2005年マルコの福音書12講

イエス様のお助けをいただく秘訣

御言葉:マルコの福音書7:24-30
要節:7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」 

先週、私たちは口先だけで神様の戒めを守るのではなく、心から守るべきことを学びました。特にイエス様は「コルバン」と言って父と母を敬わなかった当時の人々に「父と母を敬え」という神様の戒めを思い起こしてくださいました。神様は私たちが心から神様の戒めを守り、心から父と母を敬うことを願っておられます。ところが、今日は「父の日」です。私たちは不思議な神様の導きの中で「父と母を敬え」という戒めを聞いてから「父の日」を迎えました。そこで、「父の日」の由来に触れてみたいと思います。「父の日」がアメリカ合衆国ではじまったのは、1908年のことでした。母の日ができたことを知ったワシントン州に住む『ジョン・ブルース・ドット夫人』は、1909年「母の日があって父の日が無いのはおかしい。父の日もつくって下さい。」と、『牧師協会』へ嘆願しました。それには深い理由がありました。ドット婦人のお父さんは南北戦争から帰ってきて戦後の厳しい状況の中で6人の子供達を男手一つで育てました。再婚もせず、生涯独身で働き通したそうです。今日のような豊かなアメリカではなく、悲劇の時代と言われていた頃のアメリカでしたから、その苦労は大変だったでしょう。その父親のことを考えて「父の日」を申請したのですが1972年になって、アメリカでは国民の祝日となりました。ですから、『父親を尊敬し、称え祝う日』それが『父の日』です。私たちクリスチャンはいつも父を敬い、感謝するべきですが、特に今日は恥ずかしからずお父さんに心を込めて感謝を表しましょう。何よりも私たちを罪から救って下さりご自分の子どもとしてくださった父なる神様の恵みを覚えて感謝することができるように祈ります。
父だけではなく、母のことも覚えて感謝しましょう。聖書的に見ると父と母は一体であるからです。創世記2:24節に「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とあります。それで、今日は「父の日」ですが、りっぱな母親の信仰と希望と愛を学びたいと思います。ギリシャ人でスロ・フェキニヤの生まれであった女の人のことです。彼女は異邦人でありながらも、イエス様の御言葉をよく聞き、口では素晴らしい信仰告白をしました。イエス様はそのことばに感動し、彼女の願いを聞いてくださいました。どうか、本文の御言葉を通して私たちひとりひとりが信仰と希望、愛の人となりますように祈ります。

24節をご覧ください。「イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。」とあります。先週、学んだ7章の前半部を見ると、イエス様とパリサイ人や律法学者たちの間に激しい論争がありました。パリサイ人たちはイエス様の弟子たちが昔の人たちの言い伝えに従わないことを批判しました。すると、イエス様は彼らの主張が聖書に根拠を持たない言い伝えに過ぎないことを暴露されました。そして、イエス様は群衆に向かってに「人から出るもの、これが、人を汚す」ということを教えられました。そのようにして、イエス様は当時の宗教指導者たちと激しい対立状態に入りました。激しく論争し、対立することは疲れることです。イエス様も疲れたでしょう。何を話しても「そのとおりです。」と納得してくれる人と話し合うことは楽しいことです。しかし、パリサイ人や律法学者たちのような人たちと論争することは楽しくありません。形式主義者、偽善者、高慢な人、心が堅く閉じられている人々と論争することはとても疲れるのです。そこで、イエス様は、そこを出てツロの地方へ行かれました。つまり、イエス様は「だれにも知られたくないと思われた」ので寂しい所へと行かれました。そこでしばらく休もうとされたでしょう。しかし、ここでもイエス様は隠れていることはできませんでした。
25、26節をご覧ください。「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。」とあります。汚れた霊につかれた小さい娘の母親がイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来ました。大体、母親は子どものためならすばやく動き出します。うわさにも敏感です。ある塾に通っている子どもたちの成績が上がったと聞いたら、自分の子どももその塾に通わせようとします。英語、数学の塾だけではなく、ピアノやバイオリンなどの個人指導の先生も変えます。病気の子どもがいる母親は、医者や薬に関するうわさにも敏感です。良い医者がいると聞いたらどこの病院でもすぐに行きます。この母親もイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来ました。そしてイエス様の足もとにひれ伏しました。著者のマルコはこの女がギリシャ人で、スロ・フェキニヤの生まれであると言っています。彼女はギリシャ人として異教徒的な背景を持っている異邦人でした。イエス様が主に伝道活動をなさったカペナウムから離れているスロ・フェキニヤの生まれでした。なかなか、イエス様のことを聞くことができないような所の人だったのです。ところが、彼女にイエス様のことが聞こえた時、彼女はどうしましたか。彼女はイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来ました。すぐにやって来ました。しかも、彼女はイエス様の足もとにひれ伏しました。「足もとにひれ伏した」行動はイエス様に対する彼女の態度を教えてくれます。彼女の謙遜、従順、熱望、イエス様への尊敬と信頼を表わされているのです。彼女はイエス様をひれ伏して拝むべき方として信じていました。イエス様のことを聞いた時、この方こそ、自分の娘から悪霊を追い出すことができると信じました。どれくらい聞いていたのかはよく分かりませんが、異邦人がイエス様のことを聞いただけでこのように信じていることは、本当に、素晴らしいです。彼女は「自分の娘から悪霊を追い出してくださるように」イエス様に願い続けました。どれほど願い続けたでしょうか。マタイの福音書の並行記事を見ると「そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」(マタイ15:23b)。とあります。弟子たちが「あの女を帰してやってください。」というほどにしつこく願い続けました。ですから、彼女の願いは叫びであり、嘆息でした。それは粘り強い祈りでした。彼女はとりあえず、イエス様に願い続けると、イエス様のお助けをいただけると信じていたでしょう。
本当に、私たちが神様にひれ伏して願い続けるなら、神様はその祈りを聞いてくださいます。イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます(マタイ7:7)」神様もこう仰せられました。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。?主の御告げ。?それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」神様は私たちに将来と希望を与える計画を持っておられます。そのために私たちの祈りを聞いてくださるのです。スロ・フェキニヤの女は「求める者に与えられる」ことを信じていたからこそイエス様に願い続けたでしょう。信仰がなければ祈り続けることもできません。信仰があったからこそしつこく願い続けることができたのです。ところが、イエス様は何と答えられましたか。
27節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
 悪霊に疲れている娘の母親はかわいそうな人です。少しでも障害を持っている子どもの母親の悲しみは大きいものです。私には知的障害を持っている弟がいますが、子どものころ、何度も何度も母親の悲しみの涙を見ました。小さい娘が汚れている霊につかれている母親の悲しみはどんなに大きかったでしょうか。そして、その母親の願いはどんなに切なるものだったでしょうか。それなのに、イエス様は彼女に、実に冷淡な態度を示しておられます。イエス様は彼女を犬として扱われました。この表現は、非常に侮辱的に聞こえます。でも当時のユダヤ人として「異邦人」に対する一般的な言い方であったそうです。ここでは野生の犬ではなく、小犬です。家で飼っているペットです。原語の意味もかわいい小犬であるそうです。それで、ある聖書学者はイエス様が微笑みながら話しておられたと言いました。微笑みながら「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」とおっしゃったのではないかと言うことです。それにしても、スロ・フェキニヤの女にとっては非常に傷つけられる言葉です。なぜなら、「子どもたち」と「小犬」という表現は、神様の子どもの資格を持っている人と資格がない人の違いを表わしているからです。ここまで来たのに「資格がない」と言われると本当に悲しいものです。でもイエス様はわざと彼女を悲しませるために言われたのではありません。イエス様はキリストによる祝福がまず「子どもたち」、つまり、ユダヤ人に与えられるという神様の計画を言われたのです。使徒の働き13:46節を見るとパウロとバルナバがユダヤ人たちにこう宣言しました。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。」「まずはユダヤ人、次に異邦人へ」ということは神様のご計画であるのです。ですから、神様の祝福が犬たちに与えられることは期待できないことでありました。もし、犬たちに与えられるなら、かわいい小犬であってもそれは、ただ一方的な恵みであります。この女性はそれを知るべきでした。 
実は、私たちも異邦人として神様の祝福を受ける資格のない者たちでした。犬のような存在です。小犬のようにかわいくても犬は犬です。それなのに、私たちは神様の一方的な恵みによって多くのユダヤ人よりも早く救われました。神様の子どもとしての特権と恵みをいただきました。私たちはそのことを理解していなければなりません。本当に、私たちは例外的にあわれんでくださる神様の特別な愛によって救われ、祝福されています。私たちが今日もここに来て礼拝ができるということは本当に大きな神様のあわれみによるものなのです。
もし、スロ・フェキニヤの女は、自分の願いが聞かれたら、それは例外であり、実に驚くべき特権であるということを理解しなければなりませんでした。イエス様は「まず子どもたちに満腹させなければなりません。」と言われました。イエス様は「まず」ということばによって彼女に最小限の希望を与えました。まず、ユダヤ人ですけれども、次はあなたにも神様の祝福が与えられる、というかすかな望みを示されたのです。まず、ユダヤ人ですけれども、次に異邦人にも与えられる、異邦人のためにも準備されているということを示唆してくださったのです。女の人はそれをつかみました。彼女はイエス様の厳しいことば、一見侮辱的に聞こえることばにもかかわらず、その言葉に示されたイエス様の愛とあわれみをもっと強く感じることができたのです。表面的な言葉だけで腹を立てたのではなく、そのことばの中にある意味を考えたのです。本当に賢い女性です。
28節をご一緒に読んで見ましょう。「しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」ほんとうにすばらしいですね。彼女の言葉には謙遜、知恵、イエス様に対する信仰がよく表わされています。イエス様がどんな言葉を言われても「主よ。そのとおりです。」「主よ。アーメン」と答える人は幸いです。その人はイエス様のお助けをいただくことができます。イエス様が与えてくださるものなら、パンくずでもいただきます。私を愛するイエス様が私に良くないものを与えてくださるはずがない、小犬が食べるものでもいいですと言える人です。その人は、本当に祝福された人生を生きることができます。本当はパンくずのようなものを大切にする人が大きな祝福を受けます。私は去年から100円ショップから買った貯金箱に500円玉を入れてきましたが、この間、弟の葬式のために開けてみたら12万円も入っていました。私たちが日々与えられる神様の恵み、パンくずのようにつまらなく見えるものでも大切にし、感謝するなら、大きな祝福を受けるようになるのです。では、彼女はどうやってこのような態度で答えることができたでしょうか。
それは第一にイエス様に対する信仰です。彼女はイエス様が行なわれること、イエス様が言われる言葉に間違いはないと信じていました。彼女はイエス様に対してこのような信仰があったから一見侮辱的に聞こえることばであっても素直に「そのとおりです」と答えることができました。
第二に、望みをえないときにも望み続けたからです。彼女の娘の状態は絶望的です。人の力によっては悪霊につかれている娘を治すことはできません。人々はこんな状態になると絶望します。目に見える状況を見て絶望するのです。しかし、母親は絶望しませんでした。希望を持ってイエス様の所に来ました。そしてひれ伏して願い続けました。ところが、イエス様から絶望的な話を聞きました。希望をかけてきたイエス様からも捨てられたような言葉を聞いたのです。その時、どんなに絶望的であったでしょうか。望みえない状況です。それでも彼女は絶望しませんでした。望み続けたのです。彼女には望みえないときに望みを抱いて信じたアブラハムの信仰がありました。ローマ4:16b-22にはこう書いてあります。「16b「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」私たちはどんな状況の中でも希望を持たなければなりません。私たちが望みえない時にも望み続ける時、神様はその望みをかなえてくださいます。
第三に、娘に対する母親の愛です。母親は愛のゆえに我慢しました。女性は、「自尊心の動物」とも言われます。それが傷つけられるのは、とても我慢できないものです。私は教会でも、職場でも、時々女性の話を聞きますが、女性が苦しんでいることは、ほとんど自尊心が傷つけられていることでした。この女性にもその自尊心はなかったはずがありません。しかし、苦しんでいる娘に対する愛のゆえに、自分の自尊心なんかが重要な問題ではないと考えたのです。愛のゆえに、自尊心が傷つけられても我慢しました。「娘に対する愛」が強い時、感情を克服する力が与えられました。どんなに絶望的な状況でも、それを乗り越える知恵が与えられました。「愛は力なり」と言われますが、本当に愛は力となります。愛は知恵を生み出します。また、この愛から希望も生まれて来るでしょう。子どもを愛する親は、子どもが失敗しても希望を持ちます。学校の成績が悪くても、うちの子どもも良くなると思っています。うちの子どもが東京大学に入ることはできないと言っている母親でも心の中では東京大学にはいることを期待し、希望を持ち続けます。それで、使徒パウロは「愛の章」と言われている?コリント13章でこう言っています。「4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。・・・・13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」信仰も希望も重要なことですが、その中で一番すぐれているのは愛なのです。
 29節をご覧ください。そこでイエス様は言われました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエス様は彼女の信仰に非常に感動されました。「そうまで言うのですか。」この言葉に彼女の信仰と彼女の態度に驚いているイエス様の感動と感激が表われています。イエス様は私たちの能力や業績を見て感動されるのではありません。私たちが自分の娘であっても、人を愛する時に感動されます。人を愛する心をご覧になって感動されます。イエス様から何と言われても「そのとおりです。アーメン」と答える謙遜と信仰のことばに感動します。ですから、私たちが主の恵みをいただくためには信仰の言葉を言うべきです。神様は信仰の言葉を喜ばれ、その言葉どおりに祝福してくださいます。信仰の言葉を言うためには信仰がなければなりません。でも、信仰がちょっと足りなくても信仰のことばを言い続けると、信仰も成長するし、結局信仰のとおりになります。神様は私たちの言葉どおりに行われます。「私はだめだ。ほんとうにだめだ。」と言うとその通りになります。しかし、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言うとそのどおりになります。イエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。」(マルコ11:23、24)。ですから、どんな状況の中でも信仰のことばを言うことが大切です。信仰の言葉は肯定的な言葉です。信仰の人は自分が馬鹿にされても否定的な言葉を言いません。無視されてもなお希望を持ち続け、信仰の言葉を言います。どんな時にも神様の言葉を信じて「そのとおりです。」と言います。そのように告白する時、私たちはイエス様のお助けをいただけます。
30節をご覧ください。「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」イエス様は彼女の信仰の言葉どおりに彼女を助けてくださいました。神様は私達の信仰の言葉を喜ばれました。その信仰のことばを祝福してくださいます。私たちも信仰の言葉を言いましょう。「パンくずでもいいです、主が祝福してください。」「信仰によって50チームの1:1ができます。」「信仰によって私たちは圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。」「信仰によって2040年までに10万人の宣教師を遣わすことができる」と信じましょう。私たちがイエス様にひれ伏して願い続け、信仰の言葉を言い続けるなら、私たちの知らない、私たちの理解を越えた大いなることを見ることができます。素晴らしい神様の祝福を受けることができます。

結論的に、私たちの人生にはさまざまなことが起こります。自動車事故が多いから新幹線に乗れば、安全なのかと思うと、そうではありません。新幹線に乗っても、飛行機に乗っても事故はありうるものです。イエス様の舟に乗っているようなクリスチャンの人生にも試練があります。悪霊につかれた小さい娘のために悲しみ、苦しんでいたはずのスロ・フェキニヤの女性のような問題も生じる時があります。本当に悲しい、つらい時があります。「人生問題」というと大げさに聞こえるかもしれませんが、毎日の生活の中でもさまざまなことが起こるでしょう。昨日、牧者たちの所感を聞いてみると、本当に苦労しているんだなあと思いました。朝から晩まで仕事ばかりしているような自分の生活を考えると、将来に対して望みえない時もあるでしょう。しかし、そのような時に絶望し、挫折しないでイエス様のことを聞きましょう。イエス様の御言葉に耳を傾けましょう。そしてイエス様に御前にひれ伏して願い続ける祈りをささげましょう。すると、イエス様が助けてくださいます。もちろん、時にはイエス様が沈黙されるかも知りません。祈り続けても、答えられないときもあるでしょう。すると、クリスチャンとして、牧者や宣教師として傷つけられかも知れません。しかし、それでも、あきらめないでスロ・フェキニヤの女性のように願い続けましょう。パンくずでもいただこうという謙虚な心で祈り求めるのです。そして、信仰と希望を持ってイエス様の御前で、謙遜のことば、信仰の言葉を言い続けましょう。特に霊的に小さい娘のようなキャンパスの兄弟姉妹たちを深く愛し、彼らのために祈り続けることができるように祈ります。本当に、私たちの自尊心が傷つけられ、無視されて生きる意欲さえ失ってしまうような状況の中でもイエス様に期待して祈り続け、信仰の言葉を言うならイエス様も感動されるでしょう。「「そうまで言うのですか。もうあなたの祈りはかなえられています。」とおっしゃってくださるでしょう。どうか、私たちひとりひとりが、イエス様から「そうまで言うのですか。」と言われるほどの信仰の人になりますように祈ります。