2002年エペソ人への手紙第1講

霊的な祝福

御言葉:エペソ人への手紙1:1?23             
鍵 句:エペソ人への手紙1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますよ
うに。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださ
いました。」

早いもので今年ももう秋の季節です。清すがしい季節にエペソ人への御言葉を学ぶようにして下さった神様に感謝します。
「エペソ人への手紙」は使徒パウロからエペソ教会の聖徒たちに送られた手紙です。私たちは他人宛の手紙を勝手に開封して読むことはできませんが、この手紙を始め聖書はいつもでも開いて読むことができます。いや、その全体を味わって熟読すべきです。なぜなら、聖書は神様についての書というより、神様からそれぞれの著者を介した私たち宛てのラブ・レターだと言ってもいいからです。私は結婚の前、マリヤ宣教師から何通かのラブ・レターをもらいましたが、とても嬉しくて何度も読みました。これから、神様から私たち宛てに送られたラブ・レターを何度も熟読しながら神様の愛を確認し、神様の召されにふさわしく歩むクリスチャンとして成長して行くことができるように祈ります。  
パウロは初めてエペソに行ったのは第2次伝道旅行(50-53年)の時でした。彼はそこに同行していたプリスキラとアクラを残しました。(使徒18:19-21)そして第3次伝道旅行(53-56年)の時には約2年半滞在し(使徒19:1-20:1)、エペソを中心に周辺の諸都市にも伝道しました。ところが、エペソ教会は黙示録2:4節で「初めの頃の愛から離れてしまった」と警告を受けています。離れてしまったのは神様ではなく、エペソの人々だったのです。
 そこで、パウロはエペソ教会宛てに1-3章でクリスチャンが天に蓄えておいた宝物に対して、4-6章ではこの世でどのように生きるべきかについて書き送りました。私たちも2000年前のエペソ教会が置かれた状況と同じく、物質的であり、快楽的であるこの時代に生きています。イエス様に出会った時、牧者になったとき、宣教師になった時、とても熱かったイエス様への初めの頃の愛はどうなっているでしょうか。私たちの信仰はどうなっているでしょうか。果たして私たちは初めの愛を堅く持っているでしょうか。この手紙を学ぶに当たって、私たちは祝福の基に関わるこの御言葉をもう一度思い起こしたいと思います。この手紙の学びを通して初めの愛を回復し、クリスチャンとしてのアイデンティティを新たにすることができるように祈ります。さらに、この時代をどのように生きるべきかを学ぶことができるように祈ります。
この時間、学ぶ1章ではパウロがエペソ教会の聖徒たちにクリスチャンとしての身分と神様の祝福を思い起こしています。聖霊が私たちの心の目がはっきりと見えるようにしてくださり、私たちが神様から受けて霊的祝福を悟らせてくださいますように祈ります。

?.霊的な祝福(1-14)
1節をご覧ください。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」とあります。パウロは自分が神様のみこころによりキリスト・イエスの使徒となったという確信を持っていました。使徒とは使命を受けて世に遣わされた全権大使であるという意味です。彼は自分を召された方はある人とか、ある団体でもない、あるいは自分自身の選択でもない、ただ、聖なる方で生きて働いておられる神様の御心と絶対主権の中で召されていることをはっきりと認識していました。これが召命意識です。このような召命意識はパウロを極めて困難な試練の中でも揺れることない人に成らせました。
また、パウロはキリスト・イエスにある(本書で37回もある。)忠実なエペソの聖徒たちへ手紙を書いています。世の中が混乱し、教会が試練に会う時に、神様の御前で忠実に生きることはやさしくありません。それで、多くの人々が教会から離れ、信仰も捨てます。しかし、私たちは忠実な神様の子どもらしくどんな状況の中でも忠実な者であり続けなければなりません。
当時、パウロの置かれた状況はどうだったのでしょうか。3:1節で彼は「・・・異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ・・・」と言っています。6:20を見ると彼は「鎖につながれて」いました。当時、ローマは囚人たちをただ監獄に入れて置くのではなく、鎖につなげて置きました。パウロは鎖につながれていたのです。福音のみわざのために熱心に働いたのに、賞を受けるどころか、敵国ローマの刑務所に入れられたパウロのことを考えてみてください。人間的に見ると、とても寂しく悲しい状況です。こうなると多くの人々は人を恨み、神様につぶやきます。しかし、パウロはどうしましたか。
3節をご一緒に読んで見ましょう。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。( 3節からの本文は,「ほむべきかな」という賛嘆で始まる)彼は心から神様を賛美し、感謝しています。彼の体は鎖につながっていましたが、彼の心は神様へ賛美に満ちていたのです。そして、世から受ける迫害と誘惑のために心細くなり、賛美が消えていた聖徒たちに積極的に賛美しましょうと勧めています。このことを考えてみると、私たちの人生において状況と条件が問題ではないことがわかります。パウロは状況と条件を完全に乗り越えました。ここに信者の非凡性があります。彼は霊的に満ちていました。心から湧き出る賛美によって感動を味わっていました。
どうやってそれができたのでしょうか。神様がキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださったものを享受していたからです。彼は神様が下さった霊的祝福を考える時に、囚人であっても、鎖につなげられていても、心は神様へ感謝と賛美に満ちていました。パウロが受けた霊的祝福は私たちクリスチャンみなが受けている祝福です。人々は健康であり、経済的に豊かであること、権力と名誉があることなどを祝福と言います。もちろん、それらは祝福でしょう。しかし、そのような祝福は世的なもので、よく変わるものです。ペテロ?1:24節は言います。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。」そうでしょう。なるほどと思えませんか。本当に人はみな草のようで、その栄えはみな草の花のようです。だれにもしおれ、散る時が来るのです。しかし、神様がキリストにある私たちにくださる祝福は霊的祝福です。それは永遠の祝福を意味します。変わらない祝福です。この祝福は天に属されたものです。この祝福は本当に美しく貴いものです。その霊的祝福とは何でしょうか。
第一に、神様の子どもととして選ばれた祝福です。4,5節をご覧ください。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」とあります。私たちが誰の子どもであるかというのは大切なことです。言い返れば、父が誰かによって受ける栄光と特権が変わります。私は2年前、〇〇牧者と同じ群馬県出身だった前総理大臣の娘小渕優子さんは26歳の年で、衆議院選挙で当選されたとき、父の力はすごいなあと思いました。前総理大臣の子どもであることだけでも大きなメリットがあったのです。ましては全宇宙を創造し、歴史を主管しておられる神様の子どもにはどんなに大きなメリットがあるでしょうか。過去、私たちはサタンに引き連れられて行く人生でした。罪と闇の中で迷い、自分の罪と咎のために傷つけられる生活をしなければなりませんでした。ところが、神様はこんなに惨めな私たちをキリストのうちに選び、ご自分の子どもとしてくださいました。そして、ひとり子をお与えになったほどの絶対的な愛を持って導いておられます。しかも、この選びはいきなりのことではなく、神様が世界の基の置かれる前から愛を持ってあらかじめ定めておられたのです。その目的は何ですか。
6節をご覧ください。「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」とあります。神様が私たちを選ばれたのは、イエス・キリストによって私たちに与えてくださった恵みの栄光がほめたたられるためでした。私たち人間の存在目的は創造主神様をほめたたえ、神様に栄光を帰すところにあることが分かります。事実、私たちがご自分の子とされた神様の召されにふさわしく生きる時、私たちは真の幸福を享受するようになり、それによって神様の栄光がほめたたえられるようになります。
第二に私たちが罪から救われる祝福です。7節をご覧ください。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」とあります。「贖い」とは,元来買い戻すこと,あるいは代価を払って解放することを言います。神様は私たちを罪とサタンの奴隷状態から救い出すために「イエス様の十字架の死」という計り知れない代価を払って下さいました。マルコ10:45を見ると「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」。とあります。その通り、イエス様は、ご自分の死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださいました。」(ヘブル2:14-15)。イエス様が肉と血のからだを持たれたのは、まさにその血を流すことによって我々を贖うためであったのです。私たちはただ信じることによって救われるから、救いに関しても安々考えてしまいがちですが、本当は数え切れない代価が支払われているのです。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1:7)。
第三に神の御国を受け継ぐ者になる祝福です。11節をご覧ください。「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」とあります。「御国を受け継ぐ者」とは神の国の相続人として選ばれたということを意味しています。私たちは神様の所有とされた民となったことです。神様は御国を受け継ぐ者をあらかじめ定めていてみこころによりご計画のままをみな実現されます。神様はイスラエルをご自分の所有とされた民にしましたが、それにはご計画がありました。イスラエルが出エジプトした時、神様はイスラエルに言われました。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわたしの翼に載せ、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたがまことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出19:4-6a)神様は全世界の民を救うご計画の中でイスラエルを選ばれたのです。そしてイスラエルは神様に選ばれた選民意識のために、隣の強大国から苦しめられる苦難の中でも国を守り、神様への信仰を守ることができました。パウロも自分が神様のご計画の中で異邦人の使徒として選ばれたという選民意識と召命意識を持っていました。この選民意識のために、さまざまな迫害の中でも神様から与えられた使命を忠実に果たすことができました。
神様は私たちUBFにどんなご計画を持っておられるでしょうか。神様は過去40年間世界87カ国に宣教師を派遣してキャンパス開拓、世界宣教を成し遂げておられます。このことは神様が私たちをキャンパスミッションと世界宣教のみわざのために特別に区別してご自分の所有とされたことではないでしょうか。私たちが続けて神様の所有として、神様が特別に選ばれた目的にふさわしい歩みをすることができるように祈ります。
13,14節をご覧ください。「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」神様は聖霊を通して私たちが受けた霊的祝福を保証してくださいました。聖霊の働きを通して私たちは続けて霊的祝福を享受することができます。

?.教会の満たし(15-23)

15‐23節はエペソ聖徒たちのためのパウロの祈りです。パウロの何のために祈りましたか。
  第一に、感謝の祈りです。15,16節をご覧ください「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」とあります。 パウロはエペソ聖徒たちの信仰とすべての聖徒に対する愛のゆえに神様に感謝しています。
  第二に、彼らが神様をもっと知ることのために祈りました。17節をご覧ください。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」とあります。知恵と啓示の御霊は聖霊のことです。パウロはエペソ聖徒たちに聖霊が注がれて彼らが神様を知るように祈っています。何を知るように祈りましたか。
18,19節をご覧ください。「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」エペソ聖徒たちは霊的祝福を溢れるほど受けましたが、心の目が曇り、賛美も多く忘れてしまいました。現実的に別に大きな問題がありませんでしたが、霊的には感動も喜び、悔い改めもない生活をしていました。しかし、パウロは監獄の中でも祈りつづけ、御言葉を黙想しながらますます神様を知り、神様を知っていく素晴らしい喜びのゆえに感動し、感激していました。彼の心とたましいは生き生きとしていました。パウロは愛するエペソ教会の聖徒たちも、神様を知る喜びと感激を味わえるように祈っているのです。神様が彼らの心の目がはっきり見えるようにしてくださるように祈っています。心の目がはっきり見えるようになって、神様の召しによって与えられる望みがどのようなものかを知ることができるように祈りました。パウロは私たちも神様をもっとよく知ることを願っているでしょう。何よりもイエス様は私たちが神様をもっと知ることのためにとりなしの祈りをささげつづけておられます。私たちの心の目がはっきり見えて神様が自分に与えられた望みがどのようなものか、受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、信じる者に働く神様のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを知ることができるように祈ります。
20、21節をご覧ください。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」とあります。イエス様はメシヤとして地上におられる間、蔑視され、拒絶されました。 ついに十字架につけられて死なれました。しかし、神様は彼を生き返らせ、神様の右の座に着かせました。
イエス様は死者の中からよみがえられて王の王、主の主となられました。彼にはこの地上だけではなく、やがて来る世においてもすべての権威、権力が与えられています。その権威と権力は永遠です。 
22、23節をご覧ください。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。
「教会」とはイエス様をキリストとして告白した聖徒たちの集まりです、神様はイエス様を教会のかしらとされました。イエス様は教会のかしらであり、私たちはキリストのからだです。キリストは教会の中に内在され、教会を満たしてくださいます。教会がご自分のように完全になるように働かれ、導いておられます。私たちがキリストに従って教会のかしらであられるキリストに完全に支配されるように祈ります。

結論的に、神様は私たちを世界の基から選ばれ、神様の子どもとされました。キリストの御血によるあがない、すなわち罪の赦しを受けて、きよく、傷のない者として生きるように祝福してくださいました。私たちが聖なる神様を賛美し、ますます神様を知って神様に栄光を帰す美しく麗しい人生を許されました。私たちがこのような霊的祝福を覚えていつも喜び、すべてのことにおいて感謝しながら神様の召されにふさわしい歩みをすることができるように祈ります。