2004年ルカの福音書39講
恐れることはありません
御言葉:ルカ12:1-12
要 節:ルカ12:7「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」

先週、私たちはイエス様が「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい」と言われた御言葉を学びました。イエス様はすべての人を照らすまことの光としてこの世に来られました(ヨハネ1:9)。そして、死者の中からよみがえられたイエス様は今なお、まことの光、いのちの光を照らしておられます。そして、神様は私たちのうちに照らされたキリストの光が、暗やみになることなく、輝き出すことを願っておられます。どうか、私たちのうちの光が暗やみになることなく、輝き出すことができるように祈ります。それによって日本が祭司の王国、聖なる国民となりますように祈ります。
 今日の御言葉はイエス様が弟子たちにイエス様の光の証人として勇気を持って大胆に光を照らすことができるように励まされたことです。弟子たちが光の証人として生きるためには人を恐れてはいけません。私たちのすべてを知っておられる神様を恐れるべきです。
この時間、御言葉を通して私たちのすべてを知っておられる神様を学び、人を恐れるのではなく神様を恐れる生活を学ぶことができるように祈ります。

?。偽善を注意されたイエス様(1-3)
1節をご覧ください。「そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」とあります。「そうこうしている間に」とは、パリサイ人や律法学者が、イエス様に激しい敵意を抱いて、イエス様を質問攻めにしていたときです。イエス様が、彼らを忌まわしいものだと呼ばれて、彼らがそれに歯向かいました。その激しい論争を見て、「これはいったい、なんだろう。」と思って、おびただしい群衆が集まって来ました。互いに足を踏み合うほどになりました。そこで、イエス様はまず弟子たちに話し出されました。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」とあります。パリサイ人と言えば、悪いイメージがあると思いますが、人間的に見るとそれほど悪い人たちではありません。彼らは民族の伝統と個性を命がけで守ろうとした愛国的な人々たちでした。また、彼らは律法への服従の生活を何よりも大切なこととする人々でした。彼らの間からは偉大な学者が出ましたが,それは祭司のように世襲ではなく、個人的学識と徳の高さによって人々の尊敬を勝ち得たのです。
 このように、彼らは愛国者であり、伝統を重んじる人々であり、神の戒めに熱心なひとたちでした。しかし、自分たちだけが分かるような口伝を積み重ねて、だんだんと高慢になり、自分たちこそ知識人という、エリート意識が芽生えました。自分を自分のもの以上に善の偽る偽善者になってしまいました。ありのままではなく、自分を自分以上に見せようとしていました。
ここでイエス様は、弟子たちにこのような彼らの偽善に気をつけるように注意されました。「偽善」のギリシャ語のもともとの意味は、演技ですが、舞台で他の人を装って、観客を相手にして振る舞うことです。彼らは、神様の前に、また人の前に律法の規定を忠実に守っているふりをしていましたが、心の中は貪欲と嫉み、高慢に満ちていました。自分たちより他の人が認められたり、賞賛されたりすることを嫌がりました。また、自画自賛していました。「僕はこれだけやっているのだから、神様からも自分たちは賞賛されていると思い込み、また、人々も自分たちを尊敬すべきだ。」と思っていたのです。おそらく、彼らは、通りを歩く時にも、自分達は他の人とは違うというような雰囲気だったでしょう。通りを歩くにも、肩で風を切るようにして歩いていたのではないかと思います。
 しかし、当時のパリサイ人たちが、律法に忠実であったのは、表面的なことであって、一皮ぬくれば、一般の人と何も変わりがありませんでした。テレビでは上品な人の役を演じても家では下品な人に戻ってしまう演技者のようでした。「良きサマリヤ人のたとえ」にも言われていますように、だれも見ていない山の中では、倒れている同胞のユダヤ人を見て、見ぬふりをして通り過ぎたのです。これが偽善ですが、イエス様は弟子たちに、これこそ、パン種だから気をつけなさいと言われたのです。パン種はパンのイースト菌のことです。それを少しパン粉に混ぜたら、全体に広がります。ですから、弟子たちがパリサイ人のパン種に気をつけなければ、それはいつの間にか、神の教会、神の国の全体に広がります。弟子たちも、いつの間にか、偽善者になってしまい、神様の御前で真実に生きるより人を相手にして生きるようになってしまうのです。私たちも、表面的なことだけを大切にして生きるなら、パリサイ人のようになってしまいます。牧者として、宣教師として呼ばれるだけで心の中は不信者と同じく、嫉み、嫉妬心、高慢などに満ちているなら偽善者になってしまいます。そこで、イエス様は弟子たちと今の私たちに大事な真理を教えてくださいます。
 2節をご覧ください。「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。」とあります。いくら表面を取り繕っても、神様には隠すことができないと言うことです。完全犯罪というのは、人間の世界には、あるかも知れません。実際に、二十年、三十年経っても犯人が分からない事件もあります。しかし、人間の目には見えないかも知れませんが、神様の目には見えているのです。神様の目には、完全犯罪ということはあり得ないのです。 人には隠せても、神の前には、隠し通せないからです。神様は私たちのすべてを知っておられます。すべてを知っておられる神様、隠されたことも知っておられる神様がおられるのです。
私たちクリスチャンはこのこと、すなわち神様が私たちのすべてを知っておられる事実をよく覚えていなければなりません。不信者は隠れたところにおられる神様、すべてを見ておられる神様、すべてを知っておられる神様をよく知らないから気ままにふるまって罪を犯します。最近、おれおれ詐欺、悪徳商売、不祥事で相次ぐ議員辞職などは善を偽る偽善から生まれるものです。彼らは人に隠すことができれば、何をしても問題にならないと思っています。
しかし、神様には隠すことができず、神様は私たちのすべてを知っておられるのです。この事実は、神様の前に不誠実に生きている人々に恐れをもたらします。でも神の前に誠実に生きている者には、不動の平安ももたらすでしょう。
本当に、イエス様が言われたとおりに、「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。」ですから、私たちが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。誰も聞いていないだろうと思って言ったことが、明るみで聞かれます。家の中でささやいたことが、屋上で言い広められるようになるのです。どんなに隠しておいても、隠しきれません。私達は絶対分からない様に隠しているつもりでも、神様は見ておられるのです。ですから、私たちはどのように生きるべきでしょうか。
?.人を恐れないで神様を恐れなさい(4-12)。
 4節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」この御言葉はイエス様の友である弟子たちがどのような心構えを持って生きるべきかを教えてくれます。弟子たちは今、パリサイ人たちのイエス様に対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻とを目の前にして見ています。パリサイ人たちは半分、脅かしに近い言い方をしていたのです。それは恐ろしい場面でした。しかし、弟子たちが人の脅かしを恐れるなら、「からだを殺して」しまうような人々の前でイエス・キリストを証することはできません。人を恐れるとき、卑怯な者になってしまいます。ヨハネの福音書9章を見ると、イエス様は生まれつき盲目だった人を癒されたことが記されてあります。ところが生まれつきの盲人の両親は自分の息子がイエス様の癒しによって見えるようになったことを証することを避けました。ありのままを証することができず、卑怯者、偽善者になってしまったのです。それはユダヤ人たちを恐れたからです。人を恐れたとき、偽善者になってしまったのです。では人を恐れないで誰を恐れなければなりませんか。
 5節をご一緒に読んでみましょう。「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」
 ここで、イエス様は、私たちが死んだらそれで終わりなのではなく、死んだ後にも、存在し続けることを教えてくださいます。そして、神様は私たち人間をゲヘナに投げ込む権威を持っておられます。ゲヘナとは、火と硫黄の池とか、地獄と呼ばれており、永遠に苦しむところです。そこに投げ込まれることこそ、もっと、ずっと恐ろしいことです。それに比べたら、からだが殺されることは大したことではありません。ですから、私たちは神様こそが本当にさばく権威を持っておられることを知って恐れなければなりません。私たちが恐れるべき方を恐れるなら、この世では何も恐れることなく大胆に生きることができます。弟子たちが本当に神様を恐れるなら、宗教指導者たちの脅かしや激しい迫害があっても恐れることなく、大胆にキリストの光を放つことができます。実際に彼らが神様だけを恐れるようになった時、からだを殺す王の権力にも屈することなく、使徒の働きに記されている初代教会を築き上げることができました。
私たちも人を恐れ、人の前で生きる時、「偽善」の態度をとってしまいます。私たちの生活のほとんどは人によく思われたいという部分が多いのではないかと思います。人々に良く思われて評判の良いクリスチャンになるこもいい事でしょう。しかし、人の評価はこの地上の事だけです。しかし、神様の評価は永遠の評価であり、これこそ私たちが気にして行かなければならないことです。すなわち、私たちは「人の前に生きているのか、永遠の神様の御前に生きているのか」と自分を顧みる必要があります。
私たちが人の目を意識して人の前に生きているなら自分の内側に、醜い思い、競争心や妬み、嫉妬がいっぱいであることに気付かされるでしょう。しかし、神様に御前に神様を恐れる生活はしているなら、恐れることなく、たくましく強く生きることができます。なぜなら、神様を恐れ、神様の御前に生きる時、神様が守って下さるからです。
私たちは「神様の恵み」が分からないと、神様に知られていることさえ恐くなります。恐れるべき神様、怖い神様に全部知られている、自分の失敗や、汚い心も全部知られていることがますます怖くなります。そこで、イエス様は神様がどんなに弟子たちを愛しておられるかを教えてくださいます。
6,7節をご覧ください。「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」アサリオンとは、一円のような貨幣の単位です。マタイの福音書には二羽のスズメは1アサリオンで売られていると書かれています。一円で二羽なら、二円で四羽のはずです。でもここには五羽のスズメは二アサリオンで売っていると書かれています。ですから、この一羽はおまけです。その一羽さえ神様がお忘れになるようなことはありません。おまけの一羽でさえも神様の御前には忘れられていないのです。
「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」とも言われました。髪の毛は大体12万本あるそうです。それをみな数えられておられます。それほど神様は私たちをよく知っておられます。それほど大切にして守ってくださるのです。
私たちは自分の髪の毛さえ、自由に白くも黒くもすることが出来ません。むしろ様々な苦労ですぐに白くなったり、はげてしまったりしてしまう私たちです。しかしその苦労の一つ一つを神様はご存じで、一つ残らず数えておられるというのです。単に髪の毛の数のことが言われているだけではありません。そこに込められた私たちの人生の苦労と涙の全てを知り尽くされた神様がおられるということです。
ヨハネの黙示録2章と3章では、神様がいろいろな教会の聖徒たちに語りかけておられます。エペソの教会には、「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。(2:2,3)」と語られました。
 テアテラにある教会には「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。(2:19)」と語られました。
 フィラデルフィヤにある教会には「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(3:8)」と語られました。
 ここで、神様は「わたしは知っている」と繰り返して言われました。「わたしは知っている」、と言われる方がおられるのです。神様は私たちが経験している困難を知っています。それに耐えていることも知っています。神様は私たちの愛と奉仕と忍耐を知っています。夜遅くまで工夫して伝道用紙を作ったことも、夜遅くまで選曲して賛美に使えていることも、指定日に従ってゴミを捨てていることも、トイレをきれいに掃除していることも神様は知っておられます。それで、使徒パウロはコリントにある教会の人々にこう言いました。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と。使徒ヨハネもスミルナにある教会にこう言いました。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録2章10節)」と。
私たちが何をしてもすべてを知っておられる神様の御前で忠実に生きるように祈ります。表面だけではなく、人からは隠されている所でも神様が見ておられること、知っておられることを覚えて真実に生きることができるように祈ります。
もう一度7節をご一緒に読んでみましょう。「それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
イエス様は「恐れることはありません。あなたがたは、たくさんのスズメよりもすぐれた者です。」と言われました。私たち一人一人は本当に神様の御前で大切な存在です。私たちクリスチャンの中には「自分は惨めで、弱く醜い者である」と口癖のように言います。ある人は「自分はスズメより価値のない者です。」といいます。すると隣の人は「そうですか、僕はアリよりも小さな者なんですよ。」と言います。確かに大いなる神様の御前で自分の小ささを思うと、無に等しき者でしょう。しかし、私たちクリスチャンは神様の目には非常に高価で尊い存在です。神様の宝です。王である祭司、聖なる国民です。神様はご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。ですから、神様は本当に私たちを大切にして守ってくださいます。ですから、お金にならない一羽の雀さえ軽んじられることなく、守り、恵んでくださる神様が私たちを守ってくださらないはずがありません。決して神様に忘れられているはずがありません。頭の毛の数までみな数えられているほどに、知り尽くされています。だから、私たちは、聖霊の力を帯びて、神様への信頼を保つことができます。使徒パウロは言いました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38、39)。この神様こそ、私たちがまことに頼れるお方です。ですから、私たちは自分の人生のすべてにおいて神様を認めなければなりません。
8-12節はこの神様を認める信仰告白の大切さを教えてくださいます。8,9節をご覧ください。「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」私たちは神様を恐れて、人を恐れない結果、人の前で主を認めることができます。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。(箴言3:6)」とソロモンが言いました。私たちが主を認めるとき、主が働いてくださいます。これから弟子たちはイエス様こそキリストであることを証するキリストの証人として生きるようになります。地の果てにまで福音を宣べ伝える宣教師として働くようになります。しかし、その働きは神様がなさいます。彼らは神様の道具です。彼らが主を認めて主に従えばいいです。私たちもそうです。私たちは主を認めて主に従うのです。すると、イエス様は神の御使いの前でつまり、目に見えないところの世界、霊の世界、天における世界において、私たちを認めてくださいます。しかし、人の前で知らないという者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。私たちがこの地上で告白している信仰は、直接的に天における私たちの評価に結びついているということです。
 10節をご覧ください。「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし聖霊をけがす者は赦されません。」とあります。聖霊によってもたらされる、イエス・キリストの証しを拒むと、決して赦されず、神から罰を受けることになります。聖霊は、罪が赦される道はただ一つ、十字架につけられたイエスを仰ぎ見ることであることを教えられます。それを拒むなら、その人には罪が赦される術が残されていません。
 11、12節をご覧ください。「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」 聖霊は、救いの道を教えられるだけでなく、救い主キリストについて弁明するときにも働いてくださいます。キリストについて何を言うべきかを教えてくださいます。イエス様はヨハネの福音書14:26で言われました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
結論的に、私たちは人を恐れないで神様を恐れなければなりません。神様は、命の創造者です。あらゆる命の支配者です。この地上のものは人でも、ものでも神様の被造物です。ですから、私たちが本当に恐るべき方は、肉体も魂も支配しておられる神様です。ジョン・ノックスという英国の宗教改革者がいましたが、この人の墓には、「ここに神を恐れ、人の顔を恐れなかった人が眠る」と書かれているそうです。そして、箴言1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである」とあります。神様を恐れる人生こそ、賢い人生であり、知識のある人生になります。何よりも、真に恐るべき方を恐れることによって、実はそれ以外のものに対する恐れから解放されて平安に生きることができます。勇気を持って大胆に圧倒的な勝利者の人生を生きるようになるのです。私達も、真に恐るべき方を恐れることによって、この世の恐れから解放されてまことに平安な人生、勝利の人生を生きることができるように祈ります。