2004年 ルカの福音書第48講                            
からし種ほどの信仰

御言葉:ルカ17:1-10
要 節:ルカ17:6「しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」

先週、私たちはある金持ちとラザロの話を学びました。人の永遠の運命は、生きている間に神様と人とに対してどのような態度をとったかによって決まります。今の世においていかに裕福な暮らしをしていても、死後永遠に苦しむハデスにいってしまうなら、実に哀れな人です。しかし、永遠の楽園、天国に向かって行く人生は、たとえラザロのように、貧しく、病の苦しみが加わるとしても、常に神様を自分の助けとして生きることができます。そして、死後にはアブラハムより大いなるイエス様のふところに迎え入れられます。
私たちクリスチャンは、このイエス様のふところ、天国に向かって行く者です。ある金持ちのように毎日ぜいたくに遊び暮らすことが目的ではありません。聖なる国民として信仰によって敬虔に生きようとしているキリストの弟子です。
今日の御言葉はイエス様が弟子たちに言われた四つのことが記されています。イエス様はつまずきを与える人への警告、兄弟の罪の赦し、からし種ほどの信仰、しもべとしての姿勢について教えてくださいます。ここで、私たちはキリストの弟子が霊的な指導者として持つべき態度について学ぶことができます。この時間、聖霊の働きによって赦しと感謝の信仰、謙虚な姿勢を学び、成熟した霊的な指導者として成長していくことができるように祈ります。

?.つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです(1-3a)
 1節をご覧ください。「イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」この御言葉はイエス様が弟子たちに与えられた御言葉です。弟子たちはやがて羊たちの牧者として霊的な指導者にならなければなりません。ところが、指導者が犯しやすい罪の一つが人につまずきを与えることです。「つまずき」とは「罪の誘惑」とも言えることです。聖書の欄外注に「あるいは「罪の誘惑」となっています。つまり、「つまずき」とは罪を犯させるようなきっかけをつくったり、信仰の歩みを妨げたりすることです。指導者はこういうつまずきを与えやすい立場に立っています。例えば、政治家も、一般の国民も国民年金を納めていないなら、それは義務を果たしていないことです。しかし、その影響力は違います。人々は一般の国民の未納に対しては寛大ですが、大臣とか、国会議員たちが未納者であったことでがっかりします。そして、自分たちも国民年金を納める必要があるのかと思うようになります。つまり、罪の誘惑を受けるのです。ですから、指導者は言葉や行動においてつまずきを起こさせないように気をつけなければなりません。それは国民年金未納、未加入のことで官房長官も、民主党の代表も、辞任するようになった人たちだけではありません。霊的な指導者であるキリストの弟子たちはなおさらです。さらに、牧者や宣教師と呼ばれているなら、言うまでもありません。いつも、言葉や行動によって兄弟姉妹たちにつまずきを起こさせることがないように気をつけなければなりません。イエス様は「つまずきが起るのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」とおっしゃいました。この世は、人に罪を犯させるようなものでいっぱいです。テレビ、インターネット、雑誌、人々の会話などには罪の誘惑が数多くあります。特に私たちを神様から引き離す話題が満ちています。この世は、実に罪の誘惑に満ちていると言えるでしょう。ですから、つまずきは避けられません。けれども、自分が人をつまずかせるようなことをしたら、それは忌まわしいものです。私たちが加害者になってはいけないのです。イエス様はさらに、つまずきを与えることがいかに大きな罪であるかを教えておられます。
 2節をご覧ください。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」とあります。
 この小さな者たちとは、素直にイエス様を信じて集って来た人たちです。本当に素直で幼子のような人たちです。10章21節を見ると、イエス様は「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。(10:21)」と祈られたことがあります。幼子のような、無批判で素直な態度を神様に対して持っている人が、小さな者なのです。ところが、指導者の中には、無批判で素直であることを利用して悪いことを教えたり、自分の腹を肥やすことが者たちがいます。昨日、小泉首相が北朝鮮の金ジョンイルに会って来ましたが、彼ひとりによってどれだけの人々がつまずいているでしょうか。霊的な指導者の中にも神様に対して大きく口を開けているその人に、乳や蜜ではなくて、毒を注ぎ入れる場合もありうることです。例えば、「献金をしなさい。」と言って、自分のポケットマネーにしたり、「指導者に従いなさい。」と言って、自分の権威欲を満たしたりすることです。これらに対して、イエス様は、ものすごい恐ろしい罰があることを語られています。石臼を首にかけられて、海の底に沈んだほうがまだ軽い罰であるほど恐ろしい罰があるのです。
使徒パウロはこのことをはっきりと認識していました。それで、彼は人々につまずきを与えないために食べ物までも自制していました。コリント?8:13節を見ると「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。」とあります。私たちもパウロのような心構えでつまずかせることに気をつけたいと思います。お肉を食べることはやめることができなくても、兄弟姉妹たちにつまずきを起こさせるような言葉や行いがないように最善を尽くして行きたいと思います。

?.赦しの信仰(3,4)
 3節をご覧ください。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」とあります。イエス様は自分がつまずきを与えることの次に、今度は自分がつまずきを受けるときのことについても教えてくださいました。人々は、よく、「つまずいた。あなたの一言で傷ついてしまった。」といいます。自分がつまずいたこと、傷ついたことはよく覚えているのです。しかし、自分がつまずかせたことは覚えていません。傷を受けたことはよく覚えていても、傷を与えたことは忘れています。しかし、キリストの弟子ならその反対に考えなければなりません。そこで、イエス様は、まず、つまずかせることについて語られてからつまずきを受けることについて語られたと思います。本当に成熟したキリストの弟子なら自分が傷を受けたことより、まず自分がつまずかせたことはないか、傷を与えたことはないかと考えるでしょう。
でも、実際に、生活の中でも成熟したキリストの弟子であっても、つまずきを受けるときがあります。明らかに、ひどいことをされたと思われる時があります。自分がその人のことを怒ったり、恨んだり、憎んだりする正当な理由が、いくらでもあるのです。そのような時に、私たちはどうするべきでしょうか。「何であなたは私につまずきを与えますか。つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」責めるべきでしょうか。いいえ、イエス様はそのようなときでも、「赦しなさい。赦しなさい」と語っておられます。自分には厳しくしても、人にやさしくするように教えておられます。人にやさしくすることは何でもかんでもいいということではありません。イエス様は、まず、「戒めなさい」と言われました。他の個所では、「ふたりだけのところで責めなさい。(マタイ18:15)」とあります。他人に話すのではなく、本人に話します。そして、悔い改めれば、赦すことです。つまり、「ごめんなさい。もう、そういうことはしません。」と言うのであれば、赦してあげなさいということです。どれほど赦すべきでしょうか。
4節をご覧ください。「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。イエス様は「七度罪を犯しても、赦してやりなさい」と言われます。しかも、一日に七度です。これはなかなか難しいことです。一週間のうちに三度でも難しいことです。先週、私はこのことを実感しました。先週、うちの学校に中間考査がありましたが、自分のクラスの生徒がカンニングして捕まえられて来たので注意しました。他の生徒たちにも訓話して注意しました。ところが、試験が終わった日にはタバコを吸ったことが捕まえられてきました。私は腹が立ち、体育館に連れて行って皆に注意しました。本来なら来週にある修学旅行にもいけないが、今回限り赦して行くから二度とこんなことがないように注しました。ところが同じ日の午後にまた、二人の生徒が万引きして捕まえられてしまいました。もう私は頭に来てしまいました。同じ人ではなかったけれど、同じクラスだから同じく注意してきたのに赦しがたいことが繰り返されると、本当に赦しがたく、赦せないと思いました。生徒たちはお母さんと一緒に何度も何度も「ごめんなさい、もうそういうことはしません。」と自分たちの罪を悔いていましたが、なかなか赦すことができなかったのです。
 皆さんはどれ位人を赦す事が出来ますか。ある人があなたの悪口、陰口や弱点を攻め立てたとします。暫く経ってからやって来て、「さっきはごめんね。少し言い過ぎたかもしれない。」と言われたら赦せますか。 クリスチャンなら「赦さなくちゃ。」と思うかもしれません。でも暫くして又やって来て、前にも増して悪口や非難をしました。そしてまた暫くして、「ごめんね。またやっちゃった。」と言われて赦せますか。多分、もう「赦せない。」と思うのではないでしょうか。ユダヤの諺に「3回赦す事が出来る人は、完全な人だ。」という言葉があるそうです。同じ日に、同じ事を3回赦すのは並大抵の事ではないです。ところがイエス様は3回ではなく「七度」も赦すようにと言いました。「7」という数字は完全を表します。完全に赦しなさいというのです。何回も罪を犯して、「もう、やりません。」という人がいます。その人は、本当に悔い改めているかなあと思われます。けれども、「悔い改めます」と言うのであれば、「赦しなさい。」とおっしゃっています。まだ悔い改めにふさわしい実が見えるのではなくても、赦しなさい、と語っておられるのです。悔い改める言葉を言えば、私たちは赦すしかないのです。では、どうやって一日に七度も赦すことができるでしょうか。

?.からし種ほどの信仰(5,6)
5節をご覧ください。「使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」」とあります。使徒たちは、なぜ自分達の信仰を増してくださいと言ったのでしょうか。使徒たちは自分たちにとって無理だと思ったのでしょう。使徒たちは、ユダヤ人として3回赦すことでもできれば聖人であると教えられていたからです。彼らはもう驚きました。7度も赦すなんて、到底できないと思いました。それで、そのようなことのできる信仰を与えてください、と言っているのです。私たちも、このような使徒たちの心を理解することができるでしょう。夜明けに祈り、日ごとの糧を食べるときは、どんな人でも赦し、信仰によって生きようと決心します。しかし、いざと人とぶつかり合ったときは朝の決断が崩れてしまいます。すると、自分の信仰の足りなさに絶望するようになります。「どうか、私に信仰を増してください。」主に求めざるを得なくなるのです。しかし、イエス様にとって、それは的外れな質問です。では、イエス様は何と言われましたか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」」イエス様は彼らに富士山のような大きな信仰が必要ではなく、からし種ほどの信仰さえあれば、自分につまずきを与える兄弟でも赦すことができると教えてくださいました。彼らはもっと大きな信仰があれば出来ると思った訳ですが、イエス様は『からし種ほど信仰』でいいとおっしゃっているのです。当時「からし種」は種子の中で一番小さな物でした。肉眼で見たら、粉末の一粒のような小さい種です。それだけの信仰があれば十分なのです。あるかないか分からない程の信仰があれば、既に赦せていると言うのです。イエス様は、小さくても生ける信仰さえあれば、大きな障害をも除きうることを語られました。桑の木は、根が張っていて掘り出そうとしても中々掘り出す事が出来ないものです。さらにそれが海の中に植われることはありえないことです。ところが、それが『根こそぎ海に植われ。』と言えばその通りになるのです。これは比喩表現ですが、信仰の力を言っているのです。からし種ほどの信仰があるなら、誰でも人間の理性と限界を超えた力あるわざを見ることができます。私たちが自分につまずきを与え、傷つけた人を無限に赦すことはとてもできないと思います。本当に難しいことです。しかし、からし種ほどの信仰がある時、可能になります。イエス様は弟子たちの心にからし種ほどの信仰があることを認められました。ただ、それを認めないで使わないことが問題でした。私たちはいたずらに量的に大きな信仰を願うよりも、たとえ小さくても、今ある信仰をつかなければなりません。今の信仰で十分です。クリスチャンの中でも、ある人は、自分には信仰がないから人を赦すことが難しいといいます。私は宣教師として働いていますが、ある方は「自分はまだ宣教師ではないからまだまだ何度も何度も赦すことはできない」と言われる時もありました。私たちは「自分には信仰がないからできない。まだまだ信仰が小さいものです」とよく言います。それが謙虚な言い方であって「信仰によってやりましょう。」ということは高慢な言い方のように思っている場合もあります。しかし、私たちはからし種ほどの信仰であってもその信仰を活用することが大切です。信仰を働かせると、大きくなります。私たちにはからし種ほどの信仰があります。その信仰があるからこそ今日も教会に来て神様に礼拝しているわけです。私たちがそれを認めてその信仰を活用する時、偉大な信仰の歴史を創造することができます。また、一日に7度赦してもまた罪を犯すような人でも、イエス様の罪の赦しを信じて赦すなら罪の根が根こそぎになります。復讐は復讐をもたらしますが、赦しは罪の根を掘り出すことができるのです。繰り返して赦すことはなかなか難しいことですが、何度も何度も罪を繰り返している私たちのために十字架につけられ、死なれたイエス様を見つめ、イエス様を信じる信仰によって赦す時に罪の根を掘り出すことができます。私は先週、映画パッションを見ながら私を赦すためにキリストの受難に驚きました。イエス様が完全な赦しを与えてくださることも分かりました。このキリストの赦しの愛を覚えて私たちも赦す生活ができるように祈ります。その時、私たちは赦しの力を見ることができます。

?.しもべの姿勢(7-10)
 7-10節はイエス様の弟子である私たちが神様のしもべとして持つべき姿勢を教えてくれます。私たちは現在、からし種ほどの信仰しかなくても、人につまずきを与えたり、人の心に傷つけたりしない成熟したクリスチャンになることができます。人を赦すことにおいても寛容であり、また、信仰によって大いなることを成し遂げることもできます。しかし、それらがすべてよくできたとしても決して誇るべきではありません。人はとにかく高慢に陥りやすいものです。ですから、いつも高慢にならないように気をつけなければなりません。そこで、イエス様は主人としもべの関係を例に引いて謙遜を教えられます。
7節をご覧ください。「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。」とあります。奴隷が一日中畑で仕事をして帰って来た時に、主人が「よく働いてくれた。疲れたろう。」と奴隷の為に食事を用意しますか。そんな事はないでしょう。かえってどうしますか。
8,9節をご覧ください。「かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。」とあります。しもべは、主人の食事を先に整えさせられて、自分の食事は後から死なさいと言われるのです。これがしもべとして当然の仕事でしょう。
私たちは仕事から帰るとき、上司から、「お疲れさん!」とはよく言われると思います。しかし、「こんなにやってくれて、何とお礼を言えば良いだろう。君のしてくれたことは、一生忘れないよ。」などとは言われないでしょう。そんなことを言われたら、かえって気味が悪いですね。なぜなら、社員として、職員としてやるべきことをやっただけだからです。本当にしもべとして、仕事をしているなら、主人が認めてくれなくても、分かってくれなくても被害意識に陥ったり、劣等感に陥ったりしないのです。心を騒がせるようなことがなくなります。なぜなら、しもべはしもべだからです。イエス様はこのたとえを言われてから結論的に語られました。
10節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」
ここで、しもべは、事実役に立たないしもべではありません。主人にとってはなくてはならない大切な存在です。しかし、しもべは自ら自分が役に立つしもべだと思わないのです。これこそ、キリストの弟子たち、神様のしもべたちが持つべき姿勢です。この姿勢がなければ、信仰生活をしていても恵みの世界からずれてしまいます。なんかずれているのは、この姿勢がないからでしょう。私たちがしもべとしての立場を知る事も大切です。私たちは主のしもべです。主のしもべとしてキャンパスミッション、世界宣教のために用いられていることは大きな恵みであり、本当に光栄なことです。
私たちは先週、学んだある金持ちのように滅ぼされるべきであった者でした。ぜいたくに遊び暮らすことを望みながらハデスに向かって行ったのです。しかし、キリストの十字架の恵みによって救われて、少しでも聖なる主のみわざのために働きうる者とされたのです。これは何と大きな恵みでしょうか。そのことを思えば、感激にあふれ、その大きな恵みに少しでも答え、感謝するために働くようになります。本当に、私達は何も誇る事が出来ない者です。ただイエス様の憐れみの十字架で赦されただけです。もちろん、私達も神様によって、何か素晴らしい事をする事があるかもしれません。兄弟姉妹たちのために多くの時間と物質を犠牲にし、愛の業を行うことがあるかもしれません。でもその時に気を付けなければならないのは、「自分もよくやったな」と高慢の芽を育てる事です。「自分は成すべきことをしただけです。役に立たないしもべです。」といつもこの信仰、この姿勢に立ち続けていく事が必要です。
 どんなに素晴らしい事を見たとしても、経験したとしても、それはただ神様があなたに与えて下さった恵みでしかありません。決っして誇り高ぶる事のないように注意していきましょう。これが主のしもべとして歩む秘訣です。この謙虚な姿勢こそ、すべてのことにおいて感謝し、いつも喜ぶことができる秘訣です。どうか、私たち一人一人が御霊の助けによって何度も何度も悔い改めた人を赦し、今の信仰を働かせて大きなことを成し遂げることができるように祈ります。何よりも、そうしながらも「自分は役に立たないしもべす。なすべきことをしただけです。」心から告白する信仰、へりくだった信仰をもって生きることができるように祈ります。