2004年ルカの福音書第32講                               
弟子たちに信仰を植えるイエス様

御言葉:ルカの福音書9:37-45
要 節:ルカの福音書9:41「イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」」

 人々はクリスチャンに高いレベルの道徳を求めています。人々は、不信仰な、曲がった世の中でも、クリスチャンは清く正しく生きていてほしいと期待しているのではないでしょうか。神様も私たちが聖なる国民として清く正しく生きることを願っておられます。しかし、聖書全体を通して考えてみると、まず、第一に信仰の人になることではないかと思います。特にイエス様は愛する弟子たちが信仰の人になることを切に願っておられました。事実、信仰こそ、神様に喜ばれるものです。ヘブル11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であられることとを、信じなければならないのです。」もちろん、この信仰は口先や言葉だけでの信仰ではありません.聖書は「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)と語っています。行いのある信仰が大切なのです。
 今日の御言葉は、イエス様の一行が山から降りて来て悪霊につかれていた子どもを癒された出来事です。イエス様はこの出来事を通して、弟子たちに信仰を植えられました。この出来事の前にあったことはイエス様の御姿が変えられたことです。もう去年のことですから、かなり時間が経ちましたが、私たちはクリマスの前に三人の弟子たちがイエス様とともに山に登って体験した神の国の栄光について学びました。イエス様が山に登って祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝きました。その輝きに眠っていた弟子たちも目を覚めるほどでした。しかも、ふたりの人がイエス様と話し合っていました。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのです。何と素晴らしい夜だったでしょうか。生涯忘れられない感動と感激の夜でした。その時、ペテロがイエス様に言いました。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのです。それほど輝かしい夜、素晴らしい夜だったのです。
 このようにイエス様が祈られる山の上には、夜中にも光がありました。輝きがありました。神様の御声がありました。神様のご臨在がありました。本当に素晴らしい感動がありました。ところが、山の下には、今、どんなことが起っていましたか。山の下には闇の勢力がありました。汚れた霊につかれて苦しんでいる子どもがいました。苦しんでいる子どもを見ながらも何もできない親の悲しみがありました。ため息がありました。涙がありました。まさに、不信仰のこの世界の現実を現わしています。人々はそれぞれの悲しみ、痛み、苦しみを持って生きています。しかし、神様は私たちがこのような世の中に生きていても聖なる国民として神の国の栄光を見ながら生きることを望んでおられます。信仰によって癒しを体験し、神の国の栄光を見て驚き、驚嘆する、感謝する生活を願っておられます。
この時間、本文の御言葉を通してイエス様が私たちに願っておられることを深く悟ることができるように祈ります。何よりも、イエス様が弟子たちに信仰を植えられたように、私たちに信仰を植えてくださり、私たちの信仰が今より成長できるように祈ります。

?.不信こうな世を嘆かれたイエス様(37-41)
37-39節をご覧ください。イエス様の一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエス様を迎えました。すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言いました。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。」この叫びは霊に取りつかれて苦しんでいる息子を持った父親の叫びです。この叫びに父親の切なる願いとともに子どもの状態が現われています。子どもは霊によって、突然叫びだし、けいれんを起こしました。泡を吹き、引きつけさせられていました。マルコは、この状態をもっとリアルに記しています。彼はものを言うことができませんでした。霊は所かまわず彼を地面に引き倒し、口から泡を出して、歯ぎしりさせ、体をこわばらせてしまうのです(マルコ9章18節)。主の許に連れていかれるときにも、霊はその子を引きつけさせ、地面に転げ回って泡を吹かせるのでした。この姿を見ている親の心はどうだったでしょうか。考えてみてください。突然、叫びだす時、その叫びを聞く親の心です。突然、叫びだし、けいれんを起こします。叫びとけいれんだけで終わるのではありません。霊はその子をひきつけさせました。しかも、この子は、一人息子でした。跡取り息子です。父親が生涯をかけて蓄えた財産、土地、名誉、地位、夢、それらの全てを継がせていくべき息子です。ですから、この父親は自分の全てをつぎ込んでも、息子を助けたいと思っていたでしょう。あの手、この手を使って直してもらいたいと切実に願い、また全力を尽くして努力して北に違いありません。
ところが、ある日、この父親はイエス様に関するうわさを聞きました。イエス様に関することはこの親にとって本当に良い知らせ、福音でした。それで、彼は息子を連れてイエス様のみもとに出て来たのです。そしてイエス様にお願いしました。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。」とあります。彼はひとり息子の問題をイエス様のみもとに持って来ました。彼は自分にとって最も切迫した問題をイエス様にお願いしたのです。私たちもこの世で生きている限り、切迫した問題にぶつかる時があります。自分の問題もあれば、子どもの問題もあります。家族の問題もあります。助けている兄弟姉妹のこともあります。その時、私たちはどうするべきでしょうか。やはりイエス様のみもとに持って来なければなりません。本文の父親は子どもの切迫した問題を持ってイエス様に出てきました。
切迫した問題を持って人の所に行けば、むしろ、複雑になってしまうこともあります。助けてもらうどころか、傷つけられてしまう場合もあります。ですから、私たちは生活の中で深刻な問題、切迫した問題にぶつかった時は、必ず良い牧者イエス様のみもとに出て来なければなりません。本文の父親はどうしようもない子どもの問題を持ってイエス様に出て来ました。ところが、そこにイエス様はおられませんでした。確かに人の話を来て山の下まで来たのにおられなかったのです。たまたま、イエス様は祈るために三人の弟子たちともに山に登って行かれたからです。山の下には9人の弟子たちだけがいました。父親は仕方なく、彼らにお願いしましたが、駄目でした。40節をご覧ください。「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」とあります。弟子たちはいろんな方法を使ってこの子どもから悪霊を追い出そうとしたでしょう。子どもに手を置いて「汚れた霊ども。出て行け。子どもを苦しめるな。サッサッと出て行くのだ。」と叫んだでしょう。しかし、いくら叫んでも駄目でした。過去、悪霊を追い出した経験があったにもかかわらず出来ませんでした。
9章6節を見ると弟子たちは、以前に悪霊を追放する権能を主から与えられていました。そして彼らは村から村へ回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直しました。つまり、彼らはイエス様から与えられた権威と力を体験したのです。だから、彼らは、自信満々で子どもを請け負ったことでしょう。ところがうまく行かなかったのです。どういうことだろうかと焦りながら、あの手この手と試したに違いありません。しかし何をやっても駄目でした。群衆は騒ぎだし、律法学者が「ここぞ」とばかりに神学論争をふっかけて来ました。父親と息子の苦しみをよそに、彼らは論争にふけたのです。
イエス様が戻られたのは、ちょうどそんな時でした。では、どうして弟子たちはできなかったのでしょうか。どうして、過去にできたことが、今はできなかったのでしょうか。何が問題だったでしょうか。イエス様は彼らの有様をご覧になり、そこにみなぎっていた不信仰を嘆かれました。 41節をご一緒に読んでみましょう。
「イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」イエス様は「なんと信仰のない、よこしまな時代か」と嘆かれました。イエス様は、そこにいる人々、父親はもちろん、弟子たちさえ信仰がないことを嘆かれました。特に3年間も一緒に生活して来た弟子たちの信仰のなさに悲しみ、嘆かれたことでしょう。
この箇所と並行しているマタイの福音書を見ると、弟子たちは自分ができなかった理由をイエス様に尋ねました。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」と。その時、イエス様は言われました。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」そうです。彼らの問題は不信仰だったのです。信仰が問題でした。過去にあった信仰が今日も働くのではありません。神の人にとって最も深刻な問題はお金を失うことでありません。事業の失敗でもありません。今日、神の人である私たちにとって最も深刻に考えなければならないことは信仰です。信仰を失っているかどうかを確かめなければなりません。今日、私に力がない理由は何でしょうか。生き生きと生きていくことができない理由はどこにあるでしょうか。それは私たちの信仰が薄いからです。信仰がないからです。私たちは、今不信仰な、曲がった時代に生きています。あちこちから不信仰の言葉ばかりが聞こえてくるような時代に生きています。神様のみわざが起りにくい環境です。しかし、信仰があれば、力あるみわざが起ります。信仰があれば、全能の神様の力が働きます。信仰には人を動かし、歴史を動かす力があります。ですから、どんなに世の中が暗くなって信仰の働きをしなければなりません。使徒パウロによるとテサロニケ教会は信仰の働きをしていました。彼はテサロニケの聖徒たちに「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」と告白しています。そうです。愛には労苦があります。誰かを愛するなら、労苦の汗をかきます。言葉だけの愛はだれでもできます。しかし、本当の愛には愛の労苦が伴われるのです。主は私たちをどのように愛されましたか。聖書に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)とあります。また、望みには忍耐があります。望みがあれば忍耐もできます。望みが大きければ大きいほど忍耐強くなります。
そして、信仰には働きがあります。「信仰の働き」とありますが、信仰があれば神様の力が働くのです。イエス様は「からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこへ移れ。』と言えば移るのです。」と言われました。さらに「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と言われました。からし種は種の中でも最も小さい種です。ところが、その中には命があります。ですから「からし種ほどの信仰」とは小さくても生きている信仰、生命力のある信仰を意味しています。この信仰に対して、李パウロ牧者は私と神様との関係を信じる信仰だと言われました。神様との完全な関係として信じることです。会社で社長を信じる時、その社長の能力を信じることと関係性を信じることとは違います。いくら社長に力があっても自分との親密な関係を信じなければ、お願いすることもできず、助けてもらうこともできません。神様と私たちの関係もそうです。私たちは神様を信じています。全能の神様です。しかし、いつでも自分の問題に取り掛かってくださる親密な関係を信じなければ祈ることも、助けてもらうこともできません。どんなことでも聞いてくれるし、どんなことでも助けてくれる友だち以上に親密な神様との関係を信じることが大切なのです。「聖書の神様はりっぱです。全能な方です。」と信じることも素晴らしいことですが、今、私の問題にだれよりも深い関心を持って、誰よりも素早く取り掛かってくださると信じる信仰こそが生きた信仰なのです。神様はイエス様の十字架を通して私たちと親子関係を結んでくださいました。私たちはそれを信じさえすればいいのです。ところが、私たちにこのような信仰、生きている信仰、からし種ほどの信仰があるでしょうか。私にどれほどの信仰があるかをチェックするためには、私の口から出る言葉を聞いてみれば分かります。信仰の人はいつも信仰の言葉を言います。父なる神様と良い関係性を維持しているからです。しかし、霊的な力を失った人、神様との関係性を失った人は信仰のない言葉ばかり言います。頭だけを回します。計算ばかりします。神様を自分の限界の中に閉じ込めているのです。ある人の話によると、教会が滅びる秘訣は、頭だけを回す人たちが教会の役人になる時だそうです。信仰のない役人が集まると議論ばかりして終わりです。律法学者たちのように論争にふけるのです。すると、そこには霊的な力がありません。力ある働きが出来なくなってしまいます。信仰と力は同一です。力と祈りも同じです。信仰あるところに力があります。また、祈る所に力があります。祈り続ける時、神様との関係も深くなってさらに神様との関係性も確信するようになります。信仰が強くなるのです。
この箇所と並行しているマルコの福音書を見ると、弟子たちは「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」と尋ねました。すると、イエス様は言われました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(9:28,29)。弟子たちの質問は同じですが、イエス様の答えに対する反応は、マタイとマルコが違います。マタイは「信仰」を通して恵みを受け、マルコは「祈り」を通して恵みを受けていたようです。しかし、これは矛盾しているのではありません。なぜなら、信仰と祈りは同じだからです。信仰とは何ですか。神様との関係性を確信することです。ところが、どんなときに神様との関係が深くなりますか。祈る時です。祈らなければ疑いだけが生じます。疑いから不平・不満、つぶやきに広がります。ところが祈れば祈るほど確信できるようになります。大きな問題も小さく見えてきます。祈れば祈るほど神様の力と神様の助けを確信するようになります。そして、祈りの結果として神様の素晴らしい働きを見るようになります。
弟子たちが主から力と権能を与えられていながら、それをすることができなかった理由は祈らなかったからです。彼らは律法学者たちと論じ合っていました(マルコ9:14)。悪霊の追い出しは論じ合ってできるものではありません。力あるわざ、命を生かす働きは議論して出来るものではありません。何よりも弟子たちは論客として召されたのではありません。彼らは福音の証人として召されたのであって、弁論家として召されたのではないのです。人は議論にして勝つと気持ちよく思いますが、人の救いは説得によってできるものではありません。人はうまい話に説得されると、信じるでしょうか。人々は自分が教会の人に説得されそうになった時に、むしろ、気持ちが悪くなって逃げます。弟子たちと律法学者たちが論じ合っている姿を見て恵みを受ける人はいなかったでしょう。むしろ、人々は弟子たちによって子どもが癒されると信じなくなったのではないでしょうか。弟子たちはキリストの証人です。証人には証しすることが求められます。私は過去こんなに惨めな者だったのに、今はキリストに出会って救われているのです。今はキリストが私の人生の王であり、主です。今はこの方に頼らずには生きられません。あなたも私が出会ったこのイエス様を信じなさい、と証しすることが大切なのです。
ところが、私たちがいくら多くの恵みを受け、力と権能を体験したとしても祈らなければ、証しも出来なくなります。信仰もが薄くなってきます。悪霊を追い出す力、病を癒す権能は、一度与えられたら自動的に働くようなものではありませんでした。繰り返して神様の働きを覚えて神様が働いてくださるように祈り求めることが大切です。信仰のない自分、不信仰な自分を認めて、繰返し神様により頼むこと、神様が働いて助けてくださることを願い求める祈り、それが信仰です。ですから神様に求めて祈る姿勢の中に、本当の信仰があるのです。力ある人になるためには祈らなければなりません。信仰の人になるためにも祈らなければなりません。ですから、イエス様は初代教会をささえ、人類の歴史をBCからADに変える歴史の主役になる弟子たちに祈りを教え、信仰を植えられました。神様は日本が祭司の王国、聖なる国民となる偉大な希望を持って私たちに聖なる祭司の使命を与えてくださいました。どうやって私たちがこの使命を担うことができるでしょうか。それは能力によらず、権力によらず、主の霊によってできます。ただ、私たちにはそれを信じる信仰が求められています。神様が信仰のない私たちを助けてくださり、信仰を植えてくださるように祈ります。

?。子どもを癒して父に渡されたイエス様(42-45)
42節を読んでみましょう。「その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。」子どもがイエス様のみもとに近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまいました。悪霊は自分の正体が現われると、多様な反応を見せます。ある時は叫び、悪口を言います。本文のように、人を打ち倒して、激しくひきつける場合もあります。イエス様を汚れた霊を叱って、その子を癒されました。そして、子どもを父親に渡されました。ルカ7章でもイエス様は死んだ青年を生かしてから母親に返されました。これらのことを考えて見ると、イエス様は家族関係を大切にしておられることが分かります。イエス様の関心は家族の幸福にあります。サタンの関心は家族の不幸です。家庭を壊すことです。しかし、イエス様は家庭の回復を願い、家族が平安に生きることを願っておられるのです。
 43節をご覧ください。「人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。」とあります。そうです。イエス様のなさったすべてのことに、人々はみな驚くものです。ハレルヤ!主の御名を賛美しましょう。人々はみな、イエス様のなさったことを見て神様のご威光に驚嘆しました。私たちも信仰によって生きると、イエス様がなさることを見て驚き、驚嘆するようになります。イエス様の教えに驚き、イエス様の愛と癒しに驚きます。イエス様の権威と力に驚きます。クリスチャンライフというは、聖書の哲学を学ぶことではありません。欧米のキリスト教の文化を学ぶことでもありません。毎日、徳を高めていく道徳的な生活でもありません。イエス様のなさったことを見て驚き、キリストの力と愛を体験する生活です。神様のご威光に驚嘆する生活、感激と感謝、喜びの生活なのです。ところが、このような生活が私たちの努力や力によってではなく、イエス様を信じる信仰によってできるものです。なぜなら、イエス様は私たちの身代わりになって私たちの病のために、私たちの罪と咎のために十字架につけられ、死んでくださったからです。
44、45節をご覧ください。「「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。」このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。」」とあります。イエス様は驚嘆している人々の前で、ご自分の十字架の死を予告されました。これはイエス様の二度目の死の予告ですが、一度も目は22節にあります。「そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」とあります。イエス様は二度もご自分の十字架の死に対して予告されましたが、弟子たちにはまだ理解できませんでした。

以上で、私たちはイエス様が弟子たちに信仰を植えられたことを学びました。本文の父親のように自分の家族の悩みも痛みも知って助けたいものです。また、弟子たちのようにさまざまな問題を持って苦しんでいる若者たちを助けようとしています。不信仰な、曲がった世の中で汚れた霊の働きのために苦しんでいる若者たちに福音を伝え、霊的に助けようとしているのです。ところが、私たちは彼らに対して何が出来ているでしょうか。何の力にもなることができず、むしろ、励ます力も知恵もない自分の姿を見出す時が多くあるのではないでしょうか。助けるために伝道してもなかなか話しさえ聞いてくれない人々を考えると自分の無力さに悲しくなります。慶応センターの朱James宣教師はマリヤ宣教師が週に三、四回はキャンパスに行ってフィッシングしていますが、帰ってくると泣き出す時よくあると言いました。自分の無力さに泣くのです。しかし、ここで問題なのは、私たちの無力さなのではないことが分かります。たとえ、私たちの信仰が大きなものでなかったとしても、それが問題ではありません。からし種ほどの信仰が大切です。過去の経験ではなく、今信じる信仰です。過去の祈りに頼るのではなく、今日、この時間、祈る祈りです。「信仰のない私をお助けください」という祈る祈りから始まるその信仰こそ、本当の信仰なのです。そして、主は私たちがただ信仰によって生きることを願っておられます。
私たちは2004年を祭司の王国、聖なる国民として新しく出発しました。特に今年はフェローシップも再編成して霊的回復と成長を目指しています。すべての牧者・宣教師たちが主の霊によって1:1にチャレンジし、キャンパス伝道と弟子養成に励もうとしています。体の癒しと就職のためにも祈っています。でも私たちには力もなく、権力もありません。しかし、それらが問題ではありません。神様の信じる信仰が大切です。私の信仰のなさと無力さを認め、主イエスにより頼む信仰です。私たちが日々イエス様の前にひざまずいて「信じます。」と告白し、祈り求めましょう。そのところに、主が働いてくださいます。そして、私たちは主のなさったことを見て驚き、感謝するようになります。