2003年ルカの福音書第16講                          
新しいぶどう酒・イエス様
御言葉:ルカの福音書5:33?39
要 節:ルカの福音書5:37,38「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」

 先週、私たちは収税人レビをご自分の弟子として召されたことを学びました。人々は誰も利己主義であり、自己中心的なレビに近づこうとしませんでした。当時、ユダヤの律法学者やパリサイ人、ギリシャの哲学者たちは弟子を育てていましたが、だれも収税人レビを自分の弟子にすることはありませんでした。しかし、イエス様は彼に近づかれ、目を留められました。そしてご自分の弟子として召してくださいました。レビは自分のような者にも目を留めてくださったイエス様に感動したでしょうか。キリストの弟子になることを何にも勝る光栄に思ったのでしょうか。彼は何もかもせてイエス様について行きました。彼はイエス様の弟子としてイエス様とともに生きる新しい人生を出発しました。それによって彼は輝かしいイエス・キリストの栄光の世界に入り、神様の栄光と祝福の中で生きるようになりました。
 ところが、それは当時の宗教指導者たちには、全く理解できない新しいことでした。彼らの古い考え方ではイエス様が聖なる神の御子なら、罪人のレビといっしょに飲み食いすることはありえないと思っていたのです。それで、前回の御言葉を見ると、彼らはイエス様の弟子たちに向かって「なぜ、あなたがたは、収税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」と非難しました。ところが、今回はイエス様に向かってまた弟子たちのことを非難しました。そこで、イエス様はご自分の弟子たちを弁護されますが、それが今日の御言葉です。ここで、イエス様はご自身が弟子たち、すなわち、クリスチャンにとってどんな方なのか、クリスチャンライフの重要な特徴は何かを教えてくださいます。この時間、聖霊が御言葉を通してイエス様について、クリスチャンのあり方について学ばせてくださるように祈ります。

?。花婿なるイエス・キリスト(33-35)
 33節をご覧ください。「彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』」ここで、「彼ら」とはパリサイ人やその派の律法学者たちのことです。前回、彼らは正当なユダヤ人は収税人レビや罪人たちとつきあわないのだとつぶやきました。そして同じようにしてパリサイたちはイエス様の弟子たちを非難しています。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」とあります。彼らはヨハネの弟子たちのことを取り上げています。バプテスマのヨハネはイエス様の先駆者であり、同労者でした。ですから、ヨハネの教えに、何か本質的な違いがあったとは考えられません。ヨハネの教えは疑いもなく、救いに必要なすべての主要な点について、イエス様と同じだったでしょう。彼はイエス様について「見よ。世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」と伝えました。ですから、自分に従う弟子たちに向かって、福音に反するようなことは教えなかったはずです。もちろん、彼の教えはイエス様の教えに見られた豊かさと完全さには至らなかったと思いますが、それらが矛盾していたとは考えられないのです。それにもかかわらず、実践面では、違いがあったようです。ヨハネの弟子たちにはイエス様の弟子たちと異なっている点があったのです。疑いもなく彼らは、悔い改めや、信仰や、聖さが必要であることについては一致していたでしょう。イエス様もヨハネも悔い改めのメッセージを伝え、荒野生活をなさいました。断食も、祈りもなさいました。ところが、断食や、飲食や、公に祈る祈りの仕方、やり方は異なっていました。恐らく、ヨハネの弟子たちはパリサイ人と同じく、当時の宗教的な慣わしを大切にしていたでしょう。また、人の目を気にしていたようです。しかし、イエス様の弟子たちは、そういる律法に縛られることなく、自由に生活をしていました。悔い改めること、信仰、望みといった、本質的なキリスト教信仰に関わる点では一致していましたが、外的な問題については、必ずしも心を1つにしていなかったのです。パリサイ人たちは目に見えるそのような外的な問題を取り上げてイエス様に非難しました。人の心や隠密に行なう善行については知らずに、外見上の姿を見て、人を判断し、さばいていたのです。
 ところが、私たちもそのような時が多くあるのではないかと思います。本質的なことより、外的な問題について、よく議論し、言い争ったり、心の中から人を判断したりしてしまう時があるのではないかと思うのです。今の私たちだけではなく、この世の続く限り、人々が外的な問題を持って人やクループを非難することは終わらないかもしれません。事実、教会歴史を見ると、教会政治について、教会組織について、礼拝の行ない方について、断食や異言に対する見解について、クリスチャンが完全に1つ心になったことは見られません。使徒たちの時代から一度もなかったでしょう。むしろ、行い方の違いや、考え方の違いによって教会は分立し、数多い教団教派が生まれてきました。分立を避けるために数多い主のしもべたちが努力しましたが、神のしもべたちの中でも最も聖く、最も有能な人々が、異なる結論に到達してきました。議論も、論議も、説得も、迫害も、みな同じように、一致を作り出す力はなかったのです。本当に外見上の姿で一致を作り出すことはできないようです。
 しかし、内面的なこと、本質的なことにおいてはあらゆる真のしもべたちが徹底して一致している点も数多くあります。クリスチャンなら、キリストの十字架による赦し、罪と救いについて、悔い改めと、信仰と、聖さについては一致しているのです。どんな教会でも、どの国でも、いかなるクリスチャンの間にも、本質的には一致があるのです。ですから私たちは、教会生活、自分の個人的な信仰生活において、外見上の姿より最も本質的なことを大切にしなければならないと思います。結局のところ、私たちが死んだ時、また審きの日を迎えたときに、私たちにとって最も重要な事がらは何でしょうか。最後の審判の日には、私たちが断食や、飲食や、儀式についてどう考えていたかなど、ほとんど意味を持たないでしょう。神様は私たちに断食を何回したのか、一日に祈りを何回したのかなどを問われるはずがないです。それより、私たちは本当に悔い改めただろうか? また、悔い改めにふさわしい実を結んでいるだろうか? 私たちは信仰によって《神の小羊、イエス・キリスト》を見つめ、彼を自分の《救い主》として受け入れただろうか? これらが最も大切なのです。最後の日にはイエス様を受け入れ、イエス様中心に生きていたのかどうかが最も大切なことになるのです。それなのに、パリサイ人たちは外面的な問題を持って人を判断し、裁いていました。そして弟子たちのことをイエス様に訴えました。それに対するイエス様の答えはどうですか。
34節を読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。」イエス様はご自分の弟子たちを花婿に付き添う友だちにたとえられました。イエス様ご自身は花婿です。何と素晴らしいたとえでしょうか。ご自分の若い弟子たちに対するイエス様の弁護は、本当に素晴らしいものです。だれでも結婚式の宴会に招かれた人たちが花婿と共に喜び、共に飲み食いをすることは知っているからです。しかし、ここで飲み食いをしている弟子たちの行動に対する弁護よりももっと重要なことはイエス様御自身に関する御言葉です。イエス様は、なぜ彼らが喜ぶべきか、なぜ、幸せな結婚式は禁欲的になってならない時なのかという根源的な理由を説明されました。事実、イエス様はご自分がこの世に来られた理由を説明されました。
イエス様は「花婿」としてこの世に来られました。私たち人間を花嫁として迎えるために来てくださったのです。花婿と花嫁とはイエス様とご自分の民との関係を指しています。イエス様は私たちの花婿で、私たちクリスチャンは花嫁です。イエス様はご自分を信じるすべての人をご覧になるとき、花嫁を迎える花婿が抱かれる、深く優しい愛を感じられます。私たち自身は弱く、無価値で、欠点だらけの者であっても、イエス様は私たちに対して、夫が自分の妻に対して感ずるのと同じ優しい愛情を感じておられるのです。その関係は主人としもべ、教師と生徒、羊飼いと羊との間にあるものよりも、さらに親密なものです。今日、結婚に対するイメージも、夫婦生活に対するイメージも悪くなっている傾向が見られますが、本来、それは本当に美しく素晴らしいものです。あらゆる関係の中でも最も親密なものが、夫婦の結びつきです。聖書には「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」[マタ19:6]とあります。ですから、私たちクリスチャンは、花婿のイエス様ご自身とイエス様がお持ちのすべてのことに完全にあずかる特権が与えられているのです。夫が妻に自分の名を与え、彼女を自分の財産や家や地位にあずからせ、彼女の借金と債務のすべてを引き受けるのと同じように、キリストはすべてのクリスチャンをそのように扱ってくださいます。イエス様は私たちのあらゆる罪をご自分で負ってくださいます。この世においてもイエス様は私たちに、人知を越えた良いものを与えてくださいます。この世において私たちは貧しく、さげすまれ、私たちの信仰ゆえに笑い者にされているかもしれません。しかし、私たちに信仰があるなら、私たちはキリストの御前で最も尊いキリストの花嫁なのです。
ですから、私たちクリスチャンはいつも喜ぶことができます。黙示録19:6-9節を言っています。「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」とあるのです。本当に、小羊の宴会に招かれて花婿なるキリストといっしょにいる者は幸いな者です。花婿なるキリストと共にいる限り断食をしなくてもいいです。いつも内面的に喜び、楽しく生きることができます。世界で最も有名な賛美歌作家の一人ファニー・クロスビー(Fanny Crosby.1820)は生まれて6週間後に高い熱を出し失明してしまいました。しかも、医者の未熟な治療のせいだと言われています。何と悲しい運命でしょうか。しかし彼女はイエス様に召されたとき、信仰生活を始めました。彼女はイエス様こそ自分の本当の花婿であることを発見したのです。その後、彼女に対するイエス様の燃える愛情はだれの愛情より深く強力なものでした。彼女に向けられたイエス様の愛は彼女のたましいを日々新しくして最も美しい愛の賛美歌を書いてイエス様を賛美するようにしました。95才で死ぬまでの間に賛美歌を9000も書いたと言われています。私たちの教会でも彼女の賛美歌をよく歌います。聖歌232「罪・とがを赦され」(Blessed Assurance)もその一つです。本当に花婿キリストといっしょにいる生活は幸せで喜びです。ですから、弟子たちはイエス様とともに喜びに満ちた生活ができたのです。英語で喜びは「JOY」ですが、それは三つの単語の頭文字です。JはJesus、Oはothers、YはYourselfです。私たちは第一にイエス様、第二に人のために、そして最後に自分のために生きるとき、私たちのたましいは本当に喜び、いつも笑顔で生きるようになります。
 イエス様を第一にするクリスチャンライフは本当に喜びそのものです。しかし、この喜びは人間的もの、あるいは世的なものではありません。それは神様ご自身から来る喜びです。ルカの福音書15章には有名なイエス様のたとえ話が三つ記されてありますが、三つとも、一人の罪人が悔い改めた時、神様がいかに喜ばれるのかを教えてくれます。放蕩息子のたとえを見ると、お父さんといっしょにいながらも喜んでない兄息子にお父さんは言いました。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくっていたのが、見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」本当に、霊的に死んでいた私たち、失われていた私たちが救われたこと、この事実だけ考えても、いつも楽しんで喜ぶことは当然なことです。一般的に人は年を取ればとるほど笑顔より深刻な表情になります。教会に通っていても兄息子やパリサイ人のように人の行ないや外見上の姿を気にしている人は喜びを感じません。しかし、信仰によって花婿のイエス様といっしょにいる人は違います。李リベカ宣教師は東京UBFの女性の中で一番年上ですが、一番よく笑っています。実は一番大変な時であると言われている高校生の息子がふたりいるし、しかも長男は受験生です。それに職場ではだれよりも多くの仕事を担っています。それでもいつも笑顔でニコニコしています。それは花婿イエス様といっしょにいるからでしょう。もちろんりっぱなご主人ヨシュア宣教師のささえも大きいと思いますが、永遠の花婿はイエス様でしょう。
35節をご覧ください。「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」イエス様は罪人の花婿になるために高価な代価を払われます。彼は十字架の苦痛を経験し、世のすべての罪を背負って神様から捨てられる苦しみと悲しみまで経験されました。私たちを罪から贖うために神の小羊として十字架に付けられて死なれました。イエス様が死なれた時、聖なる神様と罪深い人間の間を分離することの象徴であった神殿の幕が真二つに裂けました。イエス様の死は神様と人間の間にある隔たりをなくしたのです。このイエス様の死を通して、私たちは神様に近づくことができるようになりました。ですから、弟子たちはイエス様の十字架の死の時に、悲しみ嘆き、断食しなければなりません。その日に、弟子たちは神様の栄光のために断食し、祈らなければならないのです。

?。新しいぶどう酒は新しい皮袋に(36-39)
 36節をご覧ください。「イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。」だれか、伊勢丹デパートから買ったばかりの着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことをするでしょうか。だれもしません。もしそうするなら、新しい着物も、古い着物も使えなくなってしまいます。パリサイ人たちが熱心に教えている律法や言い伝えも古い着物のようなものです。それは古くなってしまい、本来の律法の精神を失って、規則だけが残っていました。そのようなユダヤ教の律法とキリスト教の福音は古い着物と新しい着物のようでいっしょに合わせることができません。イエス・キリストによる福音のみわざは、すでに生命力を失ってしまったユダヤ教の一部分に付け加えることはできないのです。イエス様がこのように説明してもパリサイ人たちは、まだ理解しませんでした。そこで、イエス様はもう一度他のたとえを言われました。37、38節をご一緒に読んで見ましょう。「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」新しいぶどう酒を入れる皮袋は、新しいうちは弾力性に富み、伸び縮みしますが、古くなると干乾びて硬くなります。ぶどう汁はふつふつと内部からガスを出して発酵し、やがておいしいぶどう酒になります。その絞りたてのぶどう汁を、かさかさに干乾びた古い革袋に入れると、ガスが溜って膨張し、ついには張り裂けてしまうのです。キリストにある新しい命は、古い戒律に縛られた生活の中に閉じ込めることが出来ません。古い戒律に縛られていたパリサイ人たちは、中風の人の友だちが信仰によって屋根の瓦をはがしたことも、イエス様がらい病人に触られることも理解できませんでした。公式的な罪人であるレビを弟子として召され、いっしょに飲み食いをすることもできませんでした。だから新しいぶどう酒、つまりキリストにある新しい命と信仰は、新しい器、新しい生活と生き方を必要とするのです。そして、新しい皮袋になった人々は新しいぶどう酒による喜びが湧きあがるようになります。新しいぶどう酒は内側から力が溢れでて、自由に神への賛美と感謝と奉仕に向かわせるものです。この新しい命は、部分的なものではなく、全面的なものです。心の一部が新しくなるというのではなく、心全体が、奥底から変えられ、新しくされるのです。ぶどう汁からぶどう酒へと、内側から、質的に全く別のものに変えてしまうのです。徐々に徐々にそれは進行し、確実に変えていってしまうのです。その発酵はずっと続けられて、ついにはおいしいワインになっていきます。ヨハネの福音書2章を見ると、イエス様は水をぶどう酒に変えて下ったのですが、そのように内側から少しづつ私たちを造り変えてくださるのです。キリスト教信仰は、そのような力と命を持っています。こうして私たちは「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです」(2コリント3章18節)。私たちの「内なる人」は日々に新たにされています(同4章16節)。「また心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」(エペソ4章23節)ようになります。もう一度、38節をご一緒に読んでみましょう。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」イエス様は私たちに新しいぶどう酒を入れて神様の愛と真の喜びに満たすことを願っておられます。ただ、私たちが神様の恵みの中に歩みたいと思うならば、私たち自身が新しい皮袋にならなければなりません。新しい生き方をしていく必要があるのです。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるからです。私たちは古い生き方をやめて新しい生き方に変えられていく必要があるという事です。自分が今まで経験したこともなく、歴史にもなかったことでも神様にはできる、神様は人知を超えて新しいことをしてくださることを期待し、委ねる心です。特に、私たちは新しい生き方をイエス様の最初の弟子たちから学ぶことができます。ペテロも、ヨハネとヤコブも、レビもイエス様の御言葉を聞いた時、単純にそして絶対的に従いました。イエス様を全幅的に信頼して何もかも捨ててイエス様に従ったのです。そうした時、彼らは人類の歴史をBCからADに変える歴史の主役として成長し、偉大な神様のしもべとして用いられました。

 結論的に、神様が私たちに神様の愛を信頼し、イエス様を永遠の花婿として受け入れるように助けてくださるように祈ります。私たちのたましいに真の幸せをもたらす新しいぶどう酒、霊的な喜びを注いでくださるように祈ります。何よりも新しいぶどう酒を受け入れて偉大なしもべとして成長できる新しい皮袋のような人にして下さるように祈ります。