2004年ルカの福音書第61講               
一番偉い人
御言葉:ルカの福音書22:24-38
要 節:ルカの福音書22:26「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」
 
先週、私たちは、イエス・キリストの血による新しい契約を学びました。私たちはキリストの血による新しい契約を信じる時、イエス様が流された血によってすべての罪が贖われます。キリストの血には私たちの罪を取り除く力があります。肉の欲を取り除く力があります。キリストの血は悪魔のわざを滅ぼす力です。罪と汚れをきよくする力です。私たちはキリストの血によって救われます。キリストに血によって義と認められます。キリストの血によって生まれ変わります。イエス・キリストは私たち一人一人のために、十字架につけられ、貴い血を流されました。私たちはいつもキリストの血による救いの恵みを覚えて感謝しなければなりません。私たちがイエス・キリストの血による救いの恵みを覚えているなら、自ら進んで神様の栄光のために生きることができます。
イエス様はご自分が十字架につけられる前夜、最期の晩餐の時、この大切なキリストの血による新しい契約を教えてくださいました。おそらく、イエス様は弟子たちが彼らのために流されるキリストの血の意味を吟味しながらキリストの死を備えることを望まれたでしょう。ところが、彼らの間ではどんなことが起こっていましたか。悲しいことに最期の晩餐の後、弟子たちの間には「だれが一番偉いだろうか」という議論も起りました。また、その晩、ペテロには鶏が鳴くまでに三度もイエス様を知らないと言うだろうという警告が与えられました。イエス様の最も近くにいた弟子たちです。十字架の死を目の前にしておられるイエス様のお心を最もよく知っているはずの弟子たちです。それなのに、彼らは主なるキリストの死より、自分のことばかり考えていました。「主よ。主よ」と言いながらも自分のことしか考えない人間の姿が現われています。イエス様の十字架、血潮による救いの恵みよりも自分のことばかり考えている自分の醜い姿です。
 そこで、イエス様は本当に偉い人とはどんな人なのか、どんな価値観を持って生きるべきかを教えてくださいました。ここで、私たちはイエス・キリストの貴い血潮によって救われた人が持つべき正しい価値観を学ぶことができます。どうか、御言葉を通して、この世の基準とは大きく異なっていますが、神様には最も偉い人として成長することができるように祈ります。

?.一番年の若い者のようになりなさい(24?30)
 24節をご覧ください。「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。」とあります。イエス様は十字架につけられて血を流されることを考えておられたのに、弟子たちの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという議論が起こりました。ルカが「また、彼らの間には・・・」と書いていることを見ると、初めての議論ではなかったことが分かります。彼らは何度も何度も「だれが一番偉いだろうか」と考えたでしょう。そして、時々、大声で「自分たちの中でだれが一番偉いだろうか」と議論していたのです。キリストの真の弟子である彼らの間にも、高慢、嫉妬、競争心、出世欲などがありました。もちろん、彼らの間で一番偉いのは、政治界やヤクザの世界における政治力や暴力ではなかったはずです。オリンピックで金メダルを獲得するようなものでもなかったでしょう。そういうことより、自分を人より優れた者、もっと霊的な者として思う高慢、競争心、嫉妬などがありました。彼らが議論していることはクリスチャンの世界で起こりうる精神的なもの、霊的なものであったのです。キリストの弟子になると、この世の財産とか権力、地位などには関心が少なくなりますが、名誉欲はもっと強くなっていくのではないかと思います。その名誉欲のためにパリサイ人のようになる場合も少なくありません。人はクリスチャンになっても、もっと優れた者、もっと偉い人、もっと霊的な者として認められたい欲が消えないのです。なぜなら、人は神様の形に似るように造られているからです。私たちは最も偉大な神様のイメージに似ている者として常に大いなる者になりたがるのです。神様はアブラハムを召されるとき、仰せられました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:2)。この御言葉を見ると、神様も私たちが大いなる者、偉い人になることを願っておられることが分かります。神様は私たちがちっぽけな者ではなく、大いなる者、本当に偉い人になることを願っておられます。私たちに本当に偉い人になりたがる希望がなければアブラハムの神様の御前で悔い改めるべきです。私たちは一番偉い人になる希望を持ち、偉い人として成長しなければなりません。しかし、神様にある偉大さはこの世の基準とは大きく異なっています。異なっているどころか、まるで正反対です
25節をご覧ください。「すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。」とあります。この世の人々の間で最も偉いとされるのは、人々を支配する王たちです。また、人々の上に権力を持つ者たちです。つまり、この世では、最も大きい会社、最も多くの社員、最も高い地位、最も強い権力を持つ者たちが偉い人として見なされます。オリンピックで金メダルを取る人、イチロや松井のような野球選手が偉い人です。「冬のソナタ」で世界的に有名になっているヨン様のようなタレントも偉い人です。もちろん、この世の価値観から見ると、彼らは尊敬されるのに値するほど偉いと思います。私はオリンピックで金メダルを取るために体を鍛えて来た選手たちの人間ドラマに感動します。ある水泳選手は、水泳選手の子どもとして〇才から23年間も泳ぎ続けて来たと言いました。すごいですね。ほんとうに偉いと思います。
しかし、イエス様はご自分の弟子たちが世の人々の間で偉くなることを望みませんでした。イエス様は神様がご覧になる時、最も偉い人になることを望まれました。そこで、イエス様は神様の観点から見ると、ほんとうに偉い人はだれなのかを教えてくださいました。
26節をごいっしょに読んでみましょう。「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」イエス様は弟子たちの間で「だれが一番偉い人なのか。」を教えてくださいました。その人は、一番年の若い者のようになる人です。では「一番年の若い者のようになる」ということは何を意味するでしょうか。
第一に、給仕する人になることです。つまり、若者は行動し、働く人です。27節をご覧ください。「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」とあります。年寄りは食卓に着きますが、若者は給仕します。年よりは食卓に着いて話することが好きですが、若者は給仕するために行動し、働くのです。大体、人は年寄りになると行動することより話をすることが好きになるような気がします。
先週、私は在日韓国教育者研修会に行ってきましたが、夜は勉強になると思って和光大学の名誉教授のお話を聞きました。ところが、彼は75歳の高齢であるにもかかわらず、話が止ることなく、夜中の3時までも続きました。やはり年よりはお話が好きだなあと思いました。しかし、年取っても一番年の若い者のようになっている人は、話より行動します。私はMSU修養会の時、アブラハム金宣教師の行動する姿を通して大きな恵みを受けました。彼は留学生宣教師の時、シカゴの責任牧者Ron Wordの1:1牧者であったし、韓国では20年間も教授牧者として多くの宣教師たちを養成して世界中に派遣した神様のしもべです。ところが、私がダニエル吉羽牧者に会いに行った時、アブラハム宣教師は通訳する機械室で若者のようになって働いていました。全ヨハネ牧者はもう還暦を越えていますが、一日18時間働いても翌朝はまた働きたい意欲に満ちていると言いました。Mother Barry宣教師は70歳を超えていても世界中を回りながら働いておられます。使徒パウロは「私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」と告白しています(?テサロニケ2:9b)。やはり、ほんとうに偉い人は年をとっても若者のようになっていることが分かります。イエス様は弟子たちも給仕する人になることを願われました。彼らが年を取っても若者のようになって人のために給仕し、働くことによって真に偉い人になることを願われたのです。
第二に、若者の特徴は成長することです。年よりは身体的にも、知的な面においても衰えていくそうです。しかし、若者の特徴は身体的にも、知的にも、精神的にも、霊的にも成長していくことです。ですから、若者のようになることは常に成長することを意味するのです。偉大なキリストのしもべたちは常に成長していることが分かります。パウロは一生をあげて成長するために闘争していました。?コリント13:11節を見ると「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたがおとなになったときには、子どものことをやめました。」とあります。また、エペソ4:15節を見ると「むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とあります。私たちは幼稚な子どものように考え、話すのではなく、あらゆる点において成長する必要があります。私たちが成長する目標は、かしらなるキリストに達することです。真に偉い人は元気旺盛な若者のようになって絶えず、祈り、勉強し、霊的に闘争して成長する人なのです。ですから、イエス様は弟子たちも仕えるしもべとして霊的に成長することを願われました。真の偉大さは食卓に着く者のように仕えられることにではなく、給仕する人のように仕えることにあるからです。偉大さは受けることにではなく、与えることにあります。あぐらをかいてちやほやされることにではなく、腰軽く他の人の世話をすることにあります。御使いたちは、人々に仕え、人のために世話をする牧者や宣教師の働きを総理大臣の働きよりはるかに美しく見ています。御使いたちにとっては「冬のソナタ」のヨン様より、福音のために黙々と働いている牧者や宣教師がもっと偉い人なのです。そして、この世の人々の中でも真理を愛する人々は仕えられている人よりも仕える人を心から尊敬します。高慢な人よりも謙遜な人に心から従います。弟子たちも権力もなく、名誉もなく、社会的な地位もなく、ただ仕えているイエス様に従いました。
28節をご覧ください。「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」イエス様は食卓に着く者ではなく、給仕する者としてこの世の価値観から見ると偉くありませんでした。しかし、弟子たちは仕えるしもべイエス様を尊敬し、イエス様についてきてくれました。ですから、弟子たちもイエス様のように仕えるしもべとして生きるなら、人々の間でも尊敬され、彼らについて来てくれる人々が現われます。実際に、使徒の働きを見ると、数多い人々が弟子たちについて来てくれました。今なお、世界中の人々が弟子たちを最も偉い人と思って名前をヨハネ、ペテロ、ヤコブ、バルナバなどの名前をつけています。しかし、それよりももっと価値ある神様の報いがあります。
29節をご覧ください。「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。」これは、神の国における報いです。私たちクリスチャンもみな、同じように与えられます。黙示録1章6節には、「イエス・キリストは、私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった(1:6参照)」と書かれています。ただ、使徒たちには特別な地位が与えられます。30節を見てください。「それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」とあります。 回復したイスラエル、最後にイエス・キリストを信じて新生するイスラエルを支配するのが使徒たちです。こうして、イエス様は彼らの不安を取り除こうとされました。あなたがたは、わたしに最後までついてきてくれました。天にはこのような大きな報いがあるのだよ、と語りかけてくださったのです。

?.あなたのために祈りました(31?38)
  31節をご覧ください。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」とあります。先週、私たちはサタンがユダにはいったことを学びました。今度はサタンがペテロに働きます。ここでイエス様はペテロではなく、「シモン、シモン」と呼ばれました。なぜでしょうか。このシモンとういう名前は、教会の指導者としての名前ではありません。生れたときに与えられたものです。それを考えてみると、これからペテロが陥るわなは、生まれながらもっていたシモンの性質によって引き起こされたものであることを示唆してくれると思います。ペテロは、勇気と義理の男でした。主の言われることに大胆に従った性格の持ち主でした。けれども、生まれながらの性質ではサタンにやられてしまいます。私たち人間は本性のままでは失敗をしてしまう弱い存在なのです。しかし、そんなペテロの信仰ためにイエス様は何をなさいましたか。
32節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はペテロの信仰が無くならないように、祈られました。でもイエス様はペテロが失敗しないように、とは祈られていません。信仰がなくならないように、と祈られています。ここで、私たちは失敗することよりも、信仰がなくならないように祈らなければならないことを学びます。失敗は挽回することもできます。また、私たちは信仰がなくならなければ失敗を通しても霊的な教訓を学び、さらい霊的に成長することができます。ですから、失敗を恐れる必要はありません。しかし、信仰がなくなったら、挽回することはできません。信仰がなければ救われることも、神様に喜ばれることもできなくなります。ですから、ペテロのように大げさに言わなくても信仰を守ることが最も大切な事です。ところが、ペテロはどうでしたか。
33,34節をご覧ください。「シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」とあります。ここで、ペテロの話を考えてみると、彼は自分の思いで、自分の力でイエス様に従っていたのが分かります。しかし、イエス様に委ねないでただ自分の意志や自分の力だけでは最期まで信仰を守ることができません。そこで、イエス様は、彼にそれではいけないことを教えるために、三度もイエス様を否認する失敗を許されます。失敗したときに、それでもイエス様を信じるとき、それが本当の信仰になります。なぜなら、信仰とは、自分が死んだ者であることを認め、力と知恵と愛などすべてのものはイエス様から来ることを信じることだからです。そういうわけで、イエス様は彼の失敗を許されながらも彼の信仰がなくならないように祈られました。そして、彼らが信仰によって行なう時にいかに大きなことができたかを思い起こさせてくださいました。
35節をご覧ください。「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」とあります。これは、70人の弟子が遣わされたときのことです。彼らがイエス様を信じてただ信仰によって出て行った時に何も足りない物がありませんでした。なぜなら、イエス様の権威を授かって、イエス様の権威によって活動していたからです。しかし、今はどうするべきですか。
36、37節をご覧ください。「そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」イエス様は弟子たちに、これから直面することに、十分用意していなさい、と言われています。それはイザヤ53章12節の御言葉が実現するためでした。でも、弟子たちは、その意味を汲み取っていなかったようです。38節をご覧ください。「彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。」彼らは、イエス様が血肉の戦いに臨まれると思ったのでしょう。しかし、イエス様の戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、イエス様は弟子たちの信仰がなくならないように祈られたのです。霊的な戦いにおいても最も強い武器は祈りです。二振りの剣ではありません。でも、イエス様は、「それで十分」と言われて、それ以上は説明されませんでした。

以上で、私たちはキリストの血によって救われているクリスチャンが持つべき人生観について学びました。私たちは毎日日ごとの糧を通してキリストの血による救いの恵みを覚える時、謙遜になります。そして、ただ神様の栄光のために若者のようになって人々に給仕し、仕えるなら、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができます。真に一番偉い人になります。私たちも偉い人になりましょう。そのために、いつも、若者のように主のみわざに仕え、若者たちに仕える生活ができるように祈ります。