2004年ルカの福音書66講    
あなたがたは、これらのことの証人です
御言葉:ルカ24:36-53
要 節:ルカ24:47,48 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めがエルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。”

ハレルヤ!主の御名を賛美します。ルカの福音書の御言葉を通して私たちの心を潤し、信仰を守らせてくださり感謝します。さらに、この福音書を学びながらイエス・キリストに関するすべての事がらが正確な事実であることをますます深く知り、信じるようにしてくださり感謝します。もちろん、人によってイエス様に関する知識の深さは違うでしょうが私たちがイエス様に関する事がらを正確な事実として確信し、福音の御言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われます。特に私たちは最も大切なこととして信じなければならないことはイエス様の十字架の死と復活です。私たちは先々週のメッセージを通してイエス様が聖書の示すとおりに、私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、葬られたことを学びました。
そして、先週、イエス様は聖書に従って三日目によみがえられたことを学びました。よみがえられたイエス様はイエス様を愛する女たちも、弟子たちも御言葉を思い出して復活信仰を持つように助けられました。事実、イエス様は死者の中からよみがえられました。よみがえりの主を賛美します。
今日は、よみがえられたイエス様が弟子たちの所に現われた出来事です。イエス様は弟子たちにご自分が生きておられることを確信するように助けられました。弟子たちをエルサレムから始まってあらゆる国々の人々に福音を宣べ伝える証人として立てられました。それから、よみがえりの主は弟子たちを祝福しながら天に上げられました。この最後のメッセージを通して私たちは聖書の預言の御言葉が全部成就したことが分かります。また、私たちはあらゆる国々の人々にこれらことの証人であることがわかります。どうか、神様が私たちの心の目を開いてくださり、聖書の御言葉を悟ってあらゆる国々の証人の人生へと導いてくださるように祈ります。

?.よみがえられたイエス様の姿(36-43)
 36節をご覧ください。「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。」とあります。これらのこととはイエス様のことです。弟子たちはシモンに現わされたイエス様のこと、エマオへ向かっていた弟子たちに現わされたイエス様のことについて話していました。その間に、イエス様ご自身が彼らの真中に立たれました。ここで、イエス様のことを話している間にイエス様が来られることが分かります。私たちは宣教のために人々が関心を持っているこの国のプロ野球、お相撲、サッカーなどのスポーツ、「世界の中心で愛を叫ぶ」、
「冬のソナタ」など人気ある映画やドラマ、音楽、政治、経済、教育などに関心を持ち、話し合うことも必要です。でも、私たちがイエス様のことを話している間に、イエス様ご自身が私たちの真中に来てくださることを覚えましょう。私たちが家でもイエス様のことをよく話し合うなら、その家の真中にイエス様が来てくださいます。しかし、教会に来てもこの世のことばかり話し合って帰るなら私たちのうちに住まわれるイエス様の恵にふれることは難しいでしょう。いろんな話をしても話の中心がイエス様中心になる時に、イエス様ご自身が私たちの真中に立たれます。イエス・キリストが生きておられることを認めて話するところに、イエス様が働かれるのです。私たちがどこにいてイエス様のことを話している間に、私たちの真中に来てくださるイエス様の恵にふれることができるように祈ります。
37節をご覧ください。彼らは突然、超自然的に現われたイエス様を見て驚き恐れました。霊を見ているのだと思いました。まだ、よみがえりのイエス様の姿を理解していませんでした。よみがえりのイエス様のことを聞いているし、それらのことを話していたけれども、心に疑いを起こしていたのです。イエス様のことを一時は、確信していたとしてもまだ疑いを起こしてしまう人間の弱い姿が見えます。彼らはよみがえりの主に直接に出会ったペテロの証を聞いてもキリストの復活を確信することができませんでした。エマオに行く道でイエス様から聖書の説明を聞き、イエス様とともに食事をした弟子たちの証を聞いても取り乱していました。心に疑いを起こしました。まさか、よみがえりのイエス様が自分たちの所に現われるとは思わなかったようです。弟子生活に失敗し、キリストを捨ててしまった彼らにとってよみがえりの主が来てくださるとは考えもしなかったのでしょう。つまり、彼らは目の前に見える事実よりキリストに関する感情のためにイエス様が霊だと誤解し、疑っていたのです。では、イエス様は疑い深い彼らをどのように助けられましたか。
38節をご覧ください。「すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」とあります。この御言葉はイエス様が彼らを咎められたことではありません。むしろ、相変わらず彼らを助けておられる愛の声です。「なにを疑っているの!」と微笑みながら語っているのです。そして、具体的に助けてくださいます。
39節をご覧ください。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」とあります。イエス様は疑い深い人たちにご自分の姿を見せてくださいました。それだけではなく、直接に手を出してさわってみるようにしてくださいました。イエス様の手と足には、十字架につけられたときの釘の穴があったのでしょう。ヨハネの福音書を見るとイエス様はトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました(20:27)。イエス様は何ものにも邪魔されることなく、活動なさいますが、私たちの肉体と同じように肉と骨を持っておられました。
体を持っておられるイエス様にふれられた彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっていました。イエス様は、「ここになにか食べ物がありますか。」と言われました。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエス様は、彼らの前で、それを取って召し上がりました。イエス様が焼いた魚を食べられる時、彼らは落ち着いてイエス様の姿を見、イエス様の御言葉を聞くことができました。何よりもイエス様は肉体と骨を持ってよみがえられたことを悟りました。
イエス様の体の復活は福音が歴史的な事実であることを明らかにしてくれます。よみがえるのキリストは、ただ幽霊のような存在ではありませんでした。弟子たちはイエス様を見ることだけではなく、さわってみることができました。キリスト教の信仰は人が作った思想や物語を信じるようなものではありません。キリスト教の信仰は歴史的な事実に基づいています。確実な証拠を持って証明できる真理に基づいているのです。

?.罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられる(44-53)
44節を読んでみましょう。「さて、そこで、イエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
イエス様の苦しみ、十字架の死、死んで墓に葬られること、3日目に死者の中からよみがえられることは聖書が成就することでした。聖書に書いてあった預言は必ず成就されます。例えば、神様はアブラハムをあらゆる国の人々の祝福の源として約束されました。そのとおりにアブラハムの子孫からイエス様が生まれました(創世記12:3)。イエス様がベツレヘムの町で生まれることも(ミカ5:2)、「私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かり死から蘇られる」こと(イザヤ53)も聖書に預言されているとおりです。全てが何百年も前から預言され、事実その通りのことが起きたのです。言い換えれば、イエス様の苦しみ、十字架の死、復活はあらゆる国の人々を救おうとされる神様の御心でした。つまり、神様は人間の歴史を支配し、人間を救い、パラダイスを回復するご自分の計画を成就させておられたのです。イエス様の復活を通して私たちは神様が生きて働いておられること、みこころのとおりになさっておられることがはっきりと分かります。
45節をご覧ください。「そこで、イエスは、聖書をさとらせるために彼らの心を開いて、」少なくとも、弟子たちはすでに聖書の内容を知っているはずです。イエス様は彼らに聖書を教えられたし、特にご自分の十字架と復活に関しては繰り返して教えられました。でも、イエス様は、聖書を悟らせるために彼らの心を開いてくださいました。聖書の御言葉を悟ることはとても大切な事です。詩篇49章20節には「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。」とあります。獣と人間の違いは悟りにあります。悟りがない人は人を悟らせることができません。ですから、兄弟姉妹たちが御言葉を悟るように助けたい人は、まず自分自信が悟りのある聖書勉強を経験しなければなりません。イエス様は私たちを悟らせるために来られました。イエス様は神様の御言葉を教えるとき、悟ることをとても重要視されました。イエス様は種まきのたとえの中で「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」と言われました。また「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれるものを奪って行きます。」とおっしゃいました。しかし、悟る人にはどんなことが起りますか。イエス様は「ところが、良い地に蒔かれるとは、御言葉を聞いてそれを悟る人のことで、その人は本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」と教えてくださいました(マタイ13章)。私たちが御言葉を聞いてただ自分の知識にするのではなく、生活に変化をもたらし、実を結ぶためには悟りがなければならないのです。深い霊的な世界を体験し、豊かな実を結ぶ秘訣は御言葉を聞いて悟ることなのです。ではどうやって聖書を悟ることができますか.イエス様は聖書を悟らせるために彼らの心を開いてくださいました。つまり、悟りは心を開いて御言葉を聞く人に与えられるのです。イエス様は彼らの心を開かれました。これが大切です。私たちが聖書を悟るのに、神様が私たちの心を開いてくださらなければ、決して悟ることができません。ですから、私たちはいつも、神様が心を開いてくださるように祈る必要があります。聖霊が私たちに、神様のみことばを説き明かしてくださるように願うことが必要です。
事実、素晴らしい神様の真理、御言葉も神様が心を開いてくださらなければ、正しく受け取らせていただくことができません。心に悟りがなければ、いのちの御言葉もあまり意味も力も持たなくなってしまうことがあるのです。ですから、私たちは謙遜に神様に心を開いてくださるように祈らなければならないのです。私たちは主日礼拝のために、メッセンジャーのために祈りますが、同時に自分の心を開いて御言葉を悟らせてくださるように祈らなければなりません。私たちは特に聖書勉強や礼拝の時は御言葉を聞く時間ですから、心を開いて御言葉を悟らせてくださるように祈る必要があります。そういう人に悟りがあり、豊かな恵みが注がれます。結局豊かな実を結ぶ人生になります。しかし、人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しくなってしまうのです。どうか、聖霊が私たちの心を開いてくださり、心の燃える聖書勉強、悟りのある聖書勉強ができるように祈ります。
イエス様は聖書を悟らせるために彼らの心を開いてから何と言われましたか。
46-48節をご一緒に読んでみましょう。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」イエス様は弟子達に復活信仰を持つように助けてから彼らがこれらのことの証人であることを自覚させてくださいました。つまり、十字架と復活、罪の赦しを得させる悔い改めのこと証人です。証人として働く範囲はあらゆる国の人々です。神様は弟子たちに世界宣教の使命を与えてくださったのです。使命だけではありません、使命を果たすことができるように聖霊を送ってくださいます。イエス様は、聖霊を約束し、祝福しながら、彼らから離れて行かれました。
よみがえられたイエス様に出会った弟子達は変わりました。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていました。弟子達は意気消沈してその場を去ったのではありません。非常な喜びを持ってそこを去ったのです。悲しみと恐れに満ちていた弟子達はよみがえられたイエス様に出会い、喜びと賛美に満たされました。彼らはよみがえられたイエス様に出会い、人生の問題が解決され、世界宣教の使命を担う主役になりました。
 私たちもよみがえられたイエス様に出会い、人生の問題を解決していただくように祈ります。さらに、いのちを生かす救いのみわざに復活の証人として尊く用いられるように祈ります。
 ルカの福音書は、非常な喜びを抱いて、神をほめたたえたことで終わっています。では初めのことをおぼえていますか。ガブリエルは、「喜びのおとずれ」といい、マリヤもザカリヤも、それぞれ大喜びで、神をほめたたえました。したがって、福音書は喜びと賛美で始まり、そして、喜びと賛美で終わるのです。だから、「福音」の書物なのです。キリストは私たちの罪のために死なれました。でもそれだけで終わりません。私たちが新たないのちを持つために、復活されたのです。どうか、日々、生けるキリストに出会いつづけてください。日々力あるキリストの証人として生きることができるように祈ります。