1998年 ヨハネの福音書一部9講

 

神の賜物イエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書4:1?26

要 節:4:10

「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、

あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその

人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 

三章で私たちは社会的にも宗教的にも優れた人であったニコデモについて学びました。しかし今日の本文には社会的に身分の低いサマリヤの女が出ています。彼女は道徳的に堕落した生活をしたために人々から蔑視されていました。彼女には夫の問題がありました。彼女は幸せになるために五回も結婚しました。しかし思った通りに幸せになりませんでした。むしろ人々から非難される立場になりました。誰も彼女を理解してくれませんでした。しかしイエス様は彼女を深く理解し、彼女を永遠のいのちへの世界に導いてくださいました。本文の御言葉を通して神様の賜物であるイエス・キリストに出会い、渇くことのない生ける水が与えられるように祈ります。

 

?。水を飲ませてください(1?15)

 

 時はバプテスマのヨハネの時代が段々衰え、イエス様の福音のみわざが盛んになる歴史的な転換期でした。一節をご覧下さい。イエス様がヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入りました。すると彼らはイエス様に政治的な圧力をかけようと企んでいました。それを主が知られたとき、主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれました。主は無用なトラブルを避けて、ユダヤを去って、ガリラヤへ行かれたのです。

当時、パレスチナは、南のユダヤと北のガリラヤの間にサマリヤという地方がありました。ユダヤからサマリヤを通ってガリラヤへ行くと三日くらいかかりました。ところがユダヤ人はユダヤからガリラヤの間を通る時には、そこを通らず、わざわざヨルダン川を渡って、ヨルダン沿いの道を取りました。するとサマリヤを通るより二倍も時間がかかりました。それなのになぜユダヤ人はそのように遠回りをしたのでしょうか。それはユダヤ人とサマリヤ人はつきあいをしていなかったからです。

しかし、四節をご覧下さい。「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」イエス様は普通ユダヤ人が取るコースを取られず、別の道を通って行かれました。ユダヤ人が避けて通った道を、イエス様がわざわざ選ばれたのは、深いわけがあったのです。それはひとりの人に会うためでした。イエス様はサマリヤのひとりの女に会うために、わざわざ普通のコースを取らず、この道を取られました。イエス様は名もない、不道徳的なひとりの女の人と会い、その人を救いに導くために、普通ならだれも通らない道を選ばれました。このイエス様は、実に一人の罪人を愛し、救いに導かれる方です。

5,6節をご覧下さい。イエス様と弟子達は太陽が炸裂するパレスチナの荒野を通ってヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られました。そこにはヤコブの井戸がありました。イエス様は旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられました。時は六時ごろ、すなわち昼の12時ごろでした。パレスチナ地方の昼12時は岩の上に卵焼きができるほど暑い時間です。それで人々はその時間になると働かず、2時まで昼寝をします。弟子達は食物を買いに、町へ出かけたことを見ると、イエス様はお腹が空いているし、またのども渇いていたでしょう。イエス様は私たちと同じく疲れを感じられ、お腹が空き、のども渇きました。ですからイエス様は私たちの弱さを深く理解し助けてくださることができます。    

7節をご覧下さい。その時、 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来ました。この女の人は不道徳的な人だったので他の女の人々と一緒に来ることができませんでした。彼女は他の人々が寝ていて昼の時間にひとりで水を汲みに来ました。彼女は井戸に誰もいないだろうと思って来ました。しかしその時間、彼女を待っている方がおられました。その方は彼女の心の渇きを知っておられる方でした。彼女の心の傷や悩みを知っておられる方でした。彼女に永遠のいのちへの水を与えることができる方でした。この方が彼女に会うためにパレスチナの暑い荒野を通って来ておられました。イエス様は彼女にごく自然に「わたしに水を飲ませてください。」と話をかけられました。しかし、イエス様が彼女にまず話をかけるのはやさしいことではありませんでした。なぜならイエス様と彼女の間にはいろいろな壁があったからです。根強い民族的な壁、宗教的な壁がありました。また、男女間の厳しい身分上の壁がありました。また、イエス様は聖なる神様の御子であり、彼女は不道徳的な女でした。何よりも対話の一番大きな障害物は自尊心です。人々は自尊心のために自分の方からまず話をかけようとしません。しかし、イエス様は神様の御子ですがご自分を低くして話をかけられました。「わたしに水を飲ませてください。」これは実に驚くべき謙遜でした。キリストの謙遜は彼女を命への道に導かれました。神様はいつも先に罪人を訪ねて来られます。私たちが神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛してくださいました(?ヨハネ4:10)。イエス様は私たちにまず話をかけられるために私たちの心のドアをノックしておられます(黙3:20)。どんな人でも、このイエス様を声を聞いて心を開くとイエス様は私たちの友となって話してくださいます。

 水を求めるイエス様に対して、この女の人はびっくりしてこう答えました。9節をご覧下さい。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」彼女が驚くのも無理はありませんでした。当時、ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからです。ユダヤ人はサマリヤ人を異邦人のように軽蔑して、口も聞かなかったのです。ユダヤ人がサマリヤ人を異邦人同様に扱ったのには、理由がありました。昔イスラエル王国が南北に分裂した後、北王国は神様から離れて偶像礼拝をしました。その結果、紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。そして男達はみなアッシリアへ連れ去られ、その後に人々の所へ東方から多くの異民族の男性を送り込んだため、サマリヤにいたユダヤ人の女性と東方から来た外国人の男性とが徐々に雑婚し、ついに混血民族ができてしまいました。この人々をサマリヤ人と呼び、ユダヤ人は彼らを異邦人同様に軽蔑したわけです。それともう一つ、この女の人が驚いているのは、男性であるイエス様が女性である自分に語りかけたことです。当時、女性の地位は低く、男性が女性に話しかけるということは一般にはほとんどありませんでした。しかし、イエス様はこの婦人を一人前の人間として取り扱われました。

 10節をご覧下さい。イエス様は答えて言われました。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」イエス様はここで大切な二つの霊的な真理について言われました。その一つは、「神の賜物」であり、もう一つは「あなたに水を飲ませてくれと言う者」です。この二つが分かったなら、実に驚くべきことが起こります。神の賜物は永遠のいのちを意味します。ローマ76:23は次のように言っています。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」また、神様の賜物はひとり子イエス・キリストを意味します。イエス様は彼女が神様の賜物とイエス様ご自身について関心を持つように助けられました。私たちは信仰生活において、何よりも神様の賜物について、またイエス様について深い関心を持たなければなりません。そうでないと自分が求めているすべのものを手に入れたとしても決して幸せになれないからです。イエス様のいない人生は花瓶の中の花のようです。人々は経済問題に対して非常に関心を持っています。職場の問題や昇進の問題、結婚の問題、子供の問題などに多くの関心を持っています。しかし本当に関心を持たなければならない神様の賜物については無関心です。人々は永遠のいのちがどれほど価値があり、尊いものであるかを知りません。また、イエス様がどんなに大切な方であるかを知りません。もしイエス様がどんな方であるかを知るなら、イエス様に積極的に求めるでしょう。

神様の賜物は律法を守ることや良い行いや道徳的な生活など自分の努力によって得るのものではありません。それはただ恵みによって神様から与えられるものです。神様は恵み深い方ですから神様の賜物を求める者は誰にでもそれを与えてくださいます。それも何か代価を要求せず、与えてくださいます。

11、12節をご覧下さい。彼女は言いました。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエス様が水という平凡なものから、深い霊的真理を語り出されても、サマリヤの女は、それを理解することができませんでした。それはニコデモと同じでした。彼らは霊的に盲目でした。このような彼女にイエス様は答えて言われました。13,14節をご覧下さい。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

人類は心の渇きをいやしたいと思って、いろいろなものを作り出して来ました。それだけではなく、心の渇きをいやそうとして、目新しいものと取り組んでみたり、この世の中のどこかにそれを求めます。人々は心の虚しさをいやすために快楽の水を飲みます。しかし、この快楽の水は飲めば飲むほどその渇きがもっとひどくなります。また、人々には愛に対する渇きがあります。サマリヤの女もこの愛の渇きをいやすために五人の男と結婚しました。また、人々には認められたい渇きがあります。知識に対する渇き、権力に対する渇きもあります。しかしこの種類のものでは、また渇いてしまうのです。ちょうどのどの渇きをいやそうとして水を飲む人のようです。それは一時的には渇きをいやしますが、じきに渇いてしまいます。この世の栄華を窮めたソロモンは次のように告白しました。「すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。」「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:8,2)。

このような渇きの根本原因は何でしょうか。それは人がいのちの水である神様から離れたからです。また、預言者アモスは「パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」と言いました(アモス8:11)。神様を離れて神様の御言葉を聞くことがない時に、何をしてもまた渇きます。真の満足と喜びを得ることができません。反面、イエス様が与える水はどうですか。イエス様が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。それはその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るからです。私たちがイエス様を信じる時、私たちのうちに永遠のいのちへの泉が生じます。私たちはこの泉から愛の水、喜びの水、真理と自由の水をいくらでも汲むことができます。この泉は信じる者のうちに住まわれる聖霊を意味します(ヨハネ7:38,39)。人間のたましいは聖霊が住まわれる時にのみ満足することができます。ところが私たちが信仰生活をしながらも満足を得ることができない時がありますが、その理由は何でしょうか。それはイエス様以外のものを通して満足を得ようとするからです。私たちが悔い改めることによって罪の汚れを取り除く時に心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。

 イエス様は、最初、「神の賜物」と言われたことを、次に、「生ける水」と言い変え、さらに「永遠のいのちへの水」と言い変えておられます。この「永遠のいのちへの水」は、御霊と御言葉によって与えられる救いの恵みであり、これが与えられると、それまで求めて得られなかった本当の満足を得ることができます。それだけでなく、泉のように、永遠のいのちへの水が湧き出てきて、他の多くの人々を潤し、渇きをとどめることができるようになります。

永遠のいのちという水をあなたは持っていますか。持ってないなら、今イエス様にそれを求めてください。イエス様以外のどこに求めても、私たちはまた渇いてしまうものしか与えられません。イエス・キリストこそ、私たちの渇きをとどめる元なのです。イエス・キリストから与えられる「いのちの水」は、こんこんと湧き出る泉のように、私たちを潤すだけでなく、私たちの周りの全ての人々を潤します。主イエス・キリストは「生ける水」を与えてくださる方です。

 イエス様が永遠のいのちへの水について話されると女の態度は変わりました。15節をご覧下さい。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」彼女は「今まで嫌な思いをしながら、他の人と顔を合わせる時間を避けて、水を汲みに来ているのに、もしそんなに便利な水があるなら、どうぞそれを私に下さい」と懇願しています。彼女は心の奥深いところで、永遠のいのちを求めています。それではイエス様は永遠のいのちへの水を求めている彼女をどのように助けてくださいましたか。

 

?。行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい(16?26)

 

井戸のかたわらでのイエス様とサマリヤの女の対話は美しい物語でした。ところがイエス様は、女に、思いがけないことを言われました。16節をご覧下さい。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女が永遠のいのちに至るためには、どうしても自分の中にある罪をそのままにしておくわけにはいきませんでした。ですから、イエス様はその点に触れられたわけです。サマリヤの女が隠していた罪に光を当てるために、イエス様は夫のことに触れられたのです。彼女はイエス様が与えようとしておられる霊的な賜物である永遠のいのちへの期待を言い表しました。そこで、その永遠のいのちを自分のものとして頂くためには、自分の霊的な病を知る必要があります。人は、自分の病を知ることなしに、そのいやしを得ることができないからです。?ヨハネ1:8,9節は次のように言っています。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」イエス様が女の人の罪の問題に触れられたのは彼女を罪に定めるためではなく、その罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださるためでした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」これはイエス様の霊的な愛であり、命を与える御言葉でした。

彼女はイエス様の御言葉に「私には夫はありません。」と率直に答えました。その告白に対して、イエス様はそれを暖かく受けとめてくださいました。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」イエス様は彼女の私生活のすべてをご存じでした。彼女に対して、「なぜそんなに男を変えたのか」とか、「そのような同棲生活は正しくない」と言うこともできたでしょう。しかし、主はそのように非難する言葉を言われず、むしろ愛を持って受けとめておられます。それは、今日も同じです。主は、私たちの真実な告白を暖かく受けとめて下さいます。サマリヤの女が夫を五人も変えて現在も他の男と同棲していることを見ると、夫が彼女に真の満足を与える対象にならなかったことがわかります。彼女は真の満足を与える対象を捜していました。イエス様は彼女が夫を五人も変えたのはただ肉体の快楽を満たすためにではなく真の夫を得るための精神的な彷徨いとしてご覧になりました。サマリヤの女は情熱的な人であり、能力もあったでしょう。また、男を引っ張る魅力的な女性だったでしょう。ところが彼女はそのような情熱や能力をささげる真の対象を見つけることができず、さまよっていました。その彷徨いを止めるためにはイエス様に人格的に出会わなければなりません。

19節をご覧下さい。彼女はイエス様の前に自分をそれ以上隠すことができないことが分かりました。それで彼女はイエス様に言いました。「先生。あなたは預言者だと思います。」彼女は自分の内面が暴露されてしまった時、自分の前に立っている人が、ただの人ではなく、救い主であることを知りました。そして、礼拝のことを話題にしました。20節をご覧下さい。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」サマリヤ人はユダヤ人がつき合ってくれなかったので紀元前五世紀にエルサレムに対抗して、ゲリジム山に神殿を造ってそこで礼拝をしていました。

イエス様はどこで礼拝するのが正しいかというような場所が重要ではなく、どういう礼拝をするかということが大切なのかを教えてくださいました。21?23節をご覧下さい。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」旧約時代の礼拝する場所は、エルサレムの神殿であり、礼拝の仕方は律法に定められている通りです。この旧約時代の礼拝は、実はイエス・キリストを指し示しているものでした。本体であるキリストを指し示している影のようなものでした。動物の犠牲は、キリストの十字架上のあがないを示していました。しかし、キリストがこの世に来られ、キリスト教会が生まれると、もはやそのような影の礼拝ではなく、本体の礼拝がなされなければなりません。それが「霊とまことによって父を礼拝する」ということです。それでは、「霊とまことによって」する礼拝とは、どういう礼拝でしょうか。この礼拝は御言葉に基づき、御霊の助けによって捧げられる礼拝です。唯一の仲介者であるイエス・キリストを通して捧げられる礼拝です。

 それではなぜ人は霊とまことによって神様に礼拝しなければなりませんか。24節をご覧下さい。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

「神は霊である」というのは、神様は生きておられるということを表しています。神様が生きておられることを、私たちは本当に自覚して礼拝をしているでしょうか。生きておられる神様は、私たちの心の中までも見通しておられます。ですから、この方の前に立っているという自覚を持っている時、いいかげんな態度で礼拝を捧げることはできません。私たちは本当に生きておられる神様に対し、生きておられる神様を賛美し、生きておられる神様の御言葉を聞き、生きておられる神様に心からのささげ物として献金をささげているでしょうか。

 女の人はイエス様の御言葉を聞いて「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と言いました。彼女はすべての人生の問題を解決してくださるメシヤを待ち望んでいました。彼女は主が目の前におられるのに、まだそれが分かりませんでした。このような彼女にイエス様は言われました。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(26)。イエス様は彼女の真の夫であり、永遠のいのちへの泉となられる方です。イエス様は彼女に神様の賜物を与えてくださいました。

 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と言われるイエス様の御言葉を聞いた彼女の心からは永遠のいのちへの水が湧き出るようになりました。彼女はその喜びと感激に耐えられず、自分の水瓶を置いて町へ行き、人々に叫びました。「来て、見て下さい。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」メシヤに会った彼女は完全に新しく生まれ変わり、多くの人々をイエス様に導く牧者となりました。イエス様はパレスチナの暑さの中で長時間サマリヤの女と話し合うことによってひとりのたましいを救われました。このイエス様はこの時間も私たちに話をかけておられます。「わたしに水を飲ませてください。」誰でもこのイエス様に出会う時に、その人の心の奥底からは生ける水が流れ出るようになります。