2005年マルコの福音書基礎勉強第4講

十二弟子を任命されたイエス様

御言葉:マルコの福音書3:1-35
要 節:マルコの福音書3:14、15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」

 正しい人のためではなく、罪人を招くために来られたイエス様の御名を賛美します。イエス様は罪深い私たちを招いてすべての罪を赦し、神様の子どもとしてくださいました。イエス様の赦しによって私たちの身分は罪の奴隷から聖なる神様の子どもになりました。神様の子どもとして神様の哀れみと愛を受け、永遠に神の御国、天国の民として生きる恵みをいただくようになったのです。イエス様はすべての罪人がイエス様の十字架による罪の赦しを信じて救われ、神様の子どもとして栄誉を受けることができるように願っておられます。イエス様はこの救いのみわざ、福音のみわざのために、十二弟子を任命されました。
今日はイエス様が十二弟子を任命されるようになった時代的背景、彼らに置かれたイエス様の望みと信仰を学びます。イエス様の弟子として任命されることは大きな恵みであり、本当に光栄なことです。二ヶ月ごとに日本に来ている李パウロ牧者の長男は難問のソウル大学に入学しましたが、途中辞めました。トランペットを専攻していましたが、ある音を出せなかった時、大学の教授はその原因が分からなかったそうです。それで辞めてドイツに留学しましたが、そこで原因が分かり、直してくれたそうです。誰の弟子になるかは重要なことですね。
イエス様の弟子になって十二人はイエス様に身近にいてイエス様を学び、全世界に福音を宣べ伝える者になりました。世界の歴史をBCからADに変える歴史の主役、真に歴史のヒーローになりました。これほど光栄なことも、これほど大きな恵みもありません。
この時間、御言葉を通してイエス様の弟子として任命された恵みを悟って感謝し、イエス・キリストの弟子らしい、弟子としての自覚を持ってキリストの弟子としての生活をし、私たちもイエス様のように弟子養成に励むことができるように祈ります。

 ?。片手のなえた人を癒されたイエス様(1-12)
 1節をご覧ください。「イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。」とあります。イエス様が会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいました。彼はどんなに不便な生活をしてきたでしょうか。もちろん、人間は手だけではなく、からだの一部分が自由に使えなくなると、本当に不便になります。この間、金ヨハネ宣教師は片足の骨折によって非常に不便な生活をし続けましたが、からだ全体も疲れていたそうです。からだの苦しみだけではありません。動けない足のために学校の車で出勤し、退社の時も車で送ってもらったそうですが、まだ運転免許がないヨハネ宣教師は運転手つきの車に乗っていました。すると、周りから校長より偉くなったと言われたそうです。冗談で言われたと思いますが、本人としては苦しいものでしょう。しばらくの間でも片足を使えない時の苦しみは本当に大きいものなのです。ところが、ずっと片手がなえている人の苦しみはどんなに大きかったでしょうか。人間にとって手を使えないことほど不便なこともないでしょう。地球上の動物の中で人間だけが、手を使って精巧な道具を作ったり、手振りなどで自分の意志を伝えたりすることができます。手をよく使うと、手からの信号が多くなります。そのため手を使うことは脳を鍛えることになると言われます。手は、筋肉を使って物を掴んだり握ったりする運動器官ですが、手の役割はこれだけではありません。手で物を掴むときには、それに触れてなんであるかを知る「感覚」の役割も果たしています。手は外部の環境に直接触れて情報を集める感覚器感でもあるのです。考えれば考えるほど、手の働きは素晴らしいものだと思います。当たり前のことですが、手の働きがこの大いなる人間世界をつくってきたといっても過言ではないでしょう。ですから、片手のなえた人は自分の世界をつくっていけない運命に置かれています。実際に伝承によると、物乞いをしていたそうです。
イエス様はこのように弱い者に関心を持ち、彼らを哀れんでくださいます。イエス様は、常に一番弱っている人、一番困っている人、一番助けが必要とされている人に一番の関心を寄せられます。私たちはあまりにも忙しい生活をすると信仰的にスランプに陥る時があります。からだや心が疲れると霊的な闘争もよくできないからです。それで、霊的によく闘争し、元気に過ごしているように見える人々がうらやましく見えます。彼らはイエス様に愛されているんだなあと思います。しかし、イエス様は一番弱くなっている人に一番の関心を寄せられるのです。当時、パリサイ人たちも、このことをよく知っていたようです。
2節をご覧ください。彼らは、イエス様が安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていました。イエス様を訴えるためでした。彼らは常に弱い人を助けておられるイエス様を学び、イエス様に協力するどころか、哀れな片手のなえた人を利用してイエス様を訴えようとしていたのです。本当に悪いことを企んでいました。世の中で弱い者を利用して自分の目的を達成しようとすることほどに悪質なこともないでしょう。ところが、宗教指導者と名乗られている彼らがこのような悪を行なっていたのです。では、安息日にイエス様は何をなさいましたか。
3、4節をご覧ください。イエス様は手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われました。そして、イエス様は彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われました。彼らは安息日に何をして良いのかを知っていたはずです。誰よりもよく知っていたでしょう。しかし、彼らは黙っていました。彼らは片手のなえた人を見ても助けようとしませんでした。彼らは当時の牧者として立てられていましたが、哀れな兄弟を見ても助けようとしませんでした。むしろ、彼を利用してイエス様を訴えようとしていました。彼らの心はかたくなになっていました。イエス様は怒って彼らを見回しました。その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。
イエス様は片手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。もちろん、イエス様は彼が手を伸ばすようにしなくても癒すことがおできになります。わざと片手のなえた人を真中に出させたり、手を伸ばすように言ったりしなくても彼を癒すことはできたのです。しかし、イエス様は彼を真中に出させ、「手を伸ばしなさい」と言われました。なぜそうなさったでしょうか。
一つの意味があると思います。イエス様が片手のなえた人に信仰告白を求めたことです。彼がどのようにしてイエス様のところまで来たのかは分かりません。らい病人は自分の方からイエス様のみもとにお願いにきました。彼は「お心一つで私はきよくしていただけます。」という信仰を持っていました。中風の人の場合は友人たちが信仰によってイエス様のみもとに連れて来てくれました。しかし、この人は会堂にいただけです。イエス様が会堂にはいられた時、そこに彼がいただけです。イエス様は彼を哀れんでくださり癒してあげようとされました。でも彼が癒されるために自分の信仰が必要だったのです。信仰告白の表現として信仰の手を伸ばす必要があったのです。片手のなえた人にとって人々の真中に出て行くことは恥ずかしいことでしょう。隠したい部分です。しかし、癒されるためには信仰によって手を伸ばす必要があったのです。
5bをご覧ください。彼は手を伸ばしました。彼はイエス様の御言葉に従って手を伸ばしました。自分の痛み、自分の苦しみ、悩みをさらけ出しました。誰にも見せたくなかった部分を人々の前でイエス様に見せたのです。イエス様に対する信頼がなかったらできなかったでしょう。彼は信仰によって病んでいる手、苦しんでいた問題の手を伸ばしたのです。すると、その手が元どおりになりました。彼のなえた手に血が流れ、新しい力が生じました。回復の御業、癒しの御業、救いの御業が起こったのです。何よりも彼のなえた心が癒されました。彼は胸を張って生きることができるようになりました。イエス様は彼のなえた手と心を癒してくださいました。
私たちにも片手のなえた人のように、なえている部分があるかも知れません。人々には見えないけれども自分では苦しんでいることです。痛みがありますが人々には言い表したくない部分です。癒されたいけれどもさらけ出したくない部分です。その問題のために万物が躍動する春であっても、まだ心が晴れない部分です。なえていると、喜びも、生命力も感じることができないでしょう。イエス様はそのような人に言われます。「手を伸ばしなさい。」イエス様は「ありのままを私に見せなさい。私に告白しなさい。私に祈りなさい。」と言われるのです。どうか、ひとりひとりがイエス様になえている手を伸ばすことができるように祈ります。私たちがイエス様を信頼して自分の痛み、自分の悩み、苦しみ、自分の病をイエス様に告げるなら、イエス様は癒してくださいます。聖歌423番を見ると「つげよ主に、つげよいま、うちにある、なやみをー、みめぐみに、とめる主は、ききたまわん、したしくー、主もとに、おろせなが、おもき荷のすべてをー、みめぐみに、とめる主は、とりたまわ、のこらずー」
それではイエス様が片手のなえた人を癒された時、パリサイ人たちはどんな相談をしましたか。6節をご覧ください。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエス様をどうして葬り去ろうかと相談を始めました。彼らの心の中には憎しみがありました。イエス様は、このような彼らがイエス様を訴えようとしていたことを知っていながらも一人の病んでいる人を癒してくださいました。ひとりの癒しのために自分の命さえ惜しまなかったのです。このようなイエス様の愛と、いのちの働きはイスラエル全地域に広がりました。
7-12節をご覧ください。イエス様の一行は湖のほうに退かれました。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行きました。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来ました。その理由はイエス様が行っておられることを聞いたからです。人々は一人の羊を助けるために自分のいのちを惜しまないイエス様のうわさを聞いてイエス様のところにやって来たのです。犠牲的な牧者、自分の命をも惜しまない良い牧者イエス様のところには多くの人々が集まって来たのです。私たちもイエス様に見習って、兄弟姉妹たちを愛し、仕えましょう。積極的に愛する、犠牲的に働く牧者、宣教師たちがいる東京UBF教会のうわさを広がることでしょう。そして、多くの若者たちがそのうわさを聞いて集まって来るみわざが起こります。イエス様はあまりにも多く集まって来る人々を助けるために対策を立てなければなりませんでした。羊飼いのいない羊のようにさまよっている人々を助けるためにはどうするべきかを考えられたのです。ではその対策のためにイエス様は何をなさいましたか。

 ?.十二弟子を任命されたイエス様(13?35)
13節をご覧ください。「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。」とあります。イエス様は山に登られました。山には花が咲き、蝶々が飛び回っていました。はれた春の山はとても明るく、美しく、空気も良くて気持ち良い所でした。そこで、イエス様はご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられました。「シモン、アンデレ、ピリポ、・・・」すると、「はい。」と答え、山におられるイエス様のところに集まりました。そこで、イエス様は12弟子を任命されました。それでは、イエス様が12弟子を任命された目的は何ですか。14,15節をご覧下さい。皆ご一緒に読んでみたいと思います。「そこでイエスは12弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音をのべさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」
 第一に、彼らを身近におくためでした。イエス様が弟子たちを身近におくことは彼らを愛しておられたからです。私たちが人を愛するようになると、一番願うことは何でしょうか。一緒にいたくなることです。身近にいたいのです。結婚する目的の一つもいつも一緒にいたいからでしょう。そして、一緒にいると、互いに影響を受けます。結婚して信仰が急速に成長する人もいるし、弱くなってしまう場合もあります。だれと一緒にいるかはとても重要なことなのです。イエス様は弟子たちを愛して彼らを身近に置きみましたが、それによって彼らがイエス様の影響を受けることも願っておられました。彼らがイエス様の身近にいてイエス様のように変えられていくことを願っておられたのです。私たちはイエス様の身近にいればいるほど霊的に成長します。弟子たちはこのイエス様の身近にいることによって高慢な者が謙遜な者に変えられます。利己的な者が犠牲的な者に、疑い深い者が信仰の者に、血気旺盛な者が柔和な者に変えられるようになります。イエス様の御姿にまで変えられていくのです。
 第二に、彼らを遣わし、福音をのべさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためでした。第二の目的はこの世に出て行き、学んだことを積極的に伝える使徒の働きをさせることでした。イエス様はこれを通して彼らを自立的な聖書先生として育てようとされました。イエス様は先ず弟子たちを遣わします。どこに遣わしますか。この世です。具体的に言えば、私たちにおってキャンパスであり、職場です。さらには、全世界です。弟子たちが使命を果たすためには先ず全世界に出なければなりません。それでは、その目的は何ですか。福音を伝えるためです。福音は世界全人類に救いを得させる力があります。イエス様が弟子たちを立てられたのはこの福音を述べさせ、世界の全人類を救うためでした。ところが、福音伝播はそれほど簡単なことではありません。この世を支配しているサタンはいろんな手を使って、弟子たちの福音伝播を妨害しようとするのです。ですから、イエス様は福音を伝える弟子たちに悪霊を追い出す権威を持たせます。霊的な権威を与えてくださるのです。この「権威」は、ギリシャ語のエクスーシアで、力を表すデュナミスではありません。このような権威は、道徳的、霊的な権威です。自分で勝ち取る権威ではなく、「持たせられる」ものです。つまり、教会のかしらなるキリストから来るものです。私たちはこの権威を受けている者たちです。ただ、主婦として働いていても権威ある者です。政治的な権威ではなく、それとは質が違う、天からの権威、キリストからの権威が与えられています。人々をサタンの支配から救い出す働きのために私たちに権威が与えられていることです。私たちはこのことを信じなければなりません。福音を伝える私たちに上からの権威が与えられているのです。上からの権威が与えられることを信じましょう。
 それでは、イエス様が任命された12弟子はどんな人たちですか。16?19節をご覧下さい。先ず、シモンです。シモンという名前は砂を意味します。彼はその名前とおりに砂のように小さな人でした。イエス様はヤコブとヨハネにボアネルゲ(雷の子)と言う別名を付けられました。短気な人であったようです。その反面、冷静に計算するピリポもいます。素直な人アンデレもいるし、立っても座ってもよく疑うような人トマスもいます。バルトロマイは心に偽りのない純粋な人でした。マタイは取税人として売国奴と言われてもその仕事を続けるほど、自分のことしか考えない利己的な人でした。アルパヨの子ヤコブとタダイはいてもいないような人でした。熱心党員シモンは過激な民族主義者でした。今の言葉で言うなら、マタイのような人の所に爆弾を投げ込むテロリストです。イスカリオテ・ユダはイエス様を裏切ったものでした。
  12人のことを考えてみましたが、特にすぐれた才能をもっているわけではありません。普通の人たちです。いや性質の悪い人たちもいました。また、生い立ちも、育ちも違うし、性格も違います。一緒に生活するには困るようなメンバーたちです。ところが、イエス様は彼らを選ばれました。彼らがすぐれていたからではありません。中には、あまりに普通すぎて、見分け方に困るくらいの人もありました。「イスカリオテでない方のユダ」(Jn.14:22) と呼ばれている人もあります。裏切り者のユダでない方、という意味でしょうが、自分が、「誰かでない者」としてしか覚えられていないというのは、本人としては、ちょっと淋しいものがあります。「小ヤコブ」(マルコ.13:40)、つまり小さい方のヤコブ、というのもあります。「二人いるコンビのうちの、背の小さい方」という意味ですが、これも何だか悲しい気がします。しかし、これらの人々こそ、イエスの12弟子という、初代教会の信仰のヒーローでありました。
 昔、「ヒーロー」という言葉は、戦争に勝った人、勝利者に与えられていました。しかし、最近のニュースで違います。地震などの自然災害のために下敷きになっている人のために自らの危険を冒して人のために働く警察官や消防隊員が、ヒーローと呼ばれるようになりました。おそらく、これからも、それらの人々の名前が公の記録に残ることは少ないと思います。ニュースを通して覚えている人もいることでしょう。でも、どれだけの人の人生に影響を与えるでしょうか。しかし、福音を宣べ伝えて人を救いに導く人は、それを知る回りの人々の人生に、影響を与えます。 
世の中には、広く名前を知られている人もあります。世界が注目した、有名な人々があります。しかし、実はここに、とても不思議な法則があります。それは、広く名前を知られた人であればあるほど、その人が人々の人生に及ぼす影響は薄く、やがてきれいさっぱり忘れ去られてしまう、という事実です。そのことは、簡単な質問をしてみればすぐにわかります。みなさんは、3代前の日本の首相の名前を覚えておられるでしょうか。プロ野球で3回前の日本シリーズの優勝チームを覚えていますか。どれほど有名であっても、どれほど広く人に知られていても、それらはやがて忘れられてゆきます。
 では逆に、私たちがいつまでも覚えている人というのは、どういう人々でしょうか。それは、たとえ他の人にはまったく無名であっても、少なくとも自分一人の人生に、決定的な影響を及ぼした人であります。その人に出会ったことで、自分の人生の方向が決まった、そういう人であります。特に私たちは、自分に信仰の尊さを教えてくれた人、自分が神様を信じて生きる人生を始めるきっかけになった人のことは、いつまでも覚えています。
 私は人生所感、人の証を聞くときごとに気づく一つがあります。それは、どの人の話の中にも、必ず誰かしら、具体的なある人との出会いが語られている、ということです。名前が出るか出ないかは別です。しかし、誰でも、神様との出会いを経験するには、神様を信ずる誰かとの出会いがあります。それなくして、神に出会うことはできません。その人こそ、それぞれの人生にとっての、信仰のヒーローであります。
 果たして、私たちの人生の目的は、多くの人に知られる有名人になることでしょうか。一時有名になっても、やがて、忘れられる人になることでしょうか。それとも、たとえ一人の子どもでも、自分に出会うことによって、その人間の人生に、何かしら生涯にわたって覚えられ、感謝されるような影響を与えることでしょうか。私たちのうちの大部分は、総理大臣にもならず、ノーベル賞も取らず、オリンピックで優勝もしません。しかし、後の方の意味では、私たちは誰でも、ヒーローになることができます。たった一人だけに知られる、ヒーローであります。イエス様が任命された12人の弟子たちは、そのほとんどが、普通 の凡人でありました。しかし、彼らがイエス様の弟子としてイエス様の身近にいたとき、彼らは新しく創られました。栄光から栄光へ変えられて行きました。どうか、私たちもイエス様の身近にいて、イエス様と交わり、イエス様によって新しく造られますように祈ります。そうして、ひとりの人にでも影響を及ぼすキリストの弟子、信仰のヒーローとして生きることができるように祈ります。