2004年 ルカの福音書第45講      
天の喜び
御言葉:ルカ15:1-32
要 節:ルカ15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

先週、私たちは主人が盛大な宴会を用意して人々を招いたたとえについて学びました。最初に招いた人々は断りましたが、彼らはユダヤ人、パリサイ人や律法学者たちを指しています。彼らがイエス様の招きを断ったために、貧しい人や、病人たちを招かれました。さらに主人は街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来るように命じられましたが、それによって異邦人も救いの宴会に招かれるようになりました。イエス様はユダヤ人だけではなく、全世界の人々がイエス様の招きを受け入れて救われることを切実に願っておられます。このキリストの愛によって私たちも救われてイエス・キリストと聖なる交わりを持つことができるようになりました。異邦人であり、貧しい人や、病人のような私たちを天国の宴会に招いてキリストの交わりの中に入れてくださった神様の愛に感謝し、賛美します。
今日の御言葉は、招かれた人々とともに食事をしておられるイエス様が話されたたとえです。著者のルカは例え話ですけれども、招きの次に食事会と順序正しく記しています。この食事会にどんなことが起こりましたか。1,2節をご覧ください。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」」とあります。この御言葉には罪人に対するイエス様のお心とパリサイ人の心がよく現われています。収税人、罪人たちがみな、イエス様のみもとに近寄って来た時、イエス様は彼らを暖かく迎え入れました。そして彼らとともに食事をしながら愛の交わりをしました。イエス様は彼らの立場までに低くなって彼らを理解し、愛して仕えました。
 しかし、パリサイ人の心はどうでしたか。彼らは収税人や罪人たちとともにいることさえ嫌がりました。彼らにとってイエス様が罪人たちとともに食事をすることは理解できませんでした。彼らは「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」と言っています。彼らの心には理解も愛もありませんでした。その代わりに自己義と偏見、つぶやきに満ちていました。そこで彼らに分かりやすく三つのたとえを話してくださいました。
これらのたとえを通して私たちは失われているひとりが悔い改めてみもとに帰って来た時に、神様がどんなに喜ばれるか、この神様の喜び、天の喜びについて学ぶことができます。もちろん、この世でも、行方不明になっていた家族が帰って来た時は大喜びがあります。危険なところから帰って来ただけでも喜びます。先週、イラクに派遣された空軍自衛隊の第一陣が三ヶ月間任務を終えて帰ってきましたが、彼らを迎える家族の姿は喜びに満ちていました。私は新聞の写真だけを見て喜んでいる彼らの姿に感動しました。
ところが、私たちが永遠の破滅に負かっているサタンの支配から悔い改めて神様に帰って来た時、神様の喜びはどうでしょうか。ご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられるだけに、その喜びも大きいものでしょう。天の喜びは言い尽くせないものです。この時間、啓示の御霊が注がれて私たちの心の目が開かれて、この天の喜びを悟らせてくださるように祈ります。天の喜びのゆえにいつも喜んでいることができるように祈ります。特に一人の人が悔い改めて帰ってくることを待っておられる神様の愛の広さと高さ、その深さを悟ることができるように祈ります。

?.いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨のたとえ(3-10)
 3、4節をご覧ください。「そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」とあります。」とあります。イエス様は悔い改めた収税人や罪人たちと食事をすることに対してつぶやいているパリサイ人や律法学者たちにたとえを話されました。牧者が、迷い出た羊を捜しに行くたとえです。これは、当時の社会ではありふれた光景でした。遊牧民としてどの家でも羊を飼っていたので迷子になる羊のことはよく知っていたのです。羊はよくも群れから迷い出る動物だそうです。犬は遠く行っても自分の家に戻れますが、羊は、迷い出ると、戻って来るような習性がないのです。さらに羊は弱い動物なので、迷い出ると、非常に危険です。崖から落ちてしまうかもしれないし、狼に食べられてしまうかも知れません。早く見つけなければ、水を飲むことも、草を食べることさえでき、飢え死になってしまいます。ですから、牧者は百匹いるはずなのに、一匹足りないことに気づいた時には、どうしますか。
4節をごいっしょに読んでみましょう。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」イエス様は「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」おっしゃっています。牧者が「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩くことは当たり前だということです。ここで、私たちは牧者の姿勢を学ぶことができます。
第一に一匹の羊を大切にする心です。牧者は「九十九匹を野原に残して、一匹を捜しに出かけました。この一匹の羊は残しておく羊の数と比べると99:1にすぎません。また、いなくなった羊はどちらかと言うと、自分から迷い出たのです。だから、崖に落ちても,狼に食われてもそれは自分のせいだと思ってしまいがちです。しかし、本当の牧者そのように思いませんでした。牧者はいなくなった一匹の羊の弱さを理解して捜すために九十九匹を野原に残して出て行くのです。たった一匹のために九十九匹の羊を残しておいてもいいのかと考えてためらうことはありません。牧者は一匹の羊でも、残しておく九十九匹の羊のように貴く思うのです。この牧者の心は子どもに対する親の心です。親は子どもが多くても一人一人をとても貴く思い、大切にします。親は数多い子どもたちの中でひとりだけがいなくなっても、そのひとりを見つけるまで捜し歩くのです。北朝鮮に拉致されたと思われる子どもの救出のために、十年経っても、二十年経ってもあきらめない親たちのことを考えてみるとよくわかります。このように牧者の心とは子どもに対する親心なのです。良い牧者イエス様はひとりのいのちを全世界よりも貴く思っておられました。マルコの福音書8:36節は言います。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」
第二に、見つけるまで捜し歩く行動力です。イエス様は「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」と言われました。牧者は羊を捜すことが大変だからと思って諦めることがないのです。牧者は一匹を見つけるまで捜し歩きます。いなくなった羊をかわいそうに思うことだけではなく、行動するのです。見つけるまで捜し歩く行動力、それが牧者の姿勢です。牧者は言葉や口先だけではなく、行いによって羊に対する愛を表します。これはまさにイエス様の御心であり、神様の御心です。イエス様は私たちを顧みて哀れまれるだけではなく、天からこの地に降りて来てくださいました。人となって私たちの間に住まわれました。羊のようにさまよっている私たちのためにご自分が神の小羊となって十字架にはりつけられました。イエス様は思いや心だけではなく、ご自分のいのちを犠牲にするまで行動されたのです。
ではいなくなった一匹を見つけたときの喜びがどうですか。
5,6節をご覧ください。「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」とあります。牧者はいなくなった羊を見つけたら、喜んだあまりその羊をかついでしまいます。迷子になっていた子どもを見つけたら、子どもを抱きしめて泣いてしまう親のようです。自分だけで喜ぶことがもったいなくて近所の人たちも呼び集めて言いました。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」牧者は羊を見つけるまでに苦労した犠牲が大きいだけに喜びも大きいものでした。
 以上のたとえはもちろん、イエス・キリストと罪人たちとの関係を表わしています。羊飼いがイエス様であり、いなくなった羊は罪人です。イエス様はこの地に来て罪人たちを招きつづけ、見つけるまで捜し歩かれました。イエス様が休むことなく御言葉を教え、人々を癒されたのは、いなくなった人を見つけるまで捜し歩かれたことです。そしてイエスは彼らを捜して、収税人や、罪人たちを見つけた時、彼らと食事をとっておられました。いなくなった羊を見つけた喜びのゆえにパーティーをしておられたのです。これは悔い改めた人々と共にする喜びのパーティーでした。
そこで、イエス様はこのたとえの結論を言われました。ご一緒に7節を読んでみましょう。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
ここで強調されているのは、喜びです。いなくなった羊が見つかったら、大喜びするのは、ごく自然な反応です。同じように、神様から離れてしまった人が戻って来て、大喜びするのは当たり前の、普通の反応なのです。ところがパリサイ人たちは、つぶやきました。彼らは「何で汚い罪人たちとともに食事をするのか。」と思ったのです。彼らは罪人の悔い改めを喜ばれる神様の御心を知りませんでした。ここで、イエス様は「喜びが天にあるのです。」と言っておられます。天にある思い、神様の思いやみこころも、喜びなのです。ところが、聖書の御言葉をよく知っているはずのパリサイ人たちは神様の御心も、天の喜びも知りませんでした。そこでイエス様は続けてなくした一枚の銀貨のたとえを話してくださいました。
8,9節をご覧ください。「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」とあります。
今でも道に落としたコインを見つけることはやさしくありませんが、当時の状況を考えてみると、銀貨を見つけ出すことがとても難しいものでした。この銀貨は、ドグラマという単位の貨幣で、一日の労働賃金のデナリより、やや高い単位です。昔の貨幣で今の円にすれば300円か、四百円ですが、その価値は一日の労働賃金よりやや高いものですから、一万円ぐらいの価値があると思います。ですから、職場で働けなかった当時の女性にとってこのお金は決して小さな金額ではありませんでした。一枚をなくしたら念入りに探さなければならないほどの価値があったのです。また、一説によると、この銀貨は結婚のために貯えて来たものだと言われます。この銀貨は彼女にとって結婚に対する夢と愛が込められている宝であったのです。ですから、この女は念入りに、執拗に探すのです。ところが、当時の家は、土が固められた床を持っているので、雑草が生えていたりします。また、窓が小さく一つあるだけなので、床は暗くなっています。それで、あかりをつけて、掃かなければならなかったのです。現代風に言うなら、コンタクトレンズをなくしてしまったような感じですね。この女は銀貨を見つけたら喜びのあまり、近所の人々も集めていっしょに喜びます。では、どうしてこの女はなくした銀貨をそれほどに大切にしているでしょうか。それは自分の貴重な所有だからです。人はだれでも自分の所有は大切にします。学校で見ると、生徒たちは一緒に使うものには使い方が荒れていますが、自分のものは筆箱一つでもとても大切にしています。それは大人も同じでしょう。自分の所有、自分の宝は大切にするのです。このように神様はご自分の所有、宝である私たちをとても貴く思い、大切にしておられます。
 10節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」」
 ここでも、自然な反応として、喜びがあります。そして次をご覧ください。7節では「喜びが天にある」ということでしたが、ここでは、「神の御使いに喜びがわき起る」となっています。いずれにしても、天で喜びがわき起こっているのです。
 イエス様は繰り返して罪人ひとりの悔い改めが神様にとってどんなに大きな喜びとなるかについて教えてくださいました。7節も、10節も繰り返して天の喜びが記されています。これを考えてみると、神様がひとりの悔い改めをどんなに喜んでおられるかを学ぶことができます。また、一人の悔い改めがいかに大きなみわざであるかも知ることができます。人々はひとりの悔い改めをそれほど大切にしません。少なくとも1000人、2000人位の人々が集る集会には関心を示します。一人二人の悔い改めにあまり関心を示しません。私自身もモンゴルUBFの復活修養会に320名が参加し、香港やドイツのボンUBFの復活礼拝に150名が参加したというUBFのニュースを見ると、日本UBFのみわざについてはとても小さく思いました。あまりみわざが起こっていないような気がして恥ずかしい思いもありました。しかし、神様はひとりの悔い改めをとても貴く思い、とても喜ばれます。私一人が悔い改めたことだけでも天では喜びの宴会が開かれます。私は本文の御言葉を準備しながらこの事実を深く悟りました。ひとりの悔い改めはその人だけに留まりません。ひとりの悔い改めが家族を変化させ、キャンパスの流れも変えます。世界の歴史の流れも変えます。使徒パウロひとりが悔い改めた時に、数多い教会が誕生したし、ヨーロッパの歴史の流れが変わりました。アウグスティヌスひとりの悔い改めは、当時のキリスト教を異端の思想から守り、キリスト教神学の基礎を置くようになりました。Mother Barry宣教師ひとりの悔い改め、犠牲によって朝鮮戦争以後とても貧しい韓国でさまよっていた若者たちが生き返り、世界に広がるようになりました。今は全世界のキャンパスでさまよっている多くの若者たちが救われています。このように歴史上偉大な人物だけではなく、私たちのように平凡な人でもひとりが悔い改めたときに周りに及ぼす影響は大きいものです。寺崎アブラハム牧者は韓国に留学していた時に、イエス様に出会って救われ、牧者になりましたが、卒業してから地元の福岡に帰りました。そこで就職して楽に暮らそうとしていました。しかし、彼ひとりが悔い改めて職場もなく、知り合いもいない東京に来て日本宣教のために同労するようになった時、日本のアブラハムとなりました。彼は多くの働きもしていますが、彼ひとりが悔い改めて信仰の中心を守ることだけでも天には大きな喜びがあり、この日本宣教に大きな影響を及ぼしているのです。
 私たちは今週土曜日から東山荘に用意されている天国の宴会に参加します。私は数多い方がこの修養会に参加することを切実に願っています。先週は何とかひとりでもフィッシングして一緒に行こうと思って毎日仕事が終わったら家に帰らず早稲田大学によってセンターに来て祈りました。でもなかなか羊を得ることはできなくて残念に思いました。しかし、神様は私ひとりが悔い改める時、天に喜びがあることを悟らせてくださいました。今回の修養会にもひとりが悔い改める時ごとに天には大喜びがあります。神様はひとりのいのちを全世界よりも貴く思い、大切にしておられるからです。私たちが天の喜びを覚えて喜びながら修養会を準備し、喜びの宴会に兄弟姉妹たちを招くことができるように祈ります。
以上のたとえには「悔い改めるなら」という表現が使われていますが、その意味は何でしょうか。悔い改めには、自分の意思と決断が必要になります。けれども、羊にはそのような決断はできないし、銀貨もそうです。それでイエス様は、この「悔い改め」の部分を詳しく説明するために、ふたりの息子のたとえを話されます。

?.いなくなった息子のたとえ(11-32)
 11,12節をご覧ください。またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。」とあります。父の財産は、兄弟が二人である場合は、兄に3分の2、弟には3分の1が分け与えられます。弟はそれを父に要求しているのです。普通、それは父が死んだあとに行われます。けれども、弟は、父の生前に要求しました。無礼な息子です。でもこの父は、とても寛大です。ふたりに身代を与えました。
13節をご覧ください。父の家における窮屈な生活に嫌気がさし、外に出て行って、やりたい放題した弟です。ここに罪人の姿が現われています。罪とは、神様に反抗することです。神様に反抗して、そして、遠い国、つまり神様から遠く離れています。
 14-16節をご覧ください。ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物です。豚の世話ほどに、惨めな世話はありません。いなご豆とは、極貧の食料であると言われています。どん底まで落ちた、という感じです。けれども、これが罪の結末であります。「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」 とあります。また、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14)」 とあります。罪は、私たちを破壊します。この弟息子は、いなご豆も食べられないほど困窮しました。そして、次からが悔い改めの場面です。
17節をご覧ください。「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。」とあります。この「しかし」が大事です。彼は、自分がみじめであること、貧しいこと、哀れであることに気づきました。人はみな、そのような状態にいるのですが、彼のように気づく人は少ないです。イエス様はラオデキヤの教会に語られました。「あなたは、自分が富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示録3:17)」 ですから、悔い改めの第一歩は、自分の姿に気づくことです。彼は、我に返ったあと、父を思い起こしました。父の豊かさについて思い起こしました。それに照らし合わせて、自分の姿を比較させています。もちろん、ここでの父は、父なる神様ご自身を表しています。ですから、悔い改めの次の一歩は、神様を思うことです。神様のことを考え、神様の豊かさを考えます。悔い改めというと、単に行ないを改めることのように考えがちです。しかし、後悔することとクリスチャンが悔い改めることは違います。私たちは自分だけの決心ではなく神様に頼り、御前で悔い改める生活をするのです。弟息子は、父の家に向かいますが、汚れた、豚のにおいがプンプンにおう姿で行きます。ですから、悔い改める時は、神様のことを考えて、ありのままの自分で行く必要があります。また、彼は、自分の罪を父に対して言い表します。ですから、悔い改めの次の段階は、罪を告白することです。祈りの中で、私はあなたに対して罪を犯しました、と言葉に出して告げる必要があります。彼は、自分が父の祝福を受ける資格がないことを認めています。自分の人生は雇い人でよい、それで十分なのだ、と考えています。彼は自分が地獄に行って当然の存在であることに気づいて自分の罪を言い表しているのです。このことは、とても大事です。?ヨハネの手紙1:9節を見ると「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。
20節をご覧ください。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところやく、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」とあります。ここは直訳すると、「首を抱きかかえて、何度も何度も口づけした。」となります。羊飼いや女の人と同じように、この父も息子を見つけて、自分から駆け寄っています。ありのままを迎え入れてくださいました。それだけではありません。子どもとしての資格も、権利も戻してくださいました。
22節をご覧ください。「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』」とあります。
良い着物、指輪、くつなどはみな、息子の資格を示すものです。しもべは、くつをはくことはありませんでした。父親は、罪を赦し、ありのままを受け入れてくださることだけではなく息子の地位にまで戻してくださったのです。それだけ、父は彼のことがかわいかったのです。愛しているのです。父親にとっては息子が帰ってきたことだけで感激です。私たちの神様も同じです。神様は私たちを愛し、ただ罪を赦してくださるだけでなく、神様の子どもという特権を与えてくださいました。神様の宝、祭司の王国、聖なる国民としてくださいました。神様の持っておられる資産を、私たちは受け継ぐことができるのです。
 23、24節をご一緒に読んでみましょう。「そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。」
 罪から来る報酬は死ですから、彼は確かに死んでいました。神から離れていれば、だれもが死んでいるのです。しかし、今、神のいのちを受けて、生き返りました。永遠のいのちを持ちました。そして、いなくなっていたのが見つかった、と父親は言っています。いなくなった息子を見つけた喜びのために祝宴を始めました。これは、まさにイエス様が罪人、取税人と食事をしていることを表しています。いなくなったのが見つかったことに大いに喜んで、お祝いをしているのです。そして、これは、神の国における宴会でもあります。私たちはこれを14章で学びました。宴会に参加できた人は、自分の努力や業績によるものではありませんでした。一方的な神様からの恵みです。受けるに値しないものを受けています。
 25-32節は兄息子のことを通して罪人を受け入れるのに腹を立てたパリサイ人の姿が描かれています。兄はおこりました。これがパリサイ人の心を表しています。大いに喜ぶのが当然なのに、腹を立てているのです。父の心と遠くかけ離れています。そして、面白いことに、彼は家に入っていません。父の寛大さ、父の恵みの中に彼は入りたくないのです。恵みを拒んでいます。
 自分の弟を、「あなたの息子」と呼んでつっぱねています。これもパリサイ人の態度です。神の国に入れないのは、自分がいかに悪いことをしたかではありません。地獄に行くべき人々を天国に入れる神様の寛大さ、神様の恵みを欲しくないから、神の国に入れないのです。恵みの招きに応答しないからです。
32節をご覧ください。「だが弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
 これが、イエス様の結論です。楽しんで喜ぶのは当然なのです。あまりにも自然なことなのです。ですから、イエス様が食事を罪人たち、収税人たちと取っていたとき、この方の心は喜びで満ちていました。これは、探していたものが見つかった満足です。イエス様がいなくなった羊を求めて、探しおられます。聖霊が執念深く、なくなった魂を探しておられます。 そして、父なる神が、ご自分の家で、いなくなった子たちが戻ってくるのを、忍耐して待っておられるのです。そして、一人が悔い改めると天の喜びがあります。7節も、10節も、ここの32節も喜びが記されています。この喜びは天の喜びです。キリスト教は喜びの宗教であるとも言われています。私ひとりが悔い改めたことで天の喜び、永遠の喜びがあるから、いつも喜んでいることができます。私たち一人一人が私の小さな悔い改めを喜んでくださる神様に感謝しましょう。そして、天の喜びのためにますます福音を宣べ伝えて、兄弟姉妹たちを天国の宴会に招き、悔い改めに導くことができるように祈りましょう。