2003年ルカの福音書第2講

イエス様を所有しなさい
御言葉:ルカの福音書1:26‐38
要 節1:31「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」

先週、私たちはザカリヤの祈りを聞かれた神様について学びました。ザカリヤ夫婦の祈りは神様に聞かれてイエス・キリストの先駆者ヨハネが誕生するようになります。ヨハネの誕生は祈りが答えられたことであってザカリヤ夫婦にとっては大いなる喜びであり、言い尽くせない喜びです。しかし、それはイエス様をみごもり、イエス様を所有することとは比べられません。神様はマリヤを通してイエス様をこの世に送ろうとされました。マリヤはみごもって、イエス・キリストを産むようになるのです。では、マリヤがイエス様は産むこと、イエス様を所有することは、なぜ恵みなのでしょうか。
この時間、マリヤが受けた恵み、マリヤを通してお生まれになるイエス様について考えながら恵みを受けたいと思います。特に今週は、イエス様が十字架につけられて死なれた受難週ですが、心の中にイエス様を所有し、イエス様を黙想しながら、十字架の恵みを新たにすることができるように祈ります。

第一、 恵まれたマリヤ(26―31)
26,27節をご覧ください。「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」とあります。エリサベツが身ごもってから6ヵ月目に、ガブリエルはマリヤを訪れました。マリヤはナザレという町に住んでいました。ナザレは、評判の良くない町です。後にキリストの弟子となったナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出るだろう。(ヨハネ1:46)」と言っています。
 マリヤは、まだ、いいなずけの処女でした。ユダヤ人の社会では、結婚に3つの段階があります。最初に、両親たちが同意して、将来、結婚するように定めます。それは、5歳とか、6歳とかいう、非常に小さいときに行われます。けれども、次に、実際の婚約を、結婚の1年前にします。これは、結婚と同じような法的な力がありました。ここで婚約を破棄すれば、離婚届を出さなければいけなくなり、他の人と子どもが出来たことが発覚したら、姦淫の罪で右打ちにされます。マリヤは、この婚約の時にいたのです。ヨセフとの結婚式を待ち望んでいる彼女の心情はどうだったでしょうか。ヨセフは大工の仕事をしていても王家の子孫として人格を持っていました。真実で信仰のある人でした。マリヤはこのようなヨセフとHouse Churchをつくって神様を愛し、隣人を愛する幸せな生活を思うと、胸がドキドキしました。本当に幸せな日々を過ごしていました。ところが、ある日、全く予期しなかったことが起こりました。御使いガプリエルが、子が生まれることを告げるために、彼女のところに来たのです。
ナザレの町にしても、いいなずけにしても、キリストがお生まれになるには、普通で考えたら不適切なところです。けれども、神様は、ご自分の恵みによって、マリヤという女性をメシヤをもたらす器としてお選びになったのです。使徒パウロは、主のことばを引用してこう言っています。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。(ローマ9:15)」マリヤは、受けるに値しない祝福を受けるようにされました。
28―30節をご覧ください。御使いは、はいって来ると、マリヤに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込みました。マリヤはヨセフと結婚する恵みだけで満足していました。ですから、その他にどんな恵みも要りませんでした。彼女はヨセフの妻として平凡に生きようとしていたので、新しい生活に対しては恐れが生じました。御使いはそんな彼女に神様から恵みを受けたことを強調しました。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。」御使いはマリヤに臨んだ恵みが神様からの恵みであって絶対的に取り消しできない恵みであることを明らかにしたのです。
ではマリヤが神様から受ける恵みは何ですか。31節をご一緒に読んでみましょう。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」マリヤが受ける具体的な恵みはメシヤをみごもって産むことです。御使いは生まれる男の子の名前をイエスとつけるように教えてくれました。「イエス」は、「ヤハウェは救い。」と言う意味です。まさに、救い主なるキリストの名前です。マリヤは自分の体に救い主イエス様を所有するようになるのです。神の御子イエス様が彼女の体に住まわれ、その中で成長して生まれるようになります。2年前、今のアメリカ大統領ブッシュが就任した時、彼の母親バーバラは本当に恵まれた女性として言われました。ご主人が大統領であったし、息子も大統領になったからです。確かに彼女は今の民主主義世界ではめったに見えない恵みを受けたことでしょう。しかし、メリヤは一国の大統領の母ではなく、全人類を罪と永遠の破滅から救い出す救い主を所有し、救い主イエス様の母になるのです。
イエス様は、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です(マタイ1:21)。人間に多くの問題があるようですが、結局は人間を惨めにする大きな問題は罪です。日本は、戦後貧しかった時、豊かになれば幸せになると思って熱心に働き、経済大国になりました。不景気で経済力が落ちたとしても経済的に先進国であることは間違いありません。では幸せな国になりましたか。そうではありません。新聞を読んでみると毎日のように殺人事件、自殺事件、詐欺事件、児童虐待などが人々を悲しませ、不安と恐れに陥れています。この世がいやで引きこもっている人、うつ病のために悩まされている人も数多くいると言われています。神様から離れた人間は罪という重病を患って苦しんでいるのです。誰がこの罪の勢力から救ってくれるでしょうか。親も、医者も、教師もできません。この世にはだれも私たちを罪による苦しみと破滅から救う事ができません。ただ、私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストだけがまことの救い主です。使徒の働き4:12節を見ると「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていなからです。」とあります。「イエス」その名は世界中で最も美しく、貴くて素晴らしい名前です。マリヤはこのイエス・キリストの母になる恵みを神様から受けたのです。

第二に、 その国は終わることがありません(32,33)

御使いはイエス様に対する知識をもっと教えてくださいます。32,33節をご一緒に読んでみましょう。「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」とあります。
一つ目にイエス様は、「すぐれた者となり、いと高き方の子」と呼ばれます。彼がいかに「すぐれた者」であられるか、その一部は私たちもすでに知っているところです。イエス様は、大いなる救いをもたらされました。イエス様は、ご自分をモーセよりもすぐれた預言者として示されました。彼は、すぐれた大祭司です。イエス様は、「いと高き方の子と呼ばれる」ようになります。彼は、この世に来る前からそのようなお方でした。あらゆることにおいて御父と同等であり、永遠の昔から神の御子であられました。しかし彼は、そのようなお方として、教会によって知られ、認められることになりました。メシヤは、ほかならぬ神様ご自身として受け入れられ、礼拝されるべきいと高き子であるのです。
 二つ目に、イエス様はとこしえにヤコブの家を治めます。御使いは「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、」と伝えています。イエス様はダビデの王位を受け継いで私たちを治めてくださる王となります。もし、イエス様が私たちを罪から救うことだけで治めてくださらないなら、私たちは救いの恵みを守りきれないでしょう。弱い私たちは再び罪に陥ってしまうはずです。ですから、私たちには救い主としてのイエス様だけではなく、王として治めてくださるイエス様がおられなければなりません。私たちを正しく治めてくださる王としてのイエス様を所有しなければならないのです。イエス様はダビデの王位を受け継ぐ王として私たちを治めてくださいます。ダビデは神様のみこころにかなった王として民たちを抑圧するのではなく、愛と平和によって公平に治めました。神様はそのような彼を喜ばれ、彼の子孫からメシヤが生まれることを約束されました。神様はその約束のとおりにイエス様にその父ダビデの王位をお与えになったのです。しかし、イエス様は政治的な王ではなく、霊的な王です。イエス様はピラトの前でご自分が霊的な王であることを宣布されました。真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来られたことを明らかにされたのです(ヨハネ18:36,37)。イエス様は真理の王であり、愛と平和の王です。
人は何によって治められるか、どんな思想に治められるかによって幸福になるか、不幸になるかが決まります。一国の幸福と不幸も、誰が治めるかによって大きく変わります。イスラエルは律法的であり、感情的なサウルに治められる時は恐怖と恐れが彼らを襲っていました。しかし、ダビデが公義と愛、平和によって国を治めると、民たちは喜びながら幸せに生きることができました。家庭の幸福と不幸も同じです。子どもたちは律法的であり、感情的な父親に治められると、嫌悪感と反抗心などが芽生えて苦しみます。しかし、親が子どもを理解し、愛と真理によって治める時、子どもたちは幸せに育ちます。同様に私たちの心もサタンに治められるか、イエス様に治められるかによって幸福と不幸が左右されます。私たちの心に情欲と嫉妬、不平不満が満ちているなら、サタンに支配されている証拠です。その時、私たちの心は地獄になります。しかし、私たちがイエス様を所有してイエス様に治められるなら、私たちの心は喜びと自由、驚くべき平安に満たされます。本当にイエス様に支配されることは素晴らしい事です。私は職場生活の中で時にはいら立ちを覚えます。なかなか我慢できなくてストレスがたまり、人の悪口もしてしまう時もあります。しかし、イエス様の御前にひざまずき、祈りながらイエス様に支配されると、心が平安になります。イエス様は謙遜と柔和、愛によって仕えてくださるし、私の罪と咎、すべての重荷を担ってくださるからです。イエス様はどんな場合にも権威的に、強圧的に治めることがありません。人格的に、謙遜に治めてくださいます。黙示録3:20節は言います。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」イエス様は今も「トッ!トッ!トッ!」と私の心のドアをノックしておられます。そして、私たちが心のドアをあけてイエス様を所有し、イエス様に治められることを願っておられます。
三つ目に、イエス様の国は終わることがありません。メシヤ王国の特徴は永遠にあるということです。世の国は一時的です。イラクでフセイン大統領の権力は永遠に続くように見えたかもしれませんが、もうすぐに滅びるでしょう。アメリカも今は強い国ですが、永遠に続くことはできません。しかし、イエス様の国は終わることがありません。神様は私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配に中に移してくださいました。(コロサイ1:13)。私たちは永遠に滅びることがない神の国の民になったのです。この世の王国は、まだキリストの御国になっていません。しかし、もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはないとヘブ10:37節は約束しています。ですから、私たちは目に見えない神の国に対する生ける望みを持って日本宣教と世界宣教のために励みます。

第三に、マリヤの信仰(34―38)
 34節をご覧ください。「そこでマリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」」とあります。 ここでマリヤは、疑っているのではありません。どのようにして起こるのかを聞いています。また、ガプリエルのことばを神様のみことばとして受け取っています。処女から子どもが出来るというのは、聖書には前例のないことでした。ザカリヤの場合は、聖書に多く出てきます。特に、アブラハムとサラの場合と、とても似ています。サラは不妊の女であり、アブラハムはおよそ100歳、サラはおよそ90歳なのに、イサクが生まれました。けれども、マリヤの場合のようなことは、かつてありませんでした。そこで、御使いが説明します。35節をご覧ください。「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」とあります。

 聖霊ご自身が、子をマリヤの胎に宿すというのです。ヨハネの場合は、胎内にいるときから聖霊に満たされるというものでした。しかし、イエス様の場合は、聖霊ご自身がイエス様を身ごもるようにされるのです。だから、イエス様は聖なる方、神の子と呼ばれます。全人類はみなアダムの子孫であり、アダムが犯した罪の性質を受け継いでいます。しかし、イエス様は、処女降誕、すなわち処女マリヤから生まれることによってその罪の性質を受け継ぎませんでした。かつ人間の肉体をもってお生まれになったのです。それを可能にしたのは、聖霊による誕生でした。御使いはこの聖霊の働きをエリサベツを例にしてもっと具体的に教えてくださいます。36,37節をご覧ください。「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう6カ月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」とあります。「神にとって不可能なことは一つもありません。」というのはとっても大切な教えです。神様には不可能なことが一つもありません。神様は全能なのです。マリヤが男の人を知らないのに、みごもることは、この全能の力によるものでした。
 そして、マリヤの反応を見てください。38節をご一緒に読んでみましょう。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」先週、学んだザカリヤは御使いの知らせを信じませんでした。しかし、マリヤは信じました。マリヤは、自分がこのような祝福にあずかる価値がないことを認めています。「私は主のはしためです。」と言いました。私たちは「自分は足りません。まだそれはできません。」と言って自分の身に起こることから遠ざけてしまう場合が多くあります。しかし、マリヤは自分がはしために過ぎない存在であることを認めながら、自分が主の器になることを受け入れています。そして、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」といっています。なんと素晴らしい信仰の告白でしょう。「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」というのは、ものすごい発言です。信仰の究極の姿と言ってもいいでしょう。聖書では、神様の恵みの働きを受け取ることの出来る人が、高く評価されています。神様が新しい働きをされるときに、前例がないのだけれども、それを信じて、神様の器になることを受け入れる人です。例えば、ノアは、「神の恵みにかなった」と評価されましたが、彼は、まだ雨もふったことのない地に、箱舟を造りました。アブラハムも、何も知らない土地に、出かけて行きました。聖書は「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました(ヘブル11:8)。」と語っています。彼は、その信仰によって義と認められたのですが、マリヤの場合も同じです。前例のない神様の働きを、受け入れました。
 このマリヤの発言がさらにすごいことは、みことばの実現が自分の体のなかにあったことです。神様の器になって、自分をとおして人々が変えられて、状況が変わるというのであれば、まだ信じることができるかもしれません。人は信仰があればガンも癒されでしょうというけれども、自分の体に変化が起こってしまうことに対してはなかなか信じきれないのです。神様を信頼しきっていなければ、男を知らない自分の体に子どもを宿すことは決して受け入れられないことです。でも、マリヤは、神様を信じきったのです。
 聖書は、神様の恵みを受けて、それを自分のものにし、楽しむようにできるのは、信仰によることを告げています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)」とあります。恵みを受けても、信じなければ、ザカリヤのように楽しむことができません。祭司であっても宣教師であっても、信仰がなければ神様の恵みを楽しむことができないのです。
そして、マリヤの信仰は、みことばをどのように受け止めていくかの模範になります。みことばに対する私たちの対応は、3段階あります。1つは、みことばを聞くことです。耳から聞いて、それを知識として理解します。多くの人は、信者の人、信者ではない人を問わず、そこでとどまっています。そういう人は知識が増えて人のためにカウンセリングもできます。しかし、もう一歩、進み出なければなりません。それは、みことばを知ることです。みことばが本当であることを実感する必要があるのです。頭で理解するのでなく、心で理解します。感動します。けれども、神様の恵みを受けてそれを楽しみ、自分自身が幸せに生きるためには、もう一歩出なければいけません。それは、みことばが、自分自身に実現するということです。聖書に約束された、神様の子どもとしての歩み、キリストの似姿に変えられること、隣人を愛すこと、そのほかのたくさんのみことばがありますが、それが自分のうちに実現しているでしょうか。ほとんどの人は、私も含めて、「いや、私にはできない。」と言ってしまいます。けれども、それを実現される方は、全能の神様なのです。神様にできないことは、何一つありません。金ヨハネ宣教師は、宣教師になる直前、腰痛のためにあることさえ難しくなりました。レントゲンを撮って見ると骨が割れていました。家族から宣教師に行くなら、それが治って行くように勧められました。しかし、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」という御言葉を信じて日本に来ました。すると、御言葉がその身に起こり、腰が治ることだけではなく、本当に祝福されました。私たちもキリストのみことばが自分のうちに実現することを信じましょう。そうすると、今までの古い自分から大きく変化するでしょう。自分の人生に変化が起こるとき恐れも生じるかも知れません。でも、神様を信じきった人は、幸いなのです。祝福されます。恵まれた者となります。私たち皆がみことばが、まさに自分の体に起こる人生を生きるように祈ります。
 結論的に、マリヤは一方的に神様に選ばれて、イエス様をみごもり、所有する大きな恵みを受けました。彼女にとってダビデの子孫、ヨセフと結婚することも祝福であったと思いますが、御言葉を信じ、従うことによって救い主イエス様を所有し、イエス様の母として用いられました。そして処女マリヤを通してお生まれになったイエス様は、永遠にヤコブの家を治める真の王です。私たちが受難週を迎えてどの週よりもイエス様を深く黙想し、イエス様を所有してイエス様と交わることができるように祈ります。さらに身をもってイエス様の受難に参加することができるように祈ります。