2004年ルカの福音書第65講

よみがえられたイエス様

御言葉:ルカ福音書 24:1-35                   
要 節:ルカ福音書 24:6「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
 
 先週、私たちはイエス様の十字架上の祈りを学びました。イエス様は世の罪を取り除く神の小羊として十字架につけられました。両手足に釘が打ちこまれて血を流しておられました。段々と息絶えていきました。イエス様は、その瞬間にもご自分のことより、自分を十字架につけた人々、私たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」と祈ってくださいました。
私は自分の情欲と高慢、憎しみ、嫉み、不信の罪、怠けた生活のために何もできない者でした。しかも、自分が何をしているのかも分からず、自分かってな道に向かって行ってしまう者でした。イエス様はこんな私のために、私たちみんなのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」祈っておられます。そして、赦してくださいます。それで、たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のようになります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになります。イエス様の十字架上での赦しの愛を心から感謝します。そして、私たちがこのキリストの十字架の尊さをますます深く悟ることができるように祈ります。私たちが本当に十字架の愛を悟って受け入れるなら、どんな人でも赦し、愛することができます。その心に天の喜びと平安が与えられます。赦された恵を知り、赦す人に天にあるすべての霊的祝福が与えられます。どうか、神様が私たちにイエス様の十字架をもっと深く悟り、十字架の尊さ味わう生活に導きいれてくださるように祈ります。

今日の御言葉は、イエス様の十字架とともに、キリスト教において最も大切な「イエス様の復活」に関することです。イエス様の復活は、まず、主日の明け方早く、墓に行った女性たちに知らされました。御使いたちは、彼女たちに復活信仰を持たせるためにイエス様がお話になったことを思い出すように助けています。それから、よみがえられたイエス様はエマオに帰っていくふたりの弟子たちに復活信仰を持たせるために聖書全体から御言葉を教えておられます。つまり、御使いも、イエス様も復活信仰を持たせるために助けておられるのです。それほどイエス様の復活は大切です。私たちが御言葉を通してキリストの復活を信じる時、私たちにある悲しみは喜びに変わります。失望が希望に変わります。すべてが新しくなります。この時間、聖霊の助けによって私たちもマグダラのマリヤ、ヨハンナたち、エマオの弟子たちのように復活のキリストに出会い、ますます確信に満ちた復活信仰を持つことができるように祈ります。

?.ここにはおられません。よみがえられたのです(1-12)

 23章の最後の部分を読んでみると、ガリラヤからイエス様といっしょに出て来た女たちは、イエス様が葬られた墓と、イエス様の体の納められる様子を見届けました。そして、戻って来て、香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って、休みました。しかし、安息日が終わると彼らは何をしましたか。
1節をご覧ください。明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に着きました。彼女たちはとてもイエス様を愛していたことが分かります。今日もイエス様を愛する数多い女性たちは、毎日、明け方早く起きて祈っていますが、彼女たちは誰よりも早くイエス様のお墓に着きました。しかも、慌てていったのではなく、準備しておいた香料を持って墓に着いたのです。着いて見ると、お墓はどうでしたか。
2-4節をご覧ください。お墓を見ると、なんとその大きな石が墓からわきにころがしてあるのではないでしょうか。彼女たちは、石がころがしてあるのを見ました。さらに驚くべきことは、はいって見ると、主イエス様のからだはありませんでした。これは、紛れもなく、キリストがよみがえられた事実を示しています。イエス様はよみがえられたのです。ですから、彼らは喜ぶべきです。イエス様はご自分が話になったとおりによみがえられました。ところが、彼女たちはそのために「途方にくれて」います。なぜでしょうか。彼女たちは目で見てはいるが、本当の意味では見ていなかったからでしょう。私たちにも、そのようなことが起こります。神様のみわざを見てはいるけれども、本当は見えていない時があります。同じ教会にいても、ある人は神様のみわざを見て喜び、感謝します。ところが、ある人は、この女たちのように途方にくれ、行きづまってしまうのです。でも、神様は哀れみ深い方ですね。途方にくれている女たちにまばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、近くに来ました。23節によると、このふたりは御使いたちです。神様は御使いを遣わしては女たちを助けておられます。
5,6a節をご一緒に読んでみましょう。「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中から捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」
突然そこにまばゆいばかりの衣を着た人が現われましたが、彼女たちにはこの方々が人間ではないと分かったようです。恐ろしくなって地面に顔を伏せていました。すると『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか』と言われました。御使いたちは彼女たちの問題を指摘されました。それは死人の中で生きているイエス様を捜すことです。つまり、死なれたイエス様に仕えようとしていたのです。しかし、死なれたイエス様はおられないのに、実体のないものに仕えようとしていたのです。
ところが、私たちはどうでしょうか。私たちも結構同じ事をしているのではないでしょうか。イエス様はもう生き返っておられる、勝利しておられる訳です。私たちは、生きておられるキリストとの交わりでなければなりません。それなのに一生懸命にいない所を捜します。何か目に見える形を捜し求めます。「イエス様、もういないのであろうか。神様は死んでしまったのだろうか。私は見捨てられてしまったのだろうか」と捜しているのです。過去のイエス様を捜しています。あの時は良かったのにと思って捜すのです。しかも、私たちはしばしばイエス様を敗北者の中で捜そうとします。しかし、そこにはおられません。もう一度6aをご覧ください。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」とあります。御使いのメッセージははっきりしています。イエス様は墓にはおられません。死者の中からよみがえられたからです。全能の神様は死者の中からイエス様をよみがえらせました。ペテロは立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言いました。「しかし、神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24)。女たちは神様を仰ぎ見ないで、暗い墓に目を留めていました。すると心も暗くなりました。
私たちも神様を仰ぎ見ず、御言葉を思い出さないで暗い現実だけを見ると、どうなりますか。心も暗くなってしまいます。現実問題はますます大きく見えてきます。しかし、キリストをよみがえらせた全能の神様を信じ、イエス・キリストの復活を信じとキリストと交わることができます。キリストから現実問題を解決する知恵と力を得ることができます。そのためには、主が自分にお話しになった御言葉を思い出さなければなりません。「
6b,7節をご覧ください。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえられなければならない、と言われたでしょう」御使いたちは「ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と命じられました。イエス様はご自分の十字架と復活に関して何度も語っておられました。ところが、彼女たちは今、御言葉を忘れていました。サタンは御言葉をすっかり忘れさせてしまう働きをします。サタンがアダムとエバにした最初の攻撃は神様の御言葉に疑いを持たせることでした。神様は「しかし、善悪の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創2:17)」と命じられました。ところが、サタンはエバに「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない。と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言って最初に与えられた御言葉を忘れるようにしました。それから、サタンは『あなたがたは決して死にません(創3:4)』と言って神様の言葉を完全に否定しています。結局、人間はサタンの働きに気がつかず、その否定された事の方を正しいと思ってしまったのです。サタンは私たちにも、御言葉を疑い、忘れるように働きかけます。
今までUBFで私が見ると、多くの方たちに創世記12:2,3節の御言葉が与えられています。それで、大いなる国民の父として、祝福の源として出発します。ところが、険しい世の中で現実問題にぶつかったり、人々の間で傷つけられたりすると、現実だけを見たり、自分を傷つけた人の言葉だけを思い出します。しかし、私たちは、私たちのうちに働いておられる神様を仰ぎ見、いつも御言葉を思い出すべきです。特に自分に与えられた御言葉を思い出して信じるべきです。すると、復活の主が私たちと交わってくださいます。御言葉を思い出すこと、これこそすべての問題を解決するカギです。
8節をご覧ください。「女たちはイエスの御言葉を思い出した。」とあります。ここで100%信じられたのかは分かりません。でも「そうか!」と思い出し、ホッとする思いが出てきたとは思います。ルカは彼女たちが十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告したことを記しました。それによって彼らの心の変化も現わしています。御言葉を思い出したとき、心から変化がありました。今までの失望と悲しみから光と希望を持ち始めるようになったでしょう。彼女たちの悲しみは消え去りました。永遠の喜びと神様の勝利が心に満たされるようになりました。彼女たちは「この世が邪悪な人たちによって支配されているのではなく、全能の神様が真理と恵によって治めておられる」ということが分かりました。死がすべての終わりではなく、死後には輝かしい復活があることも悟りました。彼女たちの心とたましいに新しいいのちと力が与えられるようになりました。ところが使徒たちの反応はどうでしたか。
11,12節をご覧ください。使徒たちは『たわごとと思ったので、彼らは女たちを信用しなかった』のです。使徒ですから、本来は信仰深い者たちだったでしょう。本来なら大喜びで感謝するべき事です。ところが、彼らは女たちの証言を聞いても絶望的な事のようにしか感じられませんでした。あまりにも失望してしまい、落胆してしまい、もう信じることが恐くなったのです。信じることで傷ついた彼らは、もうこれ以上傷つくたくないという気持ちがあったのでしょう。しかし、ペテロは見に行きました。彼は、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込みました。ところが、そこにはイエス様のからだはなく、イエス様のからだを巻いた亜麻布だけがありました。これはイエス様が復活されたことの確かな証拠です。確かに、イエス様はよみがえられました。それで、ペテロはこの出来事に驚いて家に帰りました。

?.イエス様の聖書勉強によって変えられたふたりの弟子(13-35)

 13,14節をご覧ください。ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中でした。彼らはエルサレムから脱出して行きました。彼らは脱出者であり、逃亡者です。北朝鮮に脱出した曽我さんの夫チャールズ・ジェンキンさんのような人です。最前線の軍隊では脱出者が見えたら、上官が彼らを銃で撃つこともできます。しかし、彼らの上官、よみがえられたイエス様は、このふたりを責めませんでした。むしろ、彼らを理解し、彼らに近づいてきてくださいました。そして、とても親切に、また謙遜に彼らを助けられました。
 15,16節をご覧ください。ふたりで話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエス様ご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられました。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエス様だとはわかりませんでした。近づいて彼らとともに道を歩いておられるイエス様はどんな方でしょうか。
このイエス様は死者の中からよみがえられた方です。いつも私たちとともにいてくださる方です。このイエス様は昨日も今日もこれからも永遠に生きておられます。私たちがイエス様から逃げた時にも見捨てることなく、近づいてきてくださいます。いつも私たちとともに道を歩いておられる方です。このイエス様は私の人生の同伴者であり、友となられる方です。イエス様は私が悲しい時にも、苦しい時にもともにいてくださいます。私たちが話し合ったり、論じ合ったりしているうちに近づいてきて私たちのことを聞いてくださいます。イエス様は私から遠く離れておられる方ではなく、実際の生活の中で私とともにおられ、交わってくださる方なのです。
ところが,私たちはしばしばふたりの弟子達のように目がさえぎられています。自分の欲望、不信と悲しみのため目が遮られていて、イエス様だとわからない場合が多くあります。しかし、私たちが霊的な目を覚ましてみると、イエス様はいつも自分の近くにおられます。自分とともに歩んでおられることがわかります。その時、私たちは喜びと確信に満ちた生活を送ることができます。イエス様に出会う時、私達は決して寂しくありません。キリストの弟子として歩む道は、人間的に孤独な道です。この間、私はLAに行った時、マリ・ロペス宣教師は信仰が弱かった時、太平洋の向こうにある祖国日本に帰りたくて何度も何度も泣いたと言いました。たったひとりの日本人宣教師としてどんなに寂しい思いをしたでしょうか。しかし、今はいつもともにおられるイエス様と歩む生活をしています。復活信仰によってよって孤独に打ち勝ち、悲しみに打ち勝ってほお笑み、笑顔で主のみわざに仕えています。東京にいる牧者たちも、宣教師たちも、時には寂しい思いがするでしょう。誰も分かってくれないような気がして孤独に陥ってしまうかも知れません。しかし、主はいま生きておられます。わがうちにおられます。「♪♪主はいまー生きておられるー。わがうちにーおられる。すべては主―のみてにあり。あすも生きよう主がおられる。♪」よみがえられたイエス様を信じてイエス様とともに天の御国に向かって巡礼の旅を続けることができるように祈ります。生きておられ、常にともにいて下さる愛のイエス様を賛美いたします。
17-20節をご覧ください。イエス様は彼らに言われました。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まりました。クレオパというほうが答えて言いました。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエス様は、どんなことですか。」と聞かれました。すると、ふたりは答えました。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。」彼らはイエス様の弟子としてイエス様のことをよく知っていました。彼らはイエス様に何を期待していたのですか。
21aをご覧ください。「しかし、私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」とあります。彼らはイエス様に望みをかけていました。というのは、今は望みをかけていないということです。彼らはイエス様に望みをかけていた時、イエス様の弟子としてイエス様について行くことができました。しかし、彼らに復活信仰がなかった時、その望みは永く持ち続けることができませんでした。使命を捨てて自分の故郷に帰るしかありませんでした。私たちは望みをかけていなければ意欲を失ってしまいます。使命人として生きる意味も失ってしまいます。
皆さんは、今、望みをかけているでしょうか。この間、金ヨハネ宣教師は望みをかけていないことに気づかされたとおっしゃいました。そして心を新たにして日本宣教に望みをかけて行くこともお話しました。私たちがよみがえられたイエス様、いつもともにいてくださるイエス様を信じる信仰によって日本宣教と世界宣教に望みをかけましょう。一チームのマンツーマンから始めてフェローシップを形成し、また新しいセンターを開拓して行きましょう。そうして2041年まで日本の500キャンパスの開拓はもちろん、日本からも世界国々に1万2000人の宣教師を遣わすことができるように祈ります。
23-27節をご覧ください。ふたりの弟子は復活に関する喜びの知らせを聞いたのにも関わらず、信じることができなかったので失意と挫折の中で故郷に帰っていました。イエス様は彼らに言われました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と叱られたのです。それから、イエス様は、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。イエス様グループ聖書勉強を導かれたのです。短い時間でも聖書全体を通しての説明をなさいました。すると、先ほどの女たちと同じように、彼らの心は燃えました。心は生き返るようになりました。ここで、私たちは生けるキリストに出会いつづけるためには、聖書全体から学ばなければならないことを学ぶことができます。私たちは日ごとの糧を食べること、聖書通読を通して聖書全体から学ぶ必要があるのです。私たちは、一つだけの聖書の箇所にしがみついていると、自分自身で神のかたちを作り上げ、神の栄光がうすれていきます。しかし、聖書全体が説明されると、絶えず神の啓示が与えられるので、神の御姿が明らかになり、神の栄光をはっきりと見ることができるようになるのです。聖書全体の主題は神の御子イエス・キリストに関することです(ヨハネ5:39)。聖書によると、イエス様は本来神様ですが、人となられて罪人に仕え、また罪人のために十字架につけられて死なれます。そして、死者の中からよみがえられます。そしいて天に上られ、この世を治められます。これが救いのご計画です。イエス様が多くの苦しみを受け、十字架につけられ、死なれたことは私たちのとがと罪を贖うためでした。イエス様は私たちが払うべき罪の代価を代わりに払ってくださり、私たちを罪の鎖から解放してくださいました。またイエス様はよみがえられ、罪の報酬である死の問題を解決してくださいました。そこで、イエス様は「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と語っておられます。苦難による栄光、これこそ聖書が教えているメシヤ観です。これは復活の原理であり、生命の原理です。死なしには復活はあり得ません。また、一粒の麦が地に落ちて死ななければ新しい生命を誕生させることができません。この原理はすべてのことに適用されます。熱心に勉強しないと良い成績が取れないし、産みの苦しみなしには新しい命が誕生しません。しかし、私たちの本性は常に苦難のない栄光を求めています。あんまり苦労せずにお金をもうけようとします。あんまり苦労せずに弟子を立てようとします。しかし、神様は侮られるような方ではありません。種も蒔いてないのに刈り取りが出来るはずがないからです。私達が復活の栄光にあずかるためには苦難を愛し、十字架を負わなければなりません。私達みな復活の栄光にあずかるために苦難を愛しましょう。
 28節をご覧ください。彼らは目的の村に近づいたが、イエス様はまだ先へ行きそうなご様子でした。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエス様は彼らといっしょに泊まるために中にはいられました。彼らとともに食卓に着かれると、イエス様はパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されました。それで、彼らの目が開かれ、イエス様だとわかりました。するとイエス様は、彼らには見えなくなりました。そこでふたりは話し合いました。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」彼らの目が開かれたのはイエス様が聖書を詳しく説き明かして下さったからです。聖書の御言葉を勉強する時、聖霊が働かれ、霊的な目が開かれます。
 33-35節をご覧ください。この二人は喜びの体験をした時、それをともに分かち与えようと急いで出発しました。彼らはその良い知らせを、自分達だけで持っていることはできませんでした。彼らが戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていました。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエス様だとわかった次第を話しました。

結論的に、イエス様は私たちが御言葉に基づいた復活信仰を持つことを願っておられることが分かります。復活信仰は私たちに死に打ち勝つ勝利を与えてくれます。悲しみ、恐れ、失望、失敗を乗り越える力を与えてくれます。復活信仰は私たちに真の喜びを与え、神様の使命を回復させてくれます。そして、復活信仰はイエス様を中心にした聖書勉強を通して持つことができます。どうか、私たちひとりひとりの心に復活信仰が与えられるように祈ります。復活信仰によって世に打ち勝つ勝利の人生となりますように祈ります。