2003年ルカの福音書9講                                     

人はパンだけで生きるのではない

御言葉:ルカの福音書 4:1-13

要 節:ルカの福音書 4:4イエスは答えられた。「・人はパンだけで生きるのではない。・と書い

てある。」

先週、牧者たちの勉強会の時、私は今日、日本の若者たちにとって大切なことは何でしょうかと聞きました。すると、ある牧者は経済の問題、つまりパンの問題が大切である、いや大切な問題の中で最も大切な問題であると言いました。私はなるほどと思いました。

実際にパンの問題、つまり生活の問題は決して軽い問題ではありません。生活の糧を得ていくというのは、現在は特に深刻な問題です。世界中が経済問題を深刻に思っています。しかし何のために生きているのかということがはっきりしないならば、どのような物を手に入れても決して満足できないという気持ちは誰にでもあるのではないでしょうか。また、功名栄華といわれるように、世間の評価をどれほど得たとしても、空しさを感じたとたんに、今までの私の人生は何だったのかという不安におそわれることもあるのではないでしょうか。

ではどうなることが本当の満足であるのでしょうか、どのように生きるところに本当のよろこびがあるのでしょうか。これを明確にしていくことは何よりも大切です。イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と言われました。この時間、イエス様の御言葉を考えながら、私たち人間はどのような存在なのか、どのように生きるべきかを学びたいと思います。また、悪魔の誘惑に打ち勝たれたイエス様を通して誘惑に負けず、勝利の人生を生きる秘訣を学ぶことができるように祈ります。

?. 人はパンだけで生きるのではない(1-4)

1,2節をご覧下さい。「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」とあります。イエス様は聖霊に満ちておられました。普通は霊的に満たされていない時、あまり祈っていない時に誘惑を受けるから、私たちはいつも目を覚ましていようとしています。目を覚ましていなければ、この世の価値観に染まってしまうからです。ところが、イエス様は聖霊に満ち時、聖霊に導かれて悪魔の試みに会われました。これは、イエス様が試みに会われたことは偶然に起こったものではなく、神様のご計画によるものであることを明らかにしてくれます。

では、イエス様はどのような試みに会われましたか。第一にパンの誘惑を受けられました。3節をご覧下さい。「そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」とあります。イエス様が悪魔に言われた時は、40日間の断食が終わったところです。四十日間も食べられなかった時、どんな空腹を覚えられたでしょうか。三日間だけ断食しても目に見えるすべてのものが食べ物のように見えます。先週、臨時小会の時、夏修養会のために一日ずつ回りながら、断食祈りをささげことを提案しましたが、ある宣教師は私に何で断食祈りにそれほどこだわるのかと言われました。断食は一日だけでもなかなか難しいことでしょう。ところが、イエス様が四十日も断食されたのです。その時、御体の状態はどうだったでしょうか。御体は骨だけが残っているようで、身動きさえできない状態だったしょう。とりあえず食べたい、何よりも先に、食べたいという切実な思いに満ちていたのではないでしょうか。ところが、ちょうどその時、悪魔はイエス様に言いました。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」悪魔はこの言葉によってイエス様を試みました。

どんな点でイエス様に試みになりますか。それは「あなたがいくらメシヤであっても、一旦、食べなければ何もできないのではないか」と思われるからです。いくら偉大な使命であっても生きていて可能なことです。死んでしまうなら、何の意味もないのではないかということです。また、この誘惑はイエス様には神の御子として何でもできる力があるからこそ、もっと大きい誘惑になります。力がなければ言われてもあきらめてしまうでしょう。多く場合に人は力がある時こそ誘惑に弱いです。貧しいときより豊かな時、不合格の時より合格したとき、就職の前より就職した時、出世した時こそ誘惑に弱いのです。イエス様も人間としてこう考えることもできたはずです。「そうだ。お前に見せてやろう。」あるいは「私がこのまま死んでしまったら、あの哀れなイスラエルの羊の群れはだれが助けるだろうか。」ということで誘惑になるのです。

 しかし、もし、イエス様が石にパンになれと言いつけてそれを食べられたらどんなことが起こりうるでしょうか。悪魔は「やっぱり人生においてパンの問題は大切だ、最も大切な問題ではないか。」というようになったでしょう。すると、イエス様は、まず飢えている群衆のパンの問題を解決してあげる経済メシヤになるしかありません。パンの問題のために罪が赦されるための悔い改めのメッセージを伝えることはできなくなります。もし、イエス様が石をパンにして食べられたことを知っている群衆が、神の福音よりパンを求めた時、どのように拒むことができでしょうか。自分は空腹の時、石をパンにして食べたくせに、能力のない私たちは飢え死になっても良いのか、という群衆のために何もできなくなるでしょう。すると、メシヤの使命はパンの問題のために全然できなくなるはずです。

昔からこのパンの問題はいつも人間の切実な問題でした。人間は食べないでは生きられません。誰でも生活の糧を得るために働かなければなりません。それで、人々はパンが得られる職場生活を大切にします。東京の若者たちも見ると、学生の時は、本当にのんびりして自由に生きています。服装も、髪の毛も自由そのものです。黄色くしたり、赤くしたりしています。しかし、会社員になると、髪の毛は黒く、短くなります。着物も紺色の背広に変わります。社長の素直な羊になります。なぜなら、社長が人事権を持っているからです。

日本は戦後、食べるのに困る貧しさを経験したために一生懸命に働いて経済大国になりました。しかしバブル経済が崩れてからは混乱が続いています。株価下落などで負債の返済ができなくて自ら経済活動を放棄して破産申請をした個人が去る十年間で100万人を超えていると言われています。厚生労働省の調査によると、2万5千名のホームレスがいるし、国民の54%が暮らしにくいと言っています。特に今の時代は、同じ若者でも正社員、派遣社員、パート、アルバイトなどで収入が違うから、激しい競争の中で人々は疲れています。十代の若者も、二十代の若者も疲れています。こんな状況の中で国民が小泉総理大臣に一番強く願っていることは景気回復です。私たちはこのように厳しい経済状況の中で生きています。ですから、私たちも、牧者であり、宣教師として生きよとする時、パンの問題は大きい問題です。神様の使命も食べなければできないのではないか、生活が安定的にならなければ無理ではないという考えを簡単に捨てることは難しいのです。

では悪魔の言葉に対するイエス様のお答えはどうですか。ご一緒に4節を読んでみましょう。「イエスは答えられた。「・人はパンだけで生きるのではない。・と書いてある。」」。この御言葉は申命記8章3節を引用されたものです。神様はイスラエルの民を出エジプトさせてから彼らを荒野の道に導かれました。そこは種を蒔く所も、収穫の所もない荒地でした。しかし、神様は彼らが御言葉に従って毎朝早く起きてマナを集めることによってパンの問題を解決するようにしてくださいました。実際にイスラエルは荒野での40年間、飢えることもなく、彼らの着物はすり切れませんでした。それで、モーセは荒野生活40年間の教訓を次のように教えました。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:3)」 ここで「生きる」という言葉の意味は「人間が人間らしく生きる」ことです。ですから、人間が人間らしく生きるというのは神様の御言葉に基づいて生きることです。

もしイスラエル民にとってパンの問題がもっと大切な問題であったら、彼らはエジプトで暮らした方がもっと良かったはずです。そこでは食べ物の問題はありませんでした。お肉もいっぱい食べることができました。しかし、神様は彼らを神様の御言葉によって生きる民として訓練するために出エジプトさせて40年間訓練されたのです。神様は彼らの生活そのものが神様の御言葉に基づくものとなるように助けられました。そして、パンの問題を御言葉に基づいて解決するだけではなく、神様は彼らが聖なる神様のイメージを回復するように助けてくださいました。御言葉は彼らに聖なる使命を与えられました。イスラエルの民は御言葉を通して奴隷根性と物質主義的な考え方を捨てて祭司の王国、聖なる国民となりました。このように人間は神様の御言葉を受け入れる時、人間らしい人間になり、貴い存在、聖なる存在となります。そういうわけでイエス様はパンを求める悪魔に「人はパンだけで生きるのではない。」とはっきり言われたのです。

それなのに、私たちの生活がパンの問題だけに縛られているなら、なんと残念なことでしょうか。毎朝お腹がいっぱいになるまでパンを食べながらも、心の中に一日の方向なる御言葉がないなら、悲しいことです。私たちがお金をもうけること、健康な体、安定的な生活を考えることは自然な事です。しかし、心がそれだけに満ちていて、その心に人生の方向となる御言葉がなくても神様のイメージを持つ人間らしい人間だと言えるでしょうか。もちろん、私たち人間は神様が造られた貴い存在です。全世界と替えることのできない存在が私たちのいのちです。しかし、心の中に御言葉がなければ、神様が願われる聖なる生活はできません。王である祭司として生きることはできなくなります。創世記25章を見るとエサウは一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売りました。それに対してヘブル人への手紙の著者はこう言いました。「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」(ヘブル12:16)。ヤコブは神様の約束の御言葉をつかんでいたから、お腹がすいていても我慢して長子の権利を買いました。しかし、エサウの心には御言葉がなかったために一杯の食物のために最も大切な長子の権利を売り、俗悪な者になってしまいました。

 私たちが食べ物だけのために信仰の良心を捨ててしまうなら、その信仰に何の意味があるでしょうか。私たちは神様の形に造られた存在として何よりも先に神様の御言葉がなければなりません。なぜなら、御言葉だけが私たちの生活を価値あるものにし、御言葉だけが主なる神様と交わるようにしてくださるからです。ではどのようにして御言葉を食べることができるでしょうか。いろいろな方法があると思います。ある宣教団体は御言葉を丸ごと覚えるように教え、暗記カードを持ち歩きます。

 私たちUBFには所感があります。これは私たちの先輩たちが、どうすれば一言の御言葉心に刻まれ、生活の原動力になれるかと考えるうちに、神様への手紙や日記を書きながら定着するようになりました。毎朝日ごとの糧を書いて食べることもそうです。今は他の教会や宣教団体でも弟子訓練のために日ごとの糧を書いて食べる事を教えていますが、御言葉を深く黙想し、聖書通読することも私たちの伝統であり、誇りになっています。私たちは所感や日ごとの糧を通して自ら御言葉を理解し、消化していく力を養いました。また、所感を通して神様の御前で自我を発見して、悔い改め、新しい決断をする生活をしました。ですから、私たちの集まりは、修養会の時に有名な講師を招かなくても、ただ聖霊の助けによって一人一人が御言葉を深く受け入れ、悔い改めみわざが起こりました。大学2年生の講師がメッセージを伝えても、所感を書きながら御言葉を深く受け入れて大きな恵みを受けるみわざが起こりました。私たちは所感や日ごとの糧、聖書通読などを通して御言葉を食べ、御言葉を愛する生活をして来たのです。神様がこのように私たちの集まりを御言葉中心の集まりにして下さったことを感謝します。そして、私たちみんなもう一度心を新たにして御言葉自体を大切にし、御言葉によって生きる生活に励むことができるように祈ります。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる存在です(マタイ4:4)。

?.主にだけ仕えなさい(5?8)

 5?7節をご覧ください。また、悪魔はイエス様を連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せてこう言いました。「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」ここで、いっさいの権力と栄光とは当時世界の国々を支配していたローマ帝国の権力と栄光を指しています。ではこれはどんな点においてイエス様に誘惑となりますか。権力と栄光を持つようになるなら、イエス様は救いのみわざをもっと簡単に成し遂げることができるからです。権力と栄光を持つ政治的なメシヤとしてローマに支配されている植民地ユダの悲しみを解決してあげることができます。重い十字架を背負ってメシヤの使命を担う必要も無くなります。この世のすべてを自分の意思によって自由に動かすことのできる権力と栄光を手に入れることは何と素晴らしいことでしょう。昨日、うちの学校には韓国大統領のご夫人が訪問しましたが、ただ一時間のために何週間前から準備しました。リムジン乗用車に乗って来る彼女を見るために多くの人々が集まりました。大統領ではなく、その奥さんであってもその栄光はすごいなあと思われました。ましては全世界の権力と栄光を手に入れるとは何と素晴らしいことでしょうか。ところが、その権力と栄光を自分のものにすることは以外に簡単です。ただ一度が悪魔を拝むなら、与えられるのです。しかし、悪魔を拝むことは何を意味しますか。それは悪にひれ伏すことであり、自分の権力と栄光のために正義も、真理も、神様までも捨ててしまうことと同じ意味を持ちます。実際に、今日も悪魔は世の権力と栄光を求める者に自分を拝むことを要求しています。自分の良心をだまし、自分の自尊心までも捨てることを要求します。そうすれば、すべてを差し上げると約束します。悪魔の方法はいつもそうです。それは世の人々がどれほど世の権力と栄光を好んでいるかを知っているからです。

ところが、これは私たちの信仰生活にも適用されます。私たちクリスチャンは神様を信じているので、上司の言葉より神様の御言葉をもっと恐れます。でも上司は私たちが主日礼拝に参加することよりも、勉強会に参加することよりも自分の言葉に従うことを願います。教会よりも、自分の家族よりも会社のことを第一にして働くことを要求します。飲み会にも参加し、会食の場合は食事だけではなく、二次会も、三次会も参加することを要求します。それで、私たちはそのような上司の要求に従わなければ、上進することも、彼らと仲良くなることも無理ではないかと思われます。クリスチャン人口1%に過ぎないこの日本でいじめられるのではないかと心配するようになるのです。しかし、私たちは上司の言葉や世の慣習よりも神様の御言葉に従う信仰生活の結果として、自分に何の光栄が与えられなく、むしろ存することがあっても悪魔を拝むことはできせん。イエス様は世の権力と栄光を拒みながら言われました。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」それで、イエス様は多くの苦しみを受け、十字架に付けられて死なされることであっても重い十字架を背負う道を歩まれました。それが主にだけ仕える道であったので、あの重い十字架の道を歩まれました。

私たちも信仰の道に耐え難い試練があってもそれに屈することなく、主なる神様を拝み、主にだけ仕えようとする心構えを持たなければなりません。自分の出世と名誉のために真理と恵みを捨て、神様を捨てて悪魔を拝むことはあり得ないことです。私たちが信じている神様は全能なる創造主であって私とこの世を創造されました。神様は万有の主としてこの世を主管し、支配しておられます。神様は救い主であり、裁き主として私たちを祝福して永遠のいのちを与えられ、罪悪のこの世をさばかれます。ただこの神様だけが私たちの礼拝の対象であり、私たちが全生涯を捧げて仕えるべき対象であられます。ですから、私たちは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言われているようにこの世の仕事も忠実に担うべきですが、礼拝と賛美は神様にだけ捧げなければなりません。そうするとき、神様は私たちを喜ばれ、大きく祝福してくださいます。この世の権力と栄光も神様に属しています。悪魔は自分を拝むなら、権力と栄光を差し上げると言いましたが、それは嘘です。悪魔は嘘つきです。この世の権力も出世も、物質も神様が与えてくださるものです。就職させて下さる方も、都営住宅に当選させてくださる方も神様です。私たちにこういう信仰がある時、この世の罪と妥協しないで生きることができます。実際に神様だけを拝み、神様だけに仕える時、不信者たちよりも早く博士号をとり、もっと出世した場合が数多くあります。韓国はクリスチャンが人口の30%であると言われていますが、総理大臣を初め、閣僚の50%がクリスチャンです。それで、イエス様は言われます。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」

?. あなたの神である主を試みてはならない(9?13)

 世の権力と栄光によってイエス様を誘惑することに失敗した悪魔は、またイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせました。そしてこう言いました。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。」そして、詩篇91篇11,12節を引用して」『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」と言いました。悪魔はイエス様の心に神様の御言葉を与えながらイエス様を誘惑したのです。もし、今でもだれかが都庁の頂上から飛び降りるなら、それを見ている人々は熱狂するでしょう。この時、もし、神殿の頂上から礼拝者の群れの中に飛び降りるなら、民衆に天から来られたメシヤであることを信じさせるに十分なことになります。人々は「わあ!Jesus!Jesus!」と叫びながら熱狂したことでしょう。しかし、悪魔の言葉を聞いてイエス様が飛び降りるなら、どんなことが起こりますか。イエス様は神様を試したことになり、神様の御心とは関係なく、悪魔に従うメシヤになってしまいます。何よりも人として来られたイエス様は神殿の頂上から飛び降りるなら死んでしまいます。悪魔は神様の愛を確かめてみるようにしたようですが、実はイエス様を殺そうとする狙いがありました。悪魔は殺人者です。

これに対するイエス様の反応はどうでしたか。12節をご一緒に読んで見ましょう。「するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」」神様はどんな場合でも試みの対象になりません。神様の愛と保護を疑わせることはいつも悪魔の戦略です。悪魔はいつも愛の問題を持って来ます。あなたの状況はこんなに苦しいのに、本当に神様があなたを愛しておられるのか、神様があなたを愛しておられるなら、何によって証明できるか、それを確認してみなさいと言って私たちの心を騒がせます。本当に神様に愛されてきたのか、と疑い、しるしを求めるようにします。そうなると、神様は私たちの信仰の対象になれず、疑いの対象に変わってしまいます。

 悪魔は時々、私たちの神殿の頂に立たせてそこから飛び降りてみるように誘惑します。「神様!ちょっと良い所に就職させください。都営住宅にも当選させてください。奨学金を与えてください。それによって神様の愛の証拠を見せてください。」と祈りながら神様に愛の証拠を求めるように誘惑するのです。しかし、私たちがただ愛のしるしだけを求めて神様を試みるなら、自分の願いどおりにならなかったとき、どうなりますか。神殿から飛び降りると死んでしまうことと同様に、私たちの信仰に大きな損失を受けて神様を信じる気力を失ってしまいます。そして信仰さえ捨ててしまう場合もあります。ある人は、救われて、多くの恵みを受けていたのにもかかわらず、現実生活がちょっと難しくなると、今まで神様によくしてもらったことは何もなかったと言って離れていきました。しかし、それこそ悪魔の狙いではないでしょうか。私たちがあれこれ自分なりの基準を決めておいて神様の愛を試して見ようとすることはそれ自体が罪の始まりです。不信仰の始まりです。

 ヨハネの福音書3章16節は言います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのち持つためである。」神様はひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。この愛を確信するなら、私たちはどんな場合にも神様の愛を試みることなく、信仰によって生きることできます。神様は試みの対象ではなく信仰の対象です。イエス様は「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」と言って悪魔の第三の誘惑にも打ち勝たれました。すると、悪魔はしばらくの間イエス様から離れました。

 結論的に、三つの誘惑に打ち勝たれました。この三つの誘惑を見ると、第一の誘惑は経済的なもの、第二は政治的なもの、第三は宗教的なものであると言えるでしょう。そしてこれらのすべては世にあるもので私たちを誘惑しています。すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、神様から出たものではなく、この世から出たものだからです。第一のアダムはこの誘惑に敗北してしまったので、人類がすべての栄光と祝福を失ってしまいました。しかし、第二のアダムであるイエス様はこれらのすべての誘惑に打ち勝ち、勝利を得て贖いの権利を獲得されました。また、自ら誘惑を受けられたゆえに、誘惑の中にある者を同情を持って助けることがおできになります(ヘブル2:18、4:15)。何よりもイエス様の勝利によって私たちに贖いの道が開かれ、イエス様に従う私たちも、主にあって圧倒的な勝利者として生きることができます。特に三度とも、イエス様が悪魔の誘惑に答えるために同じ武器を用いておられます。すなわち、「御霊の与える剣である、神のことば」であす(エペ6:17)。「聖霊に満ち」ておられたにもかかわらず主は、聖書の御言葉をご自分の守りの武器とし、ご自分の行動指針としておられました。ここで御言葉の重大な権威と、その内容を正確に知っておくことの大切さを学ぶことができます。聖書はまことに剣ではあるが、それを効果的に用いたければ、私たちはこの剣のことをよく知っておくよう留意しなくてはなりません。私たちがいつも御言葉に根ざしていていかなる悪魔の誘惑に打ち勝ち、勝利の人生を生きることができるように祈ります。