2004年ルカの福音書第47講

ある金持ちとラザロ

御言葉:ルカの福音書16:19?31
要 節:ルカの福音書16:25「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』

 先週、私たちは財産、お金の使い方について学びました。聖なる国民としてきよい生涯を送ろうと志す人は、お金の使い方においてもそれが表れていかなければなりません。お金は自分の働きで儲けたものであっても、神様が預けられたものだから神様と人のために有益に用いるべきです。特に永遠の友達を作るために使うことは本当に賢い使い方です。また、私たちは、忠実でなければならないことも学びました。私たちがこの世で小さいことに忠実でなければ大きい事、すなわち永遠の神の国に関する事柄にも忠実な者として信用されることはありません。自分は苦労して金持ちになったから小さい事に忠実でなくてもいいと思うなら、それは危険な思いです。
 今日の御言葉にはぜいたくに遊び暮らしていた金持ちが死後には苦しみもだえていることが記されています。反面、ラザロという人は全身おできで仕事もできず、貧乏人の人でしたが、死後にアブラハムのふところに行っていました。「ラザロ」というのは「神はわが助け」という意味ですが、おそらく、彼は「神は和が助け」という信仰には忠実であったことでしょう。 
この時間、この二人の話を通して、あの世、死後の世界においてどんなことが起るかを学びたいと思います。この世にはどこに行っても金持ちがいるし、貧しい人も暮らしていますが、死後にも続くのではありません。東京でも世田谷区には金持ちが多く住んでいると聞いていますが、ここから近い戸山公園には天幕を張って暮らしているホームレスたちも多くいます。彼らが死後にも同じく金持ちとホームレスと分けられているのではないのです。金持ちであっても地獄に向かっている場合があるし、貧乏人であっても天国に向かっている人がいます。では、
私たちの人生はどこに向かって行ったのでしょうか。この時間、イエス様の教えに耳を傾けて聖書の真理を悟り、積極的に永遠のいのちと天国へ向かって行く人生を生きることができるように祈ります。

?.金持ちとラザロ(19-21)

 19節をご覧ください。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」とあります。当時、紫は高貴な、身分の高い人だけに許されていた色でした。細布とは上質の下着です。ですから、彼は最上等の服、宴会やお祭の式服を優雅に着こなし、ぜいたくに遊び暮らしていました。しかも、毎週とか、二日ごとにではなく、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。今日の言い方をすれば、彼はフランスパッションの服を着て毎日美味しいイタリアの料理や高級な中国料理などを食べていました。彼は最高級ホテルのようなマンションで大型のスクリーンを通してDVDの映画を見たり、テレビゲームやコンピュータゲームなどを楽しんだりしました。好きなことをやって好き勝手に毎日を楽しんでいたのです。
 反面、貧しいラザロはどのように暮らしていましたか。20,21節をご一緒に読んでみましょう。「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」ラザロは全身おできができていて見るに耐えない貧乏人の姿です。食卓から落ちるものとありますが、当時のユダヤの食事を手で食べていました。すると、当然手が汚くなりますから、別のものを食べるためにお手拭きが必要です。このお手拭き代わりにパンが使われて、手を拭いたパンは食卓の下に捨てられました。すると、それはテーブルの下にいるペットの犬の餌になっていました。ラザロはそれでも食べたいほどにいつも腹が減っている貧乏人だったのです。それにラザロはとても寂しい人であったと思います。そばにいてくれる家族も、友たちもいませんでした。隣にはおできをなめている犬しかありませんでした。ラザロは人間とみなされず、人間扱いされることもなく、犬の仲間として、獣や動物のようにしてしんで行っていたのです。
世の中には、このように金持ちも、貧乏の人もいます。私は日本に来る前、経済大国日本には金持ちだけが住んでいると思いました。しかし、あちこちからホームレが見えました。ホームレスでも物乞いをしている人は見ませんでしたが、貧しく暮らしていることは間違いないでしょう。この世の中には一食の食事のために何万円も使っている人もいるし、病のために病院に行きたくても治療費がなくて困っている人もいるのです。でも、その状態が永遠に続くのではありません。死ぬまで金持ちは金持ちで、貧乏人は貧乏人であっても死後には逆転劇が起りうるのです。では金持ちとラザロが死んでからはどうなりましたか。死後の話を見てみましょう。

?.天と地獄の間にある大きな淵(22?26)

22節をご覧ください。「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」とあります。誰が先に死んだでしょうか。病気を患い、貧乏で寂しく暮らしていたラザロが先に死にました。それからしばらく経つとぜいたくに遊び暮らしていた金持ちも死んで葬られました。結局、二人とも死んだのです。貧乏人もみな死に、金持ちも死にました。同じく人は誰でも死ぬ時が来ます。学歴のある人も死にます。学歴のない人も死にます。「これ以上征服するところがない」と言ったアレクサンダー大王も死にました。「私の辞書に不可能はない」と言ったナポレオンも死にました。天下統一の大業を成し遂げた豊臣秀吉も死にました。適切な判断力、慎重な行動、時機到来を待つ忍耐力などで立派なリーダーシップを持っていた徳川家康も死にました。これらを考えてみると、死ほど平等なものもありません。人が一度死ぬことは神様によって定まっています。ですから、私たち人間は死を避けることができません。私たちもいつ死ぬかは知りませんが、いつか死にます。世界中には、一日に170万人ほどの人々が死んで行くそうです。私たちもいつかはその170万人の隊列に入っていくのです。ところが、私たちは特別なことがなければあまり死を考えずに生きています。自分のいのちがこの世で永遠に続くかのように考えています。まだ若い私たちは死に対して遠い。遠い未来のことだと思っているのです。しかし、それは錯覚です。私たちはいつ死ぬか分かりません。先週、私の五番目の弟は肝臓ガンで手術を受けましたが、うちの家族は手術の前に医者の説明を聞くとき、病室にいた全家族が大声で泣き出してしまったと聞きました。私もその弟のことで何度も涙を流しました。ガンは死に至る病だからです。幸いに手術がよくできて神様に感謝していますが、死は本当に身近にあることが分かりました。ダビデの告白も思い出されました。彼は「けれども、主とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません (?サムエル20:3)。」言っています。生と死との間には、ただ一歩の隔たりしかないのです。ところが,この死は、私たちのすべてを終わらせるものではありません。死後の世界があります。
この世では人が死ぬと、お葬式をします。ところが、貧乏人ラザロは死ぬときも寂しくこの世を去っていったようです。彼を葬ってくれる人さえいなかったのです。聖書に金持ちは葬ったことが記されていますが、ラザロに対しては何も書いてありません。おそらく、金持ちのしもべたちが彼の死体を捨てたでしょう。実際に、当時は葬式をあげる費用も出せないほど貧乏な人は大抵エルサレムにあるヒノムの谷という場所で焼却されました。ところが、ラザロが死んでからどんなことが起りましたか。もう一度22節をご覧ください。「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」「この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」とあります。死がすべての終わりではありませんでした。ラザロは死んで後に、天使たちに迎え入れられ、アブラハムのふところに行ったのです。「アブラハムのふところ」はユダヤ人が楽園の別名として好んで用いた名前です。地上であんなに悲惨だったのにその苦しみとは裏腹に死後には大いなるなぐさめがありました。御使いたちが彼をアブラハムのふところに案内してくれたのです。
ここで,死は永遠の世界の始まりであることが分かります。聖書は死が肉体とたましいの分離であると教えています。死ぬと、肉体は腐っていきますが、私たちのたましいは永遠の世界に入っていくのです。では金持ちはどうなりましたか。「葬られた」ということを考えてみると、盛大なお葬式があったと思います。ところがその後、彼はどうなりましたか。
23節をご覧ください。「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」とあります。この金持ちは地上での楽しみとは裏腹に死後は苦しみにあっています。彼は自分の姿とラザロの姿が比較されてもっと苦しみます。精神的な苦しみの中で比較されるほど苦しいこともないでしょう。ですから、みなさんは人と比較しないでください。比較意識にさいなまれると、骨が粉々になる苦しみを経験します。金持ちはあの貧乏人ラザロと比較されています。死後における逆転劇が起こっているのです。低くされているものが高められて、高くされているものが低められるということです。このルカの福音書を見ると特に多く描かれています。今は苦しめられているけれども終末、あるいは死後に慰められる、そして今幸せな者が終末や死後に不幸せになるということです。例えば1章に出マリアの賛歌でこう書いてあります。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。(ルカ1:51- 53)」上にいる者が下になり、下にいる者が上になるということです。
 24節をご覧ください。「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」とあります。ここに、彼の肉体的な苦しみが記されています。どんなに渇いていたでしょうか。指先を水に浸して私の舌を冷やすようにお願いしています。燃える池の中での苦しみです。ここで、死後には何の意識もなくなるのではないことが分かります。彼はまずラザロのことをよく知っていました。過去の記憶があります。また熱くて苦しいという感覚もあります。つまり死んだ後にも私たちは意識があるということです。
25,26節をご覧ください。「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」
 アブラハムのふところと金持ちがいるところの間には大きな淵がありますね。もう、死んだら終わりです。その淵を渡ることはできません。永遠の運命が決定されます。恐ろしいことです。私たち人間的には信じたくない事です。しかし、この世で信仰がなく、ただ自分の欲望を満たしていた人が死後に救われる道はありません。生きているうちにしか決断をすることはできません。ですから、私たちは生きている時に信じなければなりません。また、家族や友達が生きている時に伝道しなければなりません。死後のは大きな淵を渡ることができないからです。では生きている人たちはどうやって信仰を持つことができるでしょうか。

?.モーセと預言者の言うことを聞きなさい(27-31)

 27-28節をご覧ください。「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」
兄弟が五人いますが、自分を通して彼らがここに来ないようにしてくださいとお願いしています。ところが、その祈りを聞いてくれませんでした。なぜでしょうか。29節をご一緒に読んでみましょう。「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』」
 預言者と律法が強調されています。御言葉さえあれば十分だとアブラハムは言っています。御言葉の中には貧しい人たちを大事にすることが記されています。また富を拝んだり、天と地とを創られた神以外のものを神として拝んだりしてはならないと書かれてあります。また律法と預言者を見たらキリストに関する証しが数限りなく載っています。イエス様がメシヤ、キリストであるということが証拠としてあるのです。
30,31節をご覧ください。「彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
 再び、御言葉を聞くことの重要性が言われています。奇蹟を見ても信じないかと思われるかも知れませんが、実際におこっていることです。これは聖書に書かれています。同じ名前のラザロという人物を思い出してください。死者の中から生き返りました。ヨハネの福音書に書かれていますね。それを見たパリサイ人はどうでしたか。ラザロを殺そうと思ったと書かれています。彼らはしるしさえ見れば信じられる、目で見る事ができれば信じる、それを見なければ信じないと言っていましたがそれは大ウソです。見ても信じないのです。つまり信じたくなかったのです。また信じないと決めていました。同じ事が今の人々にも言えます。奇跡を見る事ができれば私は神とイエス・キリストを信じる事ができるという人々がいます。私たちもそう思ってしまいます。けれども聖書の御言葉を信じることが出来なかったら、たとえ奇跡を見る事ができたとしても決して信じません。大体奇蹟を求める人は信じられないということより、信じたくない心が問題です。その心にお金を愛したい、お金が欲しいということがあるのです。ですからどんなに証拠をつきつけても決して変わるものではないのです。ですから、本当に信じたいと思うなら御言葉に耳を傾けなければなりません。本当に信仰を強くしたければ御言葉を愛し,御言葉を黙想する生活、御言葉に従う生活に励むべきです。そうすると、その人は天国に向かっていく生活ができます。たとえ、この世でちょっと貧しくても、死後に天使たちに迎え入れられてアブラハムのふところに行きます。アブラムよりも素晴らしいイエス様のふところに行くようになるのです。

結論的に、私たちは終極の希望を未来に置かなければなりません。何よりも永遠の世界に望みを置くべきです。この望みのない人は、この世の安楽だけを求め、この望みのある人は、いかなる苦しみの中でも神様の助けを信じて耐え忍びます。聖なる国民として生きることができます。