2003年 ルカの福音第12講                  

大漁の人生

御言葉;ルカ5;1-11

要 節;ルカ5;5、6「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」

先週、私たちはイエス様が権威と力ある神様の御言葉を教え、病人を癒されたことを学びました。イエス様は、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければならないという目的のために御言葉を教え、病人を癒されました。

今日学ぶ5章1-11節には「奇跡的な大漁」が記されています。シモンはイエス様のお言葉どおりに従って奇跡的な大漁を体験します。そして、彼はイエス様の召されに従って人間を取る人生を出発しますが、結果的に、彼の人生は人間を取る漁師として大漁の人生となりました。平凡な漁師に過ぎなかった彼がどうやって人類の大先生になられたでしょうか。彼を人間を取る漁師として召され、大漁の人生に導かれたイエス様はどんな方でしょうか。

今日の御言葉を通して、私たちも大漁の人生を学び、イエス様が私たちに置かれた望みを堅くつかむことができるように祈ります。

?。深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい(1?7)

1節をご覧ください。「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、」とあります。ゲネサレ湖とは一般にガリラヤ湖と呼ばれています。パレスチナで最も美しい景観を呈しているそうです。イエス様は朝早くから、この美しい景観を舞台として御言葉を教えておられました。すると、夜通し働いた漁師たち、漁師たちから魚を買い取るために集まって来た人々がイエス様に押し迫るようにして神様の言葉を聞きました。著者ルカは「群集がイエスに押し迫るようにして神の言葉を聞いた」とということを強調しています。

では、どうして、群集は朝早くからイエス様に押し迫って来たのでしょうか。当時、人々はローマ帝国の兵士やヘロデのような悪い王に支配されていました。宗教指導者たちも政治権力に頼っていたので、民の頼りになりませんでした。むしろ、利己的であり、律法的な彼らから傷つけられるばかりでした。さらに、人々は貧しさと非衛生的な環境のためにさまざまな病にかかり、悪霊につかれていました。それで、人々は病を癒し、悪霊を追い出してくれることを願っていました。しかし、彼らに真に必要なのは神様の御言葉でした。人はパンだけで生きるのではなく、神様の口から出るすべての御言葉によって生きる存在なので、霊的な問題を解決することがもっと重要な問題でした。彼らには霊的な渇きがありました。果たして神様はどんな方なのか、自分たちに向けられた神様の御心は何か、神様の御前でどのように生きるべきか。神様の御言葉について知りたいという願いがありました。イエス様は、このような人々の霊的な渇きをよく知っておられたので、朝早くから神様の御ことばを教えられました。今日も人々は御言葉に渇いています。特に若者は真理の御言葉に渇いています。日本の霊的変革を目指して研究・討議している有志グループエリヤ会が首都圏の男女千五十人を対象に実施した調査で、平均して10人に一人がキリスト教に関心があることが分かりました。その中で「どのようなことがあれば教会に行こうとと思うかという質問に対しては「ゴスペルコンサート」と「クリスマス」が共に31%でしたが、私たちが主な伝道の対象にしている学生では「聖書研究」が50%、「講演会」が33%でした。キリスト教に関心がある学生たちの83%が聖書を学ぶことがあれば教会に行こうと思っているのです。ですから、今日もイエス様のように熱心に御言葉を教える聖書先生が絶対的に必要です。聖書先生が熱心に神様の御言葉を教えるとき、その時代の人々に希望があります。

2節をご覧ください。「岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。」とあります。イエス様は岸辺に小舟が二そうあるのをご覧になりましたが、漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていました。彼らは夜通し働きましたが、イワシ一匹も獲れなくて疲れていました。昨夜漁に行くとき、魚がいっぱい獲れたら、それを売ってまだ、払ってない子どもたちの学費を支払い、修養会の登録もしたいと思っていました。しかし、そのような小さな望みも消えてしまいました。体の疲れだけが襲って来ました。それで、彼らは一刻も早く家に帰ろうと思って、人々がイエス様の御言葉を聞いているその時にも網を洗っていました。

 ところが、イエス様は二そうある舟のうち、シモンの持ち舟に乗りながら言われました。「シモンさん。悪いけど、舟を陸から少し漕ぎ出してもらえませんか。」ペテロは洗っていた網を下ろして「はい。そうしましょう。小さな舟だけど使ってください。」と答えながら舟を陸から少し漕ぎ出しました。彼は自分の持ち物をイエス様が使えるように提供したのです。すると、イエス様はすわって、舟から群衆を教えられました。ペテロは深夜アルバイトをして来たのでとても眠かったと思いますが、イエス様のお願いに目が覚めてしっかりと御言葉を聞くようになりました。すると、疲れている体も、休みたかった心も癒されて元気になってきました。イエス様の御言葉には不思議な力がありました。ペテロの顔は輝くようになりました。そこで、イエス様はお話が終わると、シモンに命じられました。4節をご覧ください。「話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。」とあります。ではこの御言葉はペテロにどんな意味がありますか。

  第一にイエス様はシモンの失敗を挽回させて上げようとされたことです。魚が取れなかったことはシモンにとってとても深刻な現実問題です。漁師にとって一匹の魚も取れなかったことは恥ずかしいことであり、本当に力が抜けてしまうことです。イエス様はこのようなシモンの失敗と挫折を知られました。魚によって笑ったり、泣いたりする漁師の生活をよく理解し、彼の現実問題を解決して上げて彼の失敗を挽回させてあげようとされました。イエス様はシモンが敗北の人生を生きることを願われませんでした。彼が心配のところから、立ち上がり、もう一度チャレンジして勝利することを願われました。

  第二に、深みに漕ぎ出すように言われたことはイエス様の世界へのお招きです。ペテロは魚が浅いところに多くいるし、深い所にはいないことを自分の経験を通してよく知っていました。彼はその経験の世界、常識と理性の世界に生きていました。彼はイエス様が自分のしゅうとめを癒してくださったことを見ましたが、まだ自分の方から直接的にイエス様を体験することができませんでした。まだまだ浅いところでうすい信仰を持っていたのです。イエス様はそんな彼を深い世界に導こうとされました。彼が深みに漕ぎ出して魚を取ることを通してイエス様の力を深く体験し、理性を超えた世界、霊的世界、信仰の世界に対して目覚めるように助けようとされたのです。今までよく知らなかった深いイエス様の世界に導こうとされたのです。イエス様の世界は信仰の世界、愛の世界です。この信仰の世界には私たちの想像を越えた神様の無限な宝があります。今日、若者たちは、自分が経験した浅い知識の世界に留まっています。目に見えるものだけがすべてであるかのように考えています。クリスチャンの中でも常識的な範囲の中で信仰生活をしているのね、霊的な深い世界がよく分かりません。使徒パウロは日々霊的な深い世界を経験し、第三の天にまで引きあげられたことを告白しています(?コリント12:2)。イエス様は私たちが今よりもっと深いイエス様の世界を経験することを願って言われます。「深みに漕ぎ出して網をおろして魚を取りなさい。」

 5節をご覧ください。「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」ペテロがイエス様の御言葉に従順に従い、深みに漕ぎ出すことはとても難しいことでした。彼は夜通し働きました。もう仕事を終えて網を洗っていました。体は疲れていました。彼は「大工のイエス様!深い所には魚なんかありませんよ。」と言いたかったでしょう。あるいは「もっと早く言ってくれれば良かったのに、もう遅れているよ。ご覧のとおり、もう網を洗っているんじゃないですか。また、もう昼ですよ。昼。」と言い返したかったではないでしょうか。しかし、彼の答えが何ですか。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言っています。” But because you say so. ‘But,’これが、ペテロの素晴らしい所です。彼は自分の経験、自尊心を捨てて、イエス様の御言葉に頼りました。彼はプロの漁師としての自分の考えがありましたが、「でも」といってイエス様の御言葉を最優先にしました。ペテロには漁師としての常識も、実力もありました。でもイエス様の御言葉に従順に従いました。現代人、特に若い学生がイエス様の世界に入れない理由は「でも」と考えることがないからです。理性的な考え、合理的な考え、実利考えなどを固執するからイエス様の世界に入ることができないのです。しかし、シモンはイエス様の御言葉に従いました。どうやってそれができたでしょうか。

 それはイエス様のみ言葉に対する信頼があったからです。シモンはイエス様の御言葉の権威と力を間接的に体験していました。イエス様がしかりつけられると、自分の姑の熱が下がり,イエス様が叱り付けられると悪霊どもが出て行くことを見ました。彼はこれらのことを他人事と思って過ぎ去ったのではなく、自分にも起こりうると思ったのです。それで、彼はイエス様の御言葉の前では無条件「はい。」と答えることができました。自分の考えよりイエス様の御言葉を信頼して従うことができたのです。

シモンがイエス様の御言葉に従って網をおろした時、どんなことが起こりましたか。昨夜、シモンを嘲りながら逃げていた魚たちが、今回は必死的にペテロの網の中に入ってきました。瞬間的にペテロの網は魚がいっぱいになりました。網は破れそうになりました。おびただしい魚のために、網を引き上げることができませんでした。ペテロは急いで友達を呼びました。「オイ。ヤコブ、ヨハネ、ちょっと助けて・・・」。彼らは喜んで網を上げました。あまりにも嬉しくて踊りたくなるほどでした。本当に楽しい漁になりました。あっという間に魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになりました。大漁になったのです。

ここで私たちは大漁の秘訣を学ぶことができます。それは、自分の経験や世の常識から一歩進んで主の御言葉に従うことです。ペテロのこの一歩。私達も『でもおことばどおりに…』という姿勢を学びたいと思います。私たちは御言葉を読んでいく中で、自分の考えと違う事が沢山あると思います。あるいは、こんなものは神様に頼らなくてもいいじゃないかと思っているかも知れません。でも『おことばですから』と従う、ここに大漁の人生、本当に神様に祝福された人生が待っています。の祝福が現われるという事なのです。

II. あなたは人間をとるようになる(8-11)
大漁を通してペテロは深いイエス様の世界を経験しました。すると、新しく、「このイエス様はどんな方か。」と思うようになりました。そして、超自然的なことを行われるイエス様の御前に自分が立っていることに気づかされました。そのとき、シモン・ペテロはイエス様の足元にひれ伏して言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」 最初は「先生」と呼んでいた彼が、今は「主よ。」呼んでいます。イエス様に対する姿勢が完全に変わりました。彼はどんな点で罪深い人間であると告白したでしょうか。だれでも聖なる神性を持っておられる神の子イエス様に出会うなら、本質的に自分が罪人であることを悟らざるを得ません。ペテロは過去、自分と自分の家族だけのために生きる生活は罪ではないと思っていました。しかし、イエス様に出会うと、積極的に神様の栄光のために生きていなかったこと、イエス様が御言葉を教えても聞かなかったことが罪であることが分かりました。その時、彼は、この聖なる方、深い海の世界も、魚の世界も支配しておられるイエス様の前にいることが恐くなりました。彼は恐くて恐くて「私のような者から離れてください。」お願いしました。しかし、イエス様は彼に言われました。「こわがらなくてもよい。」これは罪人に与えられる赦しの御声です。イエス様はシモンの過去を問わずに彼のすべての罪を赦してくださいました。そして、 

彼に言われました。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(10b)あなたが過去にどのように生きたとしても、それとは関係なく、これから後、新しい人生が始まるということです。昨日まで、どんな生活をしたとしても、今日からは完全に変わるということです。?コリント5:17節は言います。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
ではペテロに置かれたイエス様の希望は何でしょうか。イエス様は「あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。この御言葉は人を生きたまま捕まえることを意味します。それは刑事さんが犯人を捕まえて刑務所に入れることではありません。罪と虚無のために死んで行く罪人を救って生かすことを意味しています。さらに、その人を霊的な指導者として育てることを意味します。ペテロは今まで魚を取って殺すために網をおろしました。取られた魚は死んで人間の食べ物になります。しかし、これからは人間を取って生かすために生きるようになります。今までは魚について詳しい専門家でしたが、これから人間について詳しい人間学の博士になります。それは一言でイエス様と同じ人生を生きるようになるということです。イエス様は人を生かすためにこの地に来られました。人を生かすためににおいがする罪人たちに仕える生活をされました。ついに、十字架に貼り付けられて死なれるまでに人を生かすことのためにご自分のすべてをささげられました。このイエス様は人間をとる漁師の中でも最も偉大な漁師です。 人を生かすことは何よりも重要なことです。なぜなら、それは神様の懇切な望みであるからです。神様はいなくなったひとりを見つけるまで捜し歩かれる良い牧者です。ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです(ルカ15:7)。本当に、人を生かすことは、最も大切な仕事です。また、人を生かすとき、その人が生かされることだけではなく、その命のみわざに携わった牧者たちも栄えある人生になります。ペテロを考えてみると、彼は生くさい魚の匂いがする生活をしてからガリラヤ湖のどこかで消え去る人生でした。しかし、彼が人間をとる人生を生きるようになった時、彼は人類の大先生セイントペテロになりました。ひとりの人生の偉大さは、どれほどのいのちの実を残したかにかかっています。私が華やかな生活をし、この世のすべての権力を手に入れたとしても、最後の日、その日に神様の御前に報告できるいのちの実がないなら、それは深刻な問題です。しかし、ちょっと貧しく、忙しい生活をしたとしても、最後の日に、その人の後に数多いいのちの実が並べられるようになるなら、彼は本当に偉大な人生、勝利の人生を過ごしたことになります。
 イエス様は「 これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。この御言葉にはシモンに対するイエス様の希望とビジョンも込められています。イエス様は平凡な漁師シモンがやがて人類の大先生ペテロに成長する希望を持って彼を弟子として召されたのです。さらに、このひとりの変化を通して全人類が救われるビジョンをご覧になりました。このイエス様こそ、人間をとる漁師の中でも実に偉大な漁師です。私たちが人間をとる漁師として大漁の人生を生きる秘訣もこのイエス様をよく学ぶところにあります。私がイエス様の御姿にまで変えられていくことを目標にして日々イエス様を学び、イエス様について行くことができるように祈ります。11節をご覧ください。彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエス様に従いました。彼らは適当にある程度従うのではなく、何もかも捨てて従いました。その時、イエス様も彼らを弟子として育てることができました。

結論的に、私たちの大漁の人生を学びました。私たちがペテロのように大漁の人生を生きるためには、ペテロのようにイエス様の御言葉に従わなければなりました。イエス様は私たちが日々、イエス様の深い世界、深い御言葉の世界を体験することを願っておられます。足りない私たちを人間を取る漁師として召して下さり、人間をとる漁師の人生を生きるようにして下さるイエス様のビジョンと導きに感謝と賛美をささげます。