2003年ルカの福音書第1講
ザカリヤの願いを聞かれた神様
御言葉:ルカの福音書1:1-25
要 節:ルカの福音書1:13御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」

 神様が命の生き返る、復活の季節、この四月にルカの福音書の学びをスタートするようにして下さり感謝します。この福音書の著者であるルカは、この書物を書く相手が、テオピロ殿であることを明らかにしています。デオピロは、神を愛する者、神に愛される者という意味を持つギリシャ人の名前です。ユダヤ人ではありませんでした。ルカもまた、異邦人です。そのためか、ルカの福音書は、ユダヤ人ではない私たちもよく分かるように書かれてあります。ルカは綿密に調べて順序を立ててこの福音書を書きました。そして彼がこの書物を書いた目的は既に確信されている出来事をよくわかっていただくためでした。「すでに確信されている出来事」とは、イエス・キリストの生涯、とくにイエス様が死者の中からよみがえられた出来事です。私たちがルカの福音書の学びを通してイエス様について、イエス様の十字架と復活についてよく分かるように祈ります。
 今日の御言葉は、ルカの福音書の序文と祭司ザカリヤの願いを聞かれた神様について教えてくれます。神様はザカリヤの願いを聞かれ、彼を旧約の最後の預言者であり、イエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネを産む器として用いてくださいました。この時間、御言葉を通して神様が私たちの願いも聞かれ、バプテスマのヨハネのようなキリストの弟子を産む御業に用いてくださるというビジョンと信仰を持つことができるように祈ります。

第一、ルカの福音書を書いた目的と内容(1-4)
1-4節を読んでみましょう。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」序文は「私たちの間ですでに確信されている出来事」という言葉で始まり、「よく分かっていただきたいと存じます。」という言葉で結ばれています。すでに確信されているなら説明の必要はないではないかと思われます。また、すでに確信していることを知っていながら、同じことを伝えることも難しいことです。私は時々、何もかも知っているような顔をしている人たちに話をすることは本当に難しいなあと思います。ところが、ルカはあえて私たちの間ですでに確信されている出来事を書いて差し上げようとしています。その目的はそれによってすでに教えを受けられたことがらが正確な事実であることをよくわかっていただくためでした。このことを考えてみると、私たちは知っていることでも、確信していることであってもよくわからなければならないことを学びます。
私たちはたまに、同じ御言葉を繰り返して学ぶことについて退屈に思うかもしれません。福音書なら何回も何回も勉強したと思っている方がいるかも知れません。しかし、聞いたからといって、勉強したからといって本当に分かっているでしょうか。わかっているようですが、本当は分かっていない事が多くないでしょうか?”知識”としてはあるけれども、本当の意味で分かっていないという事がたくさんある訳です。私達は聖書の御言葉の意味が分かったとしても、本当に神様が言わんとするところ、何を語っているのかという事、そこが十分に掴めていない事が多いのではないでしょうか。ルカはすでに確信されている事でもよくわかっていただきたくてこの福音書を書きました。私たちもすでに知っている事がらであっても、御言葉をよくわかるように学ばせて頂きたいと思います。私たちの1:1聖書勉強も御言葉の意味を解釈することだけにとどまらず、神様が本当に言わんとするところを掴めることができるように祈ります。特に今年ルカの福音書の勉強が知識を増やすものではなく、よく分かって行動にも、生活にも、自分の人生とこの教会にも変化をもたらす学びとなるように祈ります。

第二.ザカリヤとエリサベツの信仰生活(5?7)
5?7節をご覧下さい。「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」とあります。ヘロデはB.C.40年からB.C.4年までユダヤの王でしたがイスラエルにおいて最も悲劇的な時代でした。ヘロデはローマ帝国のロボットのような存在で、サタンの道具でした。彼は権力維持のために自分の子どもさえ絞殺してしまうほどの人間でした。ヘロデはユダヤの王がお生まれになったことを聞いた時は、彼が霊的な王であることを知らずに、非常に恐れて幼子イエス様を殺すように命じました。ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたのです。このようにヘロデの時は、イスラエルの歴史において最も悲劇的な時代であったのです。神様の灯火はもう消えているように見えました。しかし、そうではありませんでした。まだ信仰深い人たちが残っていてメシヤが来られる日を待っていました。その中にはゼカリヤとエリサベツもいました。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていました。主のすべての戒めと定めとは神様の御言葉です。彼らは御言葉をよく勉強し、御言葉を守り行なう生活をしていたのです。人間的に言うなら、彼らはとても運命的な人たちです。なぜなら、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていたからです。今では、子どもがいなくてもたいした問題にならないようですが、当時のユダヤ人社会では大変なことでした。ザカリヤ夫婦でさえ恥ずかしく思うほど大きな問題でした。また、「年をとっていた」の直訳は、「腰が曲がっていた」になります。もう腰は曲がり、髪の毛は白髪になっている状態でした。
多くの人は、神様にすべてをささげれば、問題はなくなるだろうと思います。「これだけ良いことを行なっているのだから、問題はなくなるだろう。悪いことが起こっているのは、その人が何か間違いを犯しているからだ。」と考えます。そういうノンクリスチャンに囲まれている私たちは現実的に手に入れるもの、現実的に彼らに誇れるものがなければ、弱くなりがちです。周りの状況も、自分の状況も暗くなると、信仰を守り続くことは難しくなります。絶望的、運命的になりがちです。しかし、ザカリヤとエリサベツは運命主義者になりませんでした。信仰を守り続けました。毎週、聖書勉強を通して運命的な考えを取り除き、主の教えを守り行なう生活に励んでいたのです。暗くて利己的な時代であっても、彼らは隣人を愛し、彼らをもてなす生活をしていました。一般の人々から見ると、彼らの生活は楽しみもなく、喜びもない生活をしていました。しかし、彼らは心の真ん中に神様を迎え入れ、神様と共に歩んでいたので、いつも喜び、すべてのことに感謝する生活ができました。町の人々も彼らの敬虔な生活、愛の生活を通して恵みを受けていました。心の中で彼らの純潔な生活、聖なる生活をあこがれていました。でも、当時、ローマ帝国の軍隊の力と比べてみると、二人の老人の信仰生活は何の意味もなさそうに見えます。しかし、神様の前では、この二人の信仰生活こそがローマの軍事力にまさる力であり、大切なものでした。彼らの生活は神様の灯火であり、神様の健全な教会の姿でした。結局、この二人を通して人類の歴史をB.C.とA.D.に分けるイエス・キリストの道を整えるバプテスマのヨハネが誕生するようになりました。

 第三.ザカリヤの願いを聞かれた神様(8-13)
8、9節をご覧下さい。「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。」とあります。彼が当番で祭司の務めをしていたとありますが、当時は、2万人の祭司がいました。それで、組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになって、1年毎に2週間の周期でその機会がおとずれました。そして、神殿の奉仕でだれがどれを担当するか、くじで決めていました。ザカリヤはくじが当たり、香をたくことになりました。これは、名誉ある奉仕です。というのは、それは、民に代わって、神様に祈りをささげることを象徴していたからです。彼が香をたいた後、人々の前に言って、祝福の宣言をします。祈りによって、神様の祝福をますます、はっきりと知るようになるからです。それで、多くの民は、ザカリヤから祝福の宣言を聞くために、祈って待っていました。そんなに時間が掛かる訳ではありませんでした。ところが、この時には、なかなか聖所から出て来ませんでした。「一体どうしたんだ?」と思ったら、出て来ました。ところが彼の口から言葉が出ない為に祝福の祈りが出来なかったのです。ザカリヤは御使いを通してとてつもない事を聞かされた訳です。では神殿の中でザカリヤにどういうことが起こりましたか。
 13節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」」
ザカリヤは祭司として国民と国のために祈る務めが与えられていました。ところが、彼は民のために祈らないで、自分のために祈っていたようです。なぜなら彼の祈りの答えとして子どもが生まれるようになったからです。彼は「主よ!私に子どもを下さい。私に子どもを下さい。」と叫んだでしょう。彼は自分のために祈るつもりではなかったと思いますが、習慣的に子どもを求める祈りが繰り返されていました。ここに根本的に利己的な人間の姿が現われています。ザカリヤの祭司として自己中的な祈りをすることは、決して望ましいものではありませんでした。しかし、私たちは彼の祈りを否認することはできません。むしろ、私たちへの慰めではないかと思います。彼らはきっと若い時から「子どもを下さい」、「子どもが欲しい」と祈り願っていたことでしょう。ザカリヤ夫婦は結婚して祈り始めましたが、十ヶ月が経っても子どもが生まれませんでした。3年も5年も祈り続けてもエリサベツのお腹を見ても子どもを身ごもっている前兆は見えませんでした。それでも彼はあきらめずに一生涯祈りました。祈りは信仰の現われです。彼は不信仰な世の中で生きていても、祈り続ける祈りの人でした。彼は一生涯一つの祈りの課題を持っていたことも興味深いことです。人間は本質的によく忘れます。もし、人が何も忘れないなら、過去の不幸な記憶、いやな記憶のためにストレスがたまって死んでしまうでしょう。幸いに神様は人間をよく忘れる者として創られました。ですから、私たちはよく忘れる健忘症について心配しなくてもいいです。しかし、ザカリヤは一生涯自分に子どもを与えてくださいという一つの祈りの課題は決して忘れませんでした。神様はこの祈りの人をバプテスマのヨハネの父として用いられました。箴言15:29節に「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」とあります。神様は祈りを聞かれるお方なのです。そして、神様は祈る人を用いられます。世的な目で見ると、神殿でザカリヤが香をたくこと、神殿の外で祈る民たちの行動は意味も無く、力も無さそうに見えます。しかし、神様の観点から見ると、このように祈る人々こそ神様の歴史において主役です。神様は彼らの祈りを聞かれ、彼らを通して世界を治められます。私は昨日、Little Sarah Kim宣教師の報告を通して大きな恵みを受け、悔い改めるようになりました。ひとりの羊のために12年も15年も祈り続け、1:1聖書勉強を続ける姿勢に感動しました。神様はこのように一つの祈りの課題を忘れずに祈り続ける人々を通して働いておられます。私たちも一人の霊的な子どものために祈り続けることができるように祈ります。

 第四に、ザカリヤの子の働き(14-17)
14-17節を読んで見ましょう。「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」」
ザカリヤの子・ヨハネは、単なる神の預言者ではありませんでした。預言者は主が来られることを預言しましたが、彼は、最後の預言者となります。というのは、主ご自身が実際に来られるからです。彼は、その直前に、人々の心を整える先駆者になるのです。エリヤの霊と力とありますが、これは旧約聖書の最後に出てくるマラキ書の預言です。主が来られる前に、エリヤが来ます。けれども、ヨハネ自身は、他の箇所で、自分がエリヤであることを否定しています。エリヤ自身は、キリストは再び来られる前に来ざます。ヨハネは、キリストが最初に来られたときに、エリヤに似た働きをするので、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをする」と呼ばれているのです。

第五にザカリヤの不信仰を訓練された神様(18-25)
18節をご覧下さい。「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」」とあります。ザカリヤは祈りの人でした。彼は神様が歴史の中で主権的に働いておられることを信じていました。しかし、彼は祈りが聞かれた時、あまりにもうれしかったのか、それを信じませんでした。瞬間的に全能の神様を忘れ、人間的な考えに陥ってしまいました。不可能を見て、難しい問題を考えたのです。そして「だめだ、だめだ、だめだ」と思いました。結果として彼はこの素晴らしい祝福の時が苦しみの時になってしまいた。その日以来、10ヶ月程、彼は話す事ができなかったのです。素晴らしい喜びのはずが、悲しみが伴なってしまいました。不信仰の言葉が神様の御業を妨げるという事を体を通して知るようになったと思います。彼は不信仰の過ちを教えられ、祝福にあずかる事が出来た訳であります。その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもっていました。この五ヶ月間の隠遁生活を通して神様は全能の方であるという結論に至り、こう言いました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

結論的にザカリヤとエリサベツは神様の御前に正しく、主の御言葉を踏み行なっていました。暗くて絶望的な時代でも熱心に御言葉を学び、全身全力を尽くして神様を愛し、隣人を愛しました。そして、祈り続ける生活に励みました。そうした時、神様は彼らの祈りを聞いてくださり、バプテスマのヨハネを産む両親として尊く用いてくださいました。神様が私達もそのように生きるように、また祈るように助けてくださるように祈ります。