2001年イースター礼拝

よみがえられたイエス様

御言葉:マタイの福音書28:1-20

要 節:マタイの福音書28:6「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」

キリスト教はイエス・キリストの十字架と復活を土台にしています。クリスチャンであっても復活に対する確信がない人は、砂の上に自分の家を建てた人のようです。しかし、復活に対する確信を持っている人は岩の上に自分の家を建てた人のようです。その人は雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけるような人生の試練や苦難の中にあっても倒れることはありません。この時間、イエス様の復活が今日の私達にどんな意味を与えるのかについて学びたいと思います。また、復活信仰を持った私達が励むべき使命について学びたいと思います。この時間、私達も復活のイエス様に出会うことができるように祈ります。

?.イエス様はよみがえられました(1-15)

1節をご覧ください。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。」十字架につけられ死なれたイエス様は墓の中に葬られました。それから三日目になりました。この日は特別な日でした。イエス様が死者の中からよみがえられたからです。この日、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤがイエス様が納められた墓を見に来ました。マグダラのマリヤは過去七つの悪霊につかれていましたが、イエス様によって悪霊から解放された人です。ところが、信じられないことに、それほど群衆の熱狂的な歓迎を受けてエルサレムに入城されたイエス様が十字架につけられ死なれました。彼女は愛するイエス様を失った悲しみで夜も昼も涙を流していたでしょう。彼女はほかのマリヤとともにイエス様の死体に油を塗るために墓のところまで来ました。

彼女たちが墓に来た時、どんな驚くべきことが起こりましたか。2-4節をご覧ください。「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」三日前イエス様は確かに死なれました。ローマの兵士達はイエス様のわき腹に槍を突き刺すことでイエス様が死んだことを確認しました。彼らがそうした時、水と血が一緒にあふれ出ました。人々はイエス様の死体を墓の中に納め、墓の入口には大きな石をころがしかけて置きました。それに、宗教指導者達はローマ総督ピラトに頼んで墓の石に封印をし、番兵が墓の番をするようにしました。しかしこのような彼らの努力は無駄なことでした。闇が光に打ち勝つことができないように、世の光であるイエス様は死の力を打ち破り、死者の中からよみがえられたのです。

恐れている女達に御使いは、さらに驚くべきことを知らせてくれました。5、6節をご覧ください。「すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。』」御使いの言葉から三つのことを考えてみたいと思います。

第一に、女達は十字架につけられたイエス様を探していました。彼女たちの頭には十字架につけられ水と血を流しながら死なれたイエス様の姿が生々しく残っていました。十字架刑は凶悪犯が受ける刑罰であり、呪いの象徴でした。ところが、イエス様がこのような十字架につけられ死なれたのです。このイエス様を考える女達の心情は悲しみでいっぱいでした。このようによみがえられたイエス様を知らず、十字架につけられたイエス様を探している人には悲しみがあります。また死の力から解放されていません。パウロはもしキリストがよみがえらなかったのなら、イエス様を信じる私達は、すべての人の中で一番哀れな者であると言いました(?コリント15:19)。私達は自分の罪のために十字架につけられ死なれたイエス様のことを考えながら自分の罪を悲しみ、悔い改めなければなりませんが、その後よみがえられたイエス様に出会い、喜びと感謝に溢れた生活をしなければなりません。

第二に、イエス様を納めてあった墓は空でした。御使いは女達に「ここにはおられません。」と言いました。そして「来て、納めてあった場所を見てご覧なさい。」と言いました。女達が直接イエス様を納めてあった墓の中を覗いて見ると、確かにイエス様はおられませんでした。その空の墓はイエス様がよみがえられた証拠です。墓が空になったというのは、イエス様がよみがえられたか、誰かが死体を盗み出したかどちらかです。もし誰かが盗み出したとしたらイエス様の弟子達しかいません。しかし、弟子達がローマの兵士達が墓の番をしているところから死体を盗み出すことは考えられないことでした。なぜなら彼らは自分達もイエス様のように逮捕されて死ぬのではないかと恐れていたからです。ヨハネの福音書20章を見ると、イエス様を納めてあった墓の中には亜麻布が置いてあって、イエス様の頭に巻かれていた布切れも巻かれたままになっていました。もし誰かがイエス様の死体を盗み出したとしたら、わざわざ死体を巻いた亜麻布を解いておく理由がありません。

第三に、イエス様は前から言っておられたように、よみがえられました。イエス様は十字架につけられる前に何度もご自分の死と復活について言われました(16:21,17:23,20:19,26:32)。世の中に自分が死んで生き返ることを正確に言える人は誰もいません。しかし、イエス様はご自分がいつ、どうやって死なれるか、また、死んで三日目によみがえられることを正確に預言しました。イエス様はその預言どおりによみがえられました。また、イエス様の復活は旧約聖書にもすでに預言されています(詩篇16:8-10)。ですから、イエス様の復活は偶然な出来事ではなく、聖書に従った出来事です。それではイエス様の復活が今日の私達に与える意味は何でしょうか。

第一に、イエス様の十字架の死は私達の罪を贖うための死であったことを証明します。イエス様は私達の罪のために十字架につけられ死なれました。ところが、もしイエス様が死んで後よみがえらなかったなら、その事実を証明することができません。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、私達の信仰はむなしく、私達は今もなお、自分の罪の中にいるのです(?コリント15:17)。罪の代価は死ですから罪の問題を解決するためには必ず死の問題を解決しなければなりません。イエス様は死者の中から三日目によみがえられたことによってご自分の死が私達の罪を贖うための死であったことを証明しました。

第二に、イエス様は神の御子であり、約束されたメシヤであることを現わします。イエス様は死の力を打ち破り、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示されました(ローマ1:3,4)。イエス様の復活はイエス様が神の御子であり、約束されたメシヤであることを現わす出来事です。

第三に、私達もイエス様のように復活するという望みを与えてくださいました。アダムが罪を犯して後、死が人々を支配するようになりました。人は誰でも一度死ぬことが定まっています。誰もこの死の力に打ち勝つことができません。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるようになりました(?コリント15:22)。誰でもキリストを信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを持つようになりました。イエス・キリストの復活を信じる者はパウロのように死に向かって、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。」と叫ぶことができます。死の与える恐れから解放され生ける望みを持つようになります。どんな苦難や試練の中にあっても、押しつぶされることはありません。

李ヨシュア宣教師は大腸がんにかかった時、回りの人々から葬式を準備したほうがいいと言われました。しかし、ヨシュア宣教師は「もし主が私のいのちを助けてくだされば一生世界宣教のために自分を捧げる。」と祈りました。主は彼の病気を癒し、日本の宣教師として遣わしてくださいました。また、彼の息子李カレブ君は生後二日目にガスを吸い込んで病院に運びましたが、医者から断られました。その時も、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」という御言葉に頼って祈り、「主がカレブ君を必ず生かしてくださる。」と信じました。主はカレブ君を生かし、大きく成長させてくださいました。このように復活信仰を持っている人は試練の中でも、揺れることなく主に頼ることができます。私は安藤マリヤ牧者を考えながら主に感謝します。彼女は去年ヨセフ宣教師が闘病生活をする時も、彼が天に召された時も信仰が揺れることがありませんでした。今年はCBFを担当して一生懸命に子供達に仕えている姿を見ると感動を受けます。主が彼女に復活信仰を与えてくださり、試練の中でも揺れることなく明るく力強く生きていることを主に感謝します。「死んでも生きる」という復活信仰は私達を強くしてくれます。復活信仰はパウロの人生を180度変えました。復活信仰は弱い弟子達を新しい人に変えました。彼らはイエス様が逮捕され死なれる時におびえ、挫折した人々でした。ところがよみがえられたイエス様に出会ってからは激しい迫害の中でも命がけでイエス様は生きていると宣べ伝える人たちになりました。私達も、復活のイエス様に出会わなければなりません。私達が復活信仰の上に堅く立ち、揺れることなく主の御業に励むことができるように祈ります。

7節をご覧ください。御使いは女達に使命を与えました。「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行きました。十字架につけられたイエス様を探していた彼女たちには悲しみがいっぱいでしたが、イエス様の復活の知らせを聞いた時には喜びでいっぱいになりました。

9節をご覧ください。女達が急いで行く時にイエス様が彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われました。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエス様を拝みました。すると、イエス様は言われました。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」イエス様は弟子達を兄弟達と呼びました。弟子達はイエス様を捨てて逃げましたが、イエス様は変わらず彼らを愛し兄弟と呼んでくださいました。

11-15節には宗教指導者たちがイエス様の復活を隠すために、企んでいることが書かれています。女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告しました。そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言いました。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにしました。しかし、墓の中にイエス様を納めて置くことができなかったように、いくらイエス様の復活を隠そうと企んでも隠すことができませんでした。

?.あらゆる国の人々を弟子としなさい(16-20)

16節をご覧ください。十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエス様の指示された山に登りました。ガリラヤはイエス様の働きの中心地であり、弟子達にとって故郷でした。イエス様はここで弟子達との関係性を回復し、彼らに使命を与えてくださいました。

18-20節を一緒に読ませていただきます。「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」この御言葉はマタイの福音書の結論であり、イエス様の至上命令です。

イエス様は天においても、地においても、いっさいの権威を与えられていると言われました。死の力を打ち破りよみがえられたイエス様は全宇宙の権威者です。この権威を持ってイエス様は弟子達に「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられました。今まで弟子達はイスラエルを出たことがない田舎者でした。しかし、イエス様は彼らが地の果てにまで出て行くことを願われました。イエス様は彼らが井戸の中にあるカエルのような人生ではなく、鷲のように空を飛ぶ人生を送ることを願われました。家で可愛がれているペットのような人生ではなく、苦労があっても平野を走るライオンのような人生を過ごすことを願われました。それでは行って何をしますか。イエス様は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われました。あらゆる国の人々は福音を知らない人々です。彼らを弟子とすることはどんな意味でしょうか。それは福音を知らせるだけではなく、ひとりひとりがイエス様の弟子になるまで養育することを意味します。伝導するだけではなく、伝導した人を責任感を持って養育することはやさしいことではありません。そのためには産みの苦しみが伴います。絶えずとりなしの祈りを捧げながら面倒を見なければなりません。

イエス様は弟子とする方法について二つのことを言われました。まず父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなければなりません。それは神様の御前で悔い改めて罪の赦しを受けるように助け、そのしるしとしてバプテスマを授けることです。もう一つはイエス様が命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなければなりません。一言で神様の御言葉を熱心に教え、その御言葉に聞き従うように助けることです。弟子養成において大切なことは純粋な、御言葉の乳を飲ませることです。それによって成長し、救いを得るためです(?ペテロ2:2)。聖書の御言葉を続けて教える時、それを学ぶ兄弟姉妹達はよく成長します。私達がよく教えるためにはまず自分自身からよく学ばなければなりません。母親が子供にいくら乳を飲ませたくても乳が足りなければ十分に飲ませることができないように、私達が主の御言葉の乳を慕い求めなければ兄弟姉妹達に十分に教えることができません。ですから、私達は絶えず聖書を学ばなければなりません。主の御言葉を喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人とならなければなりません。聖書の達人にならなければなりません。教えることとともに大切なのは、守るようにすることです。それは御言葉に聞き従うように助けることです。すなわち、御言葉に従順するように助けることです。

いくら大切な命令だとしてもそれを実行できる力がなければ何の意味もありません。それでは弱い弟子達がどうやってイエス様の至上命令を実行することができるでしょうか。20b節をご覧ください。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」これは弟子達に与えてくださった大切な約束の御言葉です。天においても、地においても、いっさいの権威が与えられているイエス様が、世の終わりまで、いつも、弟子達とともにいてくださると約束してくださったのです。使徒パウロは「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と言って世界宣教の命令に聞き従いました。主がともにおられるので、私達も世界宣教の使命を担うことができます。

結論、イエス様はよみがえられました。イエス様の復活は私達の復活を保証してくれる人類最大の出来事です。私達が復活のイエス様に出会い、復活信仰の上に堅く立ち、揺れることなく復活の証人となることができるように祈ります。よみがえられた主が世の終わりまで、いつも、私達とともにいてくださることを信じます。