2005年マルコの福音書第3講                   
      罪人を招くために来られたイエス様

御言葉:マルコの福音書2:1?17
要 節:マルコの福音書2:17「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な      者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」」

先週、私たちは朝早くまだ暗いうちに起きて祈られたイエス様について学びました。イエス様は福音を知らせるために来られましたが、その目標達成のために夜明けから祈られたのです。朝早くまだ暗いうちに起きて祈っておられたイエス様の教えには権威がありました。祈られたイエス様に病人を癒し、悪霊どもを追い出す力がありました。 今日の御言葉はイエス様に罪を赦す権威があることを明らかにしてくれます。罪を赦す権威は神であるイエス様だけに与えられています。イエス様はご自分に罪を赦す権威があることを明らかにし、罪のために苦しみ、さまよっている罪人を招くために来られたことを明らかにしてくださいます。「イエス様が罪人を招くために来られた!」ということは本当に素晴らしい福音です。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない状態になっているからです。人間は罪のために神様との関係が断絶されて神様からの栄誉を受けることができず、さばかれるしかない存在になってしまいました。ところが、イエス様はこんな罪人の苦しみ、痛みに共感し、惨めな最期を哀れんでくださいました。罪人を招いて救うためにこの地に来てくださいました。そして、だれでもイエス様の招きを受け入れ、信じる者たちには罪が赦される恵みを施してくださいます。私たちは罪が赦されると、神様との関係が回復され、神様からの栄誉を受けるようになります。それによってまことに新しい、幸せな人生を生きることができます。無気力とつぶやきの人生から力ある人生、すべてのことについて感謝する人生へ変えられて行きます。自己中心的に生きていた収税人レビのような人生からイエス様に従う聖なる人生、セイントマタイのように幸せに生きることだけではなく、人々をまことに幸せな人生に導く人生に変わるのです。
この時間、御言葉を通して病んでいる私たちの苦しみ、痛みに共感してすべての罪を赦し、癒してくださるイエス様の恵みをいただけるように祈ります。罪人の招くために来られたイエス様の哀れみと愛によって罪の赦しを受けて心も、たましいも、体も癒されますように祈ります。そして、罪人を招くために来られたイエス様の愛と哀れみ、ビジョンを学ぶことができるように祈ります。

?.子よ。あなたの罪は赦されました(1?12)
1,2節をご覧ください。「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。」とあります。先週、学んだようにイエス様はガリラヤ全地にわたり、巡回伝道をなさる中でらい病人を癒してくださいました。イエス様は彼の体を癒されることだけではなく、彼が正常な社会生活を営むように助けてくださいました。それから、数日たって、イエス様が福音伝道の本拠地カペナウムにまた来られました。すると、イエス様がカペナウムの家におられることが知れ渡りました。それで、多くの人が集まりましたが、戸口のところまですきまもないほどになりました。この人たちに、イエス様は御言葉を話しておられました。イエス様がこの地に来られた目的のとおりに、権威ある神様の御言葉を教えておられたのです。人々は権威あるイエス様の御言葉を聞いて恵みを受け、感動していたことでしょう。人々はイエス様のメッセージを聞くことに夢中になっていました。たまに赤ちゃんの鳴き声が聞こえても気にしませんでした。家の屋根から雑音が聞こえても気にしませんでした。ただPowerful、Gracefulなイエス様のメッセージに感動し、「アーメン、アーメン」としていたのです。ところが、そこにどんなことが起こりましたか。
3,4節をご覧ください。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られました。どうやって四人の人にかつがれている人がここまで来られたでしょうか。一般的に考えれば、戸口のところまですきまもないほどに集まっている群衆の中に入ることはひとりでも無理です。聖書にも「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので」とあります。大体、こんな状況なら、自分の家に戻ります。道をあけてくれない人々に対してつぶやきながら「今日は運が悪いね」と思ってあきらめてしまうのです。しかし、中風の人を担いで来た人々は違いました。彼らは大きな障害があったにもかかわらず、あきらめない信仰を持っていました。信仰によって心の中から「できるものなら、というのか、信じる者にはどんなことでもできるのです」と叫びました。そして、信仰によって道なきところに道を作りました。彼らは屋根にのぼって、屋根をはがし、穴をあけ中風の人を寝かせたままその床をつりおろしたのです。できると信じる者にはアイディアも思い浮かぶものですね。彼らは常識を超えて創造的な働きをしました。彼らは、失礼ではないかと思われる方法で、中風の人をイエス様のみもとに連れて来たのです。このような熱心さ、不屈の精神、あきらめない信仰を持っている人々はイエス様の奇跡を体験することができます。
5節を読んでみましょう。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」イエス様は彼らの信仰をご覧になりました。人々は病気のために苦しんでいる人を助けている人々を理解しようとしませんでした。どうしても中風の人を癒していただこうとしている彼らの愛も哀れみも理解しようとしませんでした。中風の人の苦しみ、痛みに共感する人もいませんでした。「重い病にかかっている人は重い罪を犯した人だ」という観念が通常的である社会の中で苦しんでいる彼の罪意識、罪責感などを理解しようとしませんでした。ただ、人々は一人の病人のために自分たちの集会を邪魔されたことしか考えませんでした。常識のない人だと非難したでしょう。しかしイエス様は彼らの心をご覧になりました。中風の人の苦しみ、痛みに共感し、さまざまな障害を乗り越えて中風の人を助けている彼らの信仰をご覧になりました。自分のためではなく、中風の人の癒しのために常識を超えて働いている彼らの信仰をご覧になりました。信仰がなければイエス様のところに出てくることはできません。イエス様のところに集まってきた人々にも信仰があったはずです。自分の癒しのためにでもイエス様に出てくることも信仰です。自分の子どもの癒しのために、家族の癒しのために、彼らをイエス様のところに連れてくることは素晴らしいことです。でも、他人の癒しのために働く信仰、人の癒しのためにさまざまな障害を乗り越えてイエス様のみもとに連れてくることは本当にりっぱな信仰です。特に理論的な信仰ではなく、実際に行動する信仰、信仰によって目標を決めることだけではなく、その目標のために不屈の精神を持って行動する信仰こそりっぱな信仰でしょう。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に何と言われましたか。「子よ。あなたの罪は赦されました。」イエス様は中風の人に罪の赦しを宣言なさいました。「あなたの罪は赦された。」という罪の赦しの宣言は、中風の人にとって計り知れない祝福であったに違いありません。彼が罪のために中風の人になったかどうかは分かりませんが、重い病は重い罪のためだと言われている社会の中で病人が経験する苦しみ、悩み、痛みは私たちの想像を超えているはずです。自分の罪が分かっていればその罪のために苦しみますが、そうでなくても苦しいものです。自分の罪が分からないのに重い罪人として見られているときの苦しみほどにつらいものもないでしょう。イエス様はこのような彼の痛みに共感し、罪の赦しを宣言なさいました。人々は中風の人にとって病気が癒されることこそ優先的に解決するべきことだと思っていたでしょう。しかし、イエス様は彼の体が癒される祝福より罪が赦される祝福をもっと優先的に考えておられたことが分かります。もちろん、イエス様は多くの場合に罪の赦しを宣言なしに人々を癒されました。しかし、人間にとって霊的な病は体の病気よりもっと深刻であり、罪こそ根本的な問題です。人は病気より罪のために不幸になります。ですから、イエス様は病気の解決より彼の内面にある罪の問題が解決されることを願っておられます。病気が治ったとしても、罪が赦されなければ無意味です。未信者の知り合いの人と出会うとき、その人が病気持ちであること、財政困難に陥っていることなど、いろいろな問題があることを聞いて心配します。しかし、最も大事なことを忘れてはなりません。それは、その人が神様に敵対する罪人であることであり、罪の赦しのために祈っていく必要があるのです。イエス様は中風の人だけではなく、彼の友人たちも、律法学者たちも、含めてすべての人々がイエス様には罪を赦す権威があることを知り、イエス様によって罪を赦されることを願っておられるのです。それでイエス様は大勢の人々の前で中風の人に「あなたの罪は赦されました。」と罪の赦しを宣言なさったのです。ところが、律法学者たちは罪の赦しを宣言なさったイエス様に対してどう思いましたか。
6、7節をご覧ください。「ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」」とあります。この律法学者たちは、罪のために、苦しんでいる人の痛み、中風の人の苦しみには全く共感していませんでした。彼を癒すために担いで来た人たちの愛も哀れみも、彼らの努力も理解しようとしませんでした。彼らは、ただ理屈を言っています。つまり、批判的になり、分析をしているのです。彼らにとって人を助け、人の癒しと救いのために行動する信仰の世界は理解できません。今も聖書に関する知識、キリスト教に関する知識を持って理屈を言う人々、自分の方からは奉仕することも、献身することもなく、他人のことばかり言っている人たちにとっては黙々と人のために働いている信仰の世界が理解できません。だから彼らは文句ばかり言うようになります。イエス様は彼らの心をよく見抜いておられます。
 8?11節をご覧ください。「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。」とあります。イエス様は律法学者たちが心の中で隠密に考えていることも見抜いておられました。そこで、イエス様は彼らの理屈を叱責し、彼らの非難に対して、鋭い質問をされました。「中風の人に『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」と言われたのです。この二つの質問は両方とも神様の全能の力を必要とするものです。罪を赦すことは神様にとってもやさしいことではありません。真実な悔い改めと、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いに対する信仰が、赦される側になければ、罪が赦されることはできないからです。ただ、言葉で言うことは簡単でしょう。赦されたかどうかはすぐに目に見える形で表されるものではないからです。
 そこで、イエス様は、「地上で罪を赦す権威」を持っておられることを示すために、難しいほうのことばを命令として言われました。中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と命じられたのです。すると、どうなりましたか。
 12a節をご覧ください。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。」とあります。「ハレルヤ」ですね。主の御名を賛美しましょう。12bを見ると、「それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。」とあります。中風の人がはいる時には入れなかった人々も、出るときには道をあけてくれたのでしょう。皆の者がすっかり驚いて神様をあがめていたからです。
この時間、私達も信仰によってイエス様に出会い、罪が赦され、明るくて力ある人生を過ごすことができるように祈ります。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)」。私は最近自分の仕事のために、御言葉をじっくりと黙想する時間を持つことができなかったので、こんなものでもメッセージを伝える資格があるのかと思われる時もありました。でも、御言葉を通して悔い改め、主の哀れみを求めると、主は「子よ、あなたの罪は赦されました。」と語ってくださいました。限りない主の哀れみと愛を心から賛美します。どうか、皆さんも「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われる主の罪の赦しの御言葉を聞いて立ち上がり、力強く生きる、生き生きとした信仰生活を送ることができるように祈ります。

?.罪人を招くために来られたイエス様(13?17)
13?14節を読んでみましょう。「イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」ここには、イエス様のみことばが、病を治すだけでなく、人生を変えることが示されています。皆から嫌われていたレビのような人でもイエス・キリストの弟子になれる信仰とビジョンを持って召されることも示されています。当時、徴税制度は法律に定まっていたのではなく、収税人が勝手に税金の中から自分の給料を取っていました。しかも、徴収した税金がスラエルを支配しているローマに納められていました。それで人々は収税人を無視し、売国奴として遠ざかっていました。だから、収税人レビが税金の徴収のために人々の所に近づくことがあってもレビの所に近づいてくる人はだれもいませんでした。ところが、イエス様は収税所にすわっているレビの所に近づかれました。しかも、彼に「わたしについて来なさい。」と招いてくださいました。すると、自分のことしか考えない、お金しか考えないように見える彼の心の中でもイエス様のみことばが働きました。以外に彼は心が用意されている兄弟でした。彼はイエス様の御言葉に逆らうことなく、立ち上がってイ工ス様に従ったのです。素晴らしい光景です。彼はイエス様の御言葉にすぐに応答しました。彼があれこれ考えたら、イエス様に従うことはとても難しかったと思います。漁師出身のシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはいつでも自分の仕事に戻ることができました。実際に彼らはイエス様が十字架に処刑された後に、一時的に元の仕事に戻りました。しかし、収税所の椅子を蹴ってイエス様に従うと、再び収税所に戻ることは不可能に近いことです。しかし、レビはなんと素晴らしい決断をしたことでしょう。彼は自分の将来のすべてをイエス様にゆだねてイエス様に従ったのです。それによって彼は不滅の使徒の座につきました。もし、彼がイエス様の御言葉に反応することなく、収税人の仕事をし続けていたなら、経済的に安定的になり、金持ちになったかも知れませんが、2000年の歴史を越えても尊敬されるセイントマタイになることができなかったでしょう。しかし、彼がイエス様の召されに応答したとき、彼自身が幸いな者となることだけではなく、宝石のように輝いている山上垂訓を書き記して数多い人々を幸いな人生を招いたセイントマタイになりました。本当にイエス様の御言葉に反応して従うことは素晴らしいことです。イエス様の召されに従うことは、何にも代えられない幸いであり、光栄なことであるからです。
イエス様に従うレビは今まで味わうことができなかった喜びと平和が満ち溢れるようになりました。彼は感謝にあふれてパーティーを開いています。15節をご覧ください。「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大勢、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大勢いて、イエスに従っていたのである。」とあります。おそらく、職場のお別れパーティーの意味と、同僚にイエス様を紹介する伝道的な動機からこの宴会を開いたことでしょう。レビは、自分の仲間たちにも自分を変えて下さったイエス様に接する機会を与えてやりたいと思っていたに違いありません。レビは招かれた人々に自分の証をしました。「お金の奴隷からキリストの弟子へ」というタイトルで所感発表をしたでしょう。人々は彼の所感を聞いて180度変わったレビの人生に驚くばかりでした。彼らは「おどろくばかりのめぐみなりき、このみのけがれをしれるわれに(229番)」と歌いました。彼の変化は他の取税人や罪人達の関心をイエス様に向けさせました。そして、大勢の罪人がイエス様に導かれるようになりました。
 ところが、この愛の宴会が盛り上がっていた時、それを素直に喜ばない人たちがいました。パリサイ派の律法学者たちです。彼らは、イエス様が罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエス様の弟子たちにこう言いました。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」当時のレビ達は取税人や罪人とともに食事をしないように教えました。彼らは罪人をさげすみ、自分は義人であると思っていました。彼らは罪人を遠ざけ、罪に定めました。彼らには他人に対する理解や愛がありませんでした。事実取税人や罪人とともにすることはやさしいことではありません。取税人はとても利己的です。自分のことしか考えません。このような人と付き合うのは負担があります。しかし、イエス様はそんな収税人であっても彼らを深く愛し、彼らを理解しようとされました。収税人にならざるを得なかった彼らの過去を理解し、彼らの痛みに共感してくださいました。心から彼らを愛し、彼らに仕えてくださいました。イエス様は彼らの友となってくださいました。イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました(ピリピ2:6、7)。レビはこのイエス様の愛と犠牲に感激し、驚いていたでしょう。彼の心には、自分のような罪人を招いてくださり、いつもともにいてくださるイエス様の姿が深く刻まれました。それで、彼は自分が書いたマタイの福音書の最初の部分で「神は私達とともにおられる。すなわちインマヌエル」と言いました。また最後の部分では「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)というイエス様の約束の御言葉を記録しました。イエス様はマタイだけではなく、すべての罪人を招いてご自分の友としてくださるお方です。病人たち、罪人たちを招いてすべての罪を赦し、癒してくださる方です。
 17節を御一緒に読んでみましょう。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」この御言葉から私達はイエス様について大切な真理を学ぶことができます。イエス様は罪人を招くために来られました。イエス様は重い罪のために重い病気にかかってしまったと言われている中風の人を招かれました。そして彼の罪をお赦しになり、自立的な人生を過ごすように助けてくださいました。イエス様は利己心によって病んでいるレビ、罪人のかしらと呼ばれていた彼を招かれ、ご自分の弟子としてくださいました。もしイエス様が正しい人を招くために来られたなら、中風の人やレビのような人を招くはずがありません。そうだったら、私のような者もイエス様に招かれることはできません。私は今イエス・キリストの哀れみ、罪人を招いてくださった主の愛のゆえに、救われて神様の子どもとして恵みを受けています。しかし、もしも、イエス様が罪人を招くためではなく、正しい人、丈夫な人を招くために来られたら、私は一生涯罪の中で苦しみ、罪の結果、永遠にさばかれるしかない者です。
ある人たちは教会には、弱虫、悪い人ばかりいるといいます。そうでしょう。失礼ですが、皆さんは罪深い人たちです。私もそうです。ところが、イエス様がこんな罪人を招くために来てくださいました。そして、罪深い私たちを赦し、罪を贖うために十字架にかかって死んでくださいました。?ペテロ1:24節は言います。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
イエス様が正しい人を招くためではなく、私のような罪人を招くために来られたことを感謝します。赦されて、癒されて義のために生きる人生、セイントマタイのように祭司の王国、聖なる国民として生きられる恵みを下ったイエス様の恵みを心から賛美します。自分がそれほど悪くないと思っている人たち、悔い改める必要性を感じていない人たちはイエス様の恵みの世界を経験することができません。罪人を招くために来られたイエス様は自分の弱さ、自分の罪を認め、悔い改める者たちとともにおられます。そして、彼らを招き、彼らとともに親しく交わってくださいます。黙示録には、こう書かれています。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」主は、砕かれたたましい、へりくだった心を親しく交わられます。ですから、へりくだっている人々は素晴らしい恵みの世界を経験するようになります。
 
結論的にイエス様は罪深い私たちを招くために来てくださいました。中風の人のように、自分の力だけでは生きられない人のために来てくださいました。そして、レビのように自分のことしか考えない、お金しか考えない私たちに大きなビジョンを持って招いてくださいました。それだけではありません。私たちがイエス様とともに歩みながらセイントマタイのような人に変えられるように、栄光から栄光へと変えられて行くように助けておられます。私たちがこのイエス・キリストの愛、自分に置かれたビジョンをますます深く悟ってレビのように祝福された人生を生きるように祈ります。イエス様の愛の心とビジョンを持って、罪人を招かれる主のみわざに尊く用いられるように祈ります。