2005年ガラテヤ人への手紙第5講

愛によって働く信仰

御言葉:ガラテヤ人への手紙5:1-15
要 節:ガラテヤ人への手紙5:6「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

 先週、私たちはイエス・キリストの十字架によって神様の子どもになったことを学びました。つまり、私たちは十字架信仰によって罪の奴隷ではなく、神様の子どもとして自由の人になったのです。本文の御言葉は、自由を得た人たちが、その自由をどのように使うべきかについて教えています。一言で言うなら、その自由を、肉の働く機会としないで、愛を持って互いに、仕え合いなさいということです。パウロは愛を通して働く信仰を強調しています。どうか、このパウロの生きた手紙を通して愛によって働く実践的な信仰、生きた信仰を学ぶことが出来るように祈ります。

?.愛によって働く信仰(1?6)
1節を読んでみましょう。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」キリストは自由を得させるために、私たちを罪と律法の奴隷状態から解放してくださいました。そのために、イエス様は天から地へ、神様から人へと低くなられました。十字架にかかって死んでくださいました。私たちはイエス・キリストの十字架の犠牲を引き換えにして自由を得るようになったのです。私たちが自由を得て平安を持つようになったのは、測り知れないイエス・キリストの大きな犠牲があったからです。その犠牲がどんなものなのかをパウロはピリピ2:6?8節で言っています。一緒に開いてみましょう。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。イエス・キリストは自由を得させるために人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。」そうです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えませんでした。自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。それによって私たちは罪の束縛から解放され、自由を得ました。ですから、ガラテヤ人も、私たちも測り知れない代価を払って自由を得たことを覚えなければなりません。キリストの大きな犠牲によって私たちは真の自由を所有し、永遠に自由に生きるようになったのです。そして、ガラテヤ教会の聖徒たちは、その自由を享受していました。そこで、パウロは「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と言っているのです。今まで「あなたがたはよく走っていたのだ。そのまま、しっかり立っていなさい。」「またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ということです。「くびき」とは動物のくびにかけて束縛するものです。私は子どもの時、父が畑を耕す時には牛の首にくびきをかけて働かせていました。すると、牛の表情もなんか重く感じられました。牛が私と一緒に野原にいるときは自由ですが、くびきをかけられると、自由はなくなったからです。まさに、ガラテヤ教会の聖徒たちは、パウロと一緒にいた時は野原で跳ね回る子牛のように生き生きとしていました。しかし、今は、奴隷のくびきを負わせられようとしていました。そこで、パウロは「またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と訴えています。ここで、奴隷のくびきとは律法による割礼です。「割礼を受けることは奴隷のくびきを負うことだ、またと律法の奴隷になるのか」ということです。では、もし、ガラテヤ人たちが割礼を受けるなら、どうなりますか。
2?4節をご覧ください。第一に、キリストは彼らにとって何の益もないのです。キリストによって得られる罪の赦し、救いと永遠のいのちの祝福を失ってしまいます。救いの条件の中に割礼を入れているのであれば、イエス・キリストの十字架は何の意味もなくなってしまうからです。ですから、割礼は、絶対に「ノー」です。キリストの十字架の信仰だけで、恵みにより、完全に、私たちは救われるからです。もし、割礼を受けることが条件付きなら、それはキリストの救いを、不完全なものにしてしまうのです。割礼を受けた人だけが完全なクリスチャンになります。すると、他のクリスチャンと比べて自分たちは、一段と優れているように思うでしょう。そして、その行ないで自分を正しい者としてしまいます。その瞬間、救われたのがイエス・キリストの恵みであることもわからなくなります。結局、キリストの十字架の死を、犬死にしてしまうことになるのです。
第二に、割礼を受ける人には律法の全体を行なう義務が与えられます。もし、救いの条件に、「割礼」を持ち込むなら、割礼だけでは終わらないことを知るべきです。割礼の他にも数多くある律法を行わなければならなくなるのです。律法の中で割礼だけを適用することは理屈が通りません。律法全体を行なう義務があるのです。そこまで考えずに割礼を救いの条件に出してはなりません。一部だけを取り出して、律法を守った気分になるなら、それは大変な間違いです。もし、律法を取り出すなら、全体を守らなければならないのです。でも、それは不可能なことでしょう。それは、絶望的なことです。それは到底負い切れないくびきなのです。そこで、パウロは、「あなたがたは、そのような覚悟が出来ているのか?無理なことを言うなよ。」と問いかけているのです。第三に、割礼を受ける者は、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったことになります。つまり、キリストによる救いとは、彼らと無関係になってしまうことです。異端の恐ろしさは、キリストを否定しないことです。この世の人々も「イエス・キリスト」という言葉を自然に使っています。異端の中にも十字架があります。復活もあります。聖書も信じます。正統的であるように見えます。いや、正統派よりも、もっと純粋で、熱烈で、情熱的である面があります。問題は、「キリスト信仰+割礼(何か独特のもの)=救い」ということになることです。キリスト+ムン鮮明とか、キリスト+ヨセフ・スミスとか、プラスアルファーが問題なのです。そういうわけで、割礼を受ける者たちはキリストから離れ、恵みから離れる深刻な状態に転落してしまいます。ですから、「ただ、キリストを信じる信仰によって救われる」という福音の上にしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければなりません。
5節を読んでみましょう。「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」「義をいただく望み」というのは神様と正しい関係性を結ぼうとする望みです。ガラテヤ人たちはどうすれば正しく生きられるか、どうすればずっと神様と正しい関係性を結んでいられるかということに問題意識がありました。彼らはただ、動物的に生きていたのではなく、常に正しいことも求め、聖なる民として生きることを望んでいたのです。何よりもパウロは信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いていました。彼は神様の民として義をいただく望みを熱心に抱いていたのです。そんな彼は悟り、確信したことは何ですか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」パウロは義をいただく望みを熱心に抱いていた結果、愛によって働く信仰だけが大事なのが分かりました。神様と正しい関係性を結んで生きる道は、愛によって働く信仰しかないことが分かったのです。律法は動機よりも結果を大事にします。結果によって判断し、評価するから冷たくて堅いものです。この世は法治主義であって律法主義だから、仕事においても成果を出さなければならないから厳しいでしょう。律法によると、「割礼を受けたか、受けなかったか、できるか、できないか、守るか守れないか」というようなことが大事になります。しかし、キリスト・イエスにあっては割礼に何の価値もなく、無割礼にも、何の価値もないのです。価値があるのは、愛によって働く信仰です。キリストにあって大事なのは、尊いのは、割礼があるとかないとかではなくて愛によって働く信仰だけなのです。「愛によって働く信仰」というのはどういう信仰なのでしょうか。それは言葉のとおりに働く信仰です。愛を通して働いてくる信仰です。日常生活の中に、愛を通して実を結んでくる信仰、実践的信仰です。例えば、イエス様は「罪人や弱者を愛しなさい」という律法を残したのではなく、同族から嫌われている収税人や罪人たちとともに食事しました。すると、これを見たパリサイ人たちは、イエスの弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と言いました。彼らは律法によってこのような言い方をしたのです。律法は人を裁き、非難するものです。本当に冷たいものです。しかし、イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:9?12)。イエス様はご自身が愛によって働かれたし、あわれみ、愛によって働く信仰こそが人を癒し、生かすことを教えてくださったのです。イエス様の生涯は実に愛を実践する生涯でした。
事実、キリスト信仰は、律法という教えをひたすら守る宗教活動ではありません。神様と人との自由な人格的な交わり、そこから生まれてくる愛が大切なものです。イエス・キリストの愛を知り、その愛を受け止めた時に、自己中心的な私たちにも起きてくるイエス・キリストへの愛です。これこそキリスト信仰の本質です。クリスチャンの行ないは救われるため、誰かに認められるために行なうものであってはなりません。キリストによって救われて、その愛に感銘を受けて起こる、自発的な「愛」によって働く行ないなのです。キリストの愛に基づく自発的な愛の行動です。人の評価を気にしたり律法や決まりを気にたりして行なうものではありません。そういうことを気にしすぎると信仰生活が宗教生活になり、生ぬるくなってしまいます。ところが、なんだか信仰生活が長くなると、単純な心よりも複雑になり、律法の知識も増えて行くのでくびきを負わせられようになってしまうような気がします。いろいろ考えると、肩が重くなるのです。本当のクリスチャンとして生きるということは、ただ、ただ、キリストの愛に感銘を受けて愛によって働く信仰生活をすることを意味します。人の評価ではない、自分らしく、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する自由な生活です。また、思いのとおりに愛することができなかったときには、素直に「ごめんなさい」と言える自由を持って働く信仰生活です。本当にシンプルな生活です。イエス・キリストは、あのカルバリの十字架によって、私たちをそういう愛と自由の世界へと招いてくださいました。ですから、キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

?.律法主義へのパウロの怒り(7?12)
7?10節をご覧ください。ガラテヤ聖徒たちはパウロの伝道によって救われてからよく走っていました。彼らの実践的な愛の生活は感動的なものでした。キリストの十字架の愛に感動して神様を愛し、隣人を愛する生活をしていたのです。ところが、律法主義者というわずかなパン種が、教会に入ってきて人々を乱しました。「乱した」と言うのは、動揺させたことです。彼らの教えは合理的であり、理解しやすいものでした。なぜなら、信仰とは目に見える形がありませんが、割礼を受けるか、受けないかは目に見えるものだからです。それで、聖徒たちは動揺して純粋な福音信仰から離れるようになっていきました。少しの『パン種』でも、こねた粉の固まり全体を膨らませる力を持っています。ですから、悪いやつらが教えている律法主義のパン種を取り除かなければなりません。そこで、パウロは聖徒たちを乱す者は、「だれであろうと、さばきを受けるのです。」と厳しく警告しています。
歴史的にキリスト教会に入り込んでキリスト教を汚染させる二つの流れは律法主義と自由主義です。私たちは少しのパン種でもこういうものを警戒しなければなりません。律法主義は御言葉を守り行なうことに力を入れている教会に入り込みやすいものです。神様を愛する心から情熱的に御言葉を学び、守ることに励みますが、それがいつの間にか律法主義になってしまう場合があります。教会の初期にある情熱も愛情もなくなり、律法と教会の決まり、権威だけが残る形です。もう一つの流れは、律法的になっていることへの反発から自由主義になることです。すると、真理に基づいた絶対的な集まりであるはずの教会に、相対的な考えが入ります。それがパン種になります。人は、初信者の時は謙遜に御言葉を学び、先輩の牧者や宣教師の話も素直に聞きます。キリスト教に関する情報も少ないから、ただ御言葉から恵みを受けて感謝します。1:1聖書勉強だけでも涙を流します。大きな恵みのゆえに、教会の集まりにも絶対的に参加します。ところが、ある程度信仰生活が長くなると、自分なりの自分の考えを持つようになります。ほかの教会の情報も知るようになります。人の餅はおいしく見えるものです。また、自分に有益になることだけが大きく見えるものです、すると、自分の意見と違う人を受け入れにくくなるし、他の教会と比較すると、不平不満も生じます。それで、その気持ちを信仰の弱い人たちに言い出すと、心を乱すようになります。つぶやきのことばは、純粋に、単純に聖なる生活をしようとする人々の心を動揺させ、教会から、信仰から離れるようにしてしまいます。それで、教会に自由がありすぎても問題になるのです。ですから、私たちは「何でもかんでも自由じゃ。律法的だよ。」というようなことばに気をつけなければなりません。もしかしたら自分お言葉がわずかなパン種となり教会を乱すこともありうるからです。特に言葉に気をつけなければなりません。箴言15:2を見ると「知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。」とあります。口から愚かさを吐き出す者たちは自分の人格の愚かさを表わしてしまいます。私たちのことばがわずかなパン種になって教会を乱し、悪影響を及ぼしてしまうことがありうるのです。私たちは言葉に十分気をつけなければならないし、口を人のことを言うためではなく、祈るために使うべきです。わずかなパン種は言葉だけではありません。私たちの小さな行動もパン種になりうるのです。「私一人くらいは・・・」と思って行動したことが教会全体に影響します。ですから、私たちがわずかなパン種を取り除くことは大切です。これくらいはというものであっても取り除くべきです。
11節をご覧ください。「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」パウロが割礼を宣べ伝えたなら迫害を受けなかったはずです。しかし、彼は十字架の福音を宣べ伝えることによって罪に挑戦し、律法主義者たちと戦いました。「十字架の福音」がこの世の教えとはあまりにも違っていたために彼は迫害を受けました。しかし、パウロは迫害に屈することなく、律法主義者たちにさらに厳しいことを言っています。
12節をご覧ください。「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。」とあります。パウロは迫害を受けても少しも妥協することなく、福音の上にしっかり立って十字架の福音真理を守りました。

?.律法の本質、愛を持って仕え合いなさい(13?15)
律法主義者たちに対する怒りと彼らが受ける裁きについて話したパウロは13?15節で本来的な律法の生き方を教えています。
13節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」ここで、私たちは自由を与えられるために召されたことが分かります。「召された」というのは「声をかけられ、名前を呼ばれて、招集された。」ということです。ギリシャ語で「召す」とは、「カレオー」であり、「教会」とは「エクレーシア」ですが、このエクレーシアとは、エク・カレオーという言葉が名詞化したものだそうです。つまり、エクレーシアとは罪の奴隷になっている罪の世界、罪によって束縛されている肉の世界から外へ呼び出された、召された人々の集まりなのです。神様は私たちをキリストの十字架のゆえにすべての罪を赦し、罪の世界から外へ召して自由を与えられました。罪の世界への自由ではなく、罪からの自由です。ですから、自由だからといって、またと罪の世界に戻ってはいけないのです。パウロは、「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、」と書いています。「肉の世界から召して自由を与えられたのに、与えられたその自由を肉の働く機会とするな」と、パウロは警告しています。ガラテヤ人たちは、「自由」とは、まるで罪深い人間の本性のままで生きることであるかのように解釈してはなりません。自由は放縦ではないからです。放縦のために自由を濫用することは罪深い人間の本性に潜んでいる一つの悪です。私たち人間は自由を「罪を犯す権利」として、また「自由さ」を人間の本性のままで行動できる特権」であるかのように考えてしまいがちです。はなはだしくは、今日、夜遊びをすることも、お酒を飲むことも、主日礼拝を守らないこと、わいせつサイトに入ってみることも、淫乱な雑誌を見ることも「自由だ」という場合もあります。  
この間、ある人からこういう話を聞きました。自分は自由に飲んで罪を犯しても日曜日に教会に行くと、悔い改めるから大丈夫だ、罪を犯しても悔い改めもしない人よりましだ、と言うのです。果たしてどうでしょうか。悔い改めが何かも知れないノンクリスチャンと、「クリスチャンは自由人」だから自由に罪を犯しても悔い改めればいいと思う人に対して神様がどう判断なさるでしょうか。私たちは、決して自由を肉の働く機会としてはなりません。私たちに与えられたその自由はイエス・キリストの十字架の犠牲と引き換えに与えられています。では、どうして、イエス・キリストは、そこまでして、私たちに自由を与えようとしているのでしょうか。パウロは「愛をもって互いに仕えなさい。」と言っています。「愛する」ということです。愛すると言うのは、どんなに命令されてもできないものです。律法によって強制的に「愛しなさい」といわれて、愛せるでしょうか。「愛する」というのは、自分の心から自然と湧きあがって来る、自由、自発的な想いがなければできないのです。「愛は、お金で買えない」という言葉があります。本当に、命令によっても、律法によっても、どんな権力、権威、圧力、脅しをかけても、愛だけは買えません。私たちが本当の意味で「愛する」ためには、必ず「自由」というものが必要なのです。
 14、15節をご覧ください。「律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」とあります。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。愛するという事、これこそ神様が私たちに求めておられることです。イエス・キリストの願いもただ一つ、私たちが愛しあうという事です。
パウロはこの愛を実践しました。パウロは身をもって実践しました。何よりもイエス様がそのような生涯をなさいました。ヨハネの福音書13章?16章を読んでみると、世にいる自分のものを愛されたイエス様は、その愛を残るところなく示されたことが記されています。イエス様ご自身が奴隷となって働かれました。13章4、5節を見ると「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」とあります。イエス様は弟子たちの足をお洗いになったのは、愛によって働く信仰があったからです。ある人「愛を教えてくれるのは、愛でしかない。」と言いましたが、イエス様は言葉や口先だけではなく行ないによって愛しておられたのです。その愛の頂点は十字架です。イエス様はその大きな愛を、十字架によって教えてくださいます。十字架の上で、イエス様はこう祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか、わからずにいるのです。」これは、律法をよく守っている人のために祈られたわけではありません。自分は正しいことをしているつもりで、実は罪を犯し続けている罪人たちのために祈られたのです。十字架に釘を打つものとは誰でしょうか。それは、私です。自分は正しいつもり、できているつもりで、人を裁いたり、非難したりする、私たち人間です。そんな罪人を赦すためにイエス様は十字架上で祈られたのです。どうか、私たちが人々に律法の正しさを要求するよりも、自由に自発的にイエス・キリストの愛を実践する生活ができるように祈ります。

東京UBF教会では、かなりの自由さをもっていると思います。その自由を何のために使っているでしょうか。私たちがその自由を肉の働く機会としないで、神様を愛し、自分を愛し、兄弟姉妹たちを愛するために使いましょう。自由だから、礼拝に遅く来てもいい、自由だから、祈らなくてもいい、自由だから集まりに参加しなくてもいいというのではなく、キリストのゆえに自由になったからこそ、その自由を、キリストのために、神様を愛する、隣人を愛するために使うことができるように祈ります。自由に、心からイエス・キリストに仕えるように、互いに、愛を持って仕えあうことができるように祈ります。