2004年ルカの福音書第64講
父よ。彼らをお赦しください

御言葉:ルカ23:26-53
要 節:ルカ23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」

 先週、私たちは私たちのために苦しみを受けられたイエス様について学びました。イエス様はピラトのもとに苦しみを受けられました。ピラトはイエス様を罪に定めて十字架刑にする人々に引き渡しました。神様はイエス様が私たちの身代わりになって罪に定められることを許されたのです。それで、使徒パウロは「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」と語っています。私たちの身代わりに苦しみを受け、罪に定められたイエス様に感謝します。
 今日の御言葉はイエス様の十字架にかかって死なれ、葬られたことに教えてくださいます。十字架につけられたイエス様はこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」これのイエス様の祈りです。私たちに無条件的な赦しを宣言する愛の祈りです。もし、私たちがこのキリストの無条件的な愛にふれられて十字架の赦しを信じるなら、救われます。神様の子どもとしての身分を回復し、永遠の祝福をいただくことができます。そして、赦せなかった人を赦すことができるようになります。キリストの愛によって赦せない心、憎しみ、嫉み、争いの心が癒されます。人を愛することができるようになります。イエス様の赦しの愛にはそのような力があります。どんな罪人でも新しく変化させる力があるのです。どんな苦しみにも肯定的に、創造的に反応して行ける力があります。
どうか、聖霊に助けによってイエス様の赦しの愛を深く悟り心に受け入れるように祈ります。さらに、赦せなかった心、疲れている心、苦しんでいる心にイエス・キリストの癒しと力が臨まれるように祈ります。

?.わたしではなく、あなたがたのために泣きなさい(26-31)
ピラトの死刑宣告によってイエス様は十字架を背負って都の外に出て行かれるようになりました。その時、イエス様はお体や心の状態はどうだったでしょうか。私たちは毎週ルカの福音書を引き続いて勉強しているのでイエス様の状態を想像することができます。イエス様はすでに少なくとも15時間、苦しみが続けられていました。裏切り者とともにした過越の食事、ユダの裏切り、オリーブ山での苦しみ、サンヘドリン議会で偽善的な裁判を受ける苦しみがありました。大祭司の家でからかわれたこと、鞭に打たれこと、不正な裁判官から死刑宣告を受けることなどを経験して来られました。その上に、イエス様は70キログラムの十字架を背負われました。そこで、兵士たちはどうしましたか。
26節をご覧ください。ローマの兵士たちはシモンというクレネ人をつかまえ、彼に十字架を負わせました。映画「パッション」見ても分かりますが、彼は無理やりに十字架を負わせられたようです。でも、彼はイエス様が、「日々、自分の十字架を負いなさい。」と言われたことを、実際の十字架を負うことによって、その意味を知るようになったでしょう。彼の家族はクリスチャンになりました。福音書の著者マルコは「アレキサンデルとルポスの父」としてシモンを記しています。福音書が書かれる当時、彼の子どもたちは初代教会によく知られたクリスチャンになっていたのです。また、ローマ16:13節を見ると「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私との母によろしく」とあります。ルポスの母、つまりシモンの妻はパウロにとってもお母さんのような存在になっていたのです。また使徒の働きを見ると、クレネにクリスチャンが多くいたことが分かります(11章、13章)。おそらく、シモンの伝道と献身によってクレネ人たちは救われるようになったことでしょう。
結局、シモンひとりが無理やりに十字架を負わせられたとしても、イエス様のために担った十字架が祝福の源となったことが分かります。ひとりが黙々と十字架を背負うとき、自分だけではなく、自分の家族に救いと永遠の祝福が与えられるのです。さらに、自分の地域の人々も、国の人々も祝福されるようになります。本当に、十字架を負うことはやさしくありません。ましては無理やりに十字架を負わせられると、それは大変なことです。しかし、私ひとりでもイエス様のために十字架を負うことができるなら、自分も自分の家族も、同族も救われて、永遠の祝福を受けるようになるのです。
27節をご覧ください。大ぜいの民衆やイエス様のことを嘆き悲しむ女たちの群れがイエス様のあとについて行きました。この女たちはガリラヤからイエス様について来ていた女たちとは違うエルサレムの女たちです。つまり、彼女たちはイエス様に対する信仰、愛と尊敬から嘆き悲しんだことより、死ぬ人に対して嘆き悲しんでいたのです。ユダヤ人たちは、だれかが死ぬと、なるべく大げさに泣いたり、わめいたりします。つまり、本当に悲しくはないのです。彼らは同情心から、ずたずたにされたイエス様を哀れむ心から嘆き悲しんでいました。イエス様はそんな彼らに向かって何と言われましたか。
28?30節をご覧ください。「しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。」とあります。
 イエス様は耐えられない苦しみの中でもエルサレムの娘たちのことを考えられました。エルサレムの人たちは高慢で悔い改めない人たちでした。悔い改めない人たちに下される神様の刑罰は恐ろしいものです。生まれなかったほうが良かったと思うようになります。一般的に子どもが生まれると幸せだと言われます。最近、私は「男ふたり、女ふたり、理想的ですね。あなたは一番幸せな人だよ。」と言われています。しかし、エルサレムが滅亡される時は、子どもを産めない不妊の女が幸いだと言われるようになるのです。実際に、AD70年、エルサレムの娘たちは、このことを経験しました。歴史家テトスの記録によると、飢饉のために子どもを食べることさえあったそうです。
ところが、これはやがてイエス様の再臨の時にわれわれ人類が経験する前兆に過ぎません。黙示録6:16、17節は言います。「山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」その日、御怒りから逃れる道はありません。その時は、悔い改めなかった人々が大声で叫ぶ叫びが今までなかった絶望的な叫びになります。
今もエルサレムの娘たちのような人々はいます。十字架を負って行くことをかわいそうに思います。イエス様のために十字架を負うことを愚かなことのように思います。何でそこまで十字架を負って行くだろうか、と思っています。自分自身が神様の刑罰を受けなければいけない存在であることは考えません。しかし、悔い改めないで十字架を愚かに思う人々には必ず神様のさばきがあります。神様の永遠のさばきは私たちの想像を超える恐ろしいものです。
31節をご覧ください。「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」イエス様は「生木」と「枯れ木」を対照しています。枯れ木は火がついたらすぐに焼いてしまいます。しかし、生木はまだ水分がいっぱいあるからなかなか焼き尽くせません。ですから、生木が焼かれるなら、枯れ木は焼いてなくなってしまうはずです。ここで、生木はイエス様を指し、枯れ木はイエス様に反対し、悔い改めなかった人たちを指しています。つまり、神様がイエス様に起る十字架の死を許されるなら、悔い改めないユダヤ人たちには、もっと恐ろしく過酷な刑罰が下されることを指摘されたのです。今のうちにイエス様の十字架を受け入れて信じなければなりません。その時はもう遅いです。

?.彼らをお赦しください(32?56)
 32、33節をご覧ください。イエス様はふたりの犯罪人とともに十字架につけられました。しかも、真中につけられることによって罪人のかしらとして扱われました。
私たちは人々から認められ、尊敬されることを願います。人々に無視されたと思われる時ほどに屈辱的なときもないでしょう。誰も凶悪な犯罪人と同じくみられることを願いません。ところが、イエス様は何の罪もないのに、犯罪人と同じく扱われました。ただ、誤解されたのではありません。イエス様は残酷なローマの兵士たちによって十字架にかけられました。想像しただけでも恐ろしい光景です。私は先週、本文の御言葉を黙想しながら過しましたが、ある晩、夢の中で映画「パッション」を見ながら多くの涙を流しました。聖歌の400番に「君もそこにいたのか,主が十字架につくとき・・・ああ・・・なんだかこころが震える、震える、震える」とあります。『なんだか心が震える』とありますが、本当にそうです。イエス様はこのような究極の状況で何をなさいましたか。
34節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」とあります。イエス様は十字架につけられ、死なれる時です。人生において究極の時、最期の時です。皆さんはこういう状況になったら何と言い残すでしょうか。
イエス様は十字架で死なれるときに「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」と祈られました。今、イエス様は肉が裂かれて血だるまになっています。長い刺があるいばらで編んだ冠をかぶられた頭から鮮血がほとばしりました。最も残虐な刑罰を受けておられました。その苦しい状況の中でも、イエス様は罪人のために祈られたのです。これはとりなしの祈りです。イエス様の目の前には、彼を十字架につけて、ののしるローマの兵士たちがいます。あざ笑っている指導者たちがいます。イエス様を悲惨な目に合わせ、苦しめている人たちがいるのです。彼らを目の前にして、イエス様は「彼らをお赦しください。」と祈られたのです。しかし、イエス様はそれらの人々だけを指して、「彼ら」と言っておられたのではありません。もちろん、イエス様の十字架につけたとき、彼らが実際に手を下しました。しかし、その背後には人間の罪があるのです。私たちの罪があります。人は一瞬間も神様を裏切る罪を犯さずにいることができないほどに罪深い者です。
私たち人間は神様を知っていながら、その神の神としてあがめず、感謝もしませんでした。かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなっていました。偶像崇拝者になっていました。心の欲望のままに汚れに引き渡されていました。恥ずべき情欲に引き渡されていました。さまざまな快楽を求めていました。あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちていました。神様を憎む者、高慢な者、親に逆らい、自分勝手な道に歩んで行く者でした。(ローマ1:21-32参照)。それゆえ、私たちは罪の代価を払わなければなりませんでした。罪の代価はいのちです。罪の代価として私たちが十字架にかかって血を流し、死ななければならなかったのです。体の死で終わるのではありません。死後には恐ろしいさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。
それだけではなく、私たちは生きている間も罪のために不安と恐れの中で苦しみます。罪を犯すと、すでにさばかれているのです。罪のために心に傷を受けて苦しみます。罪のためにアベルを殺したカインのように、心には平安がなく、罪意識の中で苦しみます。自分は意識しても、しなくても、自分が罪人であることをわかっても分からなくても、私たち人間は罪のために苦しんでいるのです。人々はそれらを忘れるために快楽を求めたり、人々と比較して自分を合理化したりします。しかし、罪は忘れることによって、合理化することによって解決されるようなものではありません。罪はどんな形でもその代価を要求します。私たち人間をさばきと永遠の破滅に導きいれます。
ですから、私たち人間はだれでも罪を赦していただかなければなりません。まずは自分が神様と和解し、平安のうちに生きるためです。また、人と和解し、平和に生きるためです。自分が赦される経験がなければ、人を赦すこともできません。本当に赦されてこそ、人を赦すことができます。  
その時、私たちは神様との平和な関係を回復し、人との間に平和を保つことができるようになります。ですから、私たちはまず神様に赦されなければなりません。そして、赦されるためには罪の代価を払わなければなりません。ところが、イエス様は私たちを赦すためにご自分が身を持って代価を払ってくださいました。ペテロは言いました。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(?ペテロ2:24a)。イエス様は私の身代わりになって鞭に打たれました。多くの苦しみを受け、ついに最も恐ろしい刑罰である十字架につけられたのです。そして、私たちの罪をその身に負われたイエス様は私たちの赦しのために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」また、この祈りの中には私たち人間に対する赦しともに、イエス様の人間に対する深い理解が表われています。イエス様を十字架につけた彼らは世の救い主を殺していながらも、自分たちが何をしているのか、分かりませんでした。イエス様はそんな彼らを責めませんでした。むしろ、罪を罪として知らない彼らを深く理解してくださいました。彼らを深く哀れんでくださり、「彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたのです。
この祈りにイエス様の赦しの愛がよく表われています。ここに神様の愛があります。神様は聖なる方です。罪に対しては必ずさばかれます。しかし、神様は私たちを愛してくださりキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。(ローマ3:25)。イエス様はこのような神様の愛によって罪人たちを赦されたのです。イエス様は私たちが知らずに犯して罪までも、あらゆる罪を十字架の上で赦してくださいました。
イエス様は十字架上で私たちのすべての罪を赦すことによって神様と人間、人間と人間の間にある敵対関係を消滅されました。それによって私たちは神様と和解し、人間相互間にも和解して互いに愛し合える平和の関係を結ぶようにしてくださいました。イエス様の十字架は赦しの十字架、平和の十字架となりました。私たちは十字架を通して、信仰によってのみ、神様と和解することができます。人間との関係も平和になります。このように十字架の赦しの愛には、和解させ、平安を与える力があります。
韓国には、国民的に英雄として尊敬されている方で孫ヤンオォン牧師がいます。1946年、共産思想化した青年ゲリラに自分のふたりの子どもを殺されました。それでも、彼は涙をこらえつつ自分の子どもを殺したその青年を赦しました。その青年が死刑判決を受けると助命を嘆願しました。更にその青年を養子として引き取りました。そして、その青年をクリスチャン教育をして聖書学校へいれ、やがてその青年は伝道者になったのです。どこから、敵を愛する力が生まれたでしょうか。それはイエス様の十字架の赦しの愛を受けたからです。
私たちは知らず、知らずに罪を犯してイエス様を十字架につけます。人を嫉み、憎むことによってイエス様を十字架につけます。神様に感謝もせず、逆らってイエス様を十字架につけます。しかし、イエス様は十字架の上で、このような私たちのために切実に祈っておられます。「父よ。彼らをお赦しください。」私たちはこのキリストの祈りによって赦されています。
35-38節をご覧ください。ユダヤ人の指導者、ローマの兵士、そして犯罪人が、イエス様をあざけりました。彼らはみな、「救え!」と叫んでいます。そして、それぞれの立場から「救え」と叫んでいます。まず指導者たちの救いは、宗教的な救いです。ローマ兵士の叫んだ救いは、武力の救いです。あるいは、あらゆる物理的な抑圧から解放されている状態が救いとなります。多くの人は、問題は社会制度にあると言います。今の問題が起こっているのは教育がいけない、政治家や経済人がきちんとしていないなどと言います。しかし、イエスの救いは、内側の救いです。自分自身が変わらなければ、組織も制度も変わりません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくされました。(2コリント5:17)」とあります。キリストの救いによって私自身が生まれ変わるのです。
40、41節をご覧ください。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とあります。もうひとりの犯罪人は神様を恐れ、イエス様が正しい方であることを認めています。自分は罪人であり、罰を受けるべき存在であることも認めています。その上で、神様のあわれみと恵みを願いました。これらのことは、真の救いを体験するのに必要になります。イエス様は彼に言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は、「きょう」と言われました。彼はまだ十字架につけられています。外見上は何の変化もありません。けれども、罪の赦しを得たのです。彼は天国の市民として新しく生まれ変わりました。これが救いです。
44-49節をご覧ください。そのときすでに十二時ごろになっていましたが、全地が暗くなって、三時まで続きました。太陽は光を失っていました。また、神殿の幕は二つに裂けました。この幕は、聖所と至聖所を分ける幕のことです。聖所は、日々祭司が奉仕のために入ることができるところですが、至聖所は年に1回、大祭司しか入ることができません。その上、大祭司は、念入りに罪のささげものをして自分を清めてから入ります。それでも、奉仕のあいだに打たれて死ぬこともあるのです。なぜなら、聖い神様ご自身がそこに宿られていたからです。この幕が裂けました。神様の愛する子イエス様の死によって、全ての人が聖なる神様に近づくことができるようになったことを証しされたのです。私たちはイエス・キリストの死によって神様に行ける道が開かれたのです。イエス様は大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰りました。しかし、イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。
イエス様の知人たち、女たちは遠くに離れて、これらの出来事を見ました。彼らにとって、これは見るに耐えない光景だったでしょう。
50-53節をご覧ください。サンヘドリンにおいて、すべての人がイエス様を死刑にすることに賛成票を投じなかったヨセフが、ピラトのところに行って、イエス様のからだの下げ渡しを願いました。本当に勇気ある行動をしました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めました。当時、岩に掘られた墓は、裕福な人だけのものでした。イザヤ書53章「彼は富む者とともに葬られた。(9)」という預言が成就しています。イエス様は、犯罪人としてさばかれましたが、ここで尊厳をもって葬られました。正しいことに固く立つ人によって丁重に葬られたということは、イエス様が正しい方であることを示しています。
54-56節をご覧ください。ガリラヤからイエス様といっしょに出て来た女たちはイエス様が葬られることを見届けました。確かにイエス様が死んで、葬られたことが確認されました。実際に死んだことが、ここでは強調されています。仮死状態ではなく、本当に死なれたのです。

以上で、イエス様は全く罪のないお方ですが、私たちの罪を赦すために、十字架にかかられて死なれたことが分かります。イエス様は赦される価値のない私を赦して救うために、あれほど恐ろしい十字架を背負ってゴルゴタの丘を上られました。十字架につけられて死なれるその時にも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」と祈ってくださいました。このイエス様の赦しの十字架の愛によって私のような者も赦されました。イエス様の赦しの愛を心から感謝します。私たちにこのイエス様の愛が注がれて人を赦し、愛する生活ができるように祈ります。悪いことをしても、罪を犯しても、人の心に傷つけても、自分が何をしているのか分からない人をも理解して赦すことができるように祈ります。