2003年ルカの福音書第8講                        
主の道を用意せよ
御言葉:ルカの福音書3:1‐22
要 節:ルカの福音書3:4

一章で私たちはザカリヤとエリサベツの間に生まれた幼子をヨハネと名づけたことを学びました。いよいよヨハネは、エリヤの霊と力で主の道を用意する使命を果たすようになります。
歴史家ルカはこのヨハネの働きを世界史の流れの中に位置付けています。すなわち、バプテスマのヨハネが伝道活動を始める時、世界の政治的、宗教的な状況はどうだったのかを教えてくれます。そして、その暗い時代にヨハネはどのようにして伝道活動を始め、どのようにして主の道を用意したのかを教えています。
ここで、私たちはどのようにして神様の使命を果たすことができるか、主の道を用意することはどうすることなのかを学ぶことができます。また、ヨハネのメッセージを通して悔い改めにふさわしい生活に励むことができます。

?。神の言葉がヨハネに下った〔1-3〕
1節をご覧ください。「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、」とあります。ここにはバプテスマのヨハネが伝道活動を開始されたとき、当時の世界を治めていた支配者や統治者たちの名前が並べられています。この人たちの名前は私たちに良いイメージを与えてくれません。むしろ、悪い人ばかりだなと言うイメージです。
2a節をご覧ください。「アンナスとカヤパが大祭司であったころ」とあります。ルカはアンナスとカヤバ、ふたりが大祭司であったことを記して、その時代の霊的な状態を表しています。もともと、大祭司はただ、一人でなければなりませんでした。それなのにふたりの大祭司にいたのです。それは、大祭司さえ、聖なる祭司の服を着て政治的な道具として用いられていたことを示唆してくれます。ユダヤにおいて最も尊敬されるべき大祭司でさえ、政治的な道具にすぎない存在になっていたのです。こんな時代には自分一人だけでも良心的に、道徳的に生きること難しいです。そんな状況の中でも神様のみわざのために働くことはますます難しいことです。霊的なことには全く無関心で良心が麻痺されている人々に罪が赦される福音を伝えることは、何と難しいことでしょうか。しかし、ヨハネはこんなに暗い時代に神様の使命のために立ち上がりました。どうやってそれができましたか。
2bをご一緒に読んでみましょう。「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」とあります。神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下りました。神の言葉がヨハネに下った時、ヨハネはどうなりましたか。3節をご覧ください。「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。」とあります。神様の御言葉が下られた時、ヨハネはヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説くことができました。人間的に見ると、暗い時代、ヨハネ一人は、川の急流(きゅうりゅう)に流される一匹の小魚のように小さな存在でした。実際、彼自身自分の力では何もできません。しかし、神様の御言葉が臨まれた時、主の道を備える神様のみわざのために立ちあがることができました。神様の御言葉が臨まれた時、彼には聖なる使命のために立ち上がる勇気と力と信仰が与えられました。
ではヨハネがどんな生活をしていた時、神のことばが彼に臨まれましたか。もう一度2b節をご覧ください。「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」とあります。ヨハネが荒野にいた時、神の言葉が彼に下ってきました。彼が荒野にいたことは、この世を離れて隠遁(いんとん)していたことではありません。当時、この荒野には、エッセネ派と呼ばれる人々が住んでいました。彼らはユダヤ人の中で最も禁欲的な生活を送り、都会の形式的な宗教と神殿の儀礼的な生活から離れ、祈りと断食を神様に仕えていました。ヨハネの生活と立場はこのエッセネ派に類似しているものでした。彼は自分の与えられる使命のために、静かに神様と交わり、自分を準備していたのです。その時、神様の御言葉が彼に臨まれました。
神様の御言葉は、都の神学校で神学を勉強している人や、多くの教育を受けている人だけに臨まれるのではありません。神の言葉は、神の宮で仕えている祭司や律法学者たちだけに臨まれるものでもありません。神の言葉は荒野にいるヨハネに臨まれました。たとえ、私たちの身は街の人ごみ(人込み)の中にあっても、神の言葉は下ってきます。忙しい生活をしていても心境においては人と離れた荒野の生活を送る者、すなわち、環境に影響されず、世俗の風潮に染(し)まず、ひとり静まって神様と交わる時間を持つ者だけに神の言葉が下るのです。ある方は、自分に忙しくて御言葉を黙想する時間さえないというかも知れません。それに対して、関東支部長の勉強の時、李パウロ牧者は「それは忙しさの問題ではなく、生活習慣の問題であり、思考方法の問題だ」と言われました。どんなに忙しくても静まって神様を黙想し、神様に祈り、神様と交わる者に御言葉が下るのです。ヨハネはそのような人でした。それゆえ神の言葉がエルサレムの祭司や学者に臨まず、かえって人に知られないこの一人の人に下ったのです。
ここで、私たちは神様の御言葉が私たちに下るまで聖書の御言葉を黙想し、深く勉強しなければならないことを学ぶことができます。私たちが神様の器として用いられるためには、まず、上から御言葉が私の心に臨まなければなりません。私たちにとって最も大切なことは祭司が行なう儀式よりも、律法学者たちのような知識よりも一言の御言葉が自分に下る、力強く臨まれることです。私たちの信仰生活がマンネリ化されたものではなく、日々御言葉が下ってくる、神の言葉によって立ち上がり、御言葉によって力強く生きる生活でありますように祈ります。

?。あらゆる人が救いを見るようになる〔4-22〕
ヨハネに御言葉が下った時、彼は罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説きました。そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりでした。4-6節をご覧ください。「そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」バプテスマのヨハネの使命は主の道を備えることです。本文には「すべての谷、すべての山と丘、曲がった所、でこぼこ道」の四種類の道があります。谷は自分の足りなさだけを考えて不義に陥り、劣等感と敗北感に苦しんでいる人のことです。彼らの考えは否定的であり、運命的です。こういう人は謙遜に見えますが、実は高慢な人です。そう言う人は自分の不義を主張することも悔い改めるように助けるべきです。 
山と丘は目立つことが好きな人たちです。彼らは自己義が強く、自分は特別な存在だと考えています。そう言う人の心は砕かれるように、さまざまな出来事を通して自己義が砕かれるように祈らなければなりません。
曲がった所とは性格や価値観が曲がっている人のことです。このような人は反抗心が強く、愛されてもそれを素直に感謝ができません。大抵、家庭環境がよくなくてあまり愛される経験がない人たちです。小さなことでも傷つきやすい心を持っています。こういう人に対しては深い理解と愛によって迎え入れ、長く忍耐しながら愛を注がなければなりません。でこぼこの道とはでこぼこの道のように荒れている性格の所有者です。こういう人は血気があって人々の付き合いにおいてよく衝突(しょうとつ)します。このような人は謙遜の柔和のイエス様をよく学んでその内面が変わるように助ける必要があります。
このようにして主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにすることができます。ではそのようにする究極的な目的は何ですか。もう一度6節をご覧ください。「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」とあります。あらゆる人が、神の救いを見るようになることは、実に驚くべき御わざです。もともと、あらゆる人は罪を犯したために破滅に至るようになっています。人間は自らの力や意思によっては罪による神様のさばきと永遠の破滅から救われることができません。神様はこんな人間を罪と永遠の破滅から救うために救い主イエス様を遣わしてくださいました。あらゆる人はイエス様を通して罪が赦され、永遠の破滅から救われます。この救いはイエス様によってのみ得られるものです。バプテスマのヨハネは、イエス様の道を用意することによってあらゆる人が救いを見るようになるビジョンを見ました。人々の心をまっすぐにすることによってあらゆる人が救いを見るようになるという確信を持ちました。それで彼は何をしましたか。
7-8節をご覧ください。「それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧(おの)もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とあります。
ヨハネはあらゆる人が救いを見るようになるビジョンを見、それを信じたからこそ、自分からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に悔い改めを促しました。彼らの救いを切に願い、また彼らが救われるビジョンを見たからこそ、彼らに向かって「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と厳しく叱ることができたのです。ヨハネは民たちが偉大な神の救いの素晴らしさを体験するように、悔い改めを促したのです。
私たちは救いを見るようになるためには「悔い改めにふさわしい実を結ば」なければなりません。悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活を通して神の救いを体験し、大いなる神様の愛を経験することができます。また、ヨハネは彼らに、「良い実を結ばない木は、みな切り倒される」、と告げています。
 これは、私たちクリスチャンにとってとても重要な真理です。このことは、私たちの思いにおいて、いかに強く印象づけられても決して十分ではないものです。「悔い改めます。」という信仰的な語り口や告白は、そこに信仰的な実践と行ないがない限り、全く無価値なものです。いくら口先で、自分は悔い改めました、と言っていても、それと同時に、生活において悔い改めていなければ、それはむなしいことです。なぜなら、口先だけの悔い改めは次第に私たちの良心を無感覚にし、私たちの心をかたくなにしてしまうからです。私は自分の罪を遺憾に思っています、と言っていても、本当に遺憾に思っていることを、それを捨てることによって示さない限り、それは偽善でしかありません。きれいな姿をしていて毒を放つ毒蛇まむしと同じです。キリスト教信仰においては、口先だけの言葉には何の意味もないのです。実際に何をしているかが問題です。
悔い改めのメッセージを聞いた群衆の反応はどうでしたか。ヨハネの厳しいことばせいでみな逃げてしまいましたか。いいえ。彼らは悔い改めたい心に満ちてヨハネに尋ねました。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」この時、ヨハネは彼らにどんな方向を与えましたか。
11節をご覧ください。「彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」とあります。この御言葉はものがある人はない人に関心を持ち、実生活の中で具体的なことから実践しなさいということです。人々は自分の生活だけでも忙しく、大変だから隣人に無関心で利己的になりがちです。人々は自分の子犬にはおいしいものをいっぱいあげながらも、食べ物がなくて飢えている人たちには関心さえ持っていません。特に人々は食べ物より愛に飢えています。私たちクリスチャンは彼らに関心を持ち、できることから愛を実践することによって愛の実を結ばなければなりません。私たちがこの日本の若者たちを口先や言葉だけではなく、行ないと真実によって愛しつづけることができるように祈ります。
12-14節には収税人と兵士たちが悔い改める姿が記されてあります。この時、ヨハネは収税人には決められたもの以上には、何も取り立ててはいけないと言いました。そして、兵士たちにはだれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしないで、自分の給料で満足するようにして悔い改めにふさわしい実を結ぶように助けました。
 結論的に、私たちがヨハネのように主の道を用意し、神の救いを見るために悔い改めにふさわしい生活に励むことができるように祈ります。そうして私たちもヨハネのようにエリヤの力と霊によって自分の与えられた使命を力強く担うことができるように祈ります。