2002年エペソ人への手紙第3講

キリストこそ私たちの平和である

御言葉:エペソ人への手紙2:11-22                 
鍵 句:エペソ人への手紙2:14,15「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、」

 先週、私たちは2:1-10節の御言葉を通して私たちが救われた恵みについて学びました。私たちが救われるようになったのは全く神様の恵みによるものでした。私たちが「その大きな愛のゆえに」この御言葉を日々体験し、感激する聖徒として生きることができるように祈ります。
 今日の御言葉は、キリストによる平和のみわざと救われた聖徒たちによって組み合わされたひとつの体としての教会について教えてくれます。私たちがこの御言葉を通して神様が喜ばれる教会、宇宙的な教会を学び、器官意識をはっきりすることができるように祈ります。レンガが結び合わされて建築されて行くことと同じく、私たちもひとつの体の器官としてキリストのからだである教会を創り上げて神様を賛美し、仕えることができるように祈ります。

?.キリストの和解(2:11‐18)
11aをご覧ください。使徒パウロは「ですから、思い出してください。」という御言葉を持って始めています。この御言葉はエペソの聖徒たちがキリストにあってキリストの血によって救ってくださった神様の愛と恵みを思い出しなさいということです。
11、12節をもう一度ご覧ください。エペソの聖徒たち、そして私たちは本来どんな者でしたか。「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」とあります。「以前」、すなわち、イエス様を信じる前のエペソの人々は肉において異邦人でした。彼らは以前「約束の契約」に関しては全くのよそ者であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。約束の契約がないから、この世で真の望みを持てず、ただ飲み食いをし、娶ったり、嫁いだりすることしか考えていない人々でした。望みがないから霊的な飢饉に苦しみました。生ける望みがないから偶像崇拝をしながら堕落してしまいました。このように「自分の罪過と罪との中に死んでいた者を、あわれみ深い神様はキリスト・イエスにあって生かしてくださいました。
ですから肉における異邦人クリスチャンは常に自分の現在と過去とを比較することによって、神様の恵みを思い出さなければなりません。そしてその恵みの偉大さのゆえに、へりくだって神様と人とに仕えることを学ぶべきです。
ではユダヤ人は異邦人でもなく、無割礼者でもないから受けるべき神様の恵みを受けているでしょうか。いいえ。イスラエルと呼ばれるユダヤ人は、口では神様を敬い、律法に従っていると言いながら、心は神様から遠く離れてしまっていました。パウロはこの事実をだれよりもよく知っていました。そのため彼は、同胞であるユダヤ人が救われることを何よりも強く祈り求めていました。
 パウロは自分自身に関しても「私はその罪人のかしら」(?テモテ1:15)である自覚が常にありました。また、彼は「使徒の中では最も小さい者」(?コリント15:9)というへりくだりを持って主に仕えていました。なぜなら彼は聖書の無理解から「神の教会を迫害した」者だからです(?コリント15:9)。ユダヤ人たちは、自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちには神の約束があるといいながら、実際には「約束の契約」を守らなかったのです。むしろ神様のみこころに背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた立場を誇りました。他の民族を「異邦人」と呼んで、心の底では、神のない民として彼らをさげすんでいたのです。ですから、異邦人も、ユダヤ人も神様から離れており、そのままでは望みのない人たちだったのです。しかし今は、どのようにして彼らは「近い者とされた」のでしょうか。
13節をご覧ください。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」とあります。しかし、今や神様のご計画に基づいて、キリスト・イエスの血により、遠い者(異邦人)も近い者(ユダヤ人)も、共に神様との和解にあずからせていただいたのです。
ではキリスト・イエスはユダヤ人と異邦人との間に何をされましたか。
14、15a節をご覧ください。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」とあります。それは、キリストがご自身の死によって「隔ての壁」を打ち壊し、「敵意」を排除してくださったからです。こうして「二つのものを一つに」するご計画は実現しました。その結果、今はユダヤ人と異邦人が別々に存在する理由がなくなりました。イエス様を信じる者は誰でも信仰の先祖アブラハムの子孫となり、アブラハムが受けた祝福を全部そのまま受け取ることができるようになりました。ですから、今ではキリストにおいて、ユダヤ人もなければ異邦人もありません。ただあるのは「新しいひとりの人」であり、これは御霊による聖徒、神の民であり、兄弟です。
過去ユダヤ人も異邦人も罪深いものであり、偏見と高ぶりに満ちていました。ユダヤ人と異邦人の間にはとても一緒になれない大きなギャップがあったのです。律法はユダヤ人と異邦人の間に壁を設けました。しかし、ユダヤ人と異邦人の間の壁よりも大いなるものは、神様と人との間にある壁でした。キリストは人間と神様との間の障壁をすべて打ち壊すために、この地に来られました。そして多くの苦しみを受け、ついに、十字架にかかって死なれたことによって私たちの罪ののろいを担われました。それによって私たちはキリストを通して神様に近づくことができるようになりました。
さらに、キリストは異邦人とユダヤ人を一つの新しいからだとされました。キリストはご自身の上に律法ののろいをすべて受けることにより、律法によって引き起こされた敵意を死に渡されました。キリストの死を通して、ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁が壊されたのです。ユダヤ人と異邦人との間に平和が確立されました。
ユダヤ人と異邦人の隔ての壁が壊されたという事実には、二次的に人間の諸集団の間にある他のあらゆる敵意の撲滅が含まれています。キリストは人間と神様との間に平和をもたらされ、それによって憎しみの傷を癒されました。中国人も、韓国人も、北朝鮮人も日本人のキリストに兄弟たちと共にまことの神様を礼拝することができるようになりました。
ですからキリストにあってこそ世界に平和をもたらすことのできます。人間の間の平和は、人類がキリストにある信仰によって神様と和解されてはじめて人類のものとなります。私たちが宣べ伝える福音が人間のあらゆる問題に対する答えであり、人間の間にある敵意を取り除き、平和をもたされる唯一の道なのです。
キリストの十字架の死によって「敵意」は葬り去れ、神様と人間が和解されました。それによって人と人との間の平和も確立できるようになりました。イエス様の十字架の福音は、小さくは一人の個人、ひとつの家庭の救いとなりますが、究極的には神様にあってすべての聖徒の間に平和をもたらし、ひとつのからだとするみわざです。
17、18節をご覧ください。「それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」とあります。人間は罪人として真の平和を持っていません。いつも不安で、生きる意味を失い、死に対する恐れのために苦しむようになっています。まじめに、勤勉に生きていますが、満足がありません。根本的に心が陰険であって世の罪悪から離れることができません。心の奥底からはいつも恐れがあり、平和がありません。一人だけいる時に入り込んでくる孤独と寂しさは不確実で、望みのない人生に対する深い恐れであり、虚しさであり、絶望です。この恐れの問題はイエス・キリストによってのみ解決され、平安を得られます。キリストの十字架の福音だけが私たちに救いの道であり、真の平安となります。イエス様はユダヤ人にも異邦人にも聖霊によって平安とくださいました。今はユダヤ人も、異邦人も同じ聖霊において神様に近づくことができるようになりました。
19節をご覧ください。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」この御言葉は異邦人であるエペソの聖徒たちの身分が根本的に変わったことを証ししています。すなわち、彼らはもはや他国人でも寄留者でもないということです。私たちは神の国の国民であり、神様の家族です。天と地、世界にあるすべてを相続された主人たちです。ですから、だれでもイエス様を信じる聖徒たちは天国の国民であり、同じ家族です。ここで、パウロはキリストによって救われた者たちの集まりである教会を神の家族として説明しています。
今日、教会のモデルを三つに分けて説明している人がいます。一つ目は劇場型です。劇場型というのは私たちが映画館に行って映画や演劇を観覧することのように周りにいる人とは全く関わりを持たずに上映されている内容だけに集中する人々の集まりです。言い換えれば、教会の礼拝やある儀式を通して自分だけ恵みを受け、感動されれば満足する教会の形態です。
二つ目は塾型です。塾に行けば、いろんな講座があって、自分が願う科目だけ受講することができます。もちろん、学校ではないから、学校の伝統とか、同門会などのことに関心を持たなくてもいいです。教会に行っても自分に必要なものが得られればそれだけで満足するタイプの人たちが集まる教会です。
三つ目は組織型です。ここで、組織型というのは、ある巨大な組織が人間関係を通して維持され、動いている組織ではなく、組織があってその枠の中に人を合わせていく教会のタイプです。ある程度歴史があって、ある程度の教会のメンバーもいなければなりません。組織を作っておいてある程度の予算があればうまく経営される会社のようなタイプです。
しかし、パウロはここで、教会のモデルとして提示しているのは「神の家族」です。家族制度の特性は家族の絆によって家柄を作り上げて行くことです。すべてのことを自己中心に考えるのではなく、親は子どもを愛し、子どもは親を敬い、従います。互いのために自分の役割を果たして行きます。私たちはキリストにあって新しく生まれた者たちです。それで、教会はキリストをかしらとする家族の共同体です。大切なのは、互いの関係を通して成長し一つの家族として自分の責任を果たすことによって成長することです。家族の特徴は何でしょうか。危機の時に頼れる仲間でなければならないことです。私たちの教会が苦しい時にも、悲しい時も頼れる家族、喜びを共に喜ぶ家族として成長するように祈ります。
20節をご覧ください。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」とあります。聖徒たちの集まりは使徒と預言者という土台の上に建てられています。教会とはイエス様をキリストとして告白した聖徒たちの集まりです。また、預言者という土台とは神様の約束の御言葉が土台になっていることを意味しています。このように教会は神様の約束を信じる信仰と信仰告白の上に建てられます。そして、イエス様ご自身がその教会の礎石です。旧約の預言者たちは礎石となるメシヤに対してこう預言しました。「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(イザヤ28:16)
21,22節をご覧ください。「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」聖徒は建物のレンガに譬えることができます。個々のレンガが結び合わされて建物が建てられていくことと同じく、私たち聖徒たちはそのように互いに有機体的な器官になるということです。この御言葉から私たちは第一に、キリストのからだをつくる教会共同体として互いに聖徒たちを貴く思い、尊重しなければならないことを学びます。教会共同体はさまざまな人柄、学歴、職業、賜物を持つ聖徒たちが集まり、互いに結び合わされて主にある聖なる宮を建てます。各々性格も違い、趣味も違います。だからこそ互いに尊重し、貴く思わなければならないのです。第二に私たちは教会共同体を作る器官として器官意識を持つことによって宮を作らなければならないことを学びます。聖徒の共同体は聖霊によって神様の御住まいとなります。私たちのからだから各器官がいくら丈夫であっても互いに神経と筋肉がつながっていなければ死んだ者です。手も足も使えなくなります。同様に、教会共同体を構成している聖徒は互いにキリストの御血によって一つとなり、有機的な関係を結んでいる時にのみ、健康な教会を作り上げることができます。ひとりひとりの信仰がどんなに素晴らしくても、互いに結び合わされてなければそのからだは病んでいることと同じです。私たちの教会は巨視的に見ると、世界教会と言うキリストのからだの器官です。また、私たち聖徒ひとりひとりは神様の宮として神様の御住まいとなっています。自分のからだを自分勝手に使ってはなりません.神様の御住まいとして守り、清潔にする作業を絶えずしなければなりません。それは清い生活を学んで実践し、悔い改める生活です。
 以上で、使徒パウロはイエス様の十字架を通して成し遂げられた和解のみわざを証ししました。異邦人であった私たちがイエス・キリストの十字架の死によって神の御国を受け継ぐ相続人であり、神様の家族となりました。私たちを選んで聖なる神の教会の期間として、主にある聖なる宮とし、御住まいとしてくださいました。自分だけではなく、隣人もそうです。私たちが互いに貴く思い、尊重しあって美しく素晴らしい神様の教会を作り上げ、まことの命と愛が繋がる共同体を作り上げて行くことができるように祈ります。