2004年ルカの福音書第58講

生きている者の神様

御言葉:ルカの福音書20:20?47
要 節:ルカの福音書20:38
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

 イエス様がエルサレムに入城されて宮をきよめられると、宗教指導者たちは「何の権威によって、これらのことをしておられるのか。」とイエス様に詰め寄って来ました。それでイエス様は「ぶどう園の農夫のたとえ」を通して、ご自分がどんな方であり、彼らの罪が何であるのかを教えてくださいました。ところが彼らは良心は痛みながらも悔い改めようとはしませんでした。それどころかイエス様を手にかけて捕らえようとしましたが、民衆を恐れて何もできませんでした(19)。
 本文では、律法学者、祭司長たち、そしてサドカイ人たちがイエス様に質問して、イエス様のことばを取り上げて総督の支配と権威に引き渡そうとする場面が記録されています。しかしイエス様は神様の知恵で彼らのたくらみを退けられました。そして彼らに神様の民として持たなければならない姿勢と復活の生きる望みを教えてくださいました。本文の御言葉を通して、「生きている者の神様」について学びたいと思います。

?.カイザルのもの、神様のもの(20-26)
 律法学者と祭司長たちはイエス様に手をかけて捕らえる機会をうかがっていました。それで寝る間も惜んで、ただ「どうすればあのイエスを罠にはめることができるのか」考えつづけました。そしてついにエス様のことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエス様を引き渡す妙案が浮かび上がりました。彼らはすぐに間者たちをイエス様のところに送りました。

 21,22節をご覧ください。間者は義人を装ってイエス様に質問して言いました。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」これは本心から言ったことではありませんでした。彼らは友だちのようにイエス様に近寄って来て、媚びへつらうことでイエス様の自尊心をくすぐりました。そしてすかさず質問しました。「私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」この質問は本当に答えづらいものでした。当時、民たちはローマ帝国に税金を治めることに反対していました。それで取税人たちを「売国奴」「民族の裏切り者」と言って相手にもしませんでした。その中でもしイエス様が「カイザルに税金を納めるべきだ」とお答えになればどうなるでしょうか。すぐにイエス様の人気は地に落ちてしまいます。それによって民たちとイエス様の間に隙間が生じてしまいます。ところが逆に、イエス様が「税金を納めてはならない」とお答えになると、当時世界を支配しているローマに反旗を翻す反逆人として捕らえられてしまうのです。どっちに答えても、イエス様の立場は危うくなるのです。間者たちは「分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と話すことによって、イエス様が彼らの質問を無視することができない状況を作り上げました。宗教指導者たちは100%勝利を確信し、微笑を浮かべました。「今度こそ、あのイエスに勝つことができるんだ。間違いない。」
では、イエス様はどのようにお答えになったのでしょうか。
23-25節をご覧ください。イエス様はそのたくらみを見抜いて、デナリ銀貨を持って来させ、「だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と質問されました。彼らが「カイザルのです。」と答えると、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と言われました。宗教指導者たちは民衆の前で、イエス様のことばじりをつかむことができず、驚嘆しました。
では、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」とはどのようにすることなのでしょうか。これは国家に対する義務と神様に対する義務を果たすように教えている御言葉です。私たちクリスチャンは二つの国籍を持っています。すなわち地上での国籍と天の御国での市民権です。日本には国民として果たすべき義務が三つあります。それは教育、勤労、納税です。私たちはクリスチャンとして脱税をしてはいけないのです。さて年に一回年末調整がありますが、大体税金が戻ってくることを期待して書類を準備すると思います。ところが支払った税金が少ないと超過課税されてしまいます。それで余計に税金を支払うようになると、「あの時、申告しなければ良かった。」と後悔するのではないでしょうか。たとえ税金を少なく払ったとしても、いつかはそのツケは回ってくるものなのです。使徒パウロは言います。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ロマ13:1)更に職場で働いている人は、忠実にその仕事を担うべきなのです。
それだけではありません。私たちは神様の子どもとして神様に対する義務も果たす必要があるのです。週1回捧げる主日礼拝や献金などもその例と言えるでしょう。私たちが持っている命、財産、時間、子どもなどは全て神様のものなのです。それで私たちは管理人として主なる神様が必要な時に、いつでも神様に差し出す姿勢が必要なのです。特に私たちは、私たちのからだを、神様に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる義務があるのです(ロマ12:1)。

?.生きている者の神様(27-47)
 律法学者と祭司長たちが、イエス様のお答えに驚嘆し、黙ってしまうと、サドカイ人のある者たちがイエス様のところに来て、質問しました。
 28-33節をご覧ください。彼らは申命記25:5-10節の御言葉に基づいておかしな質問をしました。イスラエルの民たちは子孫を重要視し、兄が妻をめとって死に、子どもがなかった場合はその弟が兄の妻をめとって子どもを得て、代を絶やさないようにしなければなりませんでした。「七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」この質問は実際には起こりえないことでした。もしイエス様が話されるような復活があるとしたら、復活の時には同じ血を分けた七人の兄弟が一人の女を巡って争いが起こるという悲劇が起きてしまうのです。三角関係ではなく、八角関係が生じるのです。彼らがこのような質問をするのは、死後の復活を否定するためでした。なぜならサドカイ人たちは復活があることを否定し、御使いも、霊も信じていませんでした(使23:8)。彼らは永遠のいのちや将来来るさばきも信じませんでした。目に見える世界にだけ執着しました。彼らの関心は現実の富と権威にあったのです。

 イエス様はこのような質問をしたサドカイ人たちの霊的な無知を悟らせてくださいました。マルコの福音書12:24節でイエス様は言われます。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」
 34-36節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。』」私たちがこの世で生活している間はめとったり、とついだりしますが、これは生きて行く上で必要なことです。ところが死人の中から復活する時にはめとることも、とつぐこともありません。私たちが御使いのように霊的な存在になるからです。
 私たちのからだはこの世で生活できるように作られています。しかしこの朽ちてなくなる体は天の御国を受け継ぐことができません。私たちが神の御国に入るためには私たちのからだが変わらなければならないのです。使徒パウロは、私たちの体が将来栄光あるものに変わることを証ししました。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」 (?コリ15:42-44)。その時にはもう罪の誘惑に支配される必要もありません。将来のこと、結婚のことで悩む必要もありません。栄光ある神様の子どもとなり、栄光ある私たちの主とともに、神様の御国で永遠に栄光を受けるようになるのです。神様は全能なる神様なのでそのようにすることができるのです。
 37,38節を皆さんと一緒に読みたいと思います。「それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」サドカイ人たちは聖書を知りませんでした。モーセ五書だけを聖典としましたが、モーセ五書にはどこを探しても「復活」という言葉がないと言って、復活の真理を否定しました。しかしイエス様は、「モーセも柴の箇所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死人がよみがえることを示した。」と言われましたが、これは、神様が、荒野生活40年にして絶望しているモーセに現れて言われた出来事を背景にしています。神様はモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(I am the God of Abraham, the God of Issac, the God of Jacob)と言われました。「これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」とも言われたのです(出3:15)。ここには深い意味があるのです。

 第一に、神様はいつも生きておられる方です。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(I am the God of Abraham, the God of Issac, the God of Jacob)この御言葉は時制が現在形になっていて、神様はアブラハムやイサクやヤコブやモーセに話された時、いつでもご自分が生きておられることを教えてくださいます。神様はとこしえの方なので時間と空間に制約される方ではありません。この神様は今日、現在も生きておられる私の神様になってくださるのです。それで私たちがこの神様に祈る時、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。

 第二に、人は永遠に生きることができる存在です。アブラハムも、イサクも、ヤコブもみな死んでしまいました。しかし肉体的には死んでいますが、霊的にはみな生きているのです。彼らは全能なる神様の力によって生かされました。またイエス様は言われました「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25,26)。私たちが、よみがえりであり、いのちであるイエス様を信じて受け入れるならば、私たちの体は救われ、生かされるのです。

 第三に、神様は歴史の神様であることを証ししてくれます。神様はアブラハムとイサクとヤコブの神様であり、アブラハムとダビデとイエス・キリストの神様です。また神様は私の神様になられます。今ここにいる皆さん一人一人の神様になってくださいます。神様は個々人の生涯を導いてくださる人格的な方であるばかりではなく、世の歴史を動かしてくださる歴史の神様なのです。

もう一度38節を皆さんと一緒に読みたいと思います。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」ここで、「死んだ者」とはサドカイ人のように復活の信仰がない人々のことを指しているのです。彼らは信仰がなく、いつも悲観的で、運命的な考え、限界があり、敗北で満ちています。彼らの心はいつも悲しく、暗い顔をしています。このような人々は神様を知ることができず、会うこともできません。何より一番こわいのは救いを受けることができないことです。救いを受けることができないと、神様の恐ろしいさばきをうけるしかありません。
反面、「生きている者」とはどのような人のことを言うのでしょうか。一言で、アブラハム、イサク、ヤコブのように信仰によって生きる人を指します。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブ11:13)。彼らは復活の信仰を持っている人たちです。彼らは神様が生きておられ、ご自分を探す者たちに賞をくださる方であることを信じる人たちです。彼らは信仰によって義と認められました。しかし彼らの人生が全て順調だったわけではありません。時には現実の問題にぶつかってしまい、悲しみ絶望した時もありました。しかし彼らの生活には死の要素がありませんでした。悲しい運命がなく、「不可能」や「敗北」と言う単語がありませんでした。いつも明るく、肯定的で、望みが満ち溢れていました。神様はこのような人の神様になることを喜ばれるのです。神様は彼らを生かされました。それで今もなお天の御国で彼らは生きているのです。

 この神様は今も生きて働いておられます。私の家庭は子どもことで悩み、七年もの間、「子どもをくださるように」と神様に祈りつづけました。それで神様は祈りを聞いてくださり、マリヤ宣教師が身ごもるようにしてくださいました。日に日に大きくなるマリヤ宣教師のお腹を見ながら、私は祈りを聞いてくださる神様を実感するようになりました。それで春の修養会の後からは、週に二回家庭礼拝を設け、子どものために祈る時間を持つように決断するようになりました。ところが予期せぬことが起こりました。7月に入り、マリヤ宣教師は暗い顔をして病院から帰って来ました。話しを聞くと、「胎内の子どもがあまり成長しないため、普通の子どもに比べて小さ過ぎ、次の検査までに成長しなければ入院しなければならない」とのことでした。そのためマリヤ宣教師は体を休めるため仕事をやめました。私も仕事が減って、収入が半減していました。そのような状態の中で、マリヤ宣教師は検査のために毎週病院に行きました。心配した韓国の両親は何度も電話をして来ました。検査のたびに、子どものことで思い悩むようになりました。毎週2回子どもの成長のためにマリヤ宣教師と心を合わせて祈っていますが、出産の費用だけではなく、今後マリヤ宣教師が入院するようになった場合の入院費の捻出のため、将来に対する恐れと不安がよぎりました。このような私に神様は、本文の御言葉を黙想し、メッセージを準備するように助けてくださいました。神様は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」という御言葉を通して、私に復活信仰を持つように助けてくださいました。実際に私は同労者と心を合わせて祈っていましたが、祈りながらも恐れと不安がなくなりませんでした。むしろ予定日が近づくにつれて、日に日に強くなって行きました。神様は、私が不信仰を悔い改め、死んだ者をも生き返らせる「生きている者の神様」を信じ、仰ぎ見えるように助けてくださいました。私はメッセージを準備しながら、自分の不信仰を悔い改めるようになりました。すると神様はお腹の中の子どもとマリヤ宣教師の健康を全て神様に委ねる信仰を持つようにしてくださいました。私が続けてこの神様を信じて仰ぎ見る時、神様は必ず胎内の子どもを成長させてくださり、将来神様のしもべとして尊く用いてくださる確信を持つようになりました。そして子育てに必要な全てのものを備え、環境を備えてくださる方であることを信じ、確信するようになりました。私が続けてこの神様を信じ最後まで祈って行く中で頼る信仰を持つことができるように祈ります。さらに進んで、この神様をキャンパスの学生たちに証し、新学期にはマンツーマンの御業に励み、来年の夏修養会に一人を招くことができるように、祈ります。

 39,40節をイエス様の答えを聞いて、律法学者のうちのある者たちは「先生。りっぱなお答えです。」と言いました。彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がありませんでした。
 41節をご覧ください。当時人々はキリストがダビデの子と言っていました。しかしイエス様は詩篇110:1節の御言葉に基づいて、イエス様がダビデの主であることを証しされました。これはキリストの神性を話してくれます。イエス様は肉体的にはダビデの子になります。しかし霊的には死者の中から復活により、大能によって公に神の御子として示された方なのです(ロマ1:4)。
 イエス様は続けて、「律法学者たちには気をつけなさい。」と言われました(45-47)。彼らは人々の前では偽善のふりをしていましたが、やもめの家を食いつぶす者でした。彼らは敬虔のかたちはありましたが、敬虔の力がない人たちでした。彼らは人一倍きびしい罰を受けるのです。

結論的に、神様は死んだ者の神様ではなく、生きた者の神様です。この神様に対してはみなが生きるのです。神様はイエス様を死者の中からよみがえらせたように、私たち人間も死者の中からよみがえらせる力を持っておられます。それだけではありません。私たちを天の御国の皇太子として新しく造り変えてくださる方です。この神様を信じて信頼し、一人一人が天の御国に対する望みを持つ中で一日一日を神様と共に歩む生活ができるように祈ります。