2004年ルカの福音書第50講

世の終わりに備えよ

御言葉:ルカの福音書17:20?37
要 節:ルカの福音書17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

 先週、私たちはイエス様が声を張り上げてあわれみを求める十人のらい病人を癒されたことを学びました。そのうちのひとりは、引き返して来てイエス様に感謝しました。彼はサマリヤ人でした。イエス様はご自分の民であるユダヤ人の九人が感謝しなかったことに対して御心を痛められました。しかし、感謝するために戻ってきたひとりのサマリヤ人のゆえに感謝し、彼を大いに祝福してくださいました。ここで、私たちは本当に祝福される人生の秘訣を学ぶことができます。それはすべての事において感謝することです。感謝する生活が身についている人は日々霊的に成長し、神の国を受けるようになります。
 今日は、神の国について学びたいと思います。イエス様のご生涯は初めから終わりまで神の国にフォコスが合わせられていました。イエス様のメッセージは神の国に関することだったし、多くのたとえを通して神の国について教えてくださいました。また、イエス様は弟子たちが神の国を宣べ伝える者となるように訓練されました。本文の御言葉は神の国について二つのことを教えてくれます。一つ目は、神の国は、私たちのただ中にあるということです。二つ目は、世の終わり、つまりイエス様の再臨の時にこの地上に臨まれる神の国のことです。私たちはその日に備えなければなりません。どうか、御言葉を通してただ今私たちのただ中にある神の国を受け入れ、生ける望みを持って世の終わりに備えることができるように祈ります。

?.あなたがたのただ中にある神の国(20,21)
 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
パリサイ人たちは、ユダヤ人の関心事である神の国について尋ねました。彼らは「神の国」についてダビデ・ソロモンの時代のような素晴らしい国家を考えていました。そして、彼らは、もしかしたらイエス様が「救い主」「真の王キリスト」かも知れないと思っていました。ですから、彼らはイエス様に「神の国はいつ来るのか。」と尋ねた訳です。それに対してイエス様は「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」と答えます。神の国は目に見える形で来るのではないということです。ダビデ王国のような形で現れるのではないのです。
では皆さんはどうでしょうか。「神の国」と言われると「あの世、天国の事でしょう。」と思っているかも知れません。しかし、「神の国」とは「神様の支配する所」という意味です。私たちが「イエス様をキリストとして信じる」ということは王なるイエス・キリストの支配に従う」事です。イエス様に支配されてイエス様に従う所、そこが「神の国」なのです。ですから、イエス様は、「あなたがたのただ中にあるのです。」と答えました。このイエス様の言葉に対しては二つの解釈があります。一つは「神の国はあなたがたの心の中にあるということです。もう一つは「神の国はあなたがたの間にいる。」ということです。つまり、「あなたがたは、神の国はいつ来るのか、などと言っていますが、わたしがあなたがたの目の前にいるではないか。」とおっしゃっているということです。どちらにしても「神の国」の王キリストが、今あなたがたのただ中におられるということには間違いありません。そして、パリサイ人たちの心には神の国がなく、神の国の王であるイエス様も受け入れていないということがわかります。イエス様はここで、あなたがたは「神の国を受け入れるどころか、神の国の王に敵対していて、なぜ神の国を求めるのか、と話されたのです。支配者が気に入らないのに、その支配者が支配する国を好きになれるはずがない、ということです。自分がこの王を認めることによって、神の国に入る準備ができます。イエス様はパリサイ人たちについてよく知っておられました。彼らは学問的にも優れているし、宗教的にも訓練されていて立派な人のように見えました。平凡な人々は彼らをうらやましく思い、尊敬していました。しかし、まだ彼らの心は神様に支配されていませんでした。むしろ、卑しい罪の欲望に支配されていました。ただ、認められること、尊敬されることへの欲望に支配されていました。また、彼らの死と闇の勢力に支配されていました。すべてのことにおいて感謝するどころか、すべてのことにおいて不満足でした。心の中は平安と喜びの神の国が臨まれる場所がなかったのです。
イエス様は彼らをあわれんでくださり、彼らが神の国を受け入れ、神の国の王であるイエス様を受けることを望んでおられました。特に、彼らが「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と言われた御言葉を心から悟ることを願われました。
では、どうやって私たちは心の中に神の国を所有することができるでしょうか。マルコの福音書1章15節でイエス様は言われました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」とあります。イエス様が近く来られた時、神の国は近くなりました。イエス様は神の国の王です。イエス様が私たちの心の中におられる時、私たちの心に神の国があります。イエス様は私たちが悔い改めて福音を信じる時に私たちの心に来られます。
これは単純なことです。しかし、罪人ひとりが悔い改め、福音を信じて神の国の民になるということは、とても意味深く、重要なことです。それは人生が新しく生まれ変わる事です。聖書はそれを「新しい生まれ、新生」と呼んでいます。ペテロはこう言っています。「あなたがたは新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」これはペテロが身を持って体験した証です。ペテロは魚の臭い匂いがする漁師でした。おそらく彼はどうすれば多くの魚を取るかについてよく知っていたと思います。また、自分の知っているとおりにならない時も多くあったことでしょう。なかなか魚が取れない時は、自分と家族の将来が不安になったかも知れません。でも一度選んだ仕事を辞めることもできず、自分と家族のためにまじめに働いていました。たまに喜びもありますが、余りの意味のない、マンネリ化された生活をしていました。しかし、ある日イエス様は彼に言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」それはベテランの漁師にとって理解しがたいことでした。しかし、彼は自分の経験や知識に頼らず、イエス様の御言葉に従いました。すると、自分の仕事、魚をとることを通して神様の奇跡を体験しました。彼の自分の生活の中で素晴らしい神の国を体験したのです。すると、彼の霊的な目は開かれてイエス様にある神様を見、聖なる神様の御前で自分の罪を悟るようになりました。ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と告白しています。そこで、イエス様に彼に言いました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」罪人であることを発見して、悔い改めた心の中に神の国は臨まれました。彼は聖なる神の国の国民として、王である祭司として生きるようになりました。ペテロは卑しいこの世のものではなく、神様の支配を受ける神の国の民として新しい人生を生きるようになったのです。
私たちも信仰によって一言の御言葉を受け入れて従う時、心の中に神の国を所有することができます。自分の生活の中ですべてを支配しておられる神の国を体験するようになります。心の中には天の喜びと平安が与えられます。
パリサイ人たちがこの神の国を所有するためには、単純にイエス様の御言葉に従った漁師から学ぶ必要がありました。彼らはヨハネの教えを聞いて悔い改めた収税人や罪人たちから学ぶ必要があったのです(ルカ7:29、30)。しかし、彼らは自分たちのプライドのために学ぼうとしませんでした。学歴がいいし、道徳的にも優れているプライドのためにヨハネの教えを拒みました。それゆえに彼らの心の中に神の国を所有することができませんでした。彼らの心の中には罪と死の勢力があるだけでした。
私たちは謙遜になって、単純に御言葉を信じて従う人たちを学ぶ必要があります。子どものように学ぶ人の心に神の国が臨まれます。心から神の国を受け入れて神の国の民として生きることだけではなく、神の国の拡張のためにも励む必要があります。
先週、小学生によって小学生が殺害された事件がありました。本当に悲しい出来事であります。「どの学校でも起り得るのではないか。」という不安が教育の現場に広がっています。そして、子どもたちにもっと心の教育、いのちの尊厳性について教育しなければならないと言われています。本当にそのとおりです。しかし、彼らの心の中に神の国がなければ、そこには罪と死の勢力があります。自分も知らずに罪と死の勢力に支配されていくのです。子どもたちだけではありません。若者の心にも神の国がなければ罪の勢力に支配されてしまいます。先週は女子大生集団暴行事件で準強姦罪に問われた元早大生に懲役十年の実刑が言い渡されたこともありました。(産経新聞)。この事件は元東大生3人にも懲役の実刑が言い渡されています(毎日新聞)。裁判長は彼らが人間としてあるまじき行為をしたと言いましたが、どうして、彼らは人間としてあるまじき行為をしたのでしょうか。それには様々な分析があると思いますが、最も大きな問題は彼らの心の中に神の国がないということです。神様の支配を受けない時、人間としてあるまじき行為もしてしまうのです。彼らが神の国を受け入れない時、名門大学の教育は意味を失ってしまいました。
そういうことを考えてみると、私たちがキャンパスに行って神の国を宣べ伝えることは、本当に意味あることであり、とても大切なことです。この宣教の働きはこの国のためにも、世界のためにも急がなければならないことなのです。この世の様々な問題は神様を神としてあがめず、神様に支配されようとしない心から起こっているかです。私たちがこの大切な神の国のために働くためには、まず、私たちが神の国について正しく知らなければなりません。特に知るべきことは、「神の国はいつ来る」、「どこかに来る」ではなく、「今私たちのただ中に来てくださっている」という事実です。この事を本当に受けとめているなら、そこには感謝が出て来ます。しかし、神の国を受け取らず、王であるイエス様に従おうとしないなら、感謝ではなく、いつも物足りなさと不満足感が伴われます。神の国の拡張に対する意欲もなくなってしまいます。ですから、私たちは自分自身の生活のためにも、ただ今、私たちの只中にある神の国を認めてイエス様の御言葉に従い、神様に支配されるために励まなければなりません。私たちがただ神の国の民として神様に支配されると、神の国の喜びと平安の中で過せるようになります。そして神の国の拡張のためにもますます励むことができるようになります。

?.いのちを失う者はいのちを保ちます(22-37)
ここからは神の国を受け入れた弟子たちに言われます(ルカ8:10)。彼らはイエス様に「神のキリストです」と信仰告白しました(ルカ9:20。)。彼らはイエス様を愛し、イエス様とともに歩む生活の喜びと恵みを体験していました。イエス様は彼らに神の国について詳しく語られます。22節をご覧ください。「イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。」とあります。イエス様は間もなくこの世を離れ、父なる神様のみもとに行かれます。すると、弟子たちはイエス様の日を待ち望み、一日でも見たいと願うようになります。その間に、彼らは弱くなり、偽キリストに惑わされやすくなります。しかし、人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。今日も異端はキリストの弟子たちを誘惑します。エホバの証人は、「1941年にイエスは来られた。イエスは、隠れた部屋から、今、世界を統治されている。」と言います。また、統一協会は、キリストは韓国に来られて、文鮮明こそがキリストであると言います。しかし、キリストが再び来られる時は、だれもが認めることができるような形で来られます。すべての人々はいなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、ちょうどそのようも来られるキリストの再臨を見ることができます。
使徒パウロはキリストの再臨をもっと詳しく描写しています。?テサロニケ4:16,17節をご覧ください。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。何と素晴らしいことでしょうか。使徒ヨハネはこのキリストの再臨を切実に望みました。黙示録22:20節は言います。「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」私たちにはこの偉大なイエス様の再臨の希望があります。私も「アーメン!主イエスよ。来てください。」と祈ります。ただ、私たちはイエス様がこの再臨の主になれるようになったのは十字架の苦難を通してであることも知らなければなりません。
25節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」イエス様は栄光のうちに再臨される前に、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。なぜでしょうか。それは神様のご計画であり、人間を罪から救うための唯一の道であるからです。イザヤ53:3-5節は言います。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」ここに神様の御計画があり、人間が救われる唯一道があります。
イエス様は将来啓示されようとしている栄光の希望の中で、この十字架の苦しみを受けられました。私たちはこのキリストの苦難の十字架を重く受けとめさせて頂きたいと思います。神様の栄光を持たれたお方が人に捨てられたのです。唾を吐きかけられ、馬鹿にされ十字架につけられました。最期には父なる神様にも捨てられたのです。イエス様はこの経験を通った故に、同じ悲しみを通った人にも慰めを与えることができます。イエス様への懲らしめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されるのです。
26-30節をご覧ください。「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていた。ところが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。」イエス様が教えのメインポイントは再臨が突然にあること、世の人々が予期しなかった時に起ることです。また、イエス様が再び来られるその日は、福音を受け入れなかった人々にとって神様のさばきを受ける日になると言うことです。また、その日にどんなことが起りますか。
 31、32節をご一緒に読んでみましょう。「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。」 この御言葉は我々クリスチャンに与えられる警告です。神様の恵みによって救われていてもこの世に未練があり、ものへの執着があればロトの妻のように、さばきを受けます。厳しいですが、神様の警告に耳を傾けなければなりません。ロトは罪に汚れた町ソドムとゴモラの地に住んでいました。神様はこの2つの町を滅ぼす事に決めました。しかし神様がアブラハムの祈りに答えて、ロトの家族は破壊から免れる道を開いてくださいました。ロトが妻と娘2人も連れて町を出て行くことを許されたのです。しかし、ロトの妻は自分のものに対する未練があったので後ろを振り返りました。すろと、彼女は塩の柱となってしまいました。イエス様はこの『ロトの妻を思い出しなさい』と言われました。すなわちこの世に対して私達がどのような態度を取っているか、と考えて見なさい。この世のもの、この楽しみへの「未練」、「執着」これが彼女を塩の柱に変えてしまった原因となったことを思い出しなさいと言われたのです。では私たちはどのように生きるべきでしょうか。
 33節をご一緒に読んでみましょう。「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」イエス様はご自分のいのちを救おうと努めませんでした。イエス様は神様の聖なる使命のために日々十字架を負い、ご自分のいのちを捨てる生涯を過されました。イエス様はご自分の弟子たちもそのように生きることを願われました。キリストの再臨、世の終わりに備えるベストの道は毎日福音のために自分を犠牲にする生活に励むことです。私たちが主と福音のために自分のいのちを失う生活をするなら、私たちは本当の意味ではいのちを保ちます。しかし、自分のいのちを救おうとして自己中心的に生きるならそれを失ってしまいます。ここで、「いのち」とは、日常生活全般のことです。それを救おうとしたロトの妻は、ソドムとともに滅んでしまいました。しかし、それを捨てたロトと娘ふたりは助かりました。彼らは同じ家で暮らし、一緒に日常生活を歩んでいたのですが、ロトの妻は世のものに深入りしていました。彼女の関心事は、ノアの日の人々のように、「飲んだり、食べたり、売ったり、買ったり…」というようなことでした。その心には神の支配が介入される余裕がなかったのです。本来なら、「主のみこころなら、飲んだり、主のみこころなら食べたり、主のみこころなら、売ったり買ったりする。」というように、神のみこころを求めて生きなければいけませんでした。ヤコブの手紙には、こうあります。「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私らちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(4:15)」ですから、自分のいのちを救うとは、神様なしに生きるということを意味します。そして、自分のいのちを失うとは、日常生活が神様中心になっていて、神様の支配を受ける生活、まず第一に神の国とその義を求める生活です。
最後にイエス様は終わりの日にどのようなことが起るかについて話されました。34、35節をご覧ください。「あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」主のさばきは日常の活動を営んでいる場所にまで及びます。寝ている場所で、臼を引いている場所で、畑の場所で、さばきに会うものと、救われる者とが選り分けられます。ある日、会社である人たちだけがいなくなります。突然にホームヘルファがいなくなります。配達に出かけた人がいなくなります。コンピュータでC言語を覚えていた人がいなくなります。早稲田大学でも、東京大学でも何人かの学生たちが見えなくなります。この日本の人口の1%がいなくなります。間もなく、その日が来るのです。その日に、東京センターの皆さんはここにひとりも残されることなく、取られて天に引き上げられるように切に祈ります。

 以上で、私たちは悔い改めてイエス様を信じるとき神の国が私たちに臨まれることを学びました。また、イエス様が再び来られるその日は、いなずまがひらめいて、天のはしから天の端へと輝くように、栄光のうちに来られることも学びました。私たちがその日に備えることは残されているキリストの苦難に参加することです。しかし、それは苦難だけで終わるのではありません。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保つからです。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものです。私たちがこの輝かしい希望を持って21チームの1:1のみわざ、日本の500キャンパス開拓のみわざに励むことができるように祈ります。食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしている世のことに深入りしないで聖なる使命のために励むことこそ終わりの日に備えることです。イエス様は神の国の王であり、神様です。私たちが、自分の全存在をこの方にゆだねるとき、イエス様は、私たちのすべてをいやしてくださいます。からだだけでなく、霊も魂もいやして聖なる神の国の民として喜びと平安のうちに生きるようにしてくださいます。