2003年ルカの福音書第29講 

あなたがたで、何か食べる物を上げなさい

御言葉:ルカの福音書9:10?17
要 節:ルカの福音書9:13a「しかしイエスは、彼らに言われた。『あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。』」

先週の御言葉で、私たちはイエス様が弟子たちを現場訓練のために遣わされたことを学びました。弟子たちはイエス様の御言葉に従って神の国の福音を宣べ伝えましたが、驚くべき福音のみわざがありました。私たちも伝道の現場であるキャンパスに出て行って福音を宣べ伝えていますが、神様がこの働きを祝福してくださることを感謝します。バイブル・アカデミーを通しても私たちのたましいを潤わし、新しい兄弟も参加して恵みを受けるようにして下さり感謝します。イエス様と弟子たちを通してなされた神の国の福音のみわざが私たちを通しても力強くなされるように祈ります。
今日の御言葉は四福音すべてに記されていてイエス様のガリラヤ伝道のクライマックスであると言われています。ここには哀れみと祝福の神様としてイエス様の姿がよく現われています。さらに、ご自分の弟子たちをご自分のような牧者として訓練される姿が現われています。
この時間、御言葉を通してイエス様の御心と神様の働きを学んで、神様に祝福され、用いられる人、良い牧者として成長することができるように祈ります。

?。喜んで人々を受け入れ、助けてくださるイエス様(10-11)
 10aをご覧ください。「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。」とあります。先週学んだように、弟子たちは出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直しました。それから、彼らは帰ってきて、自分たちのして来たことを報告しました。彼らの報告はとても美しく、恵みあるものでした。弟子たちは自分たちが経験した巣晴らしい福音のみわざを喜んで報告したことでしょう。ペテロは神の国についてのメッセージを伝えると、大勢の人が悔い改めたと報告しました。すると、ヨハネはペテロに負けないスピリットと大きな声で自分の働きを報告しました。自分は悔い改めさせるだけではなく、悪霊を追い出し、病人を癒すこともできたと言いました。いつも静かで言葉の少ないバルトロマイも大勢の人の前で大胆に神の国の福音を語って大勢の人々を救いに導いたと報告しました。村から村へと歩き回りながら福音を宣べ伝える時、大変だったけれども、御言葉によって人々が生かされ、癒されていく姿はとても素晴らしかったと報告したのです。
そこで、イエス様はとても励まされました。今までイエス様ご自身がなさったみわざが弟子たちを通して続けられるビジョンを見ました。同時に、御言葉に単純に従って神の国の福音を伝えてきた弟子たちの労苦に感謝し、彼らを休ませて上げようとされました。この箇所と並行しているマルコ6:31a を見ると「そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。」とあります。イエス様は弟子たちに休みを与えるためにベツサイダという町へひそかに退かれたのです。
イエス様は静かなところで弟子たちとともに休み、祈りながらしばらくの時間を過ごしたかったでしょう。イエス様と弟子たちには人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからです。どころが、休もうとしておられるイエス様にどんなことが起りましたか。
11a節をご覧ください。「 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。」とあります。休もうとしているのに多くの群衆がやって来ました。イエス様の働きは弟子たちの伝道旅行によってますます多くの人々に知らされて大勢の人々がさびしい所までやって来ました。
皆さんは、せっかくの休みの時に仕事が与えられると、どう思うでしょうか。それほどいやなこともないでしょう。体が疲れているときはなおさらのことです。弟子たちも久しぶりに休みを得たと思いますが、イエス様も疲れていたことでしょう。それなのに、多くの群衆がイエス様の来たのです。人々を避けてごっそりと行ったのにそこまでついて来ました。彼らは人のことに気にしないで自分のことばかりを考えていました。利己的で自己中心的な人たちです。こういう人たちに仕えることは難しいことです。
私は、ある日の夜、とても疲れていましたが、担任している生徒のお母さんから電話でますます疲れてしまったことがあります。あのお母さんは自分の娘はもともと心やさしく、真面目な子なので、人に悪口なんかできないですが、隣の友達がよくなくて、娘の心に傷つけていると言いました。さらに、先生が何とかして自分の娘を周りにもっと良い子どもたちがいるように席替えをしてくださいといいました。私は腹が立ち、「うちのクラスには悪い子はひとりもいません」と言いましたが、利己的な人を愛することの難しさを深く体験しました。そういう人とは話し合うことさえいやになります。しかし、イエス様はどうなさいましたか。
11b節をご覧ください。「それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」とあります。
イエス様は喜びを持って彼らを迎えてくださいました。彼らは金持ちでもなく、有名な人でもありませんでした。イエス様を助けに来た人でもありません。むしろ、彼らはいろいろな面で助けが必要な人たちでした。心も身体も病んでいる人たちでした。心の傷も、体の傷も、傷のある人、病んでいる人に仕えることは本当に難しいことです。寺崎牧者はホームヘルパーとして働いていますが、病人に仕えることは健康な人に仕えることより何倍も難しそうです。それに、イエス様は弟子たちを助けようと計画しておられました。ご自分の計画があったのです。それにもかかわらず、イエス様は喜んで彼らを迎えられました。イエス様は温かい心と微笑みで彼らを迎えられたことでしょう。人々は、顔は笑っていても心の中には暗闇がある場合がよくあります。それぞれの悩みを持っています。イエス様はそんな彼らを深く哀れまれ、彼らを心から受け入れてくださいました。放蕩息子の父親が帰ってきた息子を喜んで迎えて、抱きしめ、口づけしたように人々を喜んで向かえてくださったのです。イエス様はどんな人でもご自分の所に出て来る人々を喜んで迎えて仕えてくださる哀れみ深い神様です。マタイ11:28節は言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
 ですから、私たちは遠慮する必要がありません。悩みがあるならば、朝でも昼でも夜でも叫び声を上げる事です。こんな私ではダメだと思わないで、イエス様のみもとに行きましょう。どんどんイエス様に向かって祈りましょう。
イエス様はいつでもどこでも人々を喜んで迎えてくださいます。疲れた人も、重荷を負っている人も喜んで迎えて休ませてくださいます。そして、神の国のことを話してくださいます。私たちが神の国のことを受け入れるなら、神様は平和と愛によって私たちの心を治め、導いてくださいます。永遠のいのちを与えられ、生ける望みを与えて、生き生きと生きるようにしてくださいます。それだけではありません。イエス様は、いやしの必要な人たちをおいやしになります。身体の病も癒してくださり、この世でも健やかに生きるように助けてくださるのです。私たちのありのままを喜んで受け入れて神の国の民とし、心も身体も癒してくださるイエス様の御名を賛美いたします。

 ?。あなたがたで何か食べる物をあげなさい(12-14a)
12節をご覧ください。「そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。」とあります。イエス様が喜んで彼らを迎えて神の国のことを教え、治療しているうちに日も暮れ始めました。人里離れた所で、近くにはお弁当屋さんもありません。しかも何の食事の準備もしていませんでした。おなかは減って、心細くなり、しかも疲れていました。そこで、弟子たちはイエス様に早く解散するように求めました。群衆は自分のことばかり考えていましたが、弟子たちは群衆の身の安全と、彼らの食事を心配しました。やはりイエス様の弟子たちです。思いやりがありました。彼らは日も暮れ始めた現実をよく把握して人々が宿を取り、何か食べることができるようにしなければならないと思ったのです。彼らの思いやりと心配りは素晴らしいです。弟子たちもかなり成長してきました。人のことを考えるようになったのです。ですから、イエス様は彼らの提案を無視されませんでした。
イエス様は私たちが人々のために、教会のために提案することを無視されません。兄弟姉妹たちのことを考えて訪問しなければならない、もっと話し合わなければならない、訓練が必要であるとか提案することは関心と愛があるからこそできることです。教会のコンピュータが壊れていても、トイレが汚くてなっていても何も言わない人もいますが、それらに対して話をするということはそれほどの関心があるから言えることなのです。ところが、私たちはよく提案するけれどもあまり働かないように見えると、あの人はいつも口先ばかりだと思ってしまいます。ところが、イエス様はそれを無視し、さばかれるのではないのです。私たちは群衆のために、兄弟のために良いことを提案して良い方向を取って行くべきです。しかし、もっと成熟した信仰は自分でやることです。自分の方から先に行うのです。群衆のことを考えて解散を求めた弟子たちに、イエス様はなんと言われましたか。
13a節をご一緒に読んでみましょう。「しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」イエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。ここで、私たちは幾つかの霊的な教訓を学ぶことができます。
第一に、イエス様は弟子たちが群衆に対して責任感を持つことを願われました。弟子たちはイエス様に「この群衆を解散させてください。」と言いました。この提案は人里を離れた荒野で日も暮れ始めたことを考えると、とても適当なことです。彼らは状況をよく把握して正しいコメントができるコンサルタントになっていました。しかし、イエス様は「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われました。イエス様は弟子たちが正確な判断だけではなく、彼ら自身が責任を持って助けることを願われました。イエス様は弟子たちが評論家やConsultant(コンサルタント)としてではなく、最後まで責任を持って助ける牧者として生きることを願われたのです。イエス様は私たちにも「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われます。この国の霊的な状態についてあれこれいうことよりも責任を持って助ける牧者として生きることを願っておられるのです。
第二に、イエス様は弟子たちが信仰によって生きることを願いました。イエス様は弟子たちには群衆にあげる食べ物がないことを知っておられました。しかし、イエス様は多くの群衆に食べる物を上げるように言われました。それは弟子たちが信仰によって不可能なことに挑戦することを願われたからです。実際に弟子たちは何も持たずに出かけて行ってイエス様の力と権威を経験してきました。ですから、弟子たちは続けて人の力に頼らないで、ただ信仰によって生きなければなりません。いつまでも「あの時は素晴らしかった。不可能なことが可能になったと。」と昔話が好きな人ではなく、今もこれからも信仰によってチャレンジし続ける人生を生きるのです。イエス様は救われて神様の力と権威を経験したクリスチャンは、いつまでも信仰によって生きることを願っておられます。不可能なことでも信仰によってチャレンジすることを願っておられるのです。
第三に、イエス様は弟子たちが牧者の心を持つことを願われました。イエス様は彼らに「何か食べる物を上げなさい。」と言われました。男だけで5千人もいるから、五千個のお弁当を買って来なさいと言われませんでした。「何か食べる物を上げなさい。」と言われました。お弁当でなくても、おにぎりでなくても、サンドイッチのパンでなくても何かあればそれを上げなさいということです。羊の心はもらう心、受ける心だとすれば、牧者の心は上げる心です。牧者は羊のために緑の牧場を考え、羊たちに良い草を上げることを考えます。牧者は羊に何か食べる物を上げることを考えるのです。弟子たちは今までイエス様に仕えられて来ました。助けてもらい、恵みを受けて来ました。自分の家族の病気も癒してもらいました。しかし、これからは羊たちに仕え、何かを上げる生活をしなければなりません。牧者の心を持って生きなければならないのです。イエス様は私たちにも何か食べる物を上げる牧者の心を持って生きることを願っておられます。では、イエス様の命令を聞いた弟子たちは自分達がどんな状況であると言いましたか。
13、14a節をご覧ください。「彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。」とあります。一言で弟子たちの答えは不可能だと言うことです。彼らは自分たちの直面する問題を見て絶望しました。しかし、イエス様は弟子たちをどのように助けられましたか。

?。五千人を食べさせられたイエス様と弟子たち(14b-17)
14b、15節をご覧ください。「しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。」とあります。弟子たちは何か食べる物を上げることができなくてまだ悩んでいましたが、イエス様は「人々を五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい」と言われました。何も用意できてないのに男だけで五千人の人々を座らせるように言われたのです。しかも、たった12人が五千人を座らせるのです。それは大変なことです。最近学校では30人の子どもも座らせることが難しくて学級崩壊が起っています。私も自分のクラス35人を座らせることも難しく困るときがよくあります。しかし、弟子たちは何も言わずにイエス様の御言葉に従いました。彼らがイエス様の御言葉に従った時、五千人を超える人々を50人ずつ座らせるリーダーシップを発揮することができました。イエス様に従う時、リーダーシップも与えられることが分かります。そうして弟子たちは、人々を座らせてイエス様が働かれる環境を備えました。すると、イエス様は働き始められました。
16節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。」
そこには男性だけで五千人ほどの人がいました。それに、弟子たちが何とかかき集めることができたのは「五つのパンと二匹の魚」だけでした。それを主の足もとに置いたのです。しかしイエス様はその五つのパンと二匹の魚を取って、天を見上げて感謝しました。イエス様はわずかなものでも喜んで受け取られ、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられたのです。すると驚いたことに、それは裂いても、裂いてもなくなりませんでした。弟子たちは驚きと感激の中でパンを人々に配って歩いたでしょう。そこにいた全ての人々は皆満腹しました。しかも、余ったパン切れを取り集めると、十二かごがありました。これはどれほど驚くべき事件であったでしょうか。四つの福音書の著者が、声を揃えてこの出来事を証ししています。他のどんな出来事よりも、弟子たちには心に残り、印象深かったに違いありません。ここで、私たちはイエス様の働きを学ぶことができます。
イエス様は貧しく小さいものを祝福し、豊かに用いられるお方です。弟子たちの力でできたことは、本当にわずかで貧しいものでした。それにもかかわらず、イエス様がそれを受け取り、天を仰いで感謝し、祝福されると、それが何万倍にも増えて多くの群衆のために用いられたのです。
私たちが持っているものは、まことにわずかで貧しく乏しい、しかしそれが問題ではありません。その貧しく小さな捧げものを、イエス様は幾倍にもして用いてくださるのです。私たちの貧しさが問題ではありません。小ささが問題ではありません。それを主のもとに携えていくことが大切なのです。これがどんなに貧しいものであっても、主の足もとに携えて行くなら、主はそれを喜んで受け取られ、祝福し、何倍にして用いてくださるのです。クリスチャンライフというのは、この素晴らしいことを経験する生活です。わずかな物でも主に携えていけば、それを大きく祝福して下さることを何度も何度も経験する祝福の生活なのです。
私たちは自分が持っている物の小ささを考えると、「これが何になりましょうか、」と思われるかも知れません。けれども、それを主イエス様が受け取った時、それは何かになることを経験するのです。小さな決断、小さな献身、小さな決心、それが主イエス様の手に取り上げられた時、それが何かになるのです。聖書はそのような記事で満ちています。
 モーセが紅海に足を踏み入れた時、海が割れました。イスラエルの民がヨルダン川に足を踏み入れた時、ヨルダン川の流れが止まりました。イスラエルの民が、エリコの町を回り始め、7回回った時、エリコの城壁が崩れました。そのようなことは、この教会でも、頻繁に起こっているのです。Mother Barry宣教師は朝鮮戦争の後、苦しんでいる韓国の若者たちを哀れみ、五つのパンと二匹の魚として自分の結婚をささげました。神様はそれを大きく祝福し、今日、世界87カ国に宣教師を派遣し、次の世代の主役になる大学生たちに福音を伝え、彼らを救うみわざに用いておられます。李ヨシュア宣教師は本国での安定的な職場を五つのパンと二匹の魚として主にささげて日本宣教のために励んでいます。神様はその決断を大きく祝福し、バイブルアカデミーのメッセンジャー○○牧者をはじめ、日本の多くの大学生たちにいのちのパンを与えるみわざに用いておられます。
 このことは私たち一人一人にも生かしつづけられています。私たちはまことに貧しい器です。小さな働きしかできないし、持てる物はわずかです。しかしそれを主のもとに携えいくのです。すると、主はそれを何倍にも増やされて、用いてくださいます。私たちが家族の救いのために流す涙の一しずくさえ、主は無駄にはなさらないのです。兄弟姉妹たちのためになす小さな労苦の一つさえ無駄にはなさらない、それがどんなに小さなものであったとしても、主はそれに対して天を仰いで感謝し、何倍にもして祝福してくださるのです。この祝福の中に生かされて、私たち自身は貧しいですが、その貧しさも主に捧げて、用いられていく喜びを許された神様に心から感謝と賛美をささげます。

  以上で、哀れみ深いイエス様の牧者の心とその働きを学びました。イエス様は私たちにも言われます。「あなたがたで何か食べる物を上げなさい。」どうか、私たち一人一人がイエス様のような牧者の心と責任感を持ってこの国に仕える喜びを与えてくださるように祈ります。何よりも私たちの信仰生活が信仰によって五つのパンと二匹の魚を主にささげて何倍にも祝福してくださる神様の大いなる祝福を経験するものであるように祈ります。