2003年ルカの福音書第11講

ほかの町々にも神の福音を宣べ伝えられるイエス様

御言葉:ルカの福音書4:31?44

要 節:ルカの福音書4:43「しかしイエスは、彼らにこう言われた。「他の町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝なければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

先週、私たちはイエス様が何のためにこの地上に遣わされたのかを学びました。イエス様は、貧しい人々に福音を伝え、捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために来られました。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために来られました(4:18,19)。そして、イエス様は、まずご自分が育てられた故郷ナザレの人々にこの福音を教えようとされました。ところが、故郷の人々はイエス様を町の外に追い出し、絶壁から投げ落として殺そうとしました。しかしイエス様は、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれました。それから、イエス様はガリラヤの町カペナウムに下られました。

今日の御言葉は、イエス様がこのカペナウムでなされた出来事です。ここで、私たちはイエス様がどんなに神様の御言葉を教えることを願っておられたかを学ぶことができます。そして、人々に現われた御言葉の権威と力を学ぶことができます。また、イエス様の牧者生活、祈り生活、どうしても神の国の福音を宣べ伝えようとされたイエス様の生き方を学ぶことができます。

?。権威あるイエス様の言葉(31-41)

31節をご覧ください。「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。」とあります。この御言葉はイエス様が安息日ごとに人々に神様の御言葉を教えられたことを知らせてくれます。恐らく人々が願ったことは、すごい奇跡をすることではなかったでしょうか。難病と言われる病やSARSのように酷い病でも癒してもらいたいと願っていたでしょう。しかし、イエス様は聖書の御言葉を教えられました。それが最も大切な働きでありました。なぜなら「聖書は私たちに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるからです。また、聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益であるからです(?テモテ3:15,16)。それで、イエス様は何よりも人々が神様について正しく知ることができるように御言葉を教えようと願っておられました。彼らが真理を知り、イエス様こそ永遠のいのちを与えてくださる神様の御子であることを知るように御言葉を教えることを切実に願われたのです。

ここで、私たちは御言葉を教えることの大切さを学ぶことができます。しかし、それより先に、私達にとって大切なことはまず御言葉を学ぶ、御言葉を受け取るということです。私たちは御言葉を学び、素直に受け入れる時、御言葉の権威に驚くようになります。イエス様の言葉には神様が与えられた権威があるからです。32節をご覧ください。「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」とあります。この権威を政治的、あるいは法律的な権力によるこの世の権威とは違います。この権威はいやがる、恐れる権威ではないのです。イエス様が教えられる御言葉の権威はたましいに満足を与える権威です。人を生き返らせ、元気付け、力づけて活力を与える権威です。

孤児の父と呼ばれるジョージ・ミラーはイギリスで2000人以上の孤児を祈りだけで養った人物です。必要があっても決して人には願わず、ただ神様にだけ祈りました。神様との素晴らしい交わりを持った彼は告白しました。「霊的生活の活力は、生活と思想において聖書が占める位置と比例している。私はこの事を54年の経験から申し上げます。私は改心してから3年間は神の言葉をないがしろにしていました。しかし聖書を熱心に探求し始めた時から、素晴らしい祝福が与えられている。私は既に100回聖書を通読したが、常に喜びが増し加えられています。何度読んでも私には新しい本の様に思われます。日ごとの聖書を読む時間から受けた恵みは非常に大きいものであった。私は神の言葉の為に時間を割かなかった頃を失われた日々であると思っている」
 ミラーは、私達の信仰生活において、御言葉こそがこの根底だと言っているのです。彼は祈りのしもべ、孤児の父と呼ばれていますが、その力の源は御言葉にあったのです。

目に見える事や体験する事も素晴らしい事です。クリスチャンライフにおいてキリスト教のさまざまなイベントに参加して恵みを受け、感動することも素晴らしいことでしょう。それで、私たちも素晴らしい夏修養会を準備しています。しかし、目に見えるイベントそのものが第一になってはいけません。イエス様は何よりも優先的に御言葉を教えられました。ですから、私たちにとって最も大切なのは御言葉に学び、御言葉に聞き従うという事です。私たちがこのことをしっかりと心に留めて置くことができるように祈ります。イエス様が最も大切にされた、御言葉に学び、御言葉を生活の中心において生きる者であるように、御言葉の権威に支配される生活でありますように祈ります。

33,34節をご覧ください。「また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。「ああ、ナザレ人のイエス、いったい私たちに何をしようというのですか。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」」とあります。イエス様が会堂で御言葉を教えられた時、人々はその権威に驚きました。人々は御言葉によって生き返り、会堂は花咲く風景のように明るく、美しくなりました。すると、悪霊は居場所が苦しくなりました。汚れた悪霊は,汚れている所、陰険な所が好きで、そういう所でよく働くものです。ですから、悪霊は神の聖者イエス様が現われた時、恐れ始め、ついに大声でわめきました。「ああ、ナザレ人のイエス、いったい私たちに何をしようというのですか。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」と言ったのです。この悪霊は神の聖者イエス様が自分を滅ぼされることを感じたことが分かります。そこで、イエス様は悪霊を叱られました。「黙れ。その人から出て行け。」と言われたのです。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行きました。まさしく、神の御力が悪霊を追い出しました。そこで、人々は御言葉に驚いて、お互いに話し合いました。「今のお言葉はどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」と。 

ここで、私たちは、人々が汚れた霊、悪霊のためにどんなに苦しんでいたのかが分かります。悪霊のために人々は人生の喜びを失っていました。いつも喜び、すべてのことに感謝することができません。私たちは少しでも注意深く人々を観察し、話し合ってみると、さまざまなことで悩み、苦しんでいることが分かります。神様と愛の関係性を持ってない人は、悪霊の支配を受けているからです。汚れた霊は人を汚れた所に導き、人がきよく正しく生きることを妨害します。心を汚れさせます。それで、人々は絶えず、堕落し、つまらない事で人々と喧嘩します。些細なことのために、憎みあいながら苦しんでいます。しかし、悪霊から解放されて自由になった人、神様と愛の関係性を持っている人は人々とも美しい愛の関係性を結ぶことができます。神様との愛の関係性がなければ、人との愛の関係性を結ぶこともできません。ですから、私たち人間は汚れた霊から解放されて神様と愛の関係性を結ばなければなりません。ところが、イエス様の言葉には、悪霊を追い出す権威と力があります。御言葉が私たちのうちに働く時、もはや悪霊は私たちに害を与えることはできません。イエス様の御言葉に権威と力があるからです。御言葉は私たちのうちに働く悪霊を追い出すことだけではなく、神様と正しい愛の関係を持って生きるようにしてくれます。御言葉は私たちを癒し、本来私たちに与えられた使命を担うことができる力を与えてくれます。

イエス様の御言葉はシモンのしゅうとめを癒して使命を回復させ、彼女に生きる意味に与えてくれました。38節をご覧ください。イエス様は立ち上がって会堂を出て、シモンの家にはいられました。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいました。「シモンの家」とありますから、ペテロ婿養子になったのではなく、逆に姑が彼の家に来て住んでいたのが分かります。恐らく、ペテロの家で、多くの漁師の世話をしていたでしょう。今も貧しい国々では家族全員が労働力とならなければなりませんが、一日に二食しか食べられなかったあの時代に病人は家族の心配の種であると共に、仕事や活動の邪魔にもなります。さぞかし彼女は肩身の狭い思いをしながら、床に伏せっていたのではないでしょうか。何よりも、「ひどい熱で苦しんでいた」のですから、医学の発達していない時代にあっては、死に至る病であったでしょう。彼女は今や死の淵に立たされていたのです。人々はその彼女の癒しをイエス様にお願いしました。そこで、イエス様は熱をしかりつけられました。すると、熱がひき、彼女は直ぐに立ち上がりました。そしてそこにいる一同をもてなし始めました。ひどい熱を出せば、相当の体力を消耗させていますから、熱がすぐに下がっても、普通は、なかなか体力は回復されません。しかし、イエス様の言葉は彼女を起き上がらせることだけではなく、人々をもてなす力まで与えられました。

 ここに主イエス様の御言葉の権威と力の素晴らしさを見ることが出来ます。主の御言葉には、単に体の病気を癒すことに留まりませんでした。その病気のゆえに病んでしまった彼女の心をも癒し、回復する力を与えるものだったのです。彼女は、家族みなが忙しく働く毎日の中で、何の仕事も出来ずにいた時、自分が生きていることの意味も失っていたでしょう。イエス様はその彼女にもう一度生きる力と共に、生きる意味を与えられました。御言葉は彼女を死からいのちの世界へと移してくださったのです。「もてなした」ことは彼女の人生が、仕える生活、奉仕する生活へと呼び戻されたことを教えてくれます。さらに、それによって彼女の生きる意味が回復されたことを示唆してくれます。

イエス様の御言葉は、罪のために病んでいた私たちを癒すだけではなく、生きる目的と意味を与えてくださいました。御言葉によって私たちは新しい人生へと起き上がらせられた者となりました。私たちがこの主の恵みを証しし、感謝と喜びのうちに主に仕え、人々に仕える者として生きることができるように祈ります。起き上がって人々をもてなしたシモンのしゅうとめのように人々に仕える生活ができるように祈ります。

40節をご覧ください。「日が暮れると、いろいろな病気で弱っているものをかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れてきた。イエスは、一人一人に手を置いて、いやされた。」とあります。この御言葉はイエス様がどのように人々を助けられたのかを教えてくれます。私たちが知っているとおりに、中東の地域は耐えられないほどの暑さです。大多数の人々は昼寝をしてから働き、太陽が暮れる時に働きます。しかし、イエス様は蒸し暑さの中でも一日中働かれました。汚れた霊を追い出し、ひどい熱で苦しんでいたシモンの姑を癒してくださいました。もう一日の働きのために疲れているはずです。その時に、また人々はいろいろな病気で弱っている人々を抱えて来ました。病気で弱っている人々のことを考えると、かわいそうですが、自分がとても疲れている時、元気のない人に仕えることはやさしくありません。特に、一人一人に繊細に仕えることは難しいことです。しかし、イエス様は一人一人に手を置いて癒されました。イエス様はたとえ、数え切れない群衆に仕えるにしても、一人一人に深い関心を持ち、人格的に助けられたことが分かります。イエス様は病気で弱っている人々を1:1で助けられたのです。イエス様は一人のいのちを全世界よりも大切にして、一人一人に仕える良い牧者でした。良い牧者イエス様の愛によって一人一人は癒されて行きました。すると、彼らの中にある悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行きました。それによって人々は体だけではなく、心も、たましいも癒されて行きました。献身的な牧者の愛の仕えがある所に癒しが悪霊どもが出て行く救いのみわざが起こりました。

 

 ?。どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません(42-44)

42a節を読んで見ましょう。「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」とあります。ここで、イエス様は多くの病人をいやし、多くの悪霊どもを追い出した後で、「寂しい所に出て行かれた」ことが分かります。そのようにした主の目的は、福音書の別の箇所と比較すると明らかです。マルコ1:35節を見ると「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。イエス様天におられる父なる神様と交わりを保ち、祈っていたのです。これは、恵みにおいて成長し、神様のそば近くを歩きたいと願うすべての人々が従ってよい模範です。クリスチャンが、クリスチャンとして歩む為に、どうしてもこの”朝の祈り”が必要ではないかと思います。1日の初めに神様の前に立ち、御言葉を読み、祈り、神様によって整えられて歩む時に、色々な方に対して優しく、また愛を持って接する事が出来ます。そんな時間など不要と思えるイエス・キリストも朝早くから祈りました。ましては、弱々しい私たちが祈りなくして信仰生活を営むことができるでしょうか。私達も、イエス様のように主と交わるこの時間を大切にしていきたいと思います。祈りの習慣を身に着けることは最も望ましいものであることは、聖書からも経験からも明らかです。私たちの生きているのは、慌ただしくせわしない時代です。毎日の取引と絶え間ない仕事によって、多くの人々は二十四時間中、目の回るような思いにさせられております。この忙しい生活のために魂には大きな危険が伴っています。だからこそ、私たちは私たちの主イエス様の祈りの習慣を見習うべきです。忙しいからこそ、父なる神様と交わる「朝の祈り」が必要なのです。その時にこそ、私達はイエス様が歩んだ様な力強い道を歩む事ができるのでないでしょうか。

42b節をご覧ください。「群衆は、イエスを探し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。」とあります。イエス様は本当に人々に喜ばれ、受け入れられておられたことが分かります。人々はイエス様が自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとしました。自分が本当に喜ばれ、歓迎されている場所というのは、居心地が良いですよね。そういう所に対しては離れがたい気持ちがあります。でもイエス様はどうなさいましたか。43節をご一緒に読んで見ましょう。「しかしイエスは、彼らにこう言われた。「他の町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝なければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」」とあります。イエス様はその場所を離れて行こうとしました。イエス様は人々の話に惑わされることなく、ご自分の使命、ご自分の目的のために主体性を発揮されたことが分かります。ここで、私たちはイエス様の生き方を学ぶこともできます。スティーブン・R・コヴィー(Stephen R. Covey)が書いた「成功する人々の七つの習慣」を見ると、第一の習慣が主体性を発揮することです。第二の習慣は目的を持って始めること、第三の習慣は重要事項を優先することです。まさに、イエス様はそのとおりの習慣を持っておられたことが分かります。イエス様は人々がご自分を引き止めようとしても、「どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければならない」という目的のために、主体性を発揮しておられます。また、最も重要事項である神様の使命を優先されました。

私たちもこの世と調子を合わせて生きるのではなく、クリスチャンとして、牧者として、宣教師として主体生を発揮する、最も重要な神様の御心、神様の使命を最優先に生きることができるように祈ります。そこにこそ価値ある生き方、成功する生き方、本当に祝福が注がれる人生があります。そしてイエス様からそのような歩みが出来る秘訣を学ぶことができると思います。夜明けに祈り、はっきりして目的を持って生きるのです。イエス様は「どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければならない」という目的を持ってそれを始めておられます。44節をご覧ください。「そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。」とあります。イエス様は福音を宣べ伝える目的を持つことだけではなく、実際にそれを始め、実践しておられたのです。

 結論的に私たちはイエス様の御言葉の権威と力、イエス様の生き方を学びました。皆さんは、自分の生涯の中に、神様の御力はどの位信じられていると思うでしょうか?どれ位イエス様の生き方を学び、実践していると思うでしょうか?現在の信仰はマンネリ化してはいないでしょうか?もし、そうであるなら、それは御言葉の権威と力を認めていないからではないでしょうか。あるいはこの御言葉を日ごとに味わうという所から遠ざかっているからではないでしょうか。私たち一人一人が御言葉の権威と力をしっかりと認め、本気になって神様に祈り、自分に与えられた神様の使命のために生きることができるように祈ります。何をしても強いられてするのではなく、あるいは人々の引き止めに左右されることなく、神様から自分に与えられた使命のためにはっきりした目的を持って生きるように、最も大切なことを優先的に行なう生活ができるように祈ります。そうすると、私たちの人生は神様に喜ばれ、この世においても成功するようになります。