2003年ルカの福音書第17講
望ましい安息日
御言葉:ルカの福音書6:1?11
要 節:ルカの福音書6:5「そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」」

先週の御言葉でイエス様はご自分を花婿に、弟子たちを花婿に付き添う友だちにたとえられました。イエス様の弟子の特徴はいつも花婿のイエス様とともに喜ぶことにあります。イエス様がおられる所には天の喜びがあります。いつもイエス様を私たちの心の真中にお迎えしているなら、私たちは喜びに満たされます。私は祈り会の所感を聞きながら大きな恵みを受けましたが、やはりクリスチャンの喜びは状況や人間的な条件によるものではないですね。それはイエス様との関係性にかかわっています。もし私たちの心に喜びがないなら、私たちは悔い改める必要があるし、私たちの心の中にイエス様が迎え入れるために祈り求めなければなりません。イエス様が私たちの心の真中におられる時、私たちは本当の喜びを所有することができます。また、私たちはイエス様が新しいぶどう酒であることを学びました。私たちの心に新しいぶどう酒イエス様の愛と恵みが注がれるためには私たちの心が新しい皮袋にならなければなりません。新しい皮袋は、最初の弟子たちのように素直にイエス様の御言葉を受け入れ、従う心です。聖書を学ぶ時、悔い改めて御言葉に従い、新しい決心をしようとする態度です。そのように聖書を読み、学ぶなら、素晴らしいイエス様の世界を体験し、喜びに満たされるようになります。
今日の御言葉は、異なる安息日にイエス様が二回も続けてパリサイ人たちと衝突された出来事です。パリサイ人たちは何とかしてイエス様をわなに陥れ、告訴しようとしました。しかし、これらの出来事を通してイエス様ご自身が安息日の主であることを明らかにされました。
ここで、私たちは望ましい安息日について学ぶことができます。本来、安息日とは、神様が私たちにくださった、祝福された、聖なる日です。この安息日を守るということは、神様の主権と働きを認めるという信仰の行ないですから、私たちが安息日を聖として守るなら、神様から祝福されて、全てがうまくいく人生を歩むことができます。では、イエス様は私たちが安息日をどのように守ることは願っておられるでしょうか。

?。人の子は安息日の主です(1-5)
1節を読んでみましょう。「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。」とあります。イエス様の伝道活動はますます忙しくなって行きました。安息日にも福音を伝えるために歩き回っておられました。恐らく、イエス様は麦畑をご覧になった時、刈り入れるばかりになっている人々のたましいを考えられたことでしょう。イエス様は色づいて刈り入れるばかりになっているたましいたちに対する愛情とビジョンのゆえに安息日にも一生懸命に働いておられました。それで、イエス様について行く弟子たちは、空腹を覚える時が多くありました。その日も、弟子たちは空腹を覚えたので何となく、手を出して麦の穂を摘んで、手でもみだしては食べていました。彼らは安息日に関する律法を知っていましたが、あまりにもお腹がすいていたのでうっかりしてしまいました。ところが、隠れたところでそれを見ていた人たちがいました。彼らはパリサイ人たちでした。2節をご覧ください。「すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」」とあります。「なぜ、・・・するのですか。」この言葉はパリサイ人たちの専門用語です。彼らは律法に照らしていつもそれが正しいかどうかだけを判断していました。彼らの言葉には理解とか、あわれみ、愛がありませんでした。もともと、律法は神様の民として生きる正しい道を教えています。この律法の精神は愛です。神様は人間に律法を与えられましたが、決して律法的な方ではありません。実際に現代の福祉に勝る福祉が旧約時代に築かれていました。レビ記19章9,10節によると、貧しい人や旅人は、麦畑に入って麦を摘んで食べても良いという教えがあります。神様は貧しい人、空腹を覚えている人々の心を理解して彼らが麦を摘んで食べることは許されたのです。本当に神様は哀れみ深く、慈しみ深い方です。しかし、パリサイ人たちはどうでしたか。彼らは律法的でした。彼らは律法を守ることには熱心でした。十戒に従い、彼らは安息日を一生懸命に守りました。この戒めを守る為に、彼らはさらに多くの戒めを作っていきました。安息日の仕事は細かく規定されているのです。「これは持っても良いが、あれは持ってはいけない。」とか「旅行しても良いけれども、2000キュビト(約1050m)以上はいけない」というような規定がありました。このような規定が、いつ頃から確立したかは明確ではありませんが、イエス様の時代には厳格に守られていました。その規定からすると弟子達の行動が気に入らないものでした。彼らの規定によると、麦の穂を取ることは収穫です。麦の殻を取りました。これは脱穀です。食べました。これは食事の用意をしたことになるのです。そして、それらは全て”仕事”だといわれていました。ですから、弟子たちの行動は”仕事”を安息日にしたという、これが問題になっているのです。彼らはひもじかった弟子たちの状態を知らなかったし、飢えている者たちに対する神様の御心も知りませんでした。
 私たちも兄弟を理解し、愛する心から接することより、ある基準を持って要求する心から接するなら、パリサイ人のように人をさばくことになります。約束を守らない、時間を守らない人に対して「なぜ、そうなのか。」と判断するようになります。また、人の行いに対して自分なりの基準で判断するようになります。私たちは宣教師や牧者生活に対しても自分の期待に至らなければ、「なぜ、そうなのか」「なぜ、僕はこれしかできないか」と判断するのです。パリサイ人は私たちとは関係ない別の人ではありません。私たちが人に対して「なぜ、そうなのか。なぜ、なぜ・・・」という思いがあるなら、それはパリサイ人になっている証拠です。人を生かすことは知識でも、正しい行いでもなく、深い理解と哀れみです。牧者の心こそ人を生かします。
3,4節をご覧ください。イエス様がここで取り上げられた話は?サムエル21章に記されたものです。サウルにいのちを狙われて、命からがら逃げ延びてきたダビデが、とりあえず落ち延びたのは、祭司の町ノブにあった聖所でした。空腹の絶頂に達したダビデは、食べるものを乞いましたが、そこには主の前から取り下げられた供えのパンしかありませんでした。それは祭司しか食べることができない聖別されたもので、伝説ではそれは安息日だったのです。安息日であるにもかかわらず、ダビデは空腹で今にも死にそうな自分と供の者のために、食べ物を得て、分け与えました。それはやはり律法に反し、安息日を犯すことになります。しかし、その事が、特に咎められたということは聖書に記されてありません。ダビデのしたことは許されたのです。飢えた人を見殺しにし、飢え死にさせることが安息日の意味ではなかったからです。安息日であっても緊急の用事は許されていたのでした。「安息日は人間のために設けられたのであって人間が安息日のために造られたのではないのです。(マルコ2;27)」そこで、イエス様は「本来なら罰してはならないその事が受け入れられた事を知らないのですか? 読んだことがないのですか?」と言って弟子たちを弁護されました。
ここで私たちはイエス様が弟子たちの味方になってくださったことです。イエス様がダビデをたとえに取り上げて弟子たちを弁護されたことはご自分の弟子たちをダビデのような存在として、偉い神様のしもべとして思っておられたことを示唆してくれます。イエス様は、弟子たちに「なぜ、安息日にそんなことをして人を困らせるのか」と叱ってから安息日の意味を教えることもできました。しかし、イエス様は弟子たちが根本的な面で誤っていなかった時、彼らを弁護士、彼らの咎と罪を担ってくださいました。イエス様は細かい人間のルールに縛られることなく、弟子たちの味方になってくださったのです。ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、自由に気楽に生きられるようになります。赤ちゃんがママのふところに抱かれているとき、おしっこをしても良いように、イエス様のふところで失敗しても安心して生きられるのです。それはイエス様の弟子たちに与えられた特権であり、祝福です。では、弟子たちの味方になってくださるイエス様はどんな方ですか。
5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」」ここで、主は、人の子、つまり自分は「安息日の主」であると語られました。安息日が指し示すもの、それはキリストご自身でした。「安息日、これらは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです(コロサイ2:17)。キリストにこそ真の安息があるのです。ではキリストはどのような意味で「安息日の主」なのでしょうか。安息日が設けられた本来の意味は、単に身体的な休息ではありません。私たちの「霊的安息」のためのものでした。つまり「主の中で楽しく休む日」という意味です。それで、新約時代になっては、「主の日」、「主日」と言うようになりました。イエス・キリストは、安息日を設けられた創造主であり、人類全ての罪を贖ったメシヤです。ですから、イエス様こそ安息日の主なのです。何よりも安息日の主であるイエスさまは、金曜日に十字架で死なれ、葬られ、黄泉に下り、日曜日の明け方に、死の力を打ち破って復活されました。私たちに、いのちと真の安息をくださった日は、この日曜日なのです。ですから、安息日が、土曜日から日曜日に代わったのです。私たちは、この主日を旧約の安息日以上に大切にし、イエス様中心に守らなければなりません。安息日はイエス様を愛し、イエス様に仕え、イエス様中心に礼拝する日です。
七日に一度ある安息日には今自分が置かれている厳しい競争と働きから解放されて、主のみ前に立ちます。主の前で自分の六日間の歩みを振り返り、また新しい六日に向けて整えられるのです。心をすり減らすような厳しい毎日の中で、自分の働きが神様によって支えられ、守られ、整えられているということを認め、それを委ねます。今自分が抱えこんでいる重荷の一切を、神様にあずけて、神様からもたらされる平安のうちに憩います。安息日に仕事を続けたり、あるいは旅をしたり、家で寝転んでいたりしては真の休息を得ることができません。忙しさと仕事の奴隷になってしまいます。私たちは真の休息と安らぎと平安を失うのです。私たちは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と約束してくださる(マタイ11:28)主イエス様に重荷の全てを降ろすとき、私たちに真の安息がもたらされるのです。ですから、神様が完成してくださる、神様の導きを信頼して、自分の重荷を降ろして主に向かう、それこそ安息日が設けられた意味なのです。飢え、疲れた弟子たちに必要な糧を与えられた主こそ、安息日の主です。

?。片手のなえた人を癒されたイエス様(6-11)
6をご覧ください。「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。」とあります。ここででて来る人は伝承では「石工」とされています。ルカは彼を「右手のなえた人」と記して注意を呼びかけます。今日でいえば筋萎縮賞であるそうです。それが右手であるとは、職人にとって大きな問題です。石工にとって片手がなえていると仕事ができませんから、それは死活問題でした。彼は働き盛りであったにもかかわらず、仕事ができず、生計をたてる手段を奪われ、前途に希望を全く持つことができなかったでしょう。生きるためには、恥を忍んでも物乞いするか、家族に養ってもらわなければなりませんでした。彼は助けてもらい、愛される必要がありました。心も体も癒される必要がありました。
世の中には、外見上は何の問題もなさそうに見える人でも、深い人生問題を持って悩んでいる人たちが本当に多くあります。ある人はよく見えない目のために苦しみます。歯が良くなくて、耳が良くなくて苦労している方もいます。身体的な条件だけではなく、性格問題や家庭問題のために内面がなえている人も多くいます。また、情欲問題のために、幼いときに経験した性的虐待のために傷つけられて心がなえています。彼らは助けられ、たっぷり愛される必要があります。
ある日、片手のなえた人はイエス様のうわさを聞いて会堂にはいり、座っていました。彼はイエス様の助けを受けるために、座って御言葉を聞いていました。ところが、民たちを助けているはずの律法学者やパリサイ人たちは彼の痛みに何の関心も示しませんでした。むしろ、彼らはイエス様が安息日に人を直すかどうか、じっと見ていました。彼らは「あのイエスはまた律法違反をするのか」と人を裁く目、批判する目でしか見ていないのです。彼らは安息日に神様を礼拝し、御言葉を聞くのではなく、主を訴える口実を捜すために、主の話を聞いていたのです。なんとかそこに落ち度や欠点を見つけてあげつらってやろうと身構えていました。そんな彼らには、片手のなえた人の困窮も、苦悩も、痛みも、絶望もわかるはずはありませんでした。そればかりか、この人の苦境を利用しようとさえしているのです。彼らはこの哀れな人を「だし」にして、イエス様を訴えようと計って、待ち構えていたのです。主は彼らのこの悪意に満ちた頑なさに、憤りを覚えられたのでした。8節をご覧ください。「イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。」とあります。
イエス様はその人が人々の前に立った時、人を裁く心で見ているパリサイ人達に言われました。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか。どうですか。」とあります(9)。
イエス様は安息日が何の為にあるのか、あなた方が良き事を行なうためではないのか、人々が良い目を受けるためではないのか、本当の意味での安息日の意味合いを思い起させようとされました。イエス様にとっては、この人の苦しみを見逃すことが出来ませんでした。この人の心の痛みと孤独と絶望とを、見捨てておくことなどはできないのです。イエス様にとって律法を守るかどうかということよりいのちを救うことが最も大切なことであるからです。
人々は、結局他人の苦しみには冷淡です。うわべでは同情の言葉をかけても、それが自分の痛みとなっているわけではありません。私は先週同労者のマリヤ宣教師の所感を聞きながら冷たい自分の姿を発見しました。私は一心同体になっているはずの家内が父の病気と死のために悲しみ、泣いている時も、甥の難病と死のために悲しんでいた時も、よく分かっていませんでした。しかし、イエス様は違います。主にとって、自分の羊の痛みは、自分の痛みなのです。私たちの苦しみは、主の苦しみなのです。かつてパウロが主の弟子たちを苦しめ、迫害していたとき、それは主ご自身を苦しめ、痛めつけることだと語られました(使徒9章4節)。
イエス様は片手のなえたその人の苦しみを真に自分のものとされたからこそ、何としても今彼を癒してあげようとされました。彼の苦しみから一刻も早く解放してあげたかったのです。まさにそれを実践する日こそ、安息日のはずでした。実はそのために安息日は設けられているのです。それで、イエス様は、この人に語りました。「手を伸ばしなさい」と。萎えた手は、もう二度と元に戻ることができなくなった手でした。その手をあえて伸ばせと命じられるのです。それは手を伸ばすことが出来るという、イエス様に対する信仰が求められた言葉でした。イエス様とその言葉に信頼することが求められたのです。彼は「そのとおりに」しました。イエス様の御言葉を信じて、それに従ったのです。「すると彼の手は元どおりに」なりました。それは単に手の癒しにとどまりません。片手のなえたことで失っていた全てのものを、回復することを意味していました。彼は手が萎え、枯れたことで、仕事を失い、生計をたてる手段を失っていました。そして生き甲斐と生きる希望、生きる意義さえ失っていました。こうして彼に人生そのものが萎え、枯れ、朽ちたものになってしまっていたのです。しかし、イエス様が、言われたとおりにしたとき、彼は体も心も癒され、回復されました。手が癒されたことで、一切が元どおりになりました。そして彼は自分の人生を取り戻すことが出来たのです。自分の本来の人生を回復したのです。
「手を伸ばしなさい」この主の呼び掛けは、今私たちにも呼びかけられています。それは自分の本来の人生の回復への呼び掛けです。それに応じて、おそるおそる手を伸ばす私たちに、主はその手をとって立ち上がらせて下さいます。キリストにある新しい人生、仕事、生き甲斐、生きる意味、新しい友、信仰の家族、そこへと主は招いておられるのです。

結論的に望ましい安息日はイエス様を中心に守ることです。イエス様は安息日の主です。そして、イエス様は安息日に善を行なうこと、いのちを救うことを願っておられます。片手のなえた人のように、イエス様を信頼して信仰の手、従順の手、祈りの手を伸ばして癒されることを願っておられます。特に、イエス様は私たちが本質を理解して従っていく事を願って折られます。私たちは戒律やルールを破っていないか、怒られないか、非難されないかではなく、何が良い事なのか、主が何をする事を喜んで下さるのかと積極的な生き方に進んでいくことを願っておられます。私たちが安息日をいつもイエス様のこと、イエス様が私たちに望んでおられることを覚えてイエス様中心に守ることができるように祈ります。安息日だけではなく、私たちの生涯がイエス様を主人にして生きることができるように祈ります。