2004年ルカの福音書37講

悪霊どもを追い出されたイエス様

御言葉:ルカ11:14-28
要 節:ルカ11:20「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」

先週、私たちはイエス様が教えてくださった「主の祈り」を学びました。私たちが神様の子どもとして神様に「父よ!」と呼ぶことができるというのは本当に大きな特権です。元々、私たちは罪のために神様に近づくことも、「父」と呼ぶこともできませんでした。しかし、イエス様は私たちの罪のために十字架を背負い、贖いの御血を流してくださいました。それによって、私たちは父なる神様の子どもとしての特権と恵みをいただいています。祈りによって天におられる父なる神様と交わることができるようになりました。楽しい祈りができることだけではなく、答えられる祈りを通して素晴らしい恵みと喜びの体験ができます。どうか、日々聖霊の助けによって私たち一人一人が祈りの楽しさ、答えられる祈りの力をますます体験して行くことができるように祈ります。特に主の祈りがいつも私たちの心にありますように祈ります。
本文の御言葉はイエス様が悪霊どもを追い出された出来事です。イエス様は悪霊によっておしになっていた人を癒して自由に話せる喜びと希望を与えてくださいました。ここで、私たちはイエス様の働き、幸いな人になる秘訣を学ぶことができます。

?.おしの人を癒されたイエス様(14)

 14節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。」イエス様はおしの悪霊を追い出しておられました。「おし」とは国語辞典によると「生まれつき物が言えない人」となっています。現在差別用語として使わなくなって来たので新改訳聖書<改訂版>には「おしの悪霊」に当たる言葉が「口をきけなくする悪霊」となっています。神様は人を「社会的な存在」として造られました。社会生活は人の話を聞き、自分のことを言うことによってできます。神様はそのためによく聞くように二つの耳を造られ、適切なときにものを言うことができるように口を造ってくださいました。耳が二つあって口が一つであることは聞くことが話すことより二倍も重要であることを示唆してくれるかも知れませんが、それでも人にとって口で話すことは絶対に必要なことです。ところがこの人は口をきけなくする悪霊のために物が言えませんでした。物が言えないために社会生活はよくできなくなってしまいました。去年、自分のクラスに耳がよく聞こえなくて話すこともよくできない生徒がいましたが、とてもかわいそうに思われる時がよくありました。彼は自分が言いたいことを紙に書いてきますが、友だちから無視されても言い返せない苦しみ、自分の表現が誤解されている苦しみなどを訴えて来ました。時には言いたいことを言えない苦しみのために泣き出しました。口がきけない人ではなくても、話したいことを上手に話せないことであんなに苦しいのに、全然話せない人の苦しみはどんなに大きいものでしょうか。物が言えないから人から信頼されることもできません。昨日結婚したxx牧者のように優しくて美しく、信仰ある女性と結婚したいと思っても自分の心を表現することができません。この人は言いたいことが多くあっても一言もいえないのです。その苦しみはものが言える私たちの想像を越えているはずです。自分だけではなく、自分の家族や回りの人々にも苦しみを与えます。私の弟の一人は9歳になるまで全く話すことができず小学校に入ることも遅れましたが、家族にとても悲しく苦しいことでした。父と母はもちろん、兄である私にとっても苦しいことでした。子どもの時であっても自分の弟が「おし」と呼ばれる時の悲しみは本当に大きいものでした。
しかし、この人にとってさらに苦しいことは悪霊によっておしになってしまったことです。彼のうちに悪霊が働いているのです。悪霊は暗闇と苦しみ、悲しみ、恐れなどすべての悪をもたらすサタンの代理人です。おしの悪霊は絶えず、この人のたましいを押さえ、苦しめるのです。彼は悪霊に縛られて、監獄にいる人のようになっていました。だれも彼を正しく理解することができませんでした。誰も彼に深い関心を示しませんでした。本当の意味では誰も彼を助けることができませんでした。
しかし、ある日、イエス様が彼の所に来られました。彼は何も言えませんでしたが、イエス様は彼の心の中にある苦しみ、悩みの沈黙を聞かれました。イエス様は彼のうちに口をきかなくする悪霊が働いていることを見抜かれました。そして、この人から悪霊を追い出せば、この人も社会生活がよくでき、偉大な人になるビジョンをご覧になりました。キリストにあってこの人は総理大臣にもなれるし、国連事務総長になれる存在でした。そこで、イエス様はこの人から悪霊を追い出しておられました。イエス様が命じると、悪霊は震えながらこの人から出て行きました。イエス様は神様の力によって悪霊を追い出されました。イエス様は口のきけない人を癒してくださったのです。すると、この人は自分を苦しめていた悪霊から救われて自由の身になりました。彼の顔は輝き出し、彼の目も夜空の星のようにキラキラと光り輝くようになりました。何よりも彼の口からを言えるようになりました。彼は最初に「Thank you, Jesus.」と言いました。また、「Mom, I love you, mom.」と言いました。その光景を目撃し、彼のいう言葉を聞いた人々は驚きました。人々も神様の御名をあがめ、賛美しました。人々はキリストにあって神様の希望と神様の愛を体験し、神様の栄光を見ました。この出来事はイエス様が約束されたメシヤであることを明らかにしてくれます。イザヤは来るべきメシヤについて預言しました。「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。(イザヤ35;5,6)」イエス様は約束されたメシヤです。ですから、イエス様がこの地に来られたことは全人類にとって素晴らしい喜びの知らせです。

?.神の指(15-23)

口の利けない人がものを言い始めたことは、本当に素晴らしいことです。本当に全然話せなかった人が話すようになった時の喜びは大きいものです。私の弟は9歳になってから一言二言話すようになりましたが、その時ごとに家族は歓声をあげていました。本人だけではなく、回りにいる人々にとっても大きな喜びになるのです。イエス様はこのように私たちの喜びを与えてくださいます。苦しみから救われる喜びを与えてくださいます。口のきけない状態から自由ように話せる人にしてくださいます。私たちはそれを見て驚嘆し、喜べばいいです。群衆は驚嘆しました。ところがそれを喜ばない人々かいました。
15、16節をご覧ください。「しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」とあります。彼らのうちには驚くべきイエス様の働きを認めず、むしろイエス様をためそうとして天からのしるしを求める者もいました。ルカは彼らについて具体的に記していませんが、マタイとマルコは彼らがエルサレムから下ってきたパリサイ人や律法学者であることを記しました。彼らはイスラエルの宗教指導者たちです。彼らは根本的に政治的になっていました。
イエス様は、彼らの心を見抜いて言われました。17-20節をご覧ください。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」とあります。
イエス様は「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うなら、あなたたちの仲間もやっぱりベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うのか。」と言っておられます。「自分たちの仲間の悪霊祓いは認めるのに、私の悪霊祓いだけを認めないのはおかしいではないか‥‥」ということです。
そして、20節でこう言われます。ご一緒に読んでみましょう。
「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」
『神の指』という言葉は出エジプト記に出てきます。モーセがエジプトから出てくる時に蛙やブヨを大量発生させたり、川の水を血に変えたり、疫病をおこしたりしました。しかし実はエジプトの呪法師達も同じ事をしたのです。モーセが杖を蛇に変えると呪法師も同じ事をするのですが、最終的にモーセの蛇が呪法達の蛇を飲みこんでしまいました。その他、様々なの光景を見て遂に呪法師達が「これは神の指だ」と認めた訳です。これは「私達(呪法師)の力ではなく、もっと大いなる力が働いている」と告白したのです。そうです。神様の指にこの世のどれよりも、誰よりも大いなる力があります。すべての悪霊どもを追い出し、滅ぼすことができる力があります。イエス様は、「この事は神の指によるものであり、それは今ここに神の国が来ているということだ」と言っておられます。本当に神の指によって悪霊どもを追い出すことができます。
つまり、イエス様は、ご自分の悪霊祓いの働きは、悪霊の親分ベルゼブルの力によるものなどではなく、「神の指」による働き、すなわち神の力によるのであると語っておられます。そしてそれは、イエス様が悪霊を追い出している現実こそ「神の国」が今ここに実現している何よりの証拠なのだ、と主張しておられるのです。人に取りついていた悪霊が、悪霊よりももっと強い神の力、神の霊によって襲われ、今まで住んでいた人の内から追い出されたのです。神の霊は悪霊に打ち勝ち、その人の内は神の霊によって満たされました。すべてのことについて神様に感謝し、今までとは全く違った生き方ができるようにされたのです(21?22節)。
けれども、宗教指導者たちは、それを認めようとはしませんでした。イエス様に敵対し、頑なにイエス様の働きを否定しました。イエス様を通して働かれる神の霊、聖霊を拒絶しました。そのような彼らの内側こそ、悪霊に犯されているのではないかとイエス様は言われるのです。イスラエルの人々は病気や障がいだけを悪霊の働きとしていましたがそれらだけが悪霊の仕業なのではないのです。頑なな心で、神の霊の現実を否定し、拒絶する態度も悪霊の仕業なのです。いや、病気や障がいを引き起こすものよりも、神様の働きを見ても感謝もせず、むしろ肉と心のままに行なっていることこそがもっと悪い悪霊なのだとイエス様は語っておられるのです。
エペソ人への手紙2章1-3節にはこう書いてあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順な子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生れながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2章1?3節)
ここで、私たちが知るべき事は、私達は気づくと気がつかないとに関わらず、皆悪霊の影響の中にあると言うことです。そして私達がもし神の霊に従っていないなら、私達は悪霊の支配下にあるという事です。私達はまさか自分が悪霊の影響の下にあるなどとはは考えていないと思っているでしょう。しかし私達は良い事と分かっていても中々出来ず、自分で良くない事だから止めようと思っても、なかなかコントロール出来ない時を経験します。例えば、人を憎み始めると、辞めようと思っても辞められないときもあります。自分が自分でコントロールできず、自分以外の何者かによって動かされているような気がするのです。と言うのは、知らない内に私達は知られざるものの支配下に置かれているからです。聖書はねたみ、憎しみ、嫉妬等は私達を悪しき者の支配下に置いてしまうと語っています。イエス様はその状態から私たちを解放してくださいました。ヘブル2章14?15節を見ると「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して下さるためでした。」とあります。イエス様はこの悪の力、悪霊の勢力を打ち壊す為に来て下さったのです。ですから私達はもうこわがる必要がありません。イエス様は神の指、つまり神の力によって私達から悪霊を追い出してくださいます。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられて死なれましたが、悪霊どものかしらサタンの頭を打ち砕き、死者の中からよみがえられました。復活されたイエス様は今なお全能の神の力をもって私たちのうちに働いておられます。ですから、私たちは神の国は既に来ている事も知って神様の国の民、聖なる国民として生きればいいのです。ただ、私たちが神の指、神の力の体験がよくできないのは、不信仰のためです。マルコ6章4?6節をみると「イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」とあります。イエス様は自分の故郷に帰られた時に、他の場所で行われた驚くべき御業をあまり行う事が出来ませんでした。その理由は“不信仰”です。人々は「あの大工のヨセフの息子ではないか」と考え神の力を受けとめられなかったのです。この不信仰な心、疑う心が神の力を失わせるのです。神様の力がないのではありません。神の力はもう来ているのに、私達の不信仰がこの御業、神の力の現れを止めてしまっている事を覚えたいのです。
 神様の国はもう来ています。だから、このおしの人が悪霊から解放されて、話せる様になったように、私達も様々な縛りから解放されることが出来るのです。もし私達が信仰に立って歩むなら、私達も解放されます。罪に打ち勝つ自由はイエス様をお迎えしなければ、中々持てません。問題は私達が信仰を持ち、受け取るか否かです。信じて立つならば私達はもっと神の指、神の力を体験し、神の国の現われを見る事が出来るのです。

?.幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです(24-28)

24節以下の「汚れた霊」(=悪霊)の譬え話に戻ります。汚れた霊は人から出て行きました。20節によると「神の指」によって、追い出されたことです。それならば、汚れた霊に代わって、神の霊がその人の内に住んで下さっているはずです。
ところが、追い出された悪霊が水のない所をさまよいながら休み場を捜します。でも一つも見つからずに、元の人のところに戻ってみました。すると、家は、空き家になっていました。しかも、家は掃除をしてきちんとかたづいていました。どうしてでしょう。汚れた霊を追い出した神の霊はどこかに出て行っていなくなってしまったのでしょうか。聖霊はその人とずっと共に居て下さらないのでしょうか。
そうではありません。神の霊はその人の内に住んで下さっています。聖霊はその人と共に居て下さっているのです。それなのに、本人がそれを認めないのです。イエス様が悪霊を追い出したことを神様の霊の働きとして認めず、ベルゼブルの力だと言っている人たちのようです。「天からのしるし」を求めた人のように、何か御利益でもあれば認めるのでしょうが、そうでなければ、日常的な生活の中では認めません。特に苦しみの中では、聖霊が共にいてくださることを認めようとしません。聖霊の臨在を信じようとしないのです。
聖霊が自分の内に住んで下さっているのに、それを認めないでだから、その人の内側の掃除に励んでいます。悪霊を追い出していただいたからこれから空き家を掃除して整理整頓をして行こうとします。自分の力で清く正しく美しく生きようとします。自分の力で罪の問題や失敗、過ちを片付けしようとします。せっかくイエス様に悪霊を追い出していただいたのだから、もうクリスチャンになったのだから、自分をもっときれいに磨かなくちゃ、努力しなくちゃと思っています。けれども、そのようにすればするほど、ともすれば自分の力に対する過信や驕り、高ぶりが生じます。また他人を裁いたり見下したりすることになってしまいます。自分はまじめに忠実にやっていると思っているだけにそうではない人に対してきびしいです。表情もきびしくなっています。神様にお委ねし、赦され生かされていることを感謝する信仰を失っていくのです。それが七つの悪霊に住み着かれた、以前よりももっと悪い状態ということです。以前は情欲の悪霊とか、安逸の悪霊だけだったのに、今はそれに加えて高慢の悪霊、嫉みの悪霊、優越感の悪霊、さばきの悪霊などがくっついています。
信仰とは聖霊に導かれていく生活です。もちろん、自分の人生を、自分の力で努力する自立精神が大切なのは言うまでもありません。しかし、そこに、自分の力で何でもできる、自分の力で生きているという「傲慢」という悪霊に支配されていてはいけません。人を裁いたり見下したりする「軽蔑」という悪霊に支配されてもいけません。
イエス様を信じて救われた人の内には聖霊が住んで下さっています。そのことに気づいて、聖霊なるイエス様、よろしくお願いしますと委ねて生きるように祈ります。力を抜き、感謝し、謙虚になるときに主の霊に満たされた生活ができます。その人のうちは「神の国」は来ているのです。
私たちは、イエス様が十字架にお架かりになった犠牲によって罪を赦されたと聖書から教えられます。つまり、私たちの内から悪霊が追い出され、聖霊に満たされている状態になったのです。聖霊は私たちの内に留まり、内なる「神の国」が実現されています。私たちの内に、イエス様の霊が住んでくださっていることを信じましょう。神の指、神の力に頼って感謝し、謙虚に歩みましょう。また、聖霊に導かれて、悔い改めつつ主に従って歩みましょう。このような生活を続けるためにはどうするべきでしょうか。
27-28節をご一緒に読んでみましょう。「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
ひとりの女の人はイエス様のような方を産んだ人をうらやましく思ったのか、「あなたを産んだ腹、あなたを吸った乳房は幸いです。」と言いました。人々は子どもが偉いことをすると、その母親に対しても偉いと思います。ある学生は「自分の母ちゃんは教育ママですが、すべてが自分のためだよ」と言いました。実際に子どもが偉くなると母親も幸いになることがあるでしょう。しかし、イエス様は言われました。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人です。」そうです。神様の御言葉を守る人こそ幸いです。私たちは神様の御言葉を守る時、聖霊に導かれます。日ごとに与えられる御言葉を覚えて守るなら、日ごとに聖霊に導かれます。その人こそ幸いな人です。詩篇1:1-3節を見ると「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。

 結論的に、イエス様は口をきけなくする悪霊を追い出して新しい人生、喜びと希望に満ちた人生を生きるようにしてくださるメシヤです。イエス様は神の指によって私たちを悪霊の支配から救い出して聖霊に導かれる人生を生きるようにしてくださいました。私たちが毎日神様の御言葉を口ずさみ、守る生活をしてまことに幸いな人として生きるように祈ります。