2003年ルカの福音書第10講     

主の恵みの年を告げ知らせるために遣わされたイエス様

御言葉:ルカの福音書4:14?30

要 節:ルカの福音書4:18,19「わたしの上に主の御霊がおられる。主が,貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を,盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の惠みの年を告げ知らせるために。」

イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、その後に、悪魔の試みを受けられました。しかし、イエス様は御霊の力により、悪魔に打ち勝たれました。いよいよイエス様は宣教のみわざを始められます。今日、学ぶ4章14節から9章50節までには、主にガリラヤ地域での宣教活動が記されてあります。特に、本文の御言葉はイエス様の故郷ナザレでの出来事です。これはイエス様の宣教活動において最初の出来事ではなかったと思われますが、著者ルカはここから出発しています。

ここで、私たちは、イエス様が地上に遣わされた目的と、イエス様に対するナザレの人々の姿を学ぶことができます。

?.貧しい人々に福音を伝えるために来られたイエス様(14-19)

 14節をご覧下さい。「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に,くまなく広まった。」ルカはイエス様が聖霊の力を帯びてガリラヤに帰られたことを強調しています。イエス様はメシヤとして出発される時、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になりました。神様はイエス様がメシヤとして宣教活動を始められる時、聖霊を注いで下さったのです。イエス様が聖霊に導かれて荒野で悪魔の試みを受けられた時は、悪魔と戦う準備のために四十日間も断食をされました。そして御言葉によって悪魔に打ち勝たれた時、イエス様はますます聖霊の力に満たされました。すなわち、イエス様は聖霊の力を帯びて宣教活動を始められたのです。この聖霊の力は神様の力です。

イエス様は知識だけではなく、聖霊の力を帯びて会堂で教えました。その教えには権威と力がありました。すると、イエス様はみなの人にあがめられました。それから、イエス様はご自分の育ったナザレに行きました。そして、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれました。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられました。ちょうどイエス様ご自身に関する預言が記されてありました。18aをご覧下さい。「「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。」とあります。大抵、有名人になって地元に帰るときは、手元にプレゼントを持って行きます。イエス様の評判はガリラヤ地域の回り一帯にくまなく広まるほどに有名になって地元に帰られました。しかし、イエス様は彼らに物質的なプレゼントを持って行かれませんでした。お土産の代わりにイザヤ書からの神様の御言葉を教えられました。故郷の貧しい人々に御言葉を教えられたのです。イエス様は神様の御言葉こそが彼らに最も素晴らしいお土産であると信じていたからです。イエス様は神様の御言葉こそが、人々に最も必要なものであり、いのちのパンであると信じておられました。御言葉こそが彼らに永遠のいのちをくださることを信じました。それで、イエス様は何よりも先に御言葉を教えられました。イエス様は聖霊の力を帯びておられたので、その教えには人々を変化させる力がありました。そして変化された人々によって福音はますます広がりました。ではイエス様の教えによって広がる福音とは何でしょうか。

18-19節をご一緒に読んでみましょう。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が,貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を,盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の惠みの年を告げ知らせるために。」この御言葉はイザヤ61章1-2節の引用です。それにはイスラエルがバビロンの捕虜になっていた時の歴史的な背景があります。捕虜生活をしているイスラエルの民には希望がありませんでした。彼らは毎日労働者として一日中働かなければならない重荷を負っていました。彼らに自由が全くなくて、奴隷として虐げられる生活の連続でした。重労働のために体だけではなく、心も、たましいも傷つけられていました。もうぼろぼろになっていました。しかし、神様はイザヤを通して彼らを解放して自由にしてくださるメシヤが来られるという神様の希望を与えて下さいました。

ついに、イエス様はメシヤとして来られました。神様はイエス様に貧しい人々に福音を伝えるように油注がれたので、彼の上に主の御霊がおられました。ここで「貧しい人々」というのは、経済的に貧しくなっている人々だけではありません。霊的に貧しくなっている謙遜な人々も指しています。マタイ5:3aには「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」とあります。

ナザレの大多数の人々は、貧しい生活をしていましたが、イエス様の教えを素直に受け入れるほど心も謙遜になっていました。宗教指導者たち以外には貧しくなっていたのです。それで、イエス様が福音を伝えた時、会堂にいるみなの目がイエス様に注がれました。イエス様はご自分の故郷の人々が神様の御言葉を謙遜に受け入れている姿をご覧になった時、とても幸せでした。そこにイエス様の幼年時代、少年時代の友達もいましたが、彼らは耳になれている御言葉であっても、また謙遜に受け入れていました。毎週繰り返される御言葉であっても、いつも謙遜に耳を傾けて聞き入れる心の貧しい人々は幸いです。イエス様は彼らに恵みの福音を教えました。「捕らわれた人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために、しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」と宣布されたのです。

では「自由」とは何でしょうか。今日、自由の概念は誤解されていると思います。多くの若者たちは、わがままに振舞うことが自由だと思っています。法的に親から自由になる成人式を喜び、二十歳になることを待っています。彼らはサタンの陰謀にだまされていて間違った自由の概念を持っています。彼らは、たとえ、今の生活が自分の将来を暗くし、不幸と滅亡をもたらすことになっても、今を楽しみ、欲望のままに振舞うことが自由だと思っています。しかし、それは堕落している人たちによって伝えられている文化的な病です。自分勝手に生きることこそが自由なのではないのです。おろかな人々は真の自由と文化的な病を識別しません。それで、多くの人々はこの文化的な病を患っています。彼らは自由を適当に世の快楽を楽しむことが自由な生活だと思っています。そして、神様の栄光のために、真理と義のために、自由を使う人々を愚かな人として見ています。

そういう人たちの中に、ある陸上選手がいました。彼は毎日休みがない練習を通して自分を訓練し、自分の才能を磨いて数多いチャレンジャーたちを勝ち抜きました。ついに、彼はトップクラスの選手になりました。オリッピク選手にも選ばれました。ところが、彼は自由に対して間違った概念を持っていました。彼は不道徳的なことをしてもそれが自由だと思っていました。その結果、彼は薬物中毒者になってしまいました。適当に楽しもうとして罪の快楽のために、彼は自ら傷つけられ、他の人々をも傷つけてしまいました。彼のすべての経歴も恥辱的な不名誉に終わってしまいました。この世に自由に対して間違った考えを持っていたために恥辱を受け、滅んで行った人々が数多くいます。

しかし、私たちは本当の自由は神様から与えられることを知らなければなりません。神様が自由の所有者であることを知らなければなりません。人は神様にあってのみ自由を使うことができます。そして、私たちが主にあって自由を使う時、人々を祝福することもできます。

聖書には神様に仕えるために自由を使った多くの人々のことが記されてあります。モーセはエジプトの宮殿生活をしていたし、王子としての栄光と名誉、権力を持っていました。彼はいくらでも華やかな生活を楽しむことができました。しかし、彼は「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました(ヘブル11:25)」。この選択には大きな犠牲が伴いました。彼は四十年間荒野訓練のために多くの苦難を受けました。さらに四十年間砂漠の中で奴隷根性が根付いている奴隷の民を導く十字架を担いました。しかし、彼はこの選択を通して、神様に大いに用いられました。神様は彼を通してイスラエルを祭司の王国、聖なる国民として立てられました。彼自身人類歴史上最も偉大な指導者になりました。ですから、私たちは自分にある自由をはかない罪を楽しむためではなく、神様を喜ばせるために使う決心をしなければなりません。その時、神様はご自分の目的のために私たちを貴く用いてくださり、私たちを通して多くの国民を祝福されます。

自由はもともと、私たち人間に与えられた神様の贈り物です。神様はご自分の栄光のために人間に自由を与えてくださいました。神様は人間の最高の幸福のために自由をくださいました。パウロはこの自由の概念に対してよく理解していました。彼はガラテヤ5;13節で言いました。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」また、ペテロは「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい(?ペテロ2:16)。」と言いました。ここで、私たちは主にあって自由をどのように使うべきかを学ぶことができます。イエス様は言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31,32)」。私たちがイエス様の弟子となり、イエス様を学ぶ時、イエス様は私たちを自由にしてくださいます。イエス様は私たちを自由にするために来られました。

私たちは私たちの罪のために自由を勝手に使っていました。その結果、罪の奴隷として罪の勢力に縛られていました。私たちはバビロンの捕虜になっていたイスラエル人のように拘束されてしまいました。とても価値ある自由なのに、使い方を誤って恐れの奴隷になってしまいました。しかし、私たちの主イエス・キリストは私たちに罪の奴隷から解放して自由人にしてくださいました。ガラテヤ5:1節は言います。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」 

日本は治安がよくて安全な国であり、和を大切にする平和な国であると言われています。それに科学技術がとても発達している国です。貧しい国の人々は日本をうらやましく思っているでしょう。韓国の田舎で育った私は先進国の日本、しかも日本の都、東京の人々は何と幸せだろうと思いました。しかし、どうでしょう。人々は余裕を持っていません。何かに捕らわれているような顔をしている忙しい生活をしています。平和と自由より、忙しい、きついという言葉が似合うような生活をしています。聖書的に言いますと、悪魔にしいたげられているからです。罪のために、悪魔にしいたげられて何かに覆われているような生活が続けられているのです。イエス様はそんな私たちを罪から救うために来られました。私たちを罪から救うために、イエス様は贖いのいけにえとなり、貴い御血を流されました。それによって私たちのすべての罪を背負い、すべての罪の代価を払ってくださいました。ですから、私たちがイエス様のくびきを負うとき、サタンにしいたげられている生活から自由になります。マタイの福音書11:28-30節は言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」ここで、イエス様のくびきを負うということは愛の帯を身に付けることです。そして悪魔のくびきは罪の重荷です。

もう一度、19節をご覧ください。「主の惠みの年を告げ知らせるために」とあります。この御言葉は私たちに人類歴史に対する希望を与えてくれます。それはキリストの季節が訪れたことを指しているからです。人々は「世界は悪のサイクルが繰り返されている」と思っています。しかし、それは違います。もうキリストの季節です。イエス・キリストは主の恵みの年を告げ知らせるために来られ、恵みの年を宣布されました。では恵みとは何でしょうか。恵みとは何もお返しのできない私たちに神様が一方的な無代価の愛を与えてくださっていることです。
「恵みの年」と言うのは特別な意味を持っていました。それは50年に一度のヨベルの年のことです。その言葉の由来は、ヘブライ語のヨベルにあります。  これは雄羊の角笛のことで、旧約時代、人々はこのヨベルを吹き鳴らして喜びを表していたと言われており、祝いや祭りなどには、ヨベルを吹いて祝っていました。このためにヨベル(角笛)は喜びや祝いを意味する言葉として使われるようになりました。そして五十年ごとに、このヨベルを吹き鳴らし、自由と解放の年、主の恵みの年の訪れを告げ知らせたのです。このため、「ヨベルの年」と言われるようになりました。その時、奴隷は解放され、売られてしまっていた土地は元の所有者の手に戻り、借金は免除されました。そのヨベルの年を定められた神様が本当に願っておられた、自由の時、解放の時が、来られたのだと宣言されたのです。この主の恵みの年は、過去に過ぎ去った年ではありません。また今年あったということではありません。それはずっとあった事だし、これからもあり続けます。では主がどのようにして今年も特に恵みを与えてくださるのでしょうか。謙遜に自分の罪を認め、イエス様を 信じる事により、罪が赦され、束縛から解放されます。私たちがイエス様を受け入れ、信じるその年が恵みの年となります。すると、罪に縛られている人が罪から解放されるようになります。ヨベルの年の喜びと感激が自分のものになります。私達は自分たちの過去の社会的な名誉や業績、栄光に縛られている場合があります。 現在も何かしらの原因によって、まるで囚人のように縛られている場合があります。 そこから解き放たれなければなりません。悪い習慣、親とのしがらみ、失敗や挫折感 から解放されましょう。イエス様のみが私たちを解放して自由にして下さるお方です。

 ?.郷里で歓迎されなかったイエス様(20-30)

恵みの福音が告げられると人々の目がいっせいにイエス様に向けられました。そこでイエス様は、この聖書のことばがご自分において実現したことを宣言されました。21節をご覧ください。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」とあります。つまりイエス様は、ご自分が約束の救い主であることを宣言されたのです。人々はイエス様をほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚きました。ところが、神様の働きがあるところにサタンのしわざもありました。「この人は、ヨセフの子ではないか。」という人々もいたのです。「よいことを教えてはくれるが、イエスはやはりひとりの人間にすぎない。」これは、イエス様を本当に理解していない人々が昔も今も同じように言っていることばです。彼らはただ目に見えるもの、現実的なことにしか関心がありません。そこでイエス様は言われました。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」イエス様の御言葉から察するに、カペナウムの町でイエス様は病人を癒し、奇跡を行なわれました。ナザレの人々はそれと同じ奇跡が見たいと願っていたのです。では、彼らはイエス様が奇跡を行なうのを見たら、本当にイエス様が神の子、救い主であることを信じるでしょうか。いいえ。イエス様のことばを聞いて信じようとしない者は、その奇跡を見ても信じないものです(16:31)。こうした彼らの心の中の思いに対して、イエス様は自分の郷里で歓迎されなかった預言者、エリヤとエリシャの実例をあげられました。

24?27節をご覧ください。この二人は共に、神様の預言者として当時の北イスラエルn遣わされましたが、歓迎されませんでした。イスラエルの人々は彼らのことばに耳を傾けず、彼らを尊ぼうともしませんでした。この地方に三年六ヶ月の間天が閉じて全国に大飢饉が起こった時、自国イスラエルには多くのやもめがいて困窮していました。しかしエリヤは彼らに歓迎されず、異邦人であるシドンのサレプタに住むやもめ女のところに遣わされ、その親子を養うことになりました。またエリシャもイスラエルには多くのらい病人がいましたが、アラム(シリヤ)の将軍ナアマンだけがそのらい病を癒されました。このナアマンも異邦人でした。こうして神様の救いはイスラエル人の上を通り過ぎてしまったのです。イエス様がこのふたりの実例をあげられたのは、故郷の人々が悔い改めることを期待されたからでした。しかし、彼らは悔い改めませんでした。むしろ、会堂にいた人たちはみな,ひどく怒り、立ち上がってイエス様を町の外に追い出しました。そして、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとしました。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれました。

  結論的に、イエス様はしいたげられている人々を自由にし、主の惠みの年を告げ知らせるために来られました。私たちはここで、神様にあって正しい自由の概念を学びました。私たちを自由にするために十字架の上で尊い御血を流してくださったイエス様の恵みを感謝します。そして、神様が私たちに与えてくださった自由を神様の栄光のために、日本が祭司の王国、聖なる国民となるみわざのために使うことができるように祈ります。そうするとき、神様を私たちと私たちの子孫を大きく祝福してくださることを信じます。