1998年 ヨハネ福音書?部第7講

 

新しく生まれることと神の国

 

御言葉:ヨハネ福音書3:1?15

要 節:ヨハネ福音書3:3

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」

 

世の中で一番大切なものは何でしょうか。富と権力を得ることでしょうか。それとも名誉を得ることでしょうか。いいえ。最も大切なのは永遠のいのちです。イエス様は夜中訪ねて来たニコデモとの話し合いの中で新しく生まれることと永遠のいのちを得ることについて教えてくださいました。ニコデモはイスラエルの最高の知識人であり、金持ちでしたが、新しく生まれた経験がなかったので、やみの中で暗い人生を過ごしていました。そこでイエス様は彼にどうして人は新しく生まれなければならないか、どのようにして新しく生まれることができるかについて教えてくださいました。この時間、御言葉を通して新しく生まれる奥義を悟り、神の国を見ることができるように祈ります。

 

 

?.新しく生まれなければならない(1-8)

1節をご覧ください。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。jとあります。この御言葉はニコデモがどのような人であったのかを言っています。彼はまず「パリサイ人」でした。パリサイ派の信者と言えば、今日では何かよっぽど悪い人間で偽善者に相違ないと考えやすいのですが、実は当時のイスラエルにおいては、そうは考えられていませんでした。ユダヤ教の中では正統的な信仰を持っており、旧約聖書の権威を信じ、それを実践しているりっぱな人というイメージが一般にはありました。このパリサイ派に属する人々は、当時六千人ぐらいいたそうですが、その多くは人々から尊敬の目を持って見られていました。ニコデモはそのパリサイ派に属していたのです。それだけではなく、彼はまた「ユダヤ人の指導者」でした。この言い方は、当然彼がユダヤ人議会の議員であったことを表しています。ユダヤ人の議会というのは、ユダヤ人の政治的な議会であっただけでなく、ユダヤ教の最高の議会でもありました。全国から選ばれた七十人の祭司、長老、学者から成る最高議決機関でしたから、彼は有力でまた有名な人であったと思います。しかも彼の名前ニコデモはギリシャ式の名前ですが、その意味は「民の征服者」です。彼はその名前にふさわしく成功した人でした。彼はイスラエルの中で一番理想的な人間像を代表することができると言えるでしょう。彼は最高の知性と権力と名誉と富を所有しました。彼は世の中でもそれ以上望むことはなさそうに見えます。しかし、彼にはそれ以上、最も大切なイエス・キリストが必要でした。

2節をご覧ください。ニコデモは静かな夜、イエス様の所に来てトントンとノックしました。彼はなぜ夜イエス様の所に来たのでしょうか。昼間は忙しかったからでしょうか。あるいはユダヤ教のラビは、夜、律法の勉強をしたものでしたが、それが理由だったのでしょうか。 高い地位と高貴な身分のために人の目を避けて来たのでしょうか。やはり人を避けて夜こっそり主イエス・キリストのところに来たと考えるのが一番自然だと思います。というのは、この福音書の後ろの方で、ニコデモについて言及する時に、「前に、夜イエスのところに来たニコデモ」(19:39)と言っていることからも、夜をわざわざ選んでイエス様のところに来たということがニコデモの特徴としてとられているからです。特にヨハネの福音書では、夜が暗やみを象徴しています。それは彼の内面が夜のように暗いことを示唆してくれます。しかし、それでも主イエス様のところに来たということは、彼の求道の第一歩であり、また彼の求道心の強さを表していると言ってよいでしょう。問題にぶつかった時、内面が暗くなったとき、勇気を持ってイエス様のところに出て来るということは素晴らしいことです。

彼はイエス様のところに来ると、こう語り出しています。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」彼は確かに主イエス様の行われたしるしに魅せられたようです。彼はそのしるしのためにイエス様のところに来ました。ではなぜ彼はしるしに関心を持ったのでしょうか。それは自分の生涯において何かしるし、すなわち奇跡的な変化が必要だと考えたからでしょう。彼はイエス様を通して解けない人生の問題を奇跡的に解決してもらいたかったのです。

ニコデモの地位、名誉、財産などを考えて見ると彼はすべての人々に敬われる対象でした。しかし、彼の内面は不幸でした。ニコデモは自分が願う名誉、権力を手に入れるなら、幸せになると思っていました。しかし、いざとそのようなものを手に入れたとき、全く幸せではありませんでした。むしろ、目標を達成した後で襲って来る虚しさと絶望感が恐ろしいほど彼を押さえ続けました。イギリスのノーベル賞をもらったことがあるバナドショウはこんなことを言っています。「人間の絶望には二つがある。一つは失敗した時に来る絶望であり、もう一つは成功した時に来る絶望感である。本当に恐ろしいものは前者ではなく、後者である。」失敗した時に来る絶望はやり直しして克服することができますが、成功した後で来る絶望はいかなるものによってでもうめることができないからです。ニコデモは熱心に努力して成功の頂点に立ちましたがその時から彼の人生は頂点から降りる道に入りました。彼の希望が大きかっただけに絶望も大きかったし、彼の名声が大きかっただけに内面の苦痛も大きいものでした。その上、彼は老年になっていました。彼が老年になり、疲れ果てていた時、死の陰が彼の人生を襲って来ました。

イエス様はこんな彼に何と言われましたか。もう一度3節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」イエス様は彼の宗教的な熱心や社会的な地位と権力が彼に満足と喜びを与えられないことをご覧になりました。むしろそれらのためにひどい虚しさと絶望感に陥っていることをご覧になりました。何よりもイエス様は彼の心の中に神の国がないことをご覧になりました。彼の心の神の国がなかったのでこの世のいくら良いものを手に入れても幸福ではありませんでした。その心に神の国がある人と神の国を所有している人の生活は著しく違います。神の国を所有している者は、険しい世の中で生きていながらもその心の中には神の国が臨まれているからいつも喜び、すべてのことに感謝しながら神の国に対する生ける望みのために楽しんでいます。いつでもどこでも霊的な喜び、天国の平和を享受することができます。しかし、その心に神の国がない人たちは何をしても幸福ではなく、良い環境の中でも地獄の苦しみを味わいながら生きています。その心は賛美と感謝の代わりに不平不満、妬みと憎しみに満ちています。ですから人は必ずその心の中に神の国を所有しなければなりません。そのためには新しく生まれなければなりません。「新しく生まれる」ことは「上から生まれる」という意味でもあります。31節でも使われており、「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す」と言われているように、「上から」とは「天から」という意味であり、これは神様による誕生を意味します。また「新しく生まれる」ことは根本的に、本質的に新しく生まれることを意味します。これは条件改善や改革ではなく、新しい創造です。サタンの子どもから神様の子どもとして生まれることなのです。

では人が新しく生まれなければどうなりますか。新しく生まれてない人はアダムの罪の本性を受け継いで生まれたので自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした(エペソ2:1-3)。生きている間にも神様ののろいの下にあるだけではなく、死後には神様の審判を避けることができません。人々は死んだらそれで終わりだと思っています。しかし、聖書は「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と言っています。このさばきは1、2年監獄の生活するようなものではなく、火と硫黄の燃える池の中で永遠に苦しむことです。これを第二の死と言います。このように新しく生まれなかった受けるようになる結果は致命的です。ですから、永遠の破滅から救われて永遠の幸福を享受するためには必ず新しく生まれなければなりません。人がこの世のすべてを手に入れたとしてもそのたましいが永遠の破滅に処せられているなら、それは本当に不幸なことです。しかし、この世ではすべてを失い、自分のいのちまで失ったとしてもそのたましいが救われて神の国にはいるようになるならそれほど祝福はありません。

ではどのようにして新しく生まれることができるでしょうか

イエス様がニコデモに新しく生まれなければならないと言われるとニコデモはトンチンカンな答えをしました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」彼はイスラエルの最高の知識人でしたが、霊的な世界においては一番基本的な新生の真理さえ理解できませんでした。それは彼が肉に属していたからです。人は霊的に新しく生まれてなければ、たとえ神学博士だとしても霊的な世界を理解することができません。彼は新しく生まれることを生物学的に解析しながらイエス様の御言葉を受け入れませんでした。そこで、イエス様はもう少し詳しく説明されました。5節をご覧ください。「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』」とあります。イエス様が「水と御霊によって」と言われたのは何を意味するのでしょうか。とくに「水」は何を表わしているのでしょうか。これについては、いろいろな解釈があります。ある人は、水は肉体の誕生を意味し、それだけでは不十分で、御霊による新しい誕生がなければ神の国に入れないのだと解釈します。また、水は水のバプテスマを指し、御霊は御霊のバプテスマを指すと解する人もいます。しかしながら聖書では、水はまた「御言葉」を表してもいます。「キリストがそうされたのは(十字架上の死)、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり(エペソ5:26)」と教えられています。ですから、ここでは、御言葉と御霊による新生について教えていると解することができます。御霊はいつも御言葉とともに働くからです。私たちが私たちの罪を真実に悔い改め、神様の御言葉を堅くつかむ時、聖霊が御言葉を通して力強く働いて新しく造られた者にしてくださいます。新しく生まれるみわざは私たち人間の力によってできる領域ではなく、全く聖霊に属している働きなのです。では聖霊の働きとはどのようなことでしょうか。イエス様はニコデモ風をたとえにして聖霊の働きを分かりやすく説明してくださいました。御霊と風は原語ギリシア語では同じくプネウマですが、イエス様が言われた時は言語的なニュアンスがあります。8節をご覧ください。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とあります。風は思いのままに吹きます。どこでもいつでも吹きますし、吹き方もいろいろです。その強さもいろいろです。そよ風もあるし、台風、嵐、突風などもあります。台風は私の目には見えないから台風なんか信じないという人はいないでしょう。私たちの目には見えませんが風が思いのまま吹いていることは確かなことです。このように聖霊もご自分の思いのまま主権的に働いておられます。時にはそよ風のように静かに働かれますが、時には台風のように強く劇的に働くのでその変化がはっきり見えます。私たちは風がどこから来てどこへ行かを知らないように聖霊の働きも科学的に分析することができず、理論的に説明することができませんが、新しく生まれた人の言葉づかいや行動、生活に現れた結果を通して聖霊の働きを認識することができます。たとえば、過去イエス様に悪口を言い、イエス様を信じる者を迫害していた人が聖霊が彼のうちに働かれるといくらかたくなな人であったとしても自分の罪を悔い改めます。そして、イエス様をキリストとして告白し、変えられて主のために献身する者になります。また、運命的で暗い人生を過ごしていた人が明るくて輝かしい摂理の人生を過ごすようになります。新しく生まれた人は人生観と価値観が完全に変わります。

 

?.人の子も上げられなければなりません(9-15)

イエス様は夜訪ねて来たニコデモに夜遅くまで新しく生まれることが十分理解できるように教えてくださいました。ですからニコデモがやるべきことはただ神様の御前で罪を悔い改めて聖霊が働きを待つことでした。しかし、ニコデモの反応がどうですか。9節ご覧ください。ニコデモは「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と言ってつぶやきました。彼には理解できなかったのです。彼は自分の理性で理解できることと、自分が体験したことしか受け入れることができませんでした。つまり、人間理性と経験を頼りにしていたわけです。これは、今日のほとんどの人の考え方と同じです。しかし、イスラエルにおける宗教指導者がこんなことでは困ります。彼らは、常識内のことだけではなく、神様からの啓示である旧約聖書を信じていたからです。それなのに、超自然的なことが理解できなかったのは、彼の高慢のためです。高慢な心のためにいのちの光が彼の心の中で働くことができませんでした。そこでイエス様は「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言って叱られました。そして11、12節で彼の根本問題はイエス様のあかしを受け入れない高慢であることを指摘されました。彼はどうしてあかしを受け入れようとしなかったのでしょうか。それは変化されることを恐れたからです。多くの人々がニコデモのように変化されることを望みながらも一方では変化されることを恐れます。それは変化されると自分の存在が抹殺され、今まで積み上げて来たすべてが崩れると思うからです。しかし、一粒の種が死ななければ新しい命の誕生ができないことと同じく、古い自我が死ななければ新しい自我が誕生することはできません。イエス様はまた、「地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」と言われました。地上のこととはこの世で新しく生まれることで、それは救いの始めを意味し、天上のこととは私たちの体が御霊のからだに変わることのような救いの究極的な完成を意味します。天から下って来られたイエス様だけが神秘な天上のことを話すことができます。

イエス様はニコデモの高慢を叱られることに終わりませんでした。結局には彼のたましいを哀れんでくださり、彼のすべての咎と罪を背負って十字架上にかかってくださることも言われました。14、15節をご覧ください。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」とあります。イエス様はここでイスラエルの民が昔、経験した事を引き合いに出して、ニコデモに教えておられます。イスラエルの民が、神様の力強い御手によって出エジプトをし、約束の地カナンに向かって荒野の旅をしている時のことでした。主は彼らが生きていくのに必要なパンや水を何回も奇蹟としてお与えになりました。ところが、この荒野の旅の終わりごろになって、またイスラエルの民は神様とモーセに対してつぶやき始めました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」(民数記21:5)そこで、神様は罰として、彼らに毒蛇を送りました。それで、つぶやいた者たちはその毒蛇にかまれ、毒蛇にかまれた者はやけどを負ったように痛み始め、その猛毒のために、どんどん死ぬという有り様でした。これは、神様に反逆する者たちに対する神様の裁きでした。この苦しみの中からイスラエルの民は自分たちの罪を悔い、モーセにとりなしの祈りをお願いしました。モーセが祈ると、神様は、青銅であの毒蛇と同じような形をした蛇を作り、それを旗ざおの上につけるように言われました。そして「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。モーセは主のことばに従って青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。

毒蛇はなおも猛威を振っていたことでしょう。どの天幕の中へもその毒蛇は入り込み、神様に反逆した者たちにかみつきました。そしてその猛毒のために苦しみ、死につつある人々がいっぱいいました。その時です。一つの喜びの訪れがもたされました。「旗ざおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見る者はだれでも死なないですむのだ」という知らせです。それを聞いた人々の中で、その反応は必ずしも同じではなかったでしょう。ある人は考えました。「旗ざおの上につけられた青銅の蛇を見ることのによって救われるんだと。とんでもない。そんな非科学的な迷信じみたことにまどわされるもんか。そのようなことは、自分の理性が許さない」そしてそのまま死んでいってしまいました。また、ある老人はこう考えました。「自分の長い経験の中で、そんなことはいまだかつて一度もなかった。そんなばかげなことで人が救われるなどといった知らせは、人をまどわすもの以外の何ものでもない。私はそんなものを信じない」こう言って、その老人も死んでいってしまいました。

しかし、苦しみのあまり、わらにもすがるような思いで、天幕から這い出し、旗ざおの見えるところまで来て、その上につけられていた青銅の蛇を見た人は救われました。

ちょうどそれと同じように、キリストは私たちの身代わりに十字架上にかかってくださり、そのキリストを仰ぎ見る人は、罪から救われるのです。

この世は罪のために毒蛇がいっぱいになっています。人々は高慢の毒蛇、情欲の毒蛇、貪欲の蛇、妬みの蛇、不信の蛇などにかまれて死につつあります。イエス様はまさにこんな人間の罪のために十字架上にかかってくださいました。だれでも十字架上にかかってくださったイエス・キリストを仰ぎ見るとき病が癒され、罪が赦されます。救われて永遠のいのちを持つようになります。イエス様はニコデモに十字架の愛の話をしてくださいました。それは十字架の愛だけがかたくなな心をやわらかにし、悔い改めさせて根本的に救うことができるからです。私たちのために十字架につけられたイエス様を仰ぎ見ましょう。イエス様の十字架の愛を受け入れましょう。そうして新しく生まれて心の中に神の国を所有し、その喜びと幸福を証しすることができるように祈ります。