2004年ルカの福音書第55講

これで商売しなさい

御言葉:ルカの福音書19:11?27
要 節:ルカの福音書19:13「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」

先週、私たちは失われている者たちを捜して救うためにこの地に来てくださった救い主イエス様と、大喜びでイエス様を迎え入れたザアカイについて学びました。イエス様はザアカイの家にお泊りになりましたが、イエス様と交わったザアカイは悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶために具体的な決断もしました。彼はイエス様のように神様を愛し、隣人を愛する新しい人生を出発したのです。私たちもザアカイのように失われていた者を捜して救ってくださるイエス様を喜んで受け入れて悔い改め、悔い改めにふさわしい実のために決断する生活ができるように祈ります。では決断してからはどうするべきでしょうか。
今日の御言葉で、イエス様はたとえを通して「これで商売しなさい。」と言われます。イエス様が帰るまで、つまり、再臨の日まで主のために働いていなさいということです。やがてイエス様が再び来られる再臨の日は、審判の日です。主のために忠実に働いた人に神様のご褒美が与えられます。しかし、主のご支配を望まなかった人々は罰せられます。イエス様は私たちがその日に罰せられることなく、神様のご褒美をいただき、報いられることを望んでおられます。ではイエス様が再び来られるその日まで「商売する」ということはどういうことでしょうか。聖霊が私たちのうちに働いてくださり、その意味をはっきりと悟らせてくださるように祈ります。

?.これで商売しなさい(11?13)
11節をご一緒に読んでみましょう。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」人々がザアカイのこと、つまり彼が大喜びでイエス様を受け入れたこと、彼が180度変わったこと、イエス様が彼に言われたことなどに耳を傾けているときです。イエス様は彼らに一つのたとえを話されます。それは、イエス様がエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからです。人々はイエス様がエルサレムに入られたら、すぐにローマ帝国が倒し、ご自分の国を立てられると考えていました。なぜなら、彼らは今までイエス様が行なわれた力あるわざ、奇蹟などを見てきたからです。イエス様は今まで多くのことをなさいました。病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの奇蹟も起こされました。特に人々がイエス様に出会うと、変えられて行く姿を見ました。夫の問題でひきこもって生きるしかなかったサマリヤの女が人々にイエス様を証しする宣教部長になりました。何よりも取税人のかしらザアカイの変化は奇蹟でした。彼は利己的であり、自分しか考えない人、お金しか考えない人でした。そんな彼でもイエス様の愛によって悔い改めてイエス様を愛し、隣人を愛する新しい人生を生きるようになりました。あの悪質なザアカイもイエス様のご支配を受けるようになったのです。それは、一世紀の奇蹟でした。神の国がエリコに臨まれたしるしでもありました。人々はザアカイの悔い改め、彼の変化を通して神の国がすぐにでも現われると思いがますます確実になりました。イエス様がエルサレムに着いた時は、ローマ帝国の皇帝アウグストも悔い改めてイエス様にご支配を受けるだろうと思いました。その時、やっと、この地上に神の国、目に見えるメシヤ王国が建設されるに間違いないと思いました。しかも、すぐにでも神の国が現われると思いました。しかし、神の国はいきなりに建てられるような国ではありません。地上王国でもありません。イエス様がすでに「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と教えてくださいました。この神の国は、霊的な国であり、イエス様が十字架と復活によって建設される国です。十字架を通してでなければ復活の栄光に至ることもできないし、神の国が建てられることができません。
ですから、私たちは十字架なしに神の国の栄光だけを見ようとしてはいけません。もちろん、アダムの子孫として罪の体を持っている私たちには十字架なしに栄光を受けようとする心があります。十字架なしに実を結ぶことを願う心があるのです。そのような人間の心を悪質に利用している商売をオレオレ詐欺、悪徳商売と言います。
ところが、私たちクリスチャンも十字架なしに実だけを結ぼうとする場合があります。ザアカイのような人がイエス様に出会って変えられて行く姿を見ると、自分にも、そういう兄弟が与えられて弟子養成の実を結んだらいいなあと思います。事実、ザアカイのような兄弟が変えられ行くみわざの用いられる牧者の人生は素晴らしいものです。
先週、〇〇牧者は藤沢兄弟を導いてきましたが、彼がキリストによって義とされ、救われて永遠のいのちを得るみわざに用いられることはどんなに素晴らしいことでしょうか。イザヤ52:7a節に「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」とあります。また、ダニエル書12:3節には「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世よ限りなく、星のようになる。」とあります。ほんとうに福音を知らせて救いに導く人生は美しく、星のように輝く栄光があるのです。ですから、宣教師や牧者たちはザアカイのような人々が自分を通して変えられて行くことを期待し、望んでいます。ただ、問題は十字架なしに栄光だけを求めることです。イエス様は十字架を通して神の国の栄光を得ようとされました。実際にイエス様は死者の中からよみがえり、主の主、王の王、キリストとしての栄光をお受けになりましたが、それは十字架を負うことによって得られたのです。それで、使徒パウロは言っています。「キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2:7,8)。そうです。神様がイエス・キリストを高く上げてすべての名にまさる名をお与えになったのは十字架のゆえだったのです。私たちはこの事実を覚えていなければなりません。十字架になしに神の国がすぐにでも現われることはできないのです。
先月、宣教師ひとり、牧者3人いる大阪センターのバイブルアカデミーに3人の姉妹が参加しました。ほんとうに大きなみわざです。皆さん、素晴らしいと思いませんか。私はほんとうに感謝しました。しかし、私たちがもっと覚えるべきことは、彼らが負われた十字架ではないかと思います。xxアブラハム、サラ牧者とxx牧者がセンター毎日夜明けの祈りをささげ、サラ、xx牧者が一生懸命にキャンパスでフィッシングのみわざに励んでいます。神様は彼らの十字架、彼らの労苦を祝福してくださいました。十字架なしに神の国がすぐにでも現われるようなことはありません。私たちが利己的であり、お金しか知らないような人々が変えられて神の国のみわざに用いられるためには、私たちも十字架を負わなければなりません。
いくら資金があっても、ただ保管して置くなら何の利益も残りません。多くの利益を残せることを信じて商売する必要があります。商売しないなら、銀行に預けておくことでもしなければなりません。そこで、イエス様は一つのたとえを話されました。
12、13節を読んでみましょう。「それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
 このたとえは、エリコの住民にとってよく知られた話でした。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、植民地の王となるためには皇帝の裁可が必要でした。ヘロデ大王の息子アケラオも、王位を受けるためにローマまで行きました。その時、彼の支配を受けたくない人々はローマに使いを送って、アケラオを王にしないように申し出ました。しかし、アケラオの主張が認められ、彼の即位を反対した人々は報復を受けるようになりました。
イエス様は、このよく知られた出来事を用いられて、ご自分についてのたとえを話されました。まず、この「身分の高い人」は、イエスご自身のことです。イエス様は、遠い国、すなわち天に昇られて、神の右に着座されました。今、イエス様は、王であります。そして、イエス様が天に昇られるとき、弟子たちにそれぞれ賜物をお与えになりました。ひとりひとりに1ミナを与えられました。
一ミナはローマの貨幣単位であって100デナリに相当する金額です。当時の一日の労賃が一デナリであったから、今の日本では約100万円くらいです。商売するのにはそんなに大金ではありません。また、10円で株式会社を作ることを研究しているエズラ宣教師の話を聞いてみると、それほど小さい金額でもありません。何か事業を始めるには決して十分ではないかもしれませんが、工夫次第ではそれなりのことを始めることができる額です。主人は「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と命じられました。
もし、1000万円があって十人の人に、100万円ずつ預けて、投資したとするなら、預けた人達に一体何を期待するでしょうか。それを考えると、主人の心、神様の御心が少しは理解できると思います。
 あるいは、皆さんが「これで商売をしてみなさい。」と言われて100万円を預けられたらどうでしょう。あなたは100万円をどう使いますか。どのように商売しようとするでしょうか。
 私たちには100万円の自己資金が与えられています。もちろん、これは比喩であってお金のことを言っているわけではありません。私たちが神様の使命を果たすために預かったものを表わしています。私たちに許されたいのち、人生もその一つです。私たちがこの世に「オギャ?」と生まれたことの意味も、そこにあります。皆さんにも生まれ出た感動的な瞬間があったでしょう。その瞬間、神様は私をこの世界に送り出し、使命を与えられました。何もしないでいいはずがないです。使命のない人はいません。神様は生まれ出たその瞬間、私という人間に一ミナのいのち、人生を投資したのです。私たちは与えられたこのいのちを大切にして商売しなければなりません。
また、イエス・キリストに救われたクリスチャンには皆同じく、平等に与えられている一ミナがあります。それは福音です。イエス様は私たちに「わたしが帰るまでこれで商売しなさい。」と命じておられます。そのために恵みや力など、すべての賜物が与えられています。すべてのクリスチャンに同じく十字架の恵み、聖霊の力が与えられています。私たちがそれを信頼して福音の商売をする時、多くの利益を残すことができます。福音には、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力があります(ローマ1:16)。福音は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なものです(?テモテ3:16)。福音には信じるすべての人を新しく生まれさせる力があります。この福音は悪名高い取税人レビをセイントマタイに変えました。利己的な取税人のかしらザアカイを隣人に施す人として新しく生まれさせました。このように福音には三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせる力があります(マルコ4:20)。ですから、私達がこの福音を預けてくださった神様を信じてよく商売するなら、多くのいのちの実を結ぶことができます。もし、ひとりの人が間違いなく一年にひとりずつ弟子養成するなら、30年後には全世界が福音化されると言われています。それに何だかの人間的な能力が必要ではありません。ただ福音を預けてくださった神様への信頼、福音の力を信じる信仰だけあればできます。私達に福音の力を信じる信仰があれば、どんなことでもできるのです。また、多くの実を結ぶことができます。そういうわけで、イエス様はそのしもべたちに言われました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。
2004年もすでに7月になりました。間もなく夏休みになります。この間、7月まで使える伝道用紙を作って置きました。ところが、今も多く残っています。私はカバンの中にそれを入れてキャンパスに行っていますが、なかなか配ることができませんでした。しかし、先週はザアカイのように悔い改めにふさわしい実を結ぶ決断をして配りました。その中で久保田という兄弟には福音を伝えましたが、彼はありがとうと言いながら私の名刺を受け取ってくれました。私たちが信仰によって福音の商売をし、多くの利益を残し、主に捧げることが出来ますように祈ります。

?.ほんの小さな事にも忠実だったしもべ(14?27)
14節をご覧ください。「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」とあります。この御言葉はイエス様のキリストとしての王権を否認し、イエス様を十字架につけようとしているユダヤ人のことを考えて言われたたとえです。同様に、私たちが生きているこの世の中でイエス・キリストの王権を拒んでいる人たちを表わしています。人々はイエス様を王の王、主の主、キリストとして敬虔に生きること、聖なる国民として生きることを拒んでいます。17:26-29節に出ているノア時代のように、またソドムの人々のように人々は霊的なことに無関心です。ただ、食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだりする肉体的なことにだけに没頭しているような感じです。しかし、世の人々がイエス様の王権を認めないからと言ってイエス様が王として来られないわけではありません。
15節をご覧ください。「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」とあります。人々の反対にも関わらず、身分の高い人は王位を受けて帰って来ました。時になると、イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って再び来られます(マルコ13:26)。その時はイエス様がご自分を反対した人々を裁かれる日です。その日は人生の決算を求める日です。聖書は次のように言っています。「なぜなら、私達はみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(?コリント5:10)。その日は、私たちが自分の行ないに応じて神様の前で人生の決算をしなければなりません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです(ヘブル9:27)。そういうわけで私達は自分の人生を自分勝手に過ごしてはならないのです。
 それでは、しもべたちの商売の決算はどうでしたか。16節をご覧ください。「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』」最初の者はよく商売して10倍の利益を残しました。一ミナを大切にしてそれを活用するには、それだけ主人への信頼と従順の精神がなければ、できなかったはずです。彼は全く主人を信頼し、言われたとおりに従って商売したでしょう。彼に対する主人の評価がどうですか。17節をご一緒に読んでみましょう。「主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」(17)。主人は彼を賞賛し、十の町を支配するように言われました。小さな事にも忠実だったしもべに与えられたご褒美はさらに重大な仕事を任されたことでした。つまり、忠実だった人間に対する神様の報いは、さらにあつい信頼であったのです。
 それでは、18、19節をご覧ください。二番目の者が来て言いました。「ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。」主人はこの者にも言いました。「あなたも五つの町を治めなさい。」二番目の者に対して主人は最初の者と比較してもっと多くの利益を残せなかったことをお叱りになりませんでした。そのしもべが最善を尽くして努力したことを認め、賞賛しました。そして、彼の行為に応じて五つの町を支配する報酬を与えました。
 では彼らが、商売がよくできた秘訣は何でしょうか。それは、ほんの小さなことに忠実だったからです。私たちは小さなものは無視してしまいがちです。しかし、成功した人達の特徴の一つは小さなことに忠実であったそうです。歴代の偉大な神のしもべたちも小さなことに忠実した人たちでした。全日本リバイバルミッションの主幹として世界各国で大いに活躍されている滝元明という牧師先生がいます。先生は16年間もスウェーデンから日本に来られた宣教師の手伝いをしたそうです。それは本当に小さく見えて自分の教会でもっと大きな事をしたいと思う時もありました。しかし、先生は小さな使命を忠実に担いました。すると、神様は彼を大いに祝福してくださったと告白しました。事実、神様は彼を世界的な器として大きく用いておられます。私たちも小さなことに忠実した者たちになりますように祈ります。週に一度、二度キャンパスに行ってフィッシングすることも、週に一度ある聖書勉強も前もってよく準備して忠実に行なうことができるように祈ります。私たちがほんとうにわずかなことでも忠実である時、神様に賞賛され、神様に喜ばれます。小さなことに忠実であるとき、大きなことも預けられてさらに祝福される人生を生きることができます。1ミナの人生を10倍に生かして生きることができます。しかし、商売しないでいる人はどうなりますか。
 20、21節をご覧ください。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」とあります。この言葉から見ると、このしもべには主人に対する信頼がありません。主人との信頼関係ができてなかったのです。神様に対する信頼がなければ、何をしても不安と恐れのために人生を投資することができません。神様に対する信仰がなければ神様に喜ばれることはできません。
今日も大切な福音をふろしきに包んでおいている人達がいます。そして、いくら福音でもこのままでは売れないと思います。もっときれいに包装して売るべきだと思って、それだけを求めます。信仰がないこと、十字架を避ける心を悔い改めるより方法だけを問題にしているのです。また、自分はまだ弱いからできないと謙遜そうに言う人もいます。しかし、それは神様に対する信仰の問題です。商売する人が品物に対する信頼がなければそれを一生懸命に宣伝することも、売ることもできないでしょう。私たちも福音に対する信頼がなければ忠実に働くことができないのです。結局、信仰がなければ恐れて何もしない怠け者、主人に不従順な者になってしまいます。
 主人はそのしもべに「悪いしもべだ」と叱りました。そして、そばに立っていた者たちに「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」と言いました。
26節をご覧ください。主人は結論的に言いました。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。」これがまさに福音の原則です。誰でも、主人から責任を与えられていることを自覚して忠実に働く者は、さらに多くの責任が与えられ、責任を持っていないと思っている者、すなわち、神様からのいのち、福音を軽んじている者は、持っているものまでも取り上げられてしまうのです。

 結論的に主は私達に福音を預けて命じられました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。私たちに商売を命じておられる神様は全知全能の方です。すべてのクリスチャンに同じく、十字架の恵みと聖霊の力を与えておられます。さらに、私たちに預けられた福音には力があります。生命力があります。ですから、「商売しなさい」という命令に従ってほんの小さなことに忠実であるなら、十倍だけではなく、三十倍、六十倍、百倍の実も結ぶことができます。私たちが預けられた福音を大切にしてよく商売して三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ忠実なしもべとなるように祈ります。そして、主の御前に立ち、清算するその日、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と賞賛される人となるように祈ります。この国の人々は商売が上手だと言われています。その秘訣はどこにあるでしょうか。それは品物に対する信頼から生まれるものだと思います。日本の品物はどこの国のものよりいい物だから、人々は自信を持って商売するのでうまくできるのです。私たちが持っている福音は世界一の日本の品物より素晴らしいものです。私たちがこの福音に対する確信を持って福音の商売にますます励むことができるように祈ります。