2002年エペソ人への手紙第4講

神様の恵みによる務め

御言葉:エペソ人への手紙3:1?21               
鍵 句:エペソ人への手紙3:6「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦
人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者と
なるということです。」

 先週、私たちはキリストこそ私たちの平和であることを学びました。イエス様はご自分の死によって人と人との隔て、人と神様との隔てを打ち壊し、敵意を廃棄することによって平和を実現させてくださいました。また、キリストに近い者とされ、神様の民とさせられ、神様の家族の中に入れられました。私たちにこのような素晴らしいな霊的祝福をお与えになった神様を心から賛美します。
この時間、私たちが学ぶ御言葉はキリストの奥義に関する御言葉です。パウロは、このような霊的祝福は、実は、これまでだれの手によっても明らかにされていなかった奥義、あるいは秘められた計画であることを告げます。神様が永遠の昔から計画されていたことで、それが今になって明らかにされたものであることを教えています。また、その栄光の豊かさに従って豊かに施してくださる神様の恵みを体験し、享受するように祈っています。私たちがイエス・キリストの奥義を悟ってその栄光の豊かな恵みをいただくことができるように祈ります。

?. キリストの奥義(1‐13)

 1節をご覧ください。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」とあります。
 パウロは、今、ローマにおいて監獄に入れられた囚人になっています。一般的に人々は自分が囚人であることを隠そうとします。しかし、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの囚人となった」と誇らしげに言っています。単なる囚人ではなく、イエス・キリストの福音のゆえに投獄された「キリスト・イエスの囚人」であったからです。何よりもパウロが囚人になったのは「異邦人のため」でした。
  パウロは、ダマスコに行く途上で主イエスに出会いましたが、イエス様は彼に「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。(使徒22:21)」と言われました。それで、パウロは異邦人であるエペソの人々のためにも謙遜の限りを尽くし、涙を持って仕えました。またユダヤ人の陰謀により自分の身にふりかかる数々の試練の中で主に仕えました。特にエペソにいた三年の間、夜も昼も、涙とともに彼らひとりひとりを訓戒しつづけました(使徒20:19、31)。このように異邦人伝道に励んだことが原因になってパウロは囚人になりました。ところが、パウロは、今自分が囚人になっていることも異邦人のためであると告白しています。さらにこのような務めも神様の恵みによるものだと言っています。
2節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。」パウロはここで、異邦人伝道のことを、「神の恵みによる私の務め」と言っています。この「務め」という言葉ですが、oikonomia(オイコノミア)というギリシヤ語が使われています。この言葉には「イコノミ」(経済、経営)という意味が含まれているそうです。お金があるから、一気に全部使ってしまうなら「イコノミ」「経済」という言葉は要りません。同じお金でも計画的に使い、その限度の中で最大限の効果を上げることが経済です。神様は人間の救いを長い間、一番効果的に発展させて来られました。ところが、神様は全人類を救うご計画の中で最大限の効果を上げるためにパウロに異邦人伝道の務めを与えてくださいました。それはただ神様の恵みによるものでした。異邦人がただ恵みに支配され、恵みによって生き、恵みに基づく考え方をし、恵みに満ちあふれるようにする。これが神様の恵みによるパウロの務めだったのです。
神様は救いのご計画の中で私たちにもこの素晴らしい異邦人伝道の務めを与えてくださいました。日本と世界の救いのみわざにおいて経済性がある者として認めてくださいました。それは私たちの意思や実力によるものではなく、ただ神様の恵みによる務めです。私たちにただ一方的な恵みによって素晴らしい務めをお与えになった神様に感謝します。
 ユダヤ人は、異邦人に福音を宣べ伝えるパウロを迫害しましたが、それは根本的には恵みが原因でした。彼らには恵みに対する正しい概念がなかったのです。神様はイスラエルを選ばれました。それは一方的な神様の愛とあわれみによるものです。しかし、ユダヤ人は、そのように受けとめませんでした。ユダヤ人がユダヤ人として生きていくため、自分たちで行なうことができる一定の枠組みを設けました。それから、自分たちの掟から外れているものは排除して、受け入れないという立場を取りました。ですから、その枠組みをこわすような要素に対しては、とてつもない拒否反応を示します。彼らに染み付いた考え方からは、異邦人に、イスラエルのメシヤを宣べ伝えるとは、どんでもないことだったのです。クリスチャンになったユダヤ人でさえそのように思っていたのです。
 しかし、ユダヤ人だけではなく私たち人間はみな、恵みに対して拒否反応を示すのではないでしょうか。自分たちが築き上げた既得権を維持したく思うし、ただ、上げたり、ただでもらうことに対しては慣れてないのです。私たちはみな、自分たちが理解できて、自分たちの能力で実行できる世界の中で生きたいです。ですから、それからはずれたところにまで御手を伸ばす神様の気前良さに対して、腹を立ててしまいます。「あまりにも調子が良すぎる。」と思うのです。しかし神様は恵みに満ちた方です。神様は恵みによってパウロに啓示し、恵みによって彼の務めを与えられました。
 3節をご覧ください。「先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。」とあります。
 パウロはこの恵みについて、啓示によって知らされました。この手紙の1章9,10節にも「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」とあります。神様の恵みは、人が考えつくような類いの真理ではありません。ですから、御霊による啓示が必要なのです。私たちが悟ることではなく、神様が知らせてくださるものであります。ですから、私たちには「啓示」が必要不可欠なのです。もちろん、パウロのような啓示ではありませんが、聖書を理解するためには聖霊の助けが必要です。自分の生活における主のみこころを知るのも、聖霊の導きがあって初めて可能になります。だから、パウロがエペソ書1章で祈ったように、知恵と知識の御霊が私たちに与えられるように、祈らなければいけません。それではパウロが知恵と知識の御霊によって悟ったキリストの奥義とは何ですか。
 5節をご覧ください。「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」
 この「奥義」という言葉は、新共同訳には、「秘められた計画」と訳されています。前の時代には人々に知らされていなかったけれども、今明らかにされたことであります。「キリストの聖なる使徒たちと預言者たち」とありますから、新約の使徒たちに初めて啓示されたことであり、旧約時代の預言者たちには知らされず隠されていたことでありました。まさに、秘められた計画であります。
 神様が私たちに秘められた計画を持っておられるとは、どういうことなのでしょうか。ちょっとたとえで話してみましょう。この間、私たちは親睦会の時、ある別荘に行って来ましたがある有能な大工さんの話です。彼は棟梁がであるとします。自分の愛する人と結婚することになりました。その人は、この女性を愛し、その愛をどのように示せばよいかと夜も昼も考えています。そうだ、彼女のために別荘を建築してあげよう。だまって内緒でそれを建てるのだ。彼女が好きなデザイン、色彩、好みなどを考えながら建てよう。そして、彼は、妻に隠して建築をはじめます。二年の歳月が経ちました。結婚記念日のときに、「ちょっとプレゼントがあるんだ。」と言って、彼女を別荘まで連れていきます。まさにあなたのあらゆる技能をもって出来上がった最良の別荘です。
 このようなものがmusthrion(ムステリオン)、秘められた計画であります。神様は、永遠の昔から、私たちを愛して私たちのために計画を立てておられました。神様のあらゆる知恵と思慮深さをもって、ご自分の恵みを明らかにする方法を考えられました。そしてそれを、ずっとお隠しになっていたのです。旧約時代の聖徒たちにさえ隠しておられました。この間、私たちはダニエル書を勉強しましたが、ダニエルが御使いから受けた幻について、理解できずに悩んでいたときに、御使いは、「あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。(12:4)」と命じました。あの神の人ダニエルでさえ知らなかったこと、また他の偉大な預言者も知りたいと思いながら知らされていなかったこと、それを私たちは今、知らされているのです。ではキリストの奥義の内容は何ですか。6節をご一緒に読んでみましょう。
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」
 異邦人がユダヤ人とともに、神様の相続人となること。一つのからだ、あるいは神様の家族の中に入ること。そして、ユダヤ人とともに約束にあずかることです。
 使徒たちは、この神の計画を知るのに時間が必要でした。使徒の働きはまさに、いかに神様の奥義が現わされて来たのかを記した神様の啓示の記録であるとも言えます。聖霊が弟子たちの上に下りました。そのときから教会は始まりましたが、メンバーはみなユダヤ人でした。ところが、ステパノの殉教からキリスト教会への迫害が始まり、彼らは散り散りにされました。しかし、彼らはしだいに、ユダヤ人ではない人々に福音を宣べ伝えはじめました。まず異邦人とユダヤ人との混血であるサマリヤ人に福音が宣べ伝えられています。そして、ステパノの迫害に加担したサウルが、主イエスに出会い、回心を経験します。彼はユダヤ人だけではなく、異邦人に福音を宣べ伝える器として選ばれました。
 そして、あの有名な、コリネリオとペテロとの出会いがあります。ペテロは数人のユダヤ人の証人を連れて、異邦人コルネリオの家に入りました。これは勇気ある第一歩です。ユダヤ人は決して、異邦人の家に入らなかったのです。そして、ペテロは、主のみことばをコリネリオの一家に伝えました。そうしたら、なんと、彼らに聖霊が臨まれたのです。聖霊はユダヤ人にのみ注がれるものと思っていたのに、今、異邦人に注がれるのを見ました。ペテロは「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」を目撃したのです。これは、旧約時代においても決してなかった、画期的なことなのです。パウロはコロサイ書で、奥義とは、「あなたがたの中におられるキリスト(1:27)」と言っています。キリストがすぐそばにおられる、というものではありません。私たちのうちにおられるようになったのです。私たちは、キリストに結ばれた者であり、キリストが私たちのうちにおられ、私たちもまたキリストのうちにいます。このようなきっても切り離すことのできない関係、花婿と花嫁の関係、これが教会であります。
 私たちは、自分がキリストから離れていると感じることが多くあるのではないでしょうか?そして、キリストに近づくように頑張っていることはないでしょうか。自分で一定の決まり事を設けて、それに到達するように努め、できれば満足しているが、そうでなけえば落ち込んでいるということはないでしょうか。けれども、それは、キリストの恵みではないのです。私たちはもはや、キリストから離れているものではないのです。キリストの血によって、私たちと神との間にある隔ての壁は、すべて取り除かれているのです。私たちは、キリストに近づくどころか、キリストのうちにすっぽり入れられているのです。私たちは、イエス様を信じるユダヤ人と共同の相続人であり、一つのからだであり、ともに約束を受け継ぐものとされました。
 7、8節をご覧ください。「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。」 パウロは、自分が福音に仕える者になったのも、神様の恵みの賜物によると言っています。そして、自分のことを「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に」と言っています。自分が神様の教会を迫害していたことを彼は、この手紙を書いている今でも良く知っています。だから、自分が罪人のかしらであるとも他の個所で話しています。しかし、この偉大な務めをも果たしているのです。これをパウロは、「恵み」と呼んでいます。自分は至らない人間である。けれども同時に、神様から重要な任務が与えられている、ということです。
 私たちは至らない人間だから、主の奉仕にあずかることはできないのでしょうか。いいえ絶対に違います。自分がこれではだめだ。もう自分ではやっていけない、そう思っているときに、「私ではなく、主よ、主が成し遂げてくださることを信じます。」と言うことができるのです。私たちクリスチャンは、「だめだ。だめだ」と謙虚な言い方をして、本当に重要なことを行なっていない時が多くあるのではないでしょうか。しかし、それは、「信じていない」ことです。神様の恵みの約束を信じていない、神様の能力を信じていない、このことが問題であります。しかし、今は、パウロと同じように私たちは恵みを伝える任務に遣わされています。ですから、パウロは、神の恵みの賜物によって、神の力によってこのことを行なっている、と話しているのです。
 そして、この任務とは、キリストの測りがたい富を異邦人に伝えることと、あります。口語訳は「無尽蔵の富」とあります。そして、先ほど説明しましたように、神様の秘められた計画、奥義は、永遠の昔から、天地万物が造られる前から、神様の御旨の中で秘められていた事柄であります。
 11、12節をご覧ください。「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」。
 少しも恥じ入ることなく、大胆に私たちは神様の御前に近づくことができます。ヘブル書には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)」とも書いてあります。私たちが祈るときに、確信のない祈りがあります。「こうなったらよいかなあ、でも、自分の祈りなどかなえられないかもしれないし。」と希望的観測の域を出ない祈りをすることが多くあります。しかし、私たちに与えられている祈りは、みこころにそったものであれば、何でも、文字通り何でも聞いてもらえる、という類いのものなのです。家族の救いのために祈っているなら、救われることを確信しながら祈ることができます。このことを知ってほしいために、パウロは3章の初めから、異邦人に与えられた神様の奥義について語っているのです。
 13節をご覧ください。「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」
 今、パウロは牢獄の中にいます。そのためにエペソの人々は、落胆していたのでしょう。しかし、パウロは、もし異邦人に対する神様の恵みがこれほどすばらしいものでなかったら、私は苦しみにあっていなかったのです、と言っています。あまりにも無尽蔵で、あまりにも栄光に富み、あまりにも恵みに富んでいるので、そのためユダヤ人たちがねたみ、パウロを告発したのです。だから、パウロが苦しみにあっているというのは、異邦人に対する神様の御旨の大きさを表している証拠なのです。だから落胆しないでください、と励ましています。
 神の御霊は、今生きている私たちに対して、同じように励ましておられます。私たちが受けている苦しみの中には、そのまま光栄であることがあるのです。神様のご計画の中において偉大なことが起こり、それによって苦しむことがあります。私たちには無意味であるような感じるようなことがあっても、神の前では貴重なことであることがたくさんあるのです。

?。神の満ち満ちたさままで満たされるように(14?21)
 パウロはひざをかがめて祈っています。彼が切実に祈っていることは何でしょうか。第一にエペソの聖徒たちが強くなるように祈っています。16節をご覧ください。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」あります。当時、エペソ教会にはさまざまな問題がありました。それらの問題は彼らのうちなる人が強くなるときに解決されます。強くなることは聖霊の力によってできます。第二に、キリストが聖徒たちの心のうちに住んでくださることと、聖徒たちが愛に根ざし、愛に基礎を置いているように祈りました。17、18節をご覧ください。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、」とあります。パウロはまずエペソの聖徒たちの心のうちにイエス様が住んでくださるように祈っています。また、キリストの愛の中で根ざし、何をしてもキリストの愛の土台の上に立った生活をするように祈っています。第三に、神様の満ち満ちたさまにまで満たされるように祈っています。19節をご覧ください。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」パウロはどうしてもエペソの聖徒たちが神様の充満によって満たされることのために祈っています。外面的にはどんなに大きな迫害を受けても、それによって私たち聖徒が足りなくなったり、貧しくなるのではありません。神様のくださる愛と恵みは無尽蔵のものです。ですから、私たちは神様の愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、体験するために最善を尽くすべきです。ではパウロがエペソ聖徒たちのために祝福の祈りは何ですか。
結論的に20,21節をご一緒に呼んで見ましょう。「 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。