2003年ルカの福音書第25講        

風と荒波とをしかりつけられたイエス様

御言葉:ルカの福音書8:16-25
要 節:ルカの福音書8:24

 先週、私たちは種まきのたとえを通して実を結ぶ秘訣について学びました。四種類の畑がありましたが、それらを二つにすると、実を結べない畑と実を結ぶ畑です。実を結ぶ畑とは正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる心です。神様は私たちに蒔かれた御言葉が私たちの内側から芽生え、成長して実を結ぶことを願っておられます。ところが、実を結ぶことは人の努力や力によってできるものではありません。先週、学んだように神様を信じて御言葉をしっかりと受け取るならば、私たちは実を結び、光を輝かすことができるようになります。イエス様はこのことをあかりのたとえを通して教えてくださいました。また、神様のことばを聞いて行なう人がご自分の家族であることを教えてから、突風にあって恐れている弟子たちに信仰を植え付けられました
この時間、私たちが御言葉通して、光を輝かすイエス様の家族として自分を認識し、どんな状況の中でも平安を保って生きる信仰を学ぶことができるように祈ります。風と荒波をも従わせるイエス様の権威と力を深く悟り、どんな突風にも、試練にも揺るがない信仰を持つことができるように祈ります。

?。あかりのたとえ(16-18)
16節をご覧ください。「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」とあります。ここでイエス様はとてもシンプルなたとえを話されました。当時、ランプは急須のような形をした陶器で、容器の中に油を入れ、急須の口に当たるところから燈心が出てこれに点火して周りを照らすものでした。私の故郷は、子どものころ、まだランプを使っていましたので、このような事情がよく分かります。だれもあかりをつけてからそれを器で隠したり、寝台の下に置いたりしませんでした。光は周りを輝き照らしてこそ、その意味が発揮されるからです。
このたとえで、あかり(ランプ)は神様の御言葉です。御言葉を聞いて心に点火された者は、これを人の前に隠すべきではなく、また隠しえるものではありません。いばらの中に落ちた種が世の心遣いや富と快楽とに塞がれて実を結べないことと同様に、器で隠したり、寝台の下に置いたりすれば、あかりは消えてしまいます。これに反して良い地に落ちた種は、ある期間、土の中に長く隠されていますが、やがて外に現われて芽を出し、花を咲いて、実を結びます。そのように、じっくりと油の中に燈心を浸したランプは、燭台の上に置かれてますます明るく周りを照らし、はいって来る人々の目を助けます。
私たちクリスチャンには、このような光の役割が与えられています。イエス様は「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われましたし、また「わたしは光として世に来ました」(ヨハネ12:46)と言われました。私たちはイエス様の光に照らされて光り輝くようになります。イエス様はすべての光とエネルギーの源である太陽であって私たちは月のような存在です。月は、太陽からの光を反射して光っています。反射して光っても暗い地球を明るくすることができます。もちろん太陽と同じ明るさではありませんが、月は新月から三日月、半月、満月となり、ますます地球を明るくします。私たちクリスチャンも、キリストからの光を反射して光っています。ところが、ある人は、まだ新月で、ある人は三日月位の光を放っています。いつも満月のように光り輝いているクリスチャンもいます。自分の周りを明るくし、世界を明るくするクリスチャンも多くいます。私たちは今、三日月のようでしょうか、満月のようでしょうか。使徒パウロは言いました。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)。私たちの生活がキリストの光を反射して光る光の子どもらしく歩むことができるように祈ります。
私たちの歩みは隠すことができません。私たちが神様を信じて御言葉をしっかりと受け取ったならば、それがあらわにならずに終わることは決してありません。おのずから外に現われるか、もしくは人によって引き出されます。「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」とあるとおりです。
私たちのうちにあるものは、悪いこと、汚いことも現われますが、心から真実に受け取った御言葉も現われます。行ないを通して、生活を通して外に現われない信仰は、御言葉をしっかりと守っていないことです。そういう人の信仰は、その活力を失って、ついには消えてしまいます。しかし、キリストにあって真実に御言葉を受け止めて、御言葉による恵みと霊的戦いとを経験する人は、絶えず聖霊の油が注がれてますます信仰が強くされます。生きて働く信仰は百倍の実を結び、千倍の光を輝かすようになります。御言葉へ従順を通して神様のご臨在を経験している人はますます御言葉を聞いて行ないますし、よく祈って祈りの力を経験している人もますます祈りに励むようになります。顔もいつも満月のように明るく輝くようになります。しかし、生活の実践を通して働かない信仰は立ち枯れとなり、立ち消えとなります。それでイエス様は「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」と言われました。
だから、御言葉を聞く者は「聞き方に注意しな」なければなりません。御言葉を批判的に頭で聞き、もしくは概念的に理解しようとするなら、世を照らす光にはなれず、少し分かったと思った信仰的な理解の喜びもやがて失われてしまいます。多くの場合、バプテスマを受けてから3年まで謙遜に御言葉を聞くので心も燃えて顔も満月のように明るくなるそうです。しかし、その以後は、ちょっと分かったことで高慢になり、御言葉を批判的に頭で聞いて恵みを受けない場合が多いそうです。特に同じ牧師のメッセージを三年かも聞いていると、新しいことがなくなってあまりおもしろくないそうです。すると、少し分かったと思った恵みと喜びを失い、満月だった顔が下弦の月のようになって行くのです。しかし、御言葉を謙遜に実践的に聞き取る人は、実を結び、光を放って、世の光とあります。周りの人々が助かります。ですから、イエス様は「聞き方に注意しなさい」と語られました。

?。イエス様の真の家族(19-21)
イエス様が種まきのたとえに続いて、燭台の上に置かれるあかりのたとえを話された時、イエス様のところにイエス様の母と兄弟たちがイエス様を尋ねて来ました。イエス様の兄弟たちには、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダと、姉妹たちもいたことが記されています(マタイ13:55、56)。父ヨセフのことが出てこないのは、彼がすでに他界していたからでしょう。それにしても全家族が皆でイエス様の所に来たのですから、よほどの重要な用件があったと思われます。ところが彼らはイエス様の所まで来ても、群衆のためにそばへ近づくことができませんでした。人々はそのことをイエス様に知らせました。彼らは、イエス様がすぐにでも出てきて家族を抱きしめて口づけするだろうと思ったことでしょう。しかし、イエス様は何と答えられましたか。
21節をごいっしょに読んでみましょう。「ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」」随分と冷たい言い方ですね。しかし、これは、イエス様が、肉親関係を否定しておられるのでもありません。イエス様は十字架にかかられた時にも、十字架上から、母マリヤの将来をヨハネに託しています(ヨハネ19:26,27)。ここでは、イエス様がまだイエス様を信じていない家族に御言葉を聞いて行なう者になることを訴えるとともに霊的な家族観を教えられました。
イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」と言われました。イエス様と血縁関係にある家族は同じ家に住んでいましたから、自分たちはイエス様を知っているし、分かっていると思いました。血のつながりだからだれよりも親しく、近い関係であると思いました。しかし、彼らは本当の意味では分かっていませんでした。神様のことばを聞いて行なう生活ができていませんでした。ヨハネの福音書7章3-5節を見ると、イエス様の兄弟たちはイエス様に向かって言いました。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」と。
兄弟たちもまだイエスを信じていなかったので」です。それに対してイエス様は『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。』と答えられています。これは私達への警告であり、慰めの御言葉ではないでしょうか。イエス様の兄弟ですら本当には信じていませんでした。もちろん、彼らは皆救われて初代教会の柱になります。ヤコブはエルサレム教会の会長となりました。しかし、この時点では、まだ信じていませんでした。表面的には信じている振りをしていたかもしれません。でも本心は信じていなかったのです。私たちの家族にも、自分も表面上は信じている振りをする、自分ではそういうつもりでいます。でも本当には御言葉を受け取って行なっていない可能性があるのです。ですから、御言葉を聞いて行なう生活に励まなければなりません。
イエス様は種まきのたとえ、あかりのたとえを通して御言葉をしっかりと聞き取ることの大切さを教えてくださいました。そして、母、兄弟については「神の言葉を聞いて行なう人たち」と語っておられます。結局、イエス様が言われることは、御言葉と聞くことと実行することです。神様の御言葉を聞かなければ、生活に現わすことはできません。しかし、生活に現わさなければ、聞いた言葉は消えてしまいます。ですから、私たちは御言葉を聞いて行なう生活に励まなければなりません。イエス様は御言葉を聞いて行なう人をご貴く思われ、自分の真の家族の一員としてくださいます。
地上で家族関係、血縁関係は何よりも密接なつながりを持っています。最近、親子関係、家族関係が崩れつつあると言われますが、それでも地上で最も硬いつながりは家族でしょう。血や肉のつながりは本当に密接なものです。家族の悲しみや傷や痛みは自分の悲しみ、傷と痛みとなります。私には、まだ結婚していない39歳の弟がいますが、今でも彼のことで涙を流します。家族はそういうものでしょう。ところが、イエス様は御言葉を聞いて行なう者を私たちが思う家族愛にまさる家族愛を持ってを愛して下さるのです。こんな自分でも血と肉のつながる家族より大切にして下さるのです。これは私たちにとって大きな特権であり、恵みです。しかも、イエス様との家族関係は、やがて天においても解消されることのない永遠的な関係です。イエス様のご自分が十字架上で流される血によって肉親の家族よりもさらにすぐれた霊的な家族の一員にしてくださいました。ですから、イエス様は私たちが悩む時にともに悩まれ、泣いている時一緒に泣いてくださいます。本当の痛みの部分を肉親の家族よりも深く理解し、癒してくださいます。私たちが神様の御言葉を聞いて行なう生活を通してますますイエス様に親しまれる家族の一員として生きることができるように祈ります。また、私たちもイエス様のように、この世の家族を大切にしながらも御言葉を聞いて行なう霊的な家族、永遠的な家族をもっと大切にして生きることができるように祈ります。

?。風と荒波をしかりつけられたイエス様(22-25)
 22-23節をご覧ください。そのころのある日のこと、イエス様は弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われました。弟子たちは喜んで舟を出しました。久しぶりに霊的な家族とともに湖を旅行することは楽しいことでしょう。様々な人々に仕えながら心も体も疲れている弟子たちに体も、心も休ませることができました。イエス様ともに旅をすることは本当に素晴らしいものでした。ところが、イエス様はぐっすり眠ってしまわれました。一日の活動ですっかり疲れておられたでしょう。私たちと同じ血肉を備えておられた人としてのイエス様の姿を見ることができます。イエス様も、疲れた時は眠られたんだと思う時、大きな慰めになります。同時に、イエス様がいかに平安を持っておられたかも見ることができます。この種の平安は、疲れもし、空腹にもなる弱さを持った肉体であっても、可能なのです。実際にペテロも後では、明日は処刑されると言う前の夜、御使いがわき腹をつつくまで熟睡していました(使徒12:6,7)。イエス様はどんな状況の中でも熟睡できる平安の中で生きることを願っておられます。
ところがこの素晴らしい旅に予期しなかったことが起りました。突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になりました。ここは地中海から約200mも低い場所にあります。周りに高い山々があり、そこから冷たい風が吹き降ろしてくるのです。一方、湖では暖かくなった空気があり、それが混ざり合って大変な突風が吹き荒れる事がよくあるそうです。山から吹き下ろす風が湖上の船を転覆されてしまうこともありました。この間、琵琶湖でも(9月15日)突風のためにヨットが転覆して9人の死者が出ましたが、山間の湖では突風がしばしば起っているそうです。舟が遭難し、やがてまた急に風が止んでけろりとなぎになることはしばしばあるのです。
ですから、ここで突風を静められたことがイエス様の命令がなかったら、ただ自然現象にすぎません。しかし、イエス様は起き上がって、風と荒波とをしかりつけられました。すると、風も波も治まり、なぎになりました。しばしば起る突風が起ったので、風が止んでけろりとなぎになるはずだったのに、偶然にイエス様の命令が一致したという人もいますが、それでもこの出来事に大きな意味があります。現場にいた弟子たちはこの出来事を通してイエス様の権威と力を悟りました。自然界をも服従させられたイエス様の奇跡的な能力に驚きました。弟子たちは自然界を支配しておられる、すべてのものの上におられるイエス様の権威と力に驚いたのです。特にイエス様は弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われました。ここで、イエス様は弟子たちに奇跡を見せることより信仰を助けようとしておられることが分かります。弟子たちは今までイエス様とともに歩みながら、イエス様がなされることを見てきました。病人を癒し、悪霊を追い出される力を経験しました。それらを目撃しながら、権威ある御言葉を聞きながら信仰が芽生え、成長していきました。イエス様が種まきのたとえを話された時、多くの人々が理解せずに離れて行きましたが、弟子たちは問題意識を持って聞くほどの信仰を持っていました。イエス様に従いながらイエス様の弟子としてのアイデンティティも持っていました。しかし、突風にあった時、彼らの信仰はどこかに行ってしまいました。風とともに去られたでしょうか、彼らに芽生えてきた信仰はなくなり、恐れと疑いに陥っていたのです。そこでイエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われたのです。
ですから、ここでイエス様が弟子たちに教えようとされた信仰は奇跡に対する信仰よりも、むしろ危険の中にあって、突風の中でも恐れない信仰でありました。イエス様は突風が起っても恐れませんでした。突風に波立って、水が舟に満ちそうになっても恐れることなく、平然として眠っておられたのです。この平安はどこから来たのでしょうか。神様がともにおられ、神様が守ってくださるという信仰によるものではなかったでしょうか。神様がともにいて守ってくださる以上、どのような突発的な事故が起っても、どのような不安の境遇に陥っても、いのちを亡くすことは絶対にあり得ない、と信じる信仰です。この信仰さえあれば、風は治まり、なぎになる時が来ればなぎになるのです。必ずしもイエス様の命令によって直ちに静める必要はなかったのです。イエス様が風と荒波とをしかりつけられたのは、彼らの心の不安と恐れを静めるための愛からであり、イエス様の権威と力を悟らせるためでした。イエス様は私たちが常に恐れることなく平安に生きることは願っておられます。イエス様の御言葉を聞いて行なう生活を通してイエス様の権威と力を体験し、どのような突風が起ってきても揺れることなく、恐れることのない信仰を持つことを願っておられます。
私たちの人生行路において、思わぬ突風が時々起ります。そういう場合、私たちはどんなに慌てるものでしょうか。「仕事、仕事」と励んでいる人がリストラされたり、「家族、家庭、家庭」と楽しんでいた人が愛する者を天に召されたりします。私たちの人生には予期しなかったことがあまりにも多くって私たちの心の平安を奪うのです。時には「主よ、主よ、私たちはおぼれて死にそうです。」と叫びたくなります。そういう時、慌てると、私たちのいるところの危険はますます増えて、沈まずにすむ舟を沈ませてしまいます。
しかし、神様は私たちのいのちを守ってくださいます。私たちの人生の旅路に起る危険は、すべて私たちの信仰を鍛錬する神様の愛から出たのであって、私たちを滅ぼすためではありません。神様の許しなしには髪の毛一本も落ちることはありません。ですから、私たちは思わぬ人生の事故に遭う時、一層心を静かにして神様により頼まなければなりません。そうは思っていても、いざとなる時、慌てるのは信仰のうすい私たちの姿です。しかし、それでも私たちは恐れる必要がありません。イエス様は私たちの実情を憐れんで、現実の困難をさえ取り除いてくださいます。実際に私たちに起る風も、荒波もしかりつけて治めてくださるのです。私たちが全能のイエス様の奇跡の力を信じることは幸いです。しかし、奇跡がなくてもイエス様を信じる者はさらに幸いです。イエス様は私たちと同じ舟に乗っていてくださいます。そしてイエス様が平安である限り、私たちのいのちもまたイエス様にあって神様に守られます。
人々は北朝鮮のこと、今年頻繁に起っている地震のこと、テロ集団のことで、心配します。また、リストラが自分に起ったらどうしようかと、もしガンにかかっていたらどうしようかと、起りもしない中から恐れます。しかし、世界にどのような風波が起っても、イエス様が私たちの舟に乗っていてくださる以上、私たちを滅ぼすことは絶対にありえません。ですから、私たちはインマヌエルのイエス様とともにいつまでも平安に生きることができるのです。

結論的に、私達は、「主は今ここにおられ、主は働いて下さる。」この事をしっかりと覚えたいと思います。私達はそれぞれ置かれた場所において信仰を働かせましょう。自分で頑張るより、自分とともにいてくださるイエス様に頼って御言葉を聞いて行なう者として生きましょう。そうすると、私たちは永遠にイエス様の真の家族として困難や試練の中にあってもなお平安に歩んでいくことができます。