2004年ルカの福音書第54講
イエス様を迎える喜び
御言葉:ルカの福音書19:1-10
要 節:ルカの福音書19:6「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」

 先週、私たちはイエス様が十二弟子をそばに呼んでご自分の苦難と死、復活について語られたことを学びました。イエス様は語られたとおりにあざけられ、異邦人ピラトに引き渡されてはずかしめられ、つばきをかけられました。ついに、十字架につけられて死なれました。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。私たちがこのイエス様の十字架の死と復活を信じるとき、罪が赦され、救われて永遠のいのちを受けるようになります。
私たちは、また目が見えるようになった盲人の叫びについて学びました。彼は大声で「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんで下さい。」と叫び立てました。すると、イエス様は彼の目が見えるようにしてくださいました。その時、群衆が道を通っていたので、大勢の人々がいました。しかし、イエス様のあわれみと盲人の目が見えるようになる奇蹟を体験した人は、イエス様に叫びだ盲人でした。
今日も、多くの人々が教会に来て礼拝をささげ、イエス様の近くにいます。けれども、本当に霊的な目が見えるようになり、神様をあわれみと御力を体験している人は、どれほどいるでしょうか。私たちはどれほどイエス様のあわれみと奇蹟、イエス様の癒しと御力を体験しているしょうか。盲人のようにイエス様に叫び続けている人は、イエス様のあわれみと力を体験することができます。イエス様にしてほしいことを明確にし、心から叫ぶ時、イエス様は目が見えるようにしてくださいます。そして、霊的な目が見えるようになって正しい価値観を持つ時、私たちは新しい人生、喜びに満たされた人生を生きるようになります。 
今日は、大喜びでイエス様を迎えたザアカイのことについて学びます。イエス様はザアカイに「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とおっしゃいました。そしてザアカイが大喜びでイエス様を迎えると、彼の家に救いが来ました。ここで、私たちはイエス様の御心と救いの道を学ぶことができます。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私たちに与えてくださって救いの真理を悟らせてくださるように祈ります。

?.イエス様を見るためにイチジク桑の木に登ったザアカイ(1?4)
 1節をご覧ください。「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。」とあります。エリコはなつめやしの町として知られていました(申命記34:3)。この町は地理的にはヨルダンからエルサレムに入る入り口になっていました。経済的には貿易の中心地であって税金を納めるのに良いところでした。エルサレムより小さい町でしたが、お金はエルサレムより多いと言われているほど金持ちの町でした。ですから、取税人としてはユダヤの中で一番良い勤務地でした。
2節をご覧ください。そこに、ザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで、金持ちでした。「ザアカイ」という名前は「純潔、きよい」あるいは「正義」を意味しています。親が子どもの名前をつける時は希望を持ってつけると思います。私は8月に生まれる予定の子どもを「恵理子」と名づけたいと思っています。なぜなら、ヨハネの福音書1:14に基づき、恵みと真理に満ちておられるイエス様の御姿にまで成長していく神様の子どもになることを望むからです。おそらく、ザアカイの両親は旧約聖書に68回も出て来る「きよい」という言葉に恵みを受けて自分の子どもがきよく、正しく生きることを望んだでしょう。その望みのとおりにザアカイには子どものように純潔できよい心がありました。イエス様を見るために何気なく、いちじく桑の木に登ったことは、やはり彼の心には純粋な面があったと思うのです。しかし、イエス様に出会うまでは、きよいどころか、汚れている生活をしていました。正義よりも不正に満ちた生活していました。彼はパウロが告白したように「自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なって」いたのです(ローマ7:19)。彼も子どもの時は純潔であっただろうし、まだ十代、二十代の時までは心の中で「純潔」を守り、正義に従わなければならないと思う良心のために葛藤する時も多くあったことでしょう。しかし、厳しい世の中は子どものように純粋に生きることは難しくなりなりました。彼は、やはり、この世ではお金がなければならないと思ったのか、取税人の道に走りました。
でも、当時のイスラエル人は、ローマのために税金を集める取税人を忌み嫌いました。過激派のテロリストたちは取税人を殺すこともしました。人々は取税人を遊女と同じ罪人として扱い、相手にもしませんでした。当然、ザアカイも取税人が皆に嫌われていることを知っていました。しかし、彼は「お金さえあれば、問題にならない」と思ったでしょうか。「あれこれ言っても、世の中は金だ、金、お金がなければ何もできない。」と思ったでしょうか。彼は一生懸命に勉強して税理士試験に合格しました。そして、金持ちの町エリコで取税人の仕事をはじめました。すると、うわさのとおりに取税人の仕事はお金を儲けるために最高の仕事でした。彼は金持ちになり、プールとテニスコートもついている邸宅を建てることもできました。さらに、職場でも昇進し続けて取税人のかしらとなりました。「うわ!うらやましいなあ!」と思っている人がいるかも知れません。
 しかし、本人の心はどうだったでしょうか。本当に幸せになっていたでしょうか。彼の心には平安と喜びがあったでしょうか。いいえ。いちじく桑の木に登る彼の姿は幸せに見えません。彼は決して幸せではありませんでした。なぜなら、人々から認められなかったからです。彼が小さい頃、まだ純潔を保ち、きよく生きようとしていた時は寂しくありませんでした。友達は本音で付き合ってくれたし、大人たちはかわいがってくれました。その時、彼は愛されていること、認められていることに喜び、幸せを感じました。しかし、自分のことばかり考えて取税人のかしらになってみると、今はだれも本音で付き合ってくれませんでした。おごって上げると、「ごちそうさま!ありがとう。またね。」と言われましたが、ザアカイを尊敬し、認めてくれる人はいませんでした。むしろ、人々は彼に指さして「売国奴だ。泥棒だ。てめえ。この世から去れ!」呪いました。はなはだしくは子どもたちでさえ、ザアカイに向かって悪口を言ったり、つばきをかけたりしました。だれもを認めてくれなかったのです。自分なりには一生懸命にやってきたつもりなのに、だれも認めてくれない時、とても寂しくなりました。今は自分も自分を認めることができなくなりました。自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっている自分が嫌になりました。
人はアダムの子孫として肉の欲に従って罪を犯してしまう弱さを持っていますが、同時に神の形に似せて作られた者として善を行ないたいという思いもあります。ところが、人間的な意志や意欲によっては善を行ない続けることができません。そこで、パウロも言いました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(ローマ7:24)。ザアカイは、やっと自分の人生の方向が間違っていたことに気づきました。皆に嫌われる取税人になるべきではなかったこと、お金が人生の全部ではないことが分かりました。「親が名づけてくれた名前のとおりに、きよく正しく聖なる国民として生きていたら良かったのに・・・」と思うようになりました。
そんな彼にイエス様のうわさが聞こえました。イエス様が自分の町エリコを通られると言うことです。このイエス様のことはすでに聞いていたのですが、イエス様は遊女のようなサマリヤの女も、人々から捨てられたらい病人も、自分のような取税人も暖かく受けいれてくださる方でした。彼はこのイエス様が見たくなりました。
3a節をご覧ください。「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、」とあります。彼はイエス様がどんな方か見ようとしました。イエス様の周りにあまりにも人が多くてよく見えなかったので背伸びして見ましたが、やはり見えませんでした。彼の背が低かったので、群衆に囲まれているイエス様を見ることができなかったのです。彼は「背が5cmだけ大きかったら見えたのに・・・」と思い、ジャンプして見ました。でもイエス様は見えませんでした。背がエズラ宣教師くらいに高かったら良かったのにと思いました。でもいきなり背を伸ばすこともできないから絶望せざるを得ませんでした。しかし、彼はあきらめませんでした。どうしてもイエス様を見ようとする熱望を押さえることができませんでした。そこで、彼はさまざまな方法を考えましたが、イチジク桑の木が見えました。すると、彼はどうしましたか。
 4節をご一緒に読んでみましょう。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」おもしろい光景ですね。背が低く、お腹がかなり出ている大人が木に登っているのです。ザアカイは、イエス様をぜひとも見たいという熱望から、無邪気にも木に登りました。子どものような純粋なザアカイの一面が現われています。
この間、イエス様から、「神の国は、このような子どもたちのものです。」と教えられましたが、子どものようになっている大人の姿が見えます。「イエス様に出会うために子どものようになるべきだなあ」と思われます。何よりも、私たちはどうしてもイエス様を見ようとするザアカイの切なる願いを学ぶことができます。イエス様を見たい、イエス様に出会いたいと切実に願う霊的な希望です。事実、私たちはイエス様に出会うことができるなら、自分の悩みを解決していただけます。イエス様に出会うことさえできれば、人生の正しい方向と目的を見つけることができます。ほんとうにイエス様に出会うなら無気力な生活から救われていのちにあふれた人生を生きることができ、使命人として生きることができます。ですから、私たちはいつも子どものような素直な心でイエス様に出会うことを願わなければなりません。まだ霊的なことが見えなければ、盲人が叫んだように叫ぶ祈りが必要でしょう。そして、見えるようになった人はもっとはっきりと見るためにイチジク桑の木に登る信仰と努力が必要です。イエス様が見えるところまで登ることが求められているのです。私たちは祈りを通して聖書研究を通してイエス様が見えるところまで登る努力をしなければなりません。
エリコには多くの人々がいました。取税人だけではなく、会社員も、学生も、先生も、主婦もいました。でも、イエス様を見ようとしてイチジク桑の木に登るほどの強い願いを持っていたのはザアカイでした。イエス様を見ようと、イエス様を求めた彼に救いの喜びが与えられます。霊的な望みを持っている人に素晴らしい救いのみわざが起るのです。

?.イエス様の願いと救いの喜び(5?10)
 5節をご覧ください。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」」とあります。イエス様はイエス様を見ようとしているザアカイの姿に驚いたようです。まるで、子どものようにイチジク桑の木に登った素直な心、その努力に感動しました。あわれみを求める盲人の叫びを聞いた時、立ち止まられました。今度はザアカイの心の叫びを聞かれました。イエス様はこの心の叫びを聞かれた時も、立ち止まられました。イエス様は外側だけをご覧になるのではなく、心の叫びも聞いておられることが分かります。イエス様は『ザアカイ』と彼の名前を呼んでくださいました。『ザアカイ』と呼ばれたイエス様の御声には彼に対する深い関心と愛情が含まれています。彼の置かれた状況を理解して深くあわれむあわれみと愛が含まれています。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。』というのは、失われている者を捜しておられる良き牧者イエス・キリストの御声です。 
イエス様はザアカイを呼んでくださることだけではなく、彼の家に泊まって彼と人格的な関係性を結ぼうとされました。人々は彼を遠ざけていました。事務的なこと意外には話し合うことさえ嫌がりました。事実、彼が近づきにくい人でした。自分のことばかり考えている彼に心を開いて話し合える友達もいなかったでしょう。その時の寂しさはどんなに大きかったでしょうか。人は社会的な動物ですから、付き合いができなければほんとうに寂しくなるものです。イエス様はその心を理解し、彼の家に泊まることにしました。
イエス様は私たちの家にも泊まることを願っておられます。私たちの友となって交わることを願っておられます。友となって共に食べ、共に飲むことを願っておられます。黙示録3章20節をご覧ください。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。では、イエス様の愛の声を聞いたザアカイはどうしましたか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」彼はどんなにうれしかったでしょうか。彼は感激したあまり急いで降りてきました。そして、大喜びでイエス様を迎えました。ほんとうに素晴らしい光景です。ザアカイにとって忘れられない瞬間でした。ザアカイは踊りながら自分の家に案内したのではないでしょうか。
では、私たちはどうでしょう。大喜びでイエス様を迎えているでしょうか。毎日、大喜びでイエス様をお迎えして生きているでしょうか。大喜びでイエス様を迎えたのはいつだったでしょうか。イエス様は私たちに「あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われます。戸の外に立ってノックしておられます。私たちが喜んで迎えるなら、イエス様は私たちと深く交わってくださいます。私たち一人一人が、毎日大喜びでイエス様を迎え入れてイエス様とともに交わり、イエス様とともに歩む生活ができるように祈ります。
 7節をご覧ください。「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」とあります。イエス様は罪人を救うために、罪人の友となってくださいましたが、人々はそれを理解することができませんでした。彼らはイエス様を非難し、つぶやきました。彼らは寂しいひとりの罪人をあわれまれるイエス様の御心も、人間に対するイエス様の愛の深さも広さも知りませんでした。彼らは何事も批判的であり、つぶやくばかりでした。そういう人は深い霊的な世界を理解することができません。しかし、子どものようにイエス様を迎えたザアカイはどうなりましたか。彼に高潔なイエス様の人格に触れれるチャンスが与えられたし、素晴らしい御教えを聞くチャンスが与えられました。その晩、彼はイエス様との1:1聖書勉強ができたでしょう。ザアカイはまのあたりに偉大な人格に触れながらイエス様の教えを受けることができました。すると、彼はその夜すぐに、悔い改めました。そして、悔い改めの実を結ぶための決断をして所感発表をしました。
8節をご覧ください。「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とあります。彼はイエス様の教えに対して評価するのではなく、自分がどうするべきか、自分の決断を告白しています。ほんとうに、素晴らしいですね。
人々はメッセージや聖書勉強を通して恵みを受けると「素晴らしい。ほんとうに恵みがありますね。」と言います。最近はインターネットを通して多くのメッセージを聞くこともできるから「あの牧師先生のメッセージは素晴らしかったよ。」という話もよく聞きます。クリスチャンの多いうちの学校の教務室でよく聞いていることばです。でも、御言葉を聞いて自分の財産の半分を貧しい人々に施すことにしたとか、メッセージを聞いて仕える生活を決断したと言うような話は聞こえません。もちろん、恵みをメッセージを多く聞いて恵まれたということは良いことです。しかし、もっと素晴らしいことは、私たちがザアカイのように悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶために決断することではないでしょうか。朝ごとに、読んでいる御言葉に悔い改め、実を結ぶために決断することが求められているのではないでしょう。そして、その決断を守るために霊的に闘争することが真実なクリスチャンの態度ではないでしょうか。
ザアカイは自分の財産の半分も貧しい人たちに施すと決断しました。また、「だれからでも、だまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。彼は今まで自分中心に生きてきましたが、これから神様中心に生きる方向に変わったことが分かります。彼は神様の御前で悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶために、人々に対しても、わびるべき事はお詫びし、返すべき物は返す決断をしたのです。彼がこの決断を100%守り通したかどうかは分かりませんが、イエス様の教えに悔い改め、実を結ぶために決断したことは事実です。イエス様はその決断を祝福してくださいます。御言葉を聞いて悔い改め、その決断を告白することは大切なことです。私たちUBFで使っている言葉でいえば、所感発表することです。イエス様は信仰告白、信仰の決断を喜んでくださいます。
9節をご覧ください。イエス様は悔い改めたザアカイに言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」イエス様はザアカイに救いを宣言されました。「きょう(Today)」というのは救いの現在生を現わしています。彼がイエス様を迎え、悔い改めたその日に救いが来ました。救われると、今まで彼の心の中で働いていた罪意識、不安、虚無、絶望、審判に対する恐れなどが消え去りました。その代わりに、天の喜び、愛と平和が心を満たしました。そして、アブラハムの子孫として祝福の源になりました。過去、彼は人々に悲しみを与える不幸の根源でしたが、今は祝福の根源となり、愛の使徒になりました。人々は彼が取税人の道に入った瞬間から縁を切ってしまいました。彼を罪に定め、捨てました。しかし、イエス様は捨てられ、失われていた彼を捜して救ってくださいました。彼に希望を置かれ、彼が新しい人生を生きるように助けてくださいました。この救いのみわざにイエス様がこの地に来られた目的があります。
10節をご一緒に読んでみましょう。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」イエス様がこの世界に来られた目的は「失われた人を捜して救う」ことです。「失われた人」とはだれでしょうか。私たちがザアカイのように金持ちの町で金持ちになっている人、職場で何度も昇進試験に合格してかしらになっている人に対して失われた人だと思うことはなかなか難しいことです。大学教育を受けた人、Ph.Dを取っているような人を失われた者として見ることが難しいのです。しかし、聖書的に見ると、どんな人でも神様から離れている人は失われた者です。神様から離れている人間は神様のかたちを失っています。神様から離れている人間はアダムの子どもカインのようにさまよい、肉の欲に負けて罪に支配されています。ザアカイがそうでした。彼は安定した職場、社会的な地位と多くの財産を所有していましたが、イエス様がご覧になると、失われた者でした。ですから、イエス様は彼をかわいそうに思い、彼を捜して救ってくださいました。私たちも、このイエス様の心を持ちましょう。この世で安定的な職場を持ち、金持ちになっている人々をうらやましがったり、彼らの前で気を落としたりしないで彼らをかわいそうに思って助けましょう。何よりも彼らイエス様を知り、イエス様に出会って救われるように御言葉を教えることができるように祈ります。

以上で、失われた人を捜して救うために来られたイエス様を学びました。そして、イエス様は今も、私たちを捜しておられます。私の家に泊まることにしておられます。私たちを救うためです。悲しみから、孤独から、絶望から救うために捜しておられます。私たちが大喜びでイエス様を迎え、救われますように祈ります。救われた恵みに感謝して、信仰の決断をし、まだ失われた人々に救いの福音を宣べ伝える生活ができるように祈ります。