2004年ルカの福音書42講   
イエス様が願われることは何か

御言葉:ルカ13:1-17
要 節:ルカ13:8、9「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

  先週、私たちはイエス・キリストの再臨を準備する者の態度について学びました。何事も準備することは大切です。先週、アブラハム牧者はマリヤ宣教師の出産を準備するために仕事の時間を増やしたいと言いました。今の仕事だけでもよく疲れてしまう体の状態のためにちょっと心配ですが、信仰によって準備して行きたいと所感を言いました。マリヤ宣教師は仕事を休んで出産の準備に入りました。このように赤ちゃんの誕生を待ち望みながら準備することは素晴らしいことでしょう。私たちクリスチャンにとってもイエス様の再臨を準備することはとても素晴らしいことです。私たちがイエス様の再臨を思慮深い忠実なしもべとして準備して行くことができるように祈ります。
今日の御言葉はイエス様の再臨を待ち望んでいる私たちにイエス様が願っておられることについて教えてくれます。一つ目は悔い改めることであり、二つ目は良い実を結ぶことです。そして三つ目は健康で自由に生きる生活です。

?.あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます(1-5)
 1節をご覧ください。「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。」とあります。
 「ちょうどそのとき」とは、12章でイエス様が群衆に話されているときのことです。イエス様は、「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」(12:56)と話されました。ちょうどそのときに、群衆のうちのある人が、その時代に起こった新しい情報をイエス様のところに持って来ました。それは、ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたということです。ガリラヤ人たちはエルサレムの神殿でいけにえをささげていました。ところが、そのときに彼らは殺され、彼らの血がいけにえの血に混ぜられてしまったのです。彼らは礼拝のさなかに死にました。しかも暴力によって殺されてしまいました。これほどに酷い災難があるでしょうか。彼らはこの出来事をどのように解釈すればいいのか分かりませんでした。でも彼らの心の中では、やっぱり悪いことをした奴は、罰せられるのだという思いがありました。彼らは確かに他の人たちよりも罪深い人間だと思ったのです。そこでイエス様はなんと言われましたか。
2,3節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
イエス様は殺されたガリラヤ人たちがほかの人たちよりも罪深かったことを否定されました。だからと言って何の罪もないのにそんな災難を受けたとも言われませんでした。イエス様は「罪のせいだ。」いや「罪のせいではない。」というような神学的な論争をしませんでした。それより、この事件を通して悔い改めなければならないことを教えてくださいました。
4,5節をご覧ください。「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」シロアムの塔が倒れ落ちたことは自然的な災難です。それで人々は塔が倒れ落ちて死んだ人たちは天罰を受けていると思いました。しかし、イエス様は彼らがエルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったからではないと言われました。そして、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言われました。
ここで、イエス様は私たちに悔い改めを求めておられることが分かります。私たちは人の話や新聞、テレビのニュースを通して不幸で悲惨な出来事に関して聞きます。イラクやパレスチナでは毎日のように死傷者が出ているし、この間スペインでは列車同時爆発事件もありました。毎日のように人が殺されている事件について聞いています。このようなニュースを聞いて私たちはどう思うのでしょうか。「ああ、何で気の毒なことだ」と同情をするかも知れません。あるいは、一体なぜ、こんな悲劇を起こるのかと問うかもしれません。しかし、ほとんどの人は、悪いことが人に起こるのは、悪いことをしたからだと思っているのではないでしょうか。9.11米同時テロによって貿易センタービルが倒れた時、多くの人々がテロリストを非難しながらも、それはアメリカが悪いことをしたからだと言いました。「ブッシュ大統領は悔い改めるべきだ」ともよく言いました。私たちもそのよう話を言いながら人のことについてあれこれ言っているのではないでしょう。しかし、イエス様はそういう私たちに対して、ひとりも例外なしに「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言われたのです。
イエス様は「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と二度も語っておられます。これは悔い改めを促しておられるイエス様の厳しい警告です。だれでもこの警告の御言葉を聞いても悔い改めることなく、自分勝手に生きるならどんなにひどい目に遭うかは知りません。ガリラヤ人たちと同じように、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人と同じようにみな滅びます。私たちは人が受ける災難や苦難を通して、自分の中にある罪を悔い改めなければなりません。偽善と情欲、妬みと憎しみなどの罪を悔い改めなければなりません。偶然に起こっているような出来事を通しても自分を顧みて悔い改める生活に励まなければなりません。
私たちが、イエス様のみことばを聞くときも、聖書を読むときも、それを他人事のように思うことは危険です。正しい聞き方は、どのような警告であっても、それは自分に対して語られていると受け止めることです。たとえ、自分はそれを行なっていなくても、自分にはそれを行なう可能性を潜在的に持っています。ですから、私たちは人のことを言うより謙遜に自分を顧みて悔い改める生活に励まなければならないのです。信仰生活の中で悔い改めがなければ健康なクリスチャンだとは言えないでしょう。しかし、少なくとも一週間を顧みて深く悔い改めた経験、涙を持って悔い改めた経験を持っている方は健康なクリスチャンであると言えると思います。
イエス様は私たちが悔い改めることによって滅びから救われることを切に願っておられます。悔い改めこそ救いに至る近道です。悔い改めを通していのちにあふれた人生を生きることができます。真実に悔い改めるとき、豊かな実を結ぶことができます。悔い改めによって地上のものに縛られている生活から向きを変えて聖なる巡礼者として素晴らしい人生を生きるようになります。悔い改めがなければいつのまにかこの世の価値観に汚染されてしまいます。自分の罪を合理化し、隠しながら罪意識と審判に対する恐れの中で不安な日々を過ごします。しかし、真実に罪を告白し、悔い改めるとき、罪が赦されて本当の自由と喜びを味わう幸せな人生を生きるようになるのです。
ですから、イエス様はすべての人々に悔い改める生活を促しておられます。災難にあった人々だけではなく、それをひとごとのように眺めているすべての人々も悔い改めなければ、みな同じように滅びるからです。ではまことに悔い改めることは何でしょうか。イエス様は悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活を教えるために一つのたとえを語られました。

?.実を結ぶ生活(6-9)
6-9節をご覧ください。イエス様はこのようなたとえを話されました。ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えました。何でぶどう園にイチジクの木かと思う方もいると思いますが、パレスチナの地方ではごく普通のことだそうです。大体のイチヂクは三年経つと実を結びます。だから、主人は三年経っても実らないイチジクの木を切り倒す決断をしました。それは、他の実を結ぶ木を植えることができたからです。ところが、このたとえで、ぶどう園の番人は木の回りを掘って肥やしをやってみるから、もう1年待ってくださいと言いました。このぶどう園の番人のお陰で、本来ならばぶどう園から取り除かれなければならない、イチジクの木に最後の猶予が与えられました。生き残って実を結ぶチャンスが与えられたのです。
ここで、ぶどう園とはイスラエルと私たちの世界を意味し、イチジクの木とはイスラエルの民、この世界に生きる一人一人の人間を指しています。そして主人は父なる神様、ぶどう園の番人はイエス・キリストです。イエス様は私たち一人一人に、このたとえを話しておられます。そして、イエス様は私たちに問われます。あなたがたは、本当に実を結ぶイチジクの木になっているのか。そのことをよく考えていただきたい。あの人の災害、この人の災害のことをよく言っていますが、あなたがた自身は一体どうなのかと言われるのです。あなたがたは本当に実を結んでいるのかと問うっておられるのです。
この間、永正リベカ牧者から教えられましたが、去年よく歌われた歌の一つに、「世界で一つだけの花」という歌があります。「NO.1 にならなくてもいい/もともと特別な Only one/・・・/そうさ 僕らも
世界に一つだけの花/一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに/一生懸命になればいい/小さい花や大きな花/一つとして同じものはないから/NO.1 にならなくてもいい/もともと特別な Only one[作詞作曲 槇原 敬之、唄 SMAP ]」という歌です。ぶどう園の中のイチジクの木は、まさに、そのオンリーワン、世界にただ一つのかけがえのない私たちの存在を示していると思います。そして、私たちにそのいのちの種を植えられた父なる神様は、私たちが自分自身の花を咲かせ、実を結ぶことを待っておられます。御言葉の光を照らし、聖霊の雨を降らして実を結ぶ環境を整えてくださいます。それにもかかわらず実を結んでないイチジクの木に対しては他の木に邪魔しないように取り除こうとされます。しかし、ぶどう園の番人であるお方イエス様がこの実を結ばないイチジクの木のためにとりなしておられます。「ご主人、どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」と。普通なら、自分が精一杯、働いているのになかなか実らないと取り除いてほしいと望むことでしょう。しかし、この番人はそうではなく、もう一年待ってくださいとお願いしました。自分がますます努力します。自分が責任を取ります。だから待ってくださいとお願いしているのです。この番人の心が主イエス・キリストの心です。イエス様は世界に一つだけの花のような私たち、すべての人が救われて、実を結ぶ人生を生きることを願っておられます。イエス様は、ガリラヤ人たちが受けた災難を報告する人々に、あなたがたも悔い改めなければ、同じように滅びると言われました。それは罪に満ちているこの世の現実です。何の実も結んでないこの世はもう滅ぼされてもおかしくない状態です。しかし、イエス様は「どうか、ことし一年そのままにしてやってください。」ととりなしておられます。私たち人間は神様が望んでおられる実を結ぶことができなかったので滅びるしかありません。しかし、ただイエス様のとりなしによってもう一度機会が与えられているのです。現在私たちが生きているのは全くイエス・キリストの恵みです。私たちは今度こそ最後のチャンスであることを知り、神様が望んでおられる実を結ぶために最善を尽くさなければなりません。人のことであれこれというより自分を顧みて悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶために励むことが大切です。ところが、私たちの力や意思だけではなかなか実を結ぶ生活が難しいことも実です。しかし、心配はいりません。ぶどう園の番人であるイエス様が助けてくださるからです。
私は子どもの時、父が柿やイチジクの木の回りを掘って肥料をやっている姿をみました。それはもっと良い実を結ぶためでしたイエス様は私たちが実を結ぶように心の畑を掘って肥やしをやってくださいます。良い地にするために私たちの心の畑を掘るのです。心が掘り出される時、私たちはものすごい痛みを感じます。隠れていた自分の汚い罪の姿が現われて来るからです。神様は牧者、職場の上司、同労者を通して、ショッキングな話を聞いて心が複雑になる時もあります。しかし、それを通して人前ではなく、神様の御前に生きる人として変えられていきます。様々な人間関係を通して私たちにある高慢、悪い習慣、情欲、憎しみと嫉みなどを掘り出されます。自分の弱さが、醜い所が掘り出される時の痛みは本当に大きなものです。私は宣教師として兄弟姉妹たちに仕え、メッセージを伝えて来ましたが、人々の指摘によって自分の醜さ、足りなさが現われるとき、非常に苦しみ、悲しみます。しかし、そのようなことを通して自分の姿を知って悔い改めると、神様は御言葉の肥やしをくださり立ち直るようにしてくださいました。イエス様は忍耐深くこの働きを続けておられます。私たちのためにとりなしてくださることだけではなく、心を掘って肥やしをやる仕事も続けてくださるのです。そのお陰で私たちは少しでも実を結ぶことができたし、これからも実を結ぶ心に変えられて行く希望があります。イエス様は私たちが実を結ぶことを求めておられますが、求めるだけではなく、心を耕して実を結ぶことができるように助けてくださるからです。ですから、今は足りなくてもイエス様のゆえに諦めることなく、悔い改める生活、実を結ぶ生活のために励むことができます。キリスト・イエスにあって決して絶望することはありません。イエス様は希望のキリストです。

?.自由にしてくださるイエス様(10-17)
10、11節をご覧ください。イエス様は安息日に、ある会堂で教えておられました。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいました。十八年かも患っている長期患者です。しかも病の霊につかれていますから精神的にも苦しんでいたことでしょう。人々は彼女に希望を持つことができませんでした。もうあきらめていたことでしょう。家族や友人からも疎外され、捨てられているような哀れな人だったのです。
12節をご覧ください。イエス様は、その女を見ました。多くの人々が集っている中でもイエス様の視線は腰が曲がっている女の人に向かいました。腰が曲がって全然伸ばすことのできない哀れな女に目を留められたのです。イエス様は病の霊につかれて十八年も苦しんできた彼女の苦悩をご覧になりました。腰が曲がっていたにもかかわらず会堂に来て礼拝している彼女の信仰をご覧になりました。ハンディがあれば公の場に出て行くことが難しいものです。特に女性は化粧をしなければ外出もできないと言われます。彼女も腰が曲がっている体で教会に行くことも大変ですが、中に入ることも難しかったでしょう。ちょっと恥ずかしく思われることもあったと思います。しかし、彼女は礼拝に来ていました。ありのままの姿で礼拝に来たのです。イエス様はその心をご覧になりました。そして彼女を呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言われました。彼女は何も求めませんでしたが、イエス様は彼女に癒しを宣言されたのです。
イエス様が癒しを宣言するだけではなく、彼女に手を置かれました。これは彼女にとって驚くばかりの恵みでした。イエス様の特別な愛が注がれています。イエス様が彼女に手を置かれると、彼女はたちどころに腰が伸びて、神様をあがめました。素晴らしい光景です。
イエス様はどんな状況の中でも礼拝に来ている人を大切にされます。苦しみと悲しみを持っている人に目を向けておられます。イエス様は人の心にある悲しみも、苦しみも理解してくださり、ご自分の方から呼び寄せてくだします。何よりも癒してくださいます。イエス様は私たちが曲がっている腰も、心も伸ばして元気に生きることを願っておられるからです。イエス様は私たちが健康であること、力強く生きることを願っておられます。ですから、イエス様は人に言えない苦しみ、悲しみを持っている人に手を伸ばして癒してくださいます。たとえ、その日が主に礼拝する安息日であっても人を癒されます。ところが、会堂管理者はイエス様の働きに対してどう思いましたか。
14節をご覧ください。「すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」」とあります。しかし、イエス様はご自分がなさったことに対して堂々と言われました。
15、16節をご覧ください。「 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」イエス様は病の霊につかれて腰が曲がっていた女をアブラハムの娘として見ました。牛やろばとは比べられない大切な神様の娘としてご覧になったのです。そして、このように大切な娘が十八年もの間サタンに縛られて苦しんでいるのだと言われました。小屋に縛られている牛やろばでも喉が渇き、食べ物が必要な時にはほどいてあげます。それなのに神様の娘が18年もの間、縛られている苦しんでいるのにそれを見逃すことができませんでした。彼女から病の霊を追い出し、健康を回復することはやってもやらなくてもいいようなものではなく、必ずしなければならないことです。イエス様は安息日に働くと非難されることを知っていながらも彼女を癒されたのです。それで、イエス様は彼女をサタンの束縛から解放して本当の自由を与えられたのです。彼女はイエス様の癒しによって体は元気になり、心も解放されて自由になりました。

 結論的に、今日もサタンに縛られて曲がっている人生を生きている人々が多くいます。ある方は罪意識と劣等感のために曲がっている人生を生きています。ある方は破壊された家庭による運命主義のために考え方が曲がっています。何よりも不信仰のために不安と恐れの中で生き方が曲がっています。また、そのような内面を隠すために人のことばかり言いながらパリサイ人たちのような偽善者になっています。彼らはいつも、横目でイエス様を見ているし、この世に対しても不平不満だらけです。そこには満足も自由もありません。人々は自分の意思的な努力や勉強によって曲がっている人生を伸ばそうとします。しかし、人間の力では不可能なことです。それは霊につかれているからです。ただ、キリストによってのみ癒されます。私たちが真実に悔い改め、心からイエス様を信じて礼拝する時、イエス様が大いなる力によって癒してくださいます。すると、私たちは自由になってのびのび伸びる人生、胸を張って力強く生きる人生を生きることができます。イエス様は私たちが悔い改めて実を結ぶ人生、健康で自由と平和の人生を生きることを願っておられます。