2005年マルコの福音書第6講                                  
イエス様が求める信仰とは

御言葉:マルコの福音書4:26?41
要 節:マルコの福音書4:40「イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」」

  先週、私は弟の葬式のために韓国に行ってきましたが、私と私の家族を慰め、祈ってくださった皆さんの愛を心から感謝します。まだ34歳の若者である弟の葬式に参加することはとても大きなショックであり、言い尽くせない悲しみでありました。でも、皆さんの祈りのおかげで、すべてのことを働かせて益としてくださる神様の御手にすべてをゆだねることができるようになりました。この世では弟と会うことができなくなりましたが、神様は朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない天国を用意してくださいました。ですから、私は涙もなく、悲しみも、苦しみもなく、辛いこともない天国で会う日を待ち望みながら、この世ではもっと目を覚まして祈り、主のみわざのために励みたいと思います。私が信仰によって今の試練を乗り越え、もっと積極的に自分の使命を担うように祈ってください。
 今日の御言葉は神の国に対するたとえと、イエス様が突風を静められた出来事です。ここで、私たちは神の国の成長とその影響力について学ぶことができます。また、イエス様が弟子たちをどんな突風が起こってもそれを乗り越えて行く信仰を持つように訓練されたことを学ぶことができます。どうか、この時間、御言葉を通してイエス様が求められる信仰、人生の航海の中で最も大切な信仰を学び、今よりもっと強い信仰を所有することができるように祈ります。
 
第一に、神の国の成長を信じる信仰(26?29)
26節をご覧ください。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、」とあります。神の国は人を通して始まります。それも御言葉の種を蒔く人を通して始まります。御言葉を蒔く人がいなければ何も起こりません。神の国は人が御言葉の種を蒔くことから始まるのです。私たちが神様の御言葉を宣べ伝える時、神の国は始まっているのです。特に1:1聖書勉強を通してひとりひとりに丁寧に御言葉を蒔き、植える時に神の国は確実に始まります。イエス様はこの世におられる時に絶えず御言葉の種を蒔かれました。また使徒達もイエス様に見習って激しい迫害を受けながらも御言葉を蒔くこと、人の心に御言葉を植えることに励みました。パウロはテモテの心に御言葉を蒔き、テモテも御言葉を蒔く人になるようにしました。?テモテ4:1、2節を見ると「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」とあります。
私たちは日本の国民が聖なる国民となることを願い、祈っています。この日本が神の国になることを望んでいるのです。神様は私たちを「神の国」を建設する主人公として召してくださいました。私たちがキャンパスの学生、若者たちが御言葉の種を蒔くことができるように祈ります。特に6月11日にはバイブルアカデミーが予定されていますが、これを契機に多くの若者たちにいのちの御言葉を蒔くことができるように祈ります。では蒔かれた種はどうなりますか。
 27節をご覧ください。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」とあります。種は実より小さいものです。また、ほとんどの種は実より美しくありません。でも種の中に生命があります。ですから、種を蒔くと、蒔かれた種は必ず育ちます。それは本当に神秘的なことです。種を蒔くとどのようにして成長するかわかりませんが、確かなことは必ずそれは成長するということです。それと同じく御言葉の種にもいのちがあって成長します。私たちが熱心に御言葉を宣べ伝えましたが、すぐ実が見えないと無駄な働きをしたのではないかと思いやすいです。しかしそれは決してむだではありません。蒔いた種は私たちが知らないうちに段々成長していつかは実を結ぶようになるからです。そして喜びながら刈り取る時がやって来ます。これは神秘的な神様のみわざです。成長させるのは神様です。ただ、成長する期間はさまざまです。また、種は地に蒔かれてから、収穫する時までの過程があります。28、29節をご覧ください。「地は人出によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」とあります。種が成長するには過程があります。過程を通らないで種がすぐ実を結ぶことはありません。ですから農夫は種を蒔いてから忍耐を持って収穫の時を待ちます。
福音のみわざもこれと同じく忍耐が必要です。私たちは早く成長しない自分を見て失望する時があります。しかし人が神様の御言葉を聞いたからといってすぐイエス様のように成長するのではありません。イエス様の弟子達にも使徒の働きの使徒達になるまでイエス様からの多くの訓練、さまざまなことを経験する成長の過程がありました。ですから、私たちが人々に仕える時、その人を良く知って段階的に仕える必要があります。先週、私の父は最愛の子どもを亡くした悲しみを経験しましたが、葬式が終わるとトウガラシや稲の苗を植える時期が遅くなってしまうことを心配しました。時にふさわしく手を入れなければならないからです。私たちが人を養育する時も、成長にふさわしく助けなければなりません。一般的に芽生える時は弱いので繊細に助ける必要があります。自分が罪人であることを悟り、悔い改めてイエス様をキリストとして告白するように助けることが必要です。ある程度成長して穂になると今度は病気から守る必要があります。よく誘惑される弱点を克服できるように助けることが必要です。そして実が熟すると、すぐにかまを入れなければなりません。すなわち、この時代に対する問題意識を持って祈り、人々に神様の御言葉を持って仕える霊的な指導者になるように助けることが必要です。かまをいれるのが早すぎたり、遅すぎたりすると収穫の量が減ってしまいます。牧者になりたい、宣教師になりたいと切実に願っている時、心が燃えている時に使命を与えないと、次は冷えて行くものです。ですから、助ける人をその時期をよく把握して仕えなければなりません。
第二に、神の国は大きな影響を及ぼすことを信じる信仰(30?34)
30?32節をご覧ください。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」とあります。からし種は一点のように小さい種です。ところが、このからし種は成長すれば4?7メートルの大きな木になります。聖書で大きい木は大きな王国を象徴します。陰に空の鳥が巣を作るというのは多くの国や民がキリスト王国の中に入って霊的な安らぎを得、救いを得ることを意味します。
 からし種のたとえは神の国は始めには小さくても後には成長して大きな影響を及ぼすことを教えています。神様のみわざは初めから大きく盛大に始まったのではありません。イエス様は世の救い主ですが、飼葉桶にお生まれになりました。当時の世界を支配していたローマ帝国と比べるとそれはからし種のように小さいものでした。しかしその中には神様のいのちがあって後にはローマ帝国を福音によって征服し、世界を征服するようになりました。イエス様の弟子たちは小さな群れでした。彼らの大部分はガリラヤ田舎出身でした。彼らは自分達がみすぼらしく見えて自分達だけで何ができるかと疑いやすいでした。しかし、12弟子から始まった神の国はどうなりましたか。からし種が大きく成長するように彼らを通して福音はエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、宣べ伝えられました。ロシアの人もアメリカの人もアフリカの人もイエス・キリストのところに来て安らぎを得、救いを得るようになりました。
 私たちのUBFも故李サムエル宣教師とマザー・ベリー宣教師が韓国の大学生たちに御言葉を蒔くことから始まりました。最初、二、三人の学生たちに御言葉が蒔かれ時はからし種のようでした。ところが、蒔かれた種はそうこうしているうちに成長し、今日は世界80カ国に広がりました。世界の大学に大きな影響を及ぼしています。この国でも過去17年間、さまざまなことを経験してきましたがそうこうしているうちに成長してきました。まだ小さく見えてもPNG,LAに宣教師を派遣しました。神様はこれから2041年までは600のキャンパスの開拓し、世界中に宣教師を派遣する大きな木として成長させてくださると信じます。私達は1:1で聖書を教え、いつこの国が福音化されるだろうかと思うかもしれません。しかしこの1:1聖書勉強による一人の変化を通してこの国が福音化されるビジョンを見ることができます。神様が私達のうちにもからし種を育てておられることを感謝します。
 第三に嵐の中でもこわがらない信仰(35?41)
35、36節をご覧ください。「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。」とあります。イエス様が神の国に対して教えられたその日のことです。夕方になってイエス様は弟子達に「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われました。弟子達は一日中イエス様のメッセージを聞きながら恵みを受けました。権威あるイエス様の教えに感動したことでしょう。特に、彼らは大きなビジョンを持つようになったでしょう。今はからし種のように小さく、みすぼらしい12弟子グループですが、やがて全世界に影響を及ぼすことができるというビジョンを見るようになったのです。イエス様はそんな彼らを広い海のような湖に導こうとされました。イエス様は弟子たちに『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われました。弟子たちはイエス様とともに春の遠足を湖に行きました。舟に乗っておにぎりを食べながら湖の夕焼けを見ていました。
 ところが、航海中どんなことが起こりましたか。37節をご覧ください。「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。」とあります。激しい突風が起こりました。嵐による大きな波が舟に当たると舟は水でいっぱいになりました。どうしたらいいでしょうか。弟子たちの中では四人がこのガリラヤ湖の漁師出身でした。彼らは今までの経験、若さ、力によって克服しようとしたでしょう。しかし今度は彼らの技術や経験、力に限界がありました。舟は水でいっぱいになり、弟子達は溺れ死にそうになりました。
 ここで私たちはイエス様がともにおられる弟子たちの航海にも突風が起こることを学ぶことができます。人生の航海には予期しなかった突風が起こります。先々週の月曜日、兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故で107人が亡くなりました。水曜日の勉強会の時は、本文の御言葉を学びながら、彼らのこと、遺族のことを話しました。そして、いつ私たちにも起こるか知らないということも話しました。でも、私は自分にそんなことが起こるとは想像もしませんでした。ところが、次の日の夕方、私は今までの人生の中で最も衝撃的なことを聞きました。愛する弟が交通事故で即死したことでした。私の家族にも突風が起こったのです。私は「何で、何で、何で」こんなことが起こるのか納得できませんでした。寝ぬれない夜を過ごしました。哀れみ深い神様はこんな私を哀れんでくださいました。さまざまな重荷を背負って苦しんでいた弟を安らぎの天国へ導かれたということを悟らせてくださったのです。それで、私の心は少しずつ回復されて来ましたが、突風はいつも私たちの回りに起こりうるものです。ですから、いつも信仰によって準備しなければなりません。突風の前では人間の知識や技術や経験やお金や社会的な地位などは限界があります。突風は人々に恐れと悲しみを与えます。
 それではこのような突風の意味は何でしょうか。人々は突風が起こると絶望したり、つまずいたりします。しかし、クリスチャンにとって突風は意味があります。旧約聖書のヨブを通してその意味を考えて見ることができます。彼にあった突風は一方ではサタンの試みであり、一方では信仰が練られることでした。彼は突風に遭った時、自分の高慢と自己義を深く悔い改めました。ヨブは激しい突風の中でこのように告白しました。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23:10)。彼は突風を通して自分の信仰が金のように精練されることを学びました。私も今回の突風を通して家族の福音化を急がなければならないこと、死を間近にあることを悟りました。この世のものは草の花のようにしおれるものです。私は、神の国に対する生ける望みをますます強くつかむようになりました。突風は信仰が成長するきっかけになります。ですから、突風に遭ったとき、「イエス様を信じているのにどうしてこんなことが起こるのか」と絶望してはなりません。むしろ突風の意味を悟り、神様が与えてくださる恵みを受けなければなりません。
 突風が起こった時、イエス様は何をしておられましたか。38a節をご覧ください。「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」イエス様は忙しく働かれたので疲れておられたでしょう。現代人の特徴の一つは不眠症です。心の不安のために酒や睡眠薬を飲まなければなかなか眠れない人々もいます。イエス様が激しい突風の中でも眠っておられたのを見ると、イエス様には心の平安がありました。この平安はどこから来たのでしょうか。それは父なる神様から来ました。神様は愛する人に甘い眠りを与えてくださいます。信仰によって生きている人は突風が起こっている世の生活の中でも平安があります。
 ところが、弟子達は突風が起こった時、何をしましたか。38b節をご覧ください。弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」弟子達はイエス様に不満をもらしました。イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と誘っておいて助けてくださらないことに不満があったでしょう。彼らはイエス様とともにいながらも恐れていました。イエス様の愛を疑っていました。
 弟子達は不満をもらしましたが、イエス様を起こしたことは大切なことです。それはある面で彼らの祈りでした。イエス様は突風が起こってもわざわざ弟子達が起こす時まで待っておられたかも知れません。イエス様を知らない人々は人生の突風に遭ったとき、起こす対象がありません。偶像にお願いしても助けてくれる力がありません。しかし、クリスチャンには突風の中で起こす主がおられます。私達の主は私達の祈りを聞かれ、助けてくれることができる方です。これは大きな特権です。詩編121:4節を見ると次のように書いてあります。「見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。」私達が突風の中で主に助けを求めると主は私達の祈りを聞いてくださる方です。突風の中でも私達とともにおられ、助けてくださる主の御名を賛美します。ではイエス様は弟子たちをどのように助けてくださいましたか。
39節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」皆さんの中で「台風よ。静まれ。」と言ってみたことがあるでしょうか。私にはありません。どんな人も突風を叱り、静めることができません。しかし、イエス様は突風をお叱りになり、静められました。イエス様の御言葉には権威があります。その権威は初めに御言葉によって天と地を創造された権威です。神様が、「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができたその権威です。イエス様は自然界を支配する全能なる創造主神様の権威を持っておられたのです。突風を静められたイエス様は弟子たちに何と言われましたか。
40節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」イエス様は彼らがこわがることと信仰がないことをお叱りになりました。」
人間が突風に会った時にこわがるのは仕方がないと思われます。しかし、イエス様は弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と言われました。弟子たちがこわがっていたことは信仰がなかったからでした。この恐れはサタンが植え付けるものです。神様が私達に与えるものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(?テモテ1:7)。信仰の人は力と愛と慎みによって生きる人です。突風に遭っても揺れることなく、神様の力に頼る信仰によって生きる人です。恐れは信仰によってのみ克服することができます。 イエス様は、「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。突風の中でも眠れるほどの平安をもって生きるためには信仰が必要です。嵐のために目の前が見えないときもイエス様の導きを信頼する信仰です。特に自分に与えられた御言葉を現在の状況に結びつけることはとても大切なことです。御言葉を多く聞いていても、自分の生活に結び付けないことは信仰がないからです。へブル書4章2節にこう書いてあります。「 福音に説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです。」弟子たちは、イエス様から「向こう岸に渡ろう」というみことばを聞きました。けれども、自分の足に押し寄せている水を見た時はイエス様のみことばを信仰によって結びつけなかったのです。彼らは、舟から一生懸命水を出していたことでしょう。そうした努力や行ないは、主にとって無益なことでした。
 私たちはどうでしょうか。主日のメッセージや日ごとの糧の御言葉を通して悟ったこと、心に迫ったことばを、一週間の生活、その日の生活に結び付けているでしょうか。さまざまな出来事に信仰をもって結びつけているでしょうか。みことばに聞き従うのではなくて、自分で何とかして問題を解決しようとしたり、良い行ないをしようとしていないでしょうか。みことばを聞き入れて、それを信仰をもって結びつけない限り、私たちのすることは無益なのです。イエス様は、「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。 しかし、イエス様は、ここで弟子たちに罰を与えたり、見捨てたりしておりません。むしろ、このことを通して、彼らがご自分のことを学んでほしいと願われました。
41節をご覧ください。彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言いました、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」突風を静められたイエス様を見た弟子達は大きな恐怖に包まれました。彼らはイエス様を恐れ敬うようになりました。そして彼らはイエス様に関心を持つようになりました。「いったいこの方はどういう方なのだろう。」彼らは今までイエス様が何をなさるのかに関心がありました。しかし、今や彼らの関心はイエス様がどんな方であるかに変わりました。突風の訓練を通してイエス様についてもっと深く知るようになりました。彼らはイエス様が自然界を支配する創造主であることを知るようになりました。イエス様がどんな方であるかを知ることはとても大切なことです。
弟子達に向こう岸という目的地があったように私達には天の御国という目的地があります。この目的地に無事に着くために私たちに必要なのも信仰です。イエス様は私たちも弟子たちのようにイエス様がどんな方であるかをよく知ることを願っておられます。自分の人生に起こるさまざまな出来事をイエス様の御言葉に結びつけて生きる信仰を持つことを願っておられます。イエス様は突風も支配しておられる方です。いつも、ともにいてくださるインマヌエルの主です。いつも同じ舟に乗っておられます。私たちが、このイエス様を信じて生きる時、イエス様は私達の乗っている船の船長となってくださいます。突風の中でも神の国まで安全に導いてくださいます。ダビデは次のように歌いました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩編23:4)。
 皆さんは自分の人生の航海の中で何が一番必要だと思いますか。いろいろあるでしょう。羅針盤となるものが必要です。それを読み取れる実力も、資格も必要です。お金も必要です。健康も必要です。家族も必要です。人生の航海の中で必要だと思われるものはいくらでもあります。しかし、その中で一番必要なものは神様に対する信仰ではないでしょうか。ともにおられる神様に対する絶対的な信頼、これこそ私達の人生の航海の中で一番必要なものです。信仰があれば、たとえ、舟が沈没して死んでも天国です。しかし、信仰がなければ生き残っても地獄です。ですから、信仰の人生の海のあらしにも平安に生きることができます。信仰の分量によって少し揺れることもあるでしょうが、根本的にイエス様と同じ舟に乗って行く人生は天国の港に着くまで平安に生きることができます。聖歌472番をご一緒に歌ってみましょう。「じんせいのうみのあらしに、もまれきしこのみもー、・・・」
 私たちの人生には時々突風が起こります。しかし、突風そのものは問題ではありません。突風は私たちの人生の航海の中で起こるものです。問題は信仰です。主は突風を通して私たちの信仰が成長することを願っておられます。ですから、突風に遭った時にイエス様から目を離さないでください。心に生じる恐れ、不安、心配を悔い改めて主イエス・キリストに頼りましょう。実際に大きな突風が起こるとイエス様だけに頼って生きることがなかなか難しくなります。私は今回、心にショックを受けると、からだの全体にも影響を及ぼすことを実感しました。今なお体は疲れています。しかし、メッセージを準備しながらイエス様から目を離さないようになると、心も、体も回復されてきました。イエス様は突風を通して私たちの信仰を金のように精練させてくださいます。そして、多くの人々に仕える人として成長させてくださいます。

 結論的に、御言葉にはいのちがあります。いのちがあるから成長し、世界に影響を及ぼします。ですから、イエス様は私たちの人生に突風が起こってイエス様の御言葉に結びつける信仰によって生きることを願っておられます。弟子たちが突風の前でこわがっている時、イエス様は言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」イエス様は、私たちにも言われます。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」このイエス様は私達の人生の航海の中でともにおられ、私たちを導いてくださる方です。私たちがこのイエス様に頼り、どんな時にもイエス様を信じて天の御国に向かって進みましょう。