことを思い、人をあわれんでくださいました。しかし、神のことを思わないで人のことを思うことはありませんでした。イエス様は神様の御心を知り、神のことを思って人のことも思っておられる方です。イエス様はまず、第一に神様のことを思っておられたのです。ですから、群衆をかわいそうに思われた時も、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられる前に、まず神様に感謝してから人々に配るようにされました。人々が三日間も食べなかったので、空腹で倒れそうになっているその時でも、イエス様は七つのパンを取り、神様に感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るようにされました。ですから、私たちはお腹がすいていてもまず神様のことを思わなければなりません。朝食を食べる前は、まず神様のことを思って祈り、日ごとの糧を食べましょう。人間的には苦しみがあっても神様のことを思って従うことが大切です。ちょっと傷つけられても神様のことを思うことです。人のプライバシより神様のことを思うことです。人の迷惑より神様のことを思うことです。あまりにも人のことを気にしすぎると、神様のことにはおろそかになってしまいがちです。また、牧者や宣教師は兄弟姉妹たちに十字架を負わせて非難されることがあっても、神様のことを優先に思うように助けなければなりません。時には人を叱ることがあっても神様のことを思うように助けることがイエス様の教育です。ではイエス様に対する「神のこと」と何でしょうか。神様はアダムが罪を犯してしまったその時からキリストを約束し、多くの預言者を通してキリストの道を教えてくださいました。特に、イザヤ預言者を通してキリストの道を具体的に教えてくださいました。
イザヤ53章3?6節をご一緒に読んで見ましょう。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
これこそ、イエス・キリストに対する神様のことです。キリストは私たちの病を負い、私たちの痛みを担うために十字架の道を歩まれました。私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために十字架にかけられて殺されなければなりませんでした。主は私たちに平安をもたらすために懲らしめられなければなりませんでした。私たちを癒すために鞭打ちにされ、傷つけられなければなりませんでした。そして、私たちを罪と死から救い、私たちに永遠のいのちと生ける望みを与えるために死者の中からよみがえられなければなりませんでした。イエス様は、このような十字架の死と復活を通して全人類を罪から救う救い主、キリストになられました。確かに、イエス様は全人類の救いのために十字架につけられて死なれたのです。しかし、人々が心の中でイエス様をキリストとして信じ、口で「あなたはキリストです」と告白しなければ救われません。信じて告白する者だけが救われます。ではイエス様を信じて救われた人々が歩むべき道とはどんな道でしょうか。

?。弟子の道(34?38)
34節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とはっきりと言われました。「自分を捨てる」ということは何でしょうか。イエス様について行く道は、私たちの感情、気分と意欲によっては従うことができない道です。私たちの感情と気持ちは、広くて楽な道に歩みたいしょう。しかし、イエス様は狭い門にはいる道に歩むことを願っておられます。私たちは人々から認められ、仕えられる道、人々が分かってくれる道に歩みたいでしょう。しかし、イエス様は私たちが、低くなって人々に仕え、自分を犠牲にして人々に仕える道を歩むことを願っておられます。私たちは人々に良い影響を及ぼすことより、自分が満足し、自分が楽しめる道に歩みたいでしょう。しかし、イエス様は私たちが自制して徳を積み、人々の模範となる道、祝福の源になる道に歩むことを願っておられます。ですから、私たちが神様のことを思ってイエス様が願っておられる道に歩んでいくためには自分を捨てなければなりません。自分の情欲、自分の悪い癖、性格も捨てる必要があります。イエス様について行く弟子の道は自分を捨てる道です。捨て身で生きる人生がイエス・キリストの弟子の人生です。
そして、自分の十字架を負うことです。自分の十字架とは何でしょうか。私たちがイエス様について行こうとする時、キリストの弟子として経験する痛み、苦しみなどがあります。私たちがこの世の調子に合わせないで、聖なる国民としてイエス様について行こうとすると、曖昧に迫害される時もあります。時には非難され、辱められます。多くの犠牲を払うときもあるし、とても寂しくなる時もあります。特にこの日本で、キリストの弟子が負わなければならない十字架は多く、また重いものでしょう。私も職場生活をしながら、宣教師として、メッセンジャーとして負っている十字架がとても重く感じられる時があります。とても重くて自分は負いきれないと思う時もあります。でも、イエス様のことを思うと、自分の十字架が重いとは全く言えません。イエス様が負われた十字架は私たちの考えをはるかに越えています。しかもイエス様はご自分のためではなく、私たちのために十字架の道を歩み、十字架につけられて殺されました。ご自分のいのちを捨てまで十字架を負ってくださったのです。それによって私たちは救われています。私たちの救いは決して安っぽいものではありません。貴い神の御子イエス様がご自分のいのちを犠牲にして救ってくださったのです。そして、イエス様は私たちがイエス様の弟子としてイエス様が歩まれたその道を歩んでいくことを望んでおられます。自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行くことです。私たちがイエス様のように自分を捨て、自分の十字架を負う生活をする時、私たちの犠牲を通して人々が救われるみわざが起こります。犠牲になしに救いのみわざが起こることはないでしょう。イエス様の十字架の犠牲によって私たちは救われました。イエス様のように自分を犠牲にして私たちに仕えてくださった多くのクリスチャン、牧者たちの犠牲によって私のような者も救われました。私たちはイエス様のように人の救いのために自分を犠牲にすると、それによってはじめてキリストの力を体験することができます。奇跡的に人々が救われて行くことを見ることができます。
ですから、救いの力を体験できていないと感じるときは、主の御前で自分のことを考えてください。「私は、神様のことを思って弟子の道に歩んでいるのか」と考えてみるのです。私たちは飛行機に乗ると空の旅を楽しむことができます。そのためには、まずお金を払ってチケットを買い、チケットの指示に従って行かなければなりません。そのように私たちはみことばを手に入れ、御言葉に従って弟子の道を歩む時に、初めてキリストとその力のうちに歩むことができるのです。みことばがなければ弟子の道を知ることができず、その道を歩んで見なければキリストの力の体験もできないのです。御言葉に従っていないのに、クリスチャン生活が楽しくなるはずがありません。それはチケットを買わずして飛行機に乗っていく喜びを経験しようとしているようなものです。キリストの力は、私たちがキリストに従っているときにはじめて体験できます。弟子の道を歩んでいくときにキリストの弟子として得られる喜びと力、満足を体験するのです。では私たちがイエス様の弟子として自分を捨て、自分の十字架を負って行く時、どんなことが起こりますか。
35、36節をご覧ください。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」私たちは自分を捨て、自分の十字架を負って行こうとすると、自分のすべてを失ってしまうのではないかという恐れが生じます。その恐れが克服できず、人のことばかり考えていると、結局は自分の欲望と情欲を満たす道に歩み、信仰の道から離れて行きます。その道の最期は滅びです。地獄の道に向かっていく道なのです。しかし、主と福音のために自分を捨て、自分の十字架を負って行く人、つまり、自分を失う人は自分のいのちを救います。全世界よりも貴い自分のいのちを救うことになります。それで、永遠のいのちを持ち、永遠に天国の市民として生きるようになります。ですから、イエス様の弟子の道は苦しみがあっても、いのちの道であり、勝利の道です。弟子の道を歩んでいく人は、この世でも、心に平安と満足と生きがいを持って生きることができます。この世で自分を捨てることなく、自分の欲望と情欲を満たしている人はどうですか。それは長くて100年ですが、本当はこの世で快楽を十分楽しんだ人こそ、心は空っぽになっています。その人生は無意味、無価値なこと、恥ずかしいことに満ちている場合が多く、死んだときの顔も険しくなります。何よりも死後にはさばきを受け、やがてイエス様が再び来られる時には辱められるようになります。本当に惨めな人生になってしまうのです。
38節をご覧ください。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」とあります。今の時代は姦淫と罪の時代です。その時代にとって、キリストとキリストのみことばは馬鹿らしいものです。踏んで捨ててしまいたいものです。できれば、まったく聞きたくないものです。だから、自分のために生きるなら、福音は恥ずかしいものとなります。

ですから、この世と調子を合わせないで、イエス様の弟子としてのアイデンティティを持って生きることはやさしくありません。特にクリスチャン人口1%にも至らないこの国で「イエス様はキリストです。」と告白しても弟子の道を歩むことが難しいでしょう。アメリカやヨーロッパのようにキリスト教的な思想も、キリスト教的な価値観もないような社会生活の中でキリストの弟子として生きることは本当に難しいでしょう。適当にこの世と調子を合わせながら生きることは賢いクリスチャンの生き方であるかのように思われる時もあるでしょう。人々はだれも分かってくれないのに、自分を捨て、自分の十字架を負って行く人に対して愚かな人だと言います。教会に通うことも、神様のことより、どの教会に行けば、もっと自分にメリットがあるかを考える時代です。クリスチャンでも、お酒も飲みながら、この世と調子を合わせて生きる人が賢い人として認められるような時代です。それで、私たちも積極的に自分を捨て、自分の十字架を負う弟子の道を恥ずかしく思い、この世の価値観に従ってしまいがちです。しかし、そうすると、イエス様も、「父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時には、そのような人のことを恥じます」と警告しておられます。この警告の御言葉を使徒パウロは心に受け止めていました。彼は言いました。「私は福音を恥じとは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる人すべてにとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)」私たちもこの福音を恥とせずに、キリストを、しかも十字架につけられたキリストを誇りましょう。そうすると、私たちは大いなる福音の力を体験することができます。何よりもイエス様とイエス様の御言葉を誇る人は天の御国で偉大な者となります。しかし、それを恥じるなら、キリストもそのような人たちを恥じます。

結論的に、イエス様はキリストです。私たちはどんな時にもイエス様に対して「あなたはキリストです。」と告白しましょう。そして、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行きましょう。この道こそ救いの道であり、いのちの道です。この弟子の道こそ勝利の道、永遠に輝く栄光の道です。やがてイエス様に出会うその日までさらに積極的に弟子の道を歩んでいくことができるように祈ります。