1998年ヨハネの福音書?部4講

 

私達はメシヤに会った

 

御言葉:ヨハネの福音書1:35ー51

要 節:ヨハネの福音書1:41

「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、

『私達はメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。』と言った。」

 

先週私達は「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス様について学びました。今日は最初の弟子達がどのようにして「世の罪を取り除く神の小羊」すなわち、メシヤに出会ったのかを学びます。また、メシヤに会った彼らがどのようにメシヤをあかししたのか、を学びたいと思います。彼らはメシヤを切に捜し求め、ついにメシヤに会いました。そして感動と喜びを持ってイエス様について証しました。「私達はメシヤに会った。」この時間、私達も弟子達のようにメシヤに出会い、その感動と喜びを持ってイエス様を証する事ができるように祈ります。

 

?。来なさい。そうすればわかります(35ー42)

 

 35ー37節をご覧下さい。バプテスマのヨハネがイエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」としてあかししたその翌日でした。ヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエス様が歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言いました。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエス様について行きました。

ここで「ついて行った」このことばは、「イエス様の弟子になった」という意味の言葉です。つまりヨハネのあかしによって、ヨハネの弟子であったこのふたりは、この時からイエス様の弟子となることを決意したのです。最初のクリスチャンは、ヨハネの弟子の中から生まれました。しかも、それはヨハネのあかしによってです。このふたりの弟子のうち、ひとりはアンデレであったと言われていますが、もうひとりは誰であったかわかりません。ヨハネは自分の弟子達がイエス様について行くように、イエス様の弟子になるように助けています。彼の主な関心事は自分の人気ではなく人々の関心をイエス様に向けさせることでした。

38節をご覧下さい。イエス様は振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われました。「あなたがたは何を求めているのですか。」これはイエス様の弟子になろうとする動機と目的は何か、彼らの関心はどこにあるのかを聞かれる質問です。イエス様について行く人はその動機と目的を明確にしなければなりません。そうするとき、最後まで従うことができ、イエス様を正しく知ることができます。主は今も私達に質問されると思います。「あなたは何を求めているのですか。」ある人は病気を癒してもらうためにイエス様について行きます。ある人は試験に合格するためにイエス様について行きます。ある人は自分の性格の欠点を直すためにイエス様について行きます。しかし、私達の求めているものが単に欲望を満たすにすぎないものであるならば、本当の救い主に出会うことはできません。私達は純粋な動機と目的を持ってイエス様について行かなければなりません。

イエス様の質問に対して彼らは「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」と質問で答えています。彼らの答えは彼らがいかに深くイエス様を知りたいかを示しています。彼らはどこまでもイエス様について行くことによって、イエス様がどんな方なのかを知りたいと考えました。彼らにはイエス様を知りたい、イエス様のそばにいてみたいという霊的な望みに満たされていました。

使徒パウロもいつもイエス様を知ろうとする霊的な望みに満ちていました。彼はイエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っていました。また、彼はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っていました(ピリピ3:8)。彼はピリピ3:10,11節でこう言いました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」彼はキリストを知ることにおいてキリストの人格と思想だけではなく、その苦難と死、復活の力などすべてのことを知りたいと切実に願いました。彼はキリストの苦難の意味を知り、復活の力を知るために自ら進んでキリストの苦しみにあずかる生活をしました。このような霊的な望みのために彼は力ある偉大な神様の人になりました。私達もこのようにキリストを知りたいという切実な願いを持って求める時、イエス・キリストを深く知ることができます。キリストへの期待なしに、救いが与えられることはありません。

39節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。」世の人々は、「分かったら、行こう」と考えています。つまり、分かるまでは行かないと考えているわけです。確かに歴史や科学では観察したり、実験を繰り返し、分かったら、一歩踏み出すというものです。そういうわけで頭で分かってから一歩踏み出すことしか知らない人々が多くいます。しかし、キリストを知るためにはまず自分が飛び込んで行かなければなりません。これが信仰です。それでイエス様は「来なさい。そうすればわかります。」と言われました。イエス様の所に来てイエス様を体験してみると、イエス様がメシヤであることがわかります。遠くから見るとすばらしく見えた人でも一緒に生活してみると失望せざるを得ない時が多くあります。しかし、イエス様は一緒に生活をし、近づけば近づくほどそのすばらしさに驚くばかりです。どんなにすばらしい方であるかが分かるのです。そして、誰でも、人格的にイエス様を知るとき、イエス様に対する考えが変わります。LAの真理ロペーズ宣教師はイエス様を批判するため必要な知識を得るために聖書勉強を始めました。ところが、聖書勉強を通してイエス様に出会った時、彼女はイエス様に対する考えが変わりました。それから熱心にイエス様を学び、今はLAの宣教師として派遣され、UCLAの学生達にイエス様を証する者となりました。

「来なさい。そうすればわかります。」このイエス様の招きには条件がありません。イエス様は私達を招かれながら「お金を持って来なさい。」と言われません。学校の成績証明書を見て「あなたは成績がよくありませんね。特に英語がだめですね。さあ、駅前のNOVAに行って英語を勉強して来なさい。」とも言われません。また、「自分が犯した罪を洗い流してから来なさい。」とか「もっと修行して来なさい。」とも言われません。イエス様はありのまま来るように招かれます。この招きはイエス様が私達に真の休みと真のいのちを与えてくださる愛の招きです。マタイ11:28節でイエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」また、黙示録3:20節は次のように言っています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」そうです。だれでも、イエス様の招きの御声を聞いて主の前に出て行くなら、イエス様は喜んで迎え入れ、真の愛と真の自由と平安を与えてくださいます。私達をご自分の子供として受け入れてくださいます。

 ふたりは、イエス様の言われたとおり、イエス様について行きました。それは十時ごろでした。その日は一日中イエス様と一緒にいました。どこで何をしたのかはわかりません。グループバイブルスターディをしたのか、あるいはイエス様とマンツーマンで聖書勉強をしたのかはわかりません。いずれにしても、その日は彼らにとって歴史的な一日でした。イエス様と一緒にいたことによって、二人は変わったからです。彼らはイエス様と出会ったことによって、イエス様が確かに救い主キリストであることがわかりました。最初に彼らはイエス様のことを「ラビ」すなわち、先生と呼んでいたのですが、イエス様と一緒にいた後、アンデレは、「メシヤ」と呼んでいます。彼はイエス様と一緒にいてみるとイエス様がヨハネのあかしした通りに世の罪を取り除く神の小羊であることがわかりました。そこで、彼らは感動に満ちて叫びました。「私達はメシヤに会った。」このことばは長い間メシヤを捜し求めていたが、ついに見つけたという意味です。彼らは自分の先祖達から代々にわたって待ちに待っていたメシヤに出会ったのです。

ここで、初めてメシヤということばが出てくるのですが、メシヤとはどんな意味でしょうか。またメシヤは私達のために何をするでしょうか。私達がメシヤに会うことはどんな意味があるでしょうか。

第一に、イエス様は私達を罪と死から救ってくださる救い主です。メシヤは「世の救い主」を意味します。世の中には自分がメシヤだと主張する人々が多くいます。たとえば、統一教会の文宣明がそうです。しかし主張するだけでメシヤになるわけではありません。真のメシヤとなるためには人々を罪と死から救う力がなければなりません。人間は罪と死の海に溺れて死にそうになっています。誰も自分の力によってはこの絶望的な状況から免れることができません。そのために人間は悲しい存在、孤独な存在、むなしい存在となりました。神様はこのような人間を哀れんで下さり、イエス様を救い主としてこの世に遣わしてくださいました。イエス様は世の罪を取り除く神の小羊として私達の身代わりとなって十字架につけられ死なれました。また、死者の中から三日目に復活されました。このイエス様こそ人類を罪と死から救ってくださることができるメシヤです。イエス様は私達のあらゆる悩み、苦しみの根本的な原因である罪と死から救ってくださる救い主です。

第二に、メシヤは私達に存在意味と人生の目的と生ける望みを与えてくださいます。イエス様は私達の実際的な問題も解決してくださる方です。それで、このメシヤに出会った人は最も意味があり、価値があり、生きがいのある人生を過ごすことができます。また、豊かな実を結び、勝利の人生を過ごすことができます。

ですから、私達はメシヤに出会わなければなりません。メシヤに出会うかどうかは永遠のいのちと永遠の破滅がかかっている大切な問題です。弟子達はメシヤに出会い、サタンの奴隷から神様の子供となりました。やみの奴隷から光の子供となりました。また、魚を取る漁師から人間を取る使命人になりました。このように私達がメシヤに出会うことはとても大切な出来事です。

では、イエス様の最初の弟子達がメシヤに出会った後、一番最初にしたことは何ですか。41節をご一緒に読んでみましょう。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私達はメシヤ(訳していえば、キリスト)に会った。』と言った。」アンデレはまず自分の兄弟シモンを見つけてメシヤに出会った感動とその喜びを伝えました。「兄貴、私はメシヤに会った。」そして彼をイエス様に連れて来ました。今日の私達にとっても、クリスチャンになった時、まずしなければならないことはこのことだと思います。誰かをキリストに導くことです。?コリント1:21bには次のように書いてあります。「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」神学博士の理論よりメシヤに出会った感動と喜びを伝えるあかしにもっと力があります。神様はメシヤに出会った人の単純なあかしを通して働かれます。私達もメシヤに出会った感動と喜びを持ってイエス様を証することができるように祈ります。

42節をご覧下さい。イエス様はアンデレが連れて来たシモンに目を留めて言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」ユダヤ人にとって、名前はその人自身を表します。ですから、名前が変わるということは、その人が変わるということを意味します。シモンはおっちょこちょいで、激情家で、すぐ気が変わってしまいやすい性格の持ち主でした。彼は弱点が多く、イエス様を三度も知らないと否認しました。しかし、イエス様は彼に、不動の岩を意味するケパという名前を与えられました。イエス様はシモンに岩のような人になるすばらしい望みを置いて育ててくださいます。イエス様はシモンの多くの弱点にも関わらず、彼に置かれた希望を捨てないで最後まで助けて下さいました。ついに彼はイエス様の望みの通りに岩のような神様の偉大なしもべになりました。

ですから、私達は生まれながらの自分のうちに、何も良いものがないと思って失望する必要がありません。シモンがイエス様に出会ってケパに変わったように私達もキリストとの出会いによって、キリストとの新しい関係に入るなら、全く新しく変えられた者となります。私達に大きな希望を置かれて育ててくださる主イエス・キリストに心から賛美致します。私達がこのイエス様の希望を持って弟子養成のみわざにますます励むことができるように祈ります。

 

?。それよりもさらに大きなことを見るようになります(43ー51)

 

43節をご覧下さい。その翌日、イエス様はガリラヤに行こうとされました。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われました。ピリポはイエス様のことばに圧倒されてすぐイエス様に従いました。そして、ナタナエルを見つけて「私達は、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言いました。しかし、ナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と答えました。彼は自分の偏見や常識に縛られてピリポの証を受け入れなかったのです。しかし、ピリポは諦めず、言いました。「来て、そして、見なさい。」今度は理論的ではなく、直接に、来て見るように勧めたのです。すると、彼はイエス様のところに出て来ました。

イエス様はナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」イエス様はナタナエルのすべてをご存じでした。外面の生活だけではなく、彼の内面的な生活のすべても見通しておられました。そこで彼はイエス様に言いました。「どうして私をご存じなのですか。」イエス様は言われました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」それを聞いたナタナエルは信仰告白をしました。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」ナタナエルはイエス様に人格的に出会った時、すべての偏見と常識を克服してイエス様を正しく知ることができました。

 50、51節をご覧下さい。イエス様は自分のすべてを見通しておられることにびっくりして信仰告白をしたナタナエルに言われました。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」これは私達が仲介者となられるイエス様によって天が開けて、神様と正しい関係性を学び、自由に交わることができることです。イエス様は十字架の死と復活を通して私達が神様に出ていく道を開いてくださいました。

 結論、イエス様は私達を救うためにこの世に来られたメシヤです。私達がみな聖書勉強を通して必ずこのイエス様に出会うように祈ります。また、キャンパスの兄弟姉妹達にメシヤに会った感動と喜びを証することができるように祈ります。