2001年マタイの福音書第30講

偽善者たちを咎められたイエス様

御言葉:マタイの福音書23:1?39

要 節:マタイの福音書23:26「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」

イエス様はエルサレムの宮でユダヤ教指導者たちと論争した一連の出来事の後、律法学者、パリサイ人たちに対して、激しい非難のことばを投げかけられます。しかし、それは直接律法学者、パリサイ人たちに向けられた非難と言うよりも、群衆と弟子たちに話をして言われたものです。イエス様はそれを通して弟子たちを正しい道に導こうとしておられたのです。本文の御言葉を通して私のうちにあるパリサイ主義を悔い改めてよい影響を及ぼす者となるように祈ります。

?.彼らの行ないをまねてはいけません(1-12)

イエス様は今まで宗教指導者達が悔い改めるようにいろいろなたとえ話を言われました。しかし、彼らは悔い改めようとせず、むしろイエス様を捕らえようとしていろいろと試みました。それでイエス様は彼らの問題点を指摘し、厳しい非難のことばを言われました。それでは律法学者、パリサイ人たちの問題点は何ですか。

第一に、彼らは言うことは言うが、実行しませんでした。1-3節をご覧ください。イエス様は群衆と弟子たちに話をして、こう言われました。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」律法学者、パリサイ人たちは、言うことは言うが、実行しませんでした。彼らはモーセの座を占めて、旧約聖書の律法を読み、説き明かしましたが、彼らの行ないはそれとは別のものでした。彼らは聖書を教えながらそれとは違う行ないをしていました。イエス様は、そういう「彼らの行ないをまねてはいけません」と言われます。

 私たちクリスチャンは世の光と地の塩として良い影響を及ぼさなければなりません。私たちがどうすれば良い影響を及ぼすクリスチャンになることができるでしょうか。そのためにはイエス様に見習う生活をしなければなりません。イエス様はすべてのことにおいて模範を示してくださいました。イエス様は仕えられるにふさわしい方ですが、かえって罪人に仕えるためにこの世に来られました。そして、多くの人のための、贖いの代価として、ご自分のいのちを与えてくださいました。イエス様は言語一致の生活をされました。ですから、イエス様の言葉には力と恵みがありました。信仰生活は一言で言えば、イエス様に見習う生活です。使徒パウロは本来パリサイ人でした。しかし、彼がイエス様に見習う生活をした時、良い影響を及ぼす指導者になりました。彼はピリピの聖徒達に向かって、「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」と言うことができました(ピリピ3:17)。もし私たちが兄弟姉妹たちに「僕は弱くてもこの御言葉に聞き従うことはできませんが、あなたはぜひこの御言葉に聞き従ってください。」と言うとしたら、その言葉に力があるでしょうか。パウロのように「兄弟たち。私を見習う者になってください。」と言う人の言葉に力や説得力があるのではないでしょうか。そのように言えるのは、言語一致の生活をする人のみです。もし、パリサイ人のように言うことは言うが、実行しない人だったら良い影響を及ぼすことができません。私たちが日々イエス様に見習う生活をする時に良い影響を及ぼすことができます。

4節をご覧ください。「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」彼らのすることは、「重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしない」ことでした。彼らは、聖書に記されていない多くの規定を「言い伝え」として付け加えることにより、重い荷をくくって、人の肩に載せていました。それとともに、彼らがモーセの座から説き明かすモーセの律法の教えも、その中に喜ばしい約束と福音を読み取ることなく、律法による義を示すだけであった点で、重い荷でしかありませんでした。それに対して、信じる者に罪の赦しを与えるイエス様の福音は、負いやすいくびきであり、軽い荷でした。

 第二に、彼らはすべての行ないを人に見せるためにしました。5節をご覧ください。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」ここに私たちが見習ってはならない彼らのしていることが、具体的に指摘されます。それらの行ないは、要するに、人に見せるためのものでした。律法学者、パリサイ人たちは、人から尊敬され注目されようと、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりしました。経札は、革製の小さな箱で、その中に申命記6:4-9などの聖句を書いた紙切れを入れ、祈る時に一つを左腕に、一つを額につけました。「衣のふさ」は、着物のすその四隅に作られたざくろ型のもので、それを見て神の戒めを思い起こし、それを行なうためのものでした。人々は恵みをすぐ忘れてしまう傾向があります。それで常に御言葉を近くにしなければ受けた恵みを維持することができません。神様はそのような人間の悪い本性を知っておられたので御言葉を近くにし、重んじるように経札をつけたり衣のふさを作ったりされたのです。しかし、当時ユダヤ人は経札をお守りみたいにつけていました。パリサイ人たちが幅の広い、大きい経札をつけたり、衣のふさを特別に長くしたりしたのは、神の戒めを思い起こすためではなく、自分たちがどんなに律法を重んじているかを誇り、人々から尊敬を集めようとする演出でした。また、彼らが宴会の上座や会堂の上座が大好きであったのも、人々から尊敬を受けることを好んだからでした。

彼らがこのように人に見せるために信仰生活をした時、偽善者になるしかありませんでした。私たちが人々に見せるために信仰生活をする時にパリサイ人のようになります。それは神様をだますことであり、他人をだますことであり、自分自身をもだますことです。その人は神様より人を恐れるようになります。しかし、神様に見せるために信仰生活をする人は真実になります。人を恐れず、神様を恐れるようになります。その人の信仰生活には自由と喜びがあります。

このように人に見せるために行うパリサイ主義に対して、イエス様は弟子たちに、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません。」と言われます。その理由は、「あなたがたはみな兄弟だから」です。私たちはみな同じ父なる神から生まれ、同じ教師のキリストに導かれている兄弟姉妹です。

以上のことから、イエス様は、弟子たちの生活は人に仕えることの実践であると結論されます。11、12節をご覧ください。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」イエス様は、唯一・最高の師であられましたが、それでも弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13:4-)。そのようにイエス様は、へりくだって人に仕える模範を示してくださいました。

?.忌まわしいものだ(13-39)

ここでイエス様は、直接「律法学者、パリサイ人たち」に向かって、七回も「わざわいが来ますぞ」とのろいを宣告されます。それを通して私たちは、神様が嫌われるものが何かを学ぶことができます。「忌まわしいものだ」この御言葉は、悔い改めない律法学者、パリサイ人たちに対するイエス様の悲しみの表現であり、恐ろしい裁きの宣告です。それではなぜ彼らにわざわいが来ますか。

第一に、彼らは天の御国をさえぎっています。13節をご覧ください。「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」律法学者、パリサイ人たちは人々を天の御国に導く責任を持っている人々です。ところが、彼らの教えは人々から天の御国をさえぎっています。彼らは御国に自分もはいらず、はいろうとしている人々をも入らせません。それは彼らが、人々を御国に入らせるために必要な福音を教えず、律法による義を自分にも人にも押し付けていたからです。キリストは人々を神の国に導く唯一の道であり、真理であり、いのちです(ヨハネ14:6)。ですから、律法学者、パリサイ人たちはイエス・キリストを信じて人々にもイエス・キリストを紹介しなければなりません。しかし、彼らはイエス様を信じようともせず、人々がイエス・キリストを信じようとすることも妨害していました。

第二に、彼らは熱心に異邦人に伝道しましたが、それは改宗者を自分より倍も悪いゲヘナの子にすることでした。異邦人で割礼まで受けてユダヤ教徒になった改宗者は、生来のユダヤ教徒より熱狂的になり、それだけひどいパリサイ主義の奴隷になってしまったのです。

第三に、誓いについてのパリサイ主義的な教えです。16節をご覧ください。「忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』」彼らの教えに対してイエス様は、「愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」と言われます(17,19)。パリサイ人たちが神殿より黄金を、祭壇より供え物を尊んだのは彼らがお金愛していたことを表わします。それに対して、イエス様は逆に、黄金より神殿を、供え物より祭壇を尊ばれました。さらにイエス様は、その神殿や祭壇よりも、神ご自身を尊ばれました。神ご自身を忘れるなら、神殿も祭壇も、まして黄金も供え物も、その意味を全く失うことになるからです。イエス様はお金を愛している彼らを「愚かで、目の見えぬ人たち」だと言われました。彼らは目の見えぬ人として人々を誤った道に導きました。

 第四に、彼らは律法の精神を捨てました。23,24節をご覧ください。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」十分の一のささげ物は、地の産物や家畜の十分の一を聖別して神様にささげる制度で、神殿で奉仕する祭司やレビ人の生活を支え、貧しい人々に施すために用いられました。その意味で、それは正義とあわれみの意思表示でした。また、それは自分の収入がすべて神様から授かった預かり物であることを告白する誠実のしるしでした。パリサイ人たちは、モーセの律法が命じていない「はっか、いのんど、クミンなど」の庭の草類まで、その十分の一をささげることによって、律法をよく守っていることを誇りました。しかし、彼らは律法の目的であるはるかに重要なものを忘れ、正義もあわれみも誠実もおろそかにしていました。それはちょうど、「ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいる」ようなものです(24)。ぶよは汚れた虫で、それが体内に入らないように、彼らは布でこしてぶどう酒を飲みました。ところが、同じ汚れた動物であるらくだは、平気で飲み込んでいます。それははるかに重要なもの、すなわち律法の精神を失った姿です。律法の教えの中には、はるかに重要なものと、そうでないものがあります。その前者こそ、どうしてもしなければならないことです。ただし、後者もおろそかにしてはいけません(23)と、イエス様は言われます。十分の一のささげ物(十一献金)は、新約の時代においても妥当性を持っていることを教えられます。

 第五に、彼らの外側と内側が違いました。25節をご覧ください。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。」律法学者、パリサイ人たちは、「杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです」と言われています。彼らはよく信仰生活をしているように見えますが、彼らの心は罪に汚れていました。彼らの外側は敬虔なふりをしていましたが、内側はお金と権力と名誉に対する貪欲と淫乱な考えでいっぱいでした。このような彼らにイエス様は言われました。26節をご覧ください。「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」マルコの福音書7:20-23でイエス様は人を汚すものについて次のように言われました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」人間の本性は堕落しているのでそのまま放っておけば自然に汚れたものが内側から出るようになっています。それで預言者エレミヤは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と言いました(エレミヤ17:9)。それではこのように汚れた内側をどうすればきよくすることができるでしょうか。毎日お風呂に入ればきれいになるでしょうか。お寺できよめの儀式を行なえばきれいになるでしょうか。人の心をきよめることは人の力や努力によってできるものではありません。それはイエス・キリストの十字架の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストの尊い血によってきよめられる時に可能です。私たちの内側に働く罪は恐ろしい力を持っています。それは私たちの心を虜にしてしまいます。その力を打ち破ることができるためにはもっと強い力が必要です。そして、その力はイエス・キリストの血のほかにはありません。ヨハネの手紙第一1:9は次のように言っています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」また、ペテロの手紙第一1:18,19は次のように言っています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」イエス・キリストの尊い血はどんなに汚れた人の内側もきよくすることができる力があります。イエス・キリストの血の力によって人の心がきよくなれば、自然と行ないもきよくなります。ですから、まず自分の心をきよめなければなりません。

第六に、彼らの内側には偽善と不法でいっぱいです。27、28節をご覧ください。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」ユダヤでは、過越の祭りが近づくと、巡礼者が知らずに墓に触れて汚れを受けることがないように、エルサレムとその周辺の墓を白く塗りました。しかし、「墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱい」です。そのようにパリサイ人たちは、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。彼らは内側がきたないので、それだけ外側をきれいに見せようとしたのです。

私たちは弱くて心ならず罪を犯す場合があります。神様は私たちの弱さをよく知っておられます。イエス様が十字架の上で私たちのために流された血潮は私たちの過去の罪、現在の罪、これから犯す罪までもすべて赦してくださいます。私たちが罪を犯した時、あるがまま主の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めると主はすべての罪を赦してくださいます。ところが、罪を犯したのに犯してないふりをしていることは偽善です。神様は私たちが真実であることを願われます。

第七に、彼らは神様が遣わされた人々を迫害しました。第七のわざわいで、律法学者、パリサイ人たちに対する非難がクライマックスに達します。彼らは「預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います(29,30)。しかしイエス様は、彼らを預言者を殺した者たちの子孫と告発されます。彼らは、預言者や義人の墓を建てたりして敬虔そうに見えますが、その心は先祖と同じように反逆に満ちていました。その証拠に、彼らは今、神様が遣わされたメシヤを拒否し、殺そうとしています。そうさせたのは、まさに彼らの偽善の罪でした。こうして彼らは先祖の罪の目盛りの不足分を満たしていました(32)。偽善は心を見る神様を無視していることの現われです。それゆえ、偽善の罪は、神様を神様として信じない態度であり、ゲヘナの刑罰を逃れることができません。だからイエス様は、「わざわいが来ますぞ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と繰り返し言われたのです。

「偽善の律法学者、パリサイ人たち」の七つのわざわいを語り終えたイエス様は、これから、彼らに対する審判と報復を告げられます。彼らは先祖と同じく迫害の罪を犯し、ゲヘナの刑罰を逃れることができなくなります。こうして旧約聖書の初めから終わりまでの「地上で流されるすべての正しい血の報復」が彼らの上に臨むのです(35)。義人アベルの血は、旧約聖書の最初に記されている殺人事件を指し、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血は、ヘブル語旧約聖書の最後に置かれている歴代誌第二に記されている殺人事件を示します。最初から最後まで義人を迫害したイスラエルの歴史は、その罪の目盛りがこの時代に満たされ、エルサレム滅亡の悲劇的結末を見ます。さらにユダヤ人は2千年近く国を失い、蔑視と苦難を受けるようになります。そして、600万人のユダヤ人がナチスによって虐殺されました。

きびしい七つのわざわいと審判のことばを語って後、イエス様は「ああ、エルサレム、エルサレム」と、涙の叫びを発せられます。イエス様が福音の使者たちを遣わされたのは、人々の罪の目盛りが満たされるためということと、それにも増して彼らを救おうとする愛の現われでした。エルサレムは、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者でした。そういうエルサレムの人々を、イエス様は見捨てることなく、めんどりがひなを翼の下に集めるように、幾たびも集めようとされました。イエス様は深い愛を持ってエルサレムの人々を守ろうとされました。それなのに、彼らはそれを好みませんでした。かたくなで愚かなエルサレムは、母鳥の翼の下に入るようにとの愛の招きを拒みました。

このエルサレムの罪は、きびしい刑罰を逃れることができません。38節をご覧ください。「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」あなたがたの家とは、エルサレム神殿を指します。それが破壊される時が来ます。この神殿は破壊されますが、イエス様は死者の中からよみがえられて真の神殿となられます。そしてキリストの体と呼ばれる教会も、そこに召されているキリスト者も、そのうちに聖霊が宿られる神殿です。この新しい神殿は、手で造られたものではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって建てられる霊的な神殿です。それゆえ、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と心から言うまで、人々はキリストに出会うことができません(39)。

 結論、イエス様は律法学者、パリサイ人たちの偽善を咎められました。神様は私たちが真実に自分の罪を悔い改めることを願われます。私たちが毎日あるがまま主の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めることによって心をきよめることができるように祈ります。そうすれば、自然に行ないもきよくなります。私たちが世の光、地の塩として良い影響を及ぼすクリスチャンになることができるように祈ります。