2005年マルコの福音書9講

十二弟子をお遣わしになったイエス様

御言葉:マルコの福音書6:1-13
要  節:6:7「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。」

先週、私たちはイエス様が12年間も長血をわずらっていた人を癒し、死んでいたヤイロの娘を生き返らせたことについても学びました。イエス様は本人の信仰、父親の信仰を祝福し、信仰ある人々の間で驚くべき奇跡を行なわれる方です。しかし、不信仰の人々の間では力あるわざを行なわれません。
今日の御言葉にはイエス様が郷里に行かれましたが、郷里の人々の不信仰のために、力あるわざを行なうことができなかったことが記されてあります。イエス様は全知全能の方ですが、不信仰の人々の間では何一つ力あるわざを行なうことができませんでした。だからと言って、イエス様の伝道活動が人々の不信仰によって中止されるようなことはありません。イエス様は、不信仰の人々から離れ、近くの村々を教えまわれました。何よりも、イエス様は十二弟子をお遣わしになる新しい伝道方法によって力あるわざを行なわれました。それによってこの十二弟子は伝道訓練を受け、やがて全世界に福音を伝える歴史の主役として成長するようになりました。ここで、私たちが弟子たちを訓練されるイエス様の信仰とビジョンを学ぶことができるように祈ります。

?。不信仰の人々の間では何一つ力あるわざを行なうことができなかったイエス様(1-6a)
1節をご覧ください。「イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。」とあります。そことはカペナウムにあるヤイロの家のことです。そこで、イエス様は死んでいたヤイロの娘を生き返らせられました。その前は十二年間も長血をわずらう女の人を癒されました。このように、イエス様の力あるわざが人々の間で行なわれていました。イエス様は病人を癒し、死人を生き返らせる方として有名人になりました。そのような背景を持ってイエス様は郷里に向かわれました。久しぶりに故郷を訪問されるイエス様のお気持ちはどうだったでしょうか。私も先週、故郷に行ってきましたが、イエス様の心は懐かしい人々に会い、愛する家族に会う喜びに満たされていたことでしょう。特にイエス様は郷里の人々に福音を教え、彼らの間でもさまざまな病気の人々を癒し、力あるわざを行ないたいと思っておられたでしょう。イエス様について行く弟子たちはイエス様が郷里で熱烈に歓迎されると期待していたでしょう。
2、3節をご覧ください。「安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。」とあります。
1:27節によると、イエス様の福音宣教を開始された時も、人々は驚いています。人々は、みな驚いて互いに論じ合って言いました。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。(1:27)」と言ったのです。彼らは権威ある、新しい教えに驚いています。ところが、ナザレの人々は違いました。彼らは「この人」イエス様がそれらのことを行なっていることに驚きました。権威のあるわざや教えではなく、人のことが中心になっています。彼らの言葉には「この人、この人」と四回も言っています。「この人は律法学者でもなく「大工」ではないか、この人はマリヤが男を知らずに生んだと言っているマリヤの子ではないか」と言っているのです。また、「私たちと一緒に住んでいるヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか、その妹も、私たちとここに住んでいるではないか」ということです。彼らはイエス様の知恵や力あるわざより、「この人は何でこんなことができるか、それが知りたい。」と思いました。「自分たちとともに物を作ったり、遊んだりしていたこの人に何でそんなことができるのか、それが知りたい。」と思っているのです。
カペナウムにいる人々は、教えや力あるわざによってイエスを見ていました。だから、イエス様が預言者であるとか、あるいはキリストであると認めることができました。しかし、ナザレの人々は、人間的にしか考えなかったので、イエス様の力あるわざを素直に認めることができませんでした。
自分の考えや経験からイエス様を見るのか、その教えやみわざからイエス様を見るのかで、大きな違いがでてきます。イエス様は、私たちの生活のあらゆる面において生きておられます。ですから、周りにいる人々や出来事を、キリストの教えに照らして見ていくことが大切です。そのときに私たちは生きて働くキリストに出会います。しかし、私たちが自分の考えや経験から見ていくと、その生活は退屈で、つまらないものになってしまいます。聖書勉強をしてもいつも同じ形ではないか、同じアプリケーションではないか、と思っていると、信仰生活が退屈で、つまらないものになってしまいます。メッセージを聞いても「この人、またこの話をしているね」という心で聞くならつまらないものになってしまうでしょう。
 ナザレの人々はイエス様を人間的に考え、人間的にしか見なかったためにイエス様を信じることができませんでした。むしろイエス様につまずいてしまいました。そこでイエス様は何と言われましたか。
 4節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」とあります。イエス様は、ご自分を「預言者」に例えて言われました。預言者とは、その言葉のとおり神様のみことばを預かった者です。その教えを受け入れる者は、預言者によって神様を知ることができます。でも、預言者も普通の人間に過ぎません。ナザレの田舎者です。このような人間としてのイエス様だけを見ると、素直に神様の御言葉を受け入れることができません。おそらく、皆さんも、人間鄭ダニエルに対して考えると、この人が伝える福音を受け入れることができないでしょう。先週、私は故郷に行って来ましたが、小学生の時の友達が奥さんとともに家に来ました。奥さんは私に「わざわざ日本からいらっしゃいましたか。」と言いました。すると、隣の友達が「昔、こいつはかぼちゃだったよ」言いました。私は小学生の時のニックネームが「かぼちゃ」だったからです。なかなか宣教師としてみてくれませんでした。すると、御言葉がはいりません。牧者や宣教師たちは神様の御言葉を伝えています。自分に預かって神様の御言葉を伝えているのです。ですから、伝える人の人間的な面より、伝えられる御言葉を神様が自分に与えてくださる御言葉として受け入れ、信じることが大切です。信じる人々は驚くべき力あるわざを経験することができます。しかし、信じない人々は、イエス様の教えにもつまずいてしまいます。それ以上力あるわざを見ることもできません。
5、6a節をご覧ください。「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」イエス様は親しい人々、本当に愛する人々であっても不信仰の人々の間は力あるわざを行なうことができませんでした。イエス様はご自分のいのちさえも惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛しておられます。奇跡を起こしてでも助けようとしておられます。しかし、私たちの考え、私たちの信仰がイエス様を一人の偉大な人間として見ることに留まっているなら、何も力あるわざを体験することができません。神様の御言葉を神様の御言葉として信じる人々だけがイエス様の力あるわざを見ることができます。信じる者は病人が癒されることも、死人が生き返ることも見ることができます。イエス様は信じる人々の間で働かれる方だからです。

?.十二弟子に伝道訓練を与えられたイエス様(6b-13)
6下-7節をご一緒に読んでみましょう。「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。」
イエス様は、ナザレにいる人々にその福音を拒まれましたが、それによって福音のみわざが中止されることはありませんでした。福音を受け入れず、拒む人々は自分たちだけが損します。イエス様は福音を受け入れない人々から離れ、他のところに伝えられて行くからです。パリサイ人たちがイエス様の御言葉を受け入れず、むしろ殺そうとしている時は、マルコ3:7節を見ると、湖のほうに退かれました。今回は郷里の近くの村々で教えられています。イエス様は福音を働きが妨げられると、そこから離れ、他の地域で働かれています。ところが、今回は新たな宣教方法を始めておられます。ご自分の働きを十二弟子に委ね、彼らによって働かれるということです。そのために、イエス様は十二弟子を呼び、二人ずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになりました。
 ここで、私たちは二つのことを学ぶことができます。一つ目は二人ずつ遣わされたことです。イエス様はなぜ一人ずつにして十二ヶ所に遣わさず、二人ずつにして六ヶ所に遣わされたでしょうか。それはイエス様ご自身が協力することの大切さをよく知っておられたからでしょう。二人は助け合うことができます。二人が協力すると、喜びは二倍になるし、悲しみは半分になります。家庭でも夫婦が互いによく協力すると、子どもたちも仲良く協力し、美しく幸せな家庭を築き上げることができます。神様の教会は言うまでもありません。聖徒たちが心を一つにして協力するところに美しい神様のみわざが起こります。美しく協力すると所に、美しい福音のみわざが花咲きます。しかし、協力するべきなのに、互いに競争し、妬むなら神様の祝福を受けることができません。いくら能力があっても一人でやろうとするなら、発展的な働きができません。福音の働き人は、ただ主の御心を求め、主の栄光のために働く時、協力することができます。イエス様は二人ずつ遣わして二人で協力することを学ぶように助けられました。どんな人でも二人でよく協力することができるなら、12人でも協力することができるし、120人とも協力することができるからです。伝道者の書の記者は言いました。「どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
二つ目は霊的な権威を与えられたことです。弟子たちが伝道活動をするためには交通費も必要ですし、着物も、食べ物も必要です。もちろんお金だけあればすべてを購入することができるからお金さえあればいいかも知れません。ところが、イエス様はそれらのものを与えてくださいませんでした。ただ、一つ与えてくださいましたが、それは「汚れた霊を追い出す権威」でした。伝道することはたましいを救うことです。たましいを救う伝道を効果的にするためには悪霊を追い出さなければなりません。この世は、アダムの犯罪のために堕落し、サタンの支配を受けるようになりました。人々は知らず知らずにこの世を支配しているサタンの影響を受けています。ですから、そこから救うためには、まず悪霊を追い出す権威が必要なです。ですから、イエス様は弟子たちに汚れた霊を追い出す権威を与えてくださいました。イエス様を信じる者には神様の子どもとしての特権が与えられています。神様の子どもになることは私たちの想像を超えたものすごい権威です。 でも、伝道者にはそのような特権だけではなく、悪霊どもを追い出す権威も与えられているのです。
 では霊的な権威が与えられた弟子たちはどのように伝道活動をするべきでしょうか。8、9節をご覧ください。「また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」とあります。イエス様は「杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。」と言われました。なぜでしょうか。それはただ、神様に頼り、神様に委ねて伝道するためです。人やものに頼らず、自分の知識や経験にも頼らずに、ただ神様だけに頼って伝道するためです。神様は福音を伝える者に必要なすべてを満たしてくださいます。
10、11節をご覧ください。「また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。」もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」どこかに行った時、同じ家で長く泊まることはやさしくありません。長く世話になることからすまないから、場所を美しくなります。私は自分の出身センターがある韓国の光州には自分の家がないから、人の所に泊まりますが、場所をよく変えます。ずっと世話になることはすまないから、一回は弟の所、一回は姉の所に行って泊まるのです。しかし、福音の働き人が伝道活動する時は、信仰によって一つの家に泊まり、そこを拠点として伝道活動することが効果的です。家々を回りながら泊まると、伝道に集中することができないからです。また、伝道する時、福音を受け入れない人に対してはどうしますか。イエス様は「そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」と言われました。この御言葉は尊いいのちの福音を安っぽく売るようなことをしないように言われたことです。神様の御言葉は売れない時に30%とか、70%とか割引して売ってもいいようなものではありません。御言葉通りに伝えるべきです。黙示録22:18、19節を見ると「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」とあります。主の御言葉を曲げてはいけません。御言葉を受け入れないと、その責任は伝える人ではなく、受け入れない人にあります。私たちは御言葉を伝えてもなかなか受け入れようとしない人たちに出会うと、自分の伝え方がよくないかなあと思ったりします。もちろん、できればもっとよく御言葉が伝えられるように工夫する必要があるでしょう。御言葉を曲げないで伝えているなら、御言葉を受け入れない責任は伝える人ではなく、受け入れない人にあるのです。ですから、神様の御言葉を伝える人は、萎縮されたり、恐れたりしないで御言葉をまっすぐに伝えるべきです。恐れて妥協してはいけません。恐れないで福音を伝え、ただ信じていることが大切です。 では弟子たちはイエス様の指示に対してどうしましたか。
12、13節をご一緒に読んでみましょう。「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」弟子たちはイエス様の命令に従って出て行きました。彼らの中には「この人とは絶対に一緒に行きたくない。」と思っていた人がパートナーになったかも知れません。それでも彼らは二人ずつ出て行きました。そして、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやしました。「悔い改めなさい」と伝えると、イエス様から与えられた権威が働いて悪霊どもが出て行きました。風邪を引いている人、肩こりの人、胃炎の人、花粉症の人、腰痛の人などが癒されました。実に驚くべき福音のみわざが起こったのです。

結論的に、信じない者にならないで、信じる者になりましょう。信じる人々の間では、イエス様がなさる驚くべき力あるわざが起こります。イエス様を信じる者はイエス・キリストの力あるわざを体験することができます。イエス様の十二弟子が何も持たずに伝道に出かけたとき、恐れも不安もあったと思います。もし彼らがキャンパスに出て行って伝道することはますます難しかったかも知れません。しかし、彼らがイエス様の御言葉に従って「悔い改めの福音」を伝えると、驚くべきみわざが起こりました。それを通して彼らは驚くべき信仰の働きを体験したし、力あるイエス・キリストの証人として成長するようになりました。この伝道訓練を通して、彼らはやがて世界の歴史がBCからADに変わるみわざにおいて歴史の主役として用いられました。どうか、私たちも、自分に与えられた霊的な権威を信じて福音を宣べ伝え、力ある神様のみわざを体験することができるように祈ります。そうして、日本が祭司の王国、聖なる国民、福音大国に変わるみわざに用いられるように祈ります。